ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命についてつづるよ。

APCフォンタン術患者の30年後の運命

まさに自分が該当する興味深い論文を見つけたので紹介したい。

Chin Leng Poh et al. (2017) Three decades later: The fate of the population of patients who underwent the Atriopulmonary Fontan procedure. International Journal of Cardiology 231:99–104.

この論文では、APCフォンタンを受けた患者の長期予後を追跡した。対象となった患者は1975年から1994年に手術を受け生存した215人(この他に22名の入院中死亡患者がいる)。22年から28年後の状態を記録した。結果、その間に52人(24%)が死亡した。12人が心臓移植し、39人が転換再手術を受けた。7人がPLEになった。28年間の生存率は69%。フォンタン不具合(fontan failure)状態になったのは合計95人(死亡、移植、再手術、NYHA3以下などの患者)。

 111人が心房拡大し、130人に不整脈が発生した。28年間での不整脈回避率は23%。不整脈の発生は、有意に死亡、移植、フォンタン不具合のいずれかになる確率を高めた。42人が血栓塞栓を生じていた。また興味深い点として、先天性心疾患が専門でない成人循環器医師に受診している患者の方がフォンタン不具合になりやすかった。一方で、心奇形の種類やフォンタン前の手術様式(BTシャント、肺動脈結合等)などの違いは、フォンタン不具合になるかどうかに関係しなかった。

 この論文では、約3分の2の患者が術後30年経っても生存し、その大半は不整脈を発生しつつも現在も心臓の機能が保たれていると、明るい解釈で結論付けている。また、心房肥大化と不整脈の発生が、フォンタン不具合になる前兆であるとも指摘している。APCフォンタン術は、長期予後が悪いことがわかり現在は完全に否定されてしまったが、APCフォンタン術を比較的肯定的に捉えた論文としては、珍しいだろう。

 おいらは1989年にAPCフォンタンを受けており、この論文の典型的な患者と言える。論文の結果とも見事に一致し、右心房肥大、不整脈、PLE等を発生してフォンタン不具合となり、転換再手術を受けた。そして、結論のように、今のところある程度心臓は機能し、なんとか生きている。しかし、論文ではさらに将来の予後がどうなるかは予測されていない。APCに限らずフォンタン手術を受け、中年期になった人々が今後どこまでどんな状態で生きられるのかは、誰にもわからないのだ。それはおいらのような患者が、身をもってこれから証明していくしかないのだ。このブログでは、その経験をできる限りつまびらかに説明したいと思っている。

すりすりりんご

たまには子供の頃の話をしよう。先天性心疾患を持って生まれると、激しい運動ができないとか、ちょっとしたことで息切れするとか日常の不便だけではなく、些細な病気にもなりやすい。だから子供の頃は、よく風邪などで学校を休むことが多かった。特に多かったのが偏頭痛で、強烈な痛みで朝目が覚めたりした。ズキズキと脈を打つように痛み、痛みのあまり吐き気ももよおした。実際何度も吐いた。吐くと少し痛みが和らぐので、むしろ意図的に吐いたりもした。何度も何度も胃がひっくり返りそうになる程吐くので、胃の中は空っぽになり、しまいに酸っぱい胃液が出てきたりした。

 13歳のフォンタン手術の後は、連日偏頭痛が襲った。フォンタン手術によって血行動態が変わり、体が順応できていなかったのかもしれない。ある時は痛みがあまりにひどいので、緊急外来に駆け込んだりもした。しかし、検査をしてみても別段異常なところは見当たらなかった。後日、手術をした外科医の外来の時に、術後の頭痛がひどいことを話すと、その外科医はものすごい剣幕で怒り出した。自分が完璧に手術したのに、具合が悪くなるはずがない。治る気がないのか。というようなことを言われた。母親は泣いていたが、当の本人のおいらはなんだかあまり事態を理解できておらずぽかんとしていた。昔はそんな感じで、医者が圧倒的に上の立場だった。

 おいらの両親は共働きだったので、おいらが偏頭痛とかで苦しんで学校を休む時でも仕事に出かけた。お昼にどちらかが帰ってくるときもあったが、お昼ご飯を用意しておき、そのまま夕方まで帰ってこない時もあった。本当は心配で気が気でなかったが心を鬼にして働きに行っていたそうだ。だから帰って来たら、おいらが布団の上で吐き散らかしてそのまま寝ていたりした時などは、相当心が痛んだそうである。でも、おいらは意外と一人になるのは楽しかった。一日中テレビが見放題になり、NHK教育テレビや家にあるビデオを見まくった。

 それでも親が帰ってくるのは嬉しかった。それは、ポカリスエットとか普段は買ってもらえないジュースを買ってきてくれたりするのもあるが、やはり親が優しくなるからだった。その象徴とも言えるものが、すりりんごである。りんごをわざわざおろし金で擦って、食べやすくしてくれたのだ。すりりんごは酸化して色が茶色になるし、りんごのシャキッとした歯ごたえも無くなるので、普通にかじる方がはるかに美味しい。でもおいらには、すりりんごがはるかに特別な食べ物だった。すりりんごを赤ん坊のようにぎこちなくはむはむ頬張ると、看病されているな、優しくされているなと実感して安心するのだった。

ステロイド党

現在、日本の政治の世界は、かなり右傾化した。右派政党が大多数を占め、左派政党の議員は絶滅に瀕している。おいらが子供の頃は、左派政党が全体の3分の1強を占めており、さらに右派政党の中でも中道的立場の派閥があったりした。だから全体としてみると、右派左派が適度なバランスを保っていたように思う。しかし、現在では、右派政党は外国では極右と言われかねないほどの姿勢を打ち出し、その勢力は今や全体の80、いや90%くらいになりそうな勢いである。このままの流れで行けば、憲法が改正され、日本は正式に国軍を持つようになり、近い将来に起こる朝鮮戦争に参戦するなんてことも冗談でなく起こるかもしれない。

 その是非はともかく、そもそも右派か左派かは、なかなかはっきりと定義づけるのが難しい。それはおそらく、各個人が考える右派像や左派像が異なるからだ。だから、おいらがこれが右派だあれが左派だと思うことも、他の人には必ずしも賛同されないだろう。右か左かはかなり主観的なイメージであるように思う。

 国が急速に右へ傾いていく傍で、人知れずおいらの体もひっそりとある方向へ傾いてきていた。長年のステロイド剤の副作用で、乳房が女性化し膨らんできたのだった。触ると奥の方にコリコリと硬いものまである。他にも、手足の毛が全然なくなってツルツルになったとか、レモン水やスムージーやフレーバーティーを愛飲しているとか、なんだか嗜好が女性的になってきているぞ。

 この変化は、今の大きく傾きつつある社会に体が無意識に反応して、少しでもバランスを保とうと中道的体になろうとしている表れでは、ないでしょうか。ならば、これからもステロイドを副用しようじゃありませんか。ステロイドの効能と副作用の絶妙なバランスで、必ず体調を安定させます。そして、2020年までに脱ステロイドを目指します。

3%で変わる生き方

フォンタン再手術後から、おいらのサチュレーションの値が少し下がっているのがずっと気になっていた。手術前は96%ほどだったが、手術後は93%ほどしかいかなかった。先日、今診てもらっている医者にそのことを聞いたところ、ようやくそのメカニズムがわかった。

 その原因とは、心臓を流れた血液が本来右心房に流れるところを、手術で左心房に流すように変更したためだった。冠動脈を通って心筋に行き渡った血液は、酸素が消費されて静脈血になる。その血は冠静脈を通り、本来は右心房に戻ってくる。右心房には全身からの静脈も流れ込んでくるので、それと一緒に肺に送られて再び酸素が与えられ、動脈に生まれ変わる。しかし、フォンタン循環の人は、静脈の流れが極めて遅いため、右心房にたくさんの血が流れ込むと鬱血してしまう危険がある。うっ血は静脈の血圧を高め、心臓に負担になる上、PLEなどのさらなる合併症の原因になる。だから、冠静脈はこれ以上右心房には流さず、左心房に戻すように変えるのだそうだ。

 左心房には肺から酸素が与えられた新鮮な動脈が大量に流れてくる。そこに、心臓からの静脈が混ざるのである。そうなれば当然、動脈内の酸素濃度(サチュレーション)が下がる。心臓からの静脈なんて全身に送られる動脈に比べれば、大した量じゃないように思うが、おいらの場合は3%も酸素濃度を下げる程の影響がある。簡単に言えば、血中酸素の約3%が心臓で使われている訳である。でも一日中動き続けていることを思うと、たった3%しか使っていないなんて、むしろとても省エネにも思える。

 医者の話では、一般的にはこうした手術により、5%くらい落ちることが多いそうだ。おいらの心臓は随分と省エネなコストパフォーマンスの良い心臓のようだ。しかし、そんなシャント手術をされているなんて今まで全然知らなかった。手術前の説明もなかったし、フォンタン関連の文献やネットの記述を読んでも、書いてあるのを見たことがなかった。でもいざ調べてみるとわずかではあるが書いてあるサイトがあった。

 そのシャント術が、2年前のフォンタン再手術の際に行われたのかどうかはまだわからない。ともあれ、3%下がったことで、ちょっとしたことで息苦しくなりやすくなった気はする。階段や坂は少し登ればすぐゼイゼイするし、寝ていて急に起き上がるだけでもドキドキしてしまう。だから、手術前より活発に動くことはできなくなった。おいらは、筋力が衰えたせいだと思っていたが、わずかなサチュレーションの低下がじわじわと効いている可能性はある。でもこのシャントによって、心臓自体は日々の負担が減ったのだ。激しい動きには耐えられなくなったけど、日常をより楽に過ごせるようになった。無理はできない。でも普段は割と元気に生きられる。これがフォンタン患者のあるべき姿なのだろう。でも、普段元気そうだから無理もできる、と人から思われてしまったり、本人も勘違いするのもフォンタン患者なのである。

水と緑の豊かな病室

すっかり間が空いてしまったが、また2年前の再手術の時の話に戻ろう。前回までのおさらいをすると、手術を終え、やっと一般病棟に戻ってきたところだった。

 一般病棟はともかく明るい。眩しいほどに陽の光が差し込んでくる。窓を開けると生暖かい風があたり、外気の匂いがした。都会の病院と違って、山に囲まれた絶景の見える地域にある病院だったため、山や森や水田からくる清々しい緑の匂いだった。それは本当に心地よい香りだ。おいらは植物を研究しているから、普段から植物に触れ匂いを嗅いできてはいたが、しばらく消毒と薬品の匂いで満たされた空間にいると、久しぶりの緑の香りは格別なものだった。

 そんな快適な一般病棟の生活はすぐに奪われた。病棟に戻って3日ほど経った晩、急に息苦しくなったのだ。最初は気のせいかと思ったが、かなりしんどい。医者がエコーで調べると、どうやら肺の下に水が溜まっているようだった。緊急でICUにうつされ、その日の深夜に水を抜いてドレーンを挿入する処置をすることになった。局所麻酔をして、太い注射針を肋骨のすき間に刺して、中の水を引っ張ると、それは水というより血だった。真っ赤な液体が200cc以上は取れた。液体は出続けている様子だったため、ドレーンを留置して吸引しつづけた。幸い、その翌日には一般病棟に戻ることができた。

 一般病棟に戻ると、豊かな緑の香りを楽しんでいれば済むわけではなかった。毎日立ったり歩いたり車椅子に乗るリハビリが続いた。食事は、相変わらずつわりの時のように匂いが気持ち悪くて、あまり食べられなかった。それでもちょっとずつ体が動くようになり、5本あったドレーンも全て取れ、体は回復してきている気がした。しかし、実際はおいらの手術創の中で、小さな見えない敵が大暴れしていたのだった。ある日車椅子に乗ってトイレにいき用を足そうとした時、手術創から膿がドボドボと溢れてきたのだ。手術創から細菌に感染し、内部が化膿しているようだった。血液の培養試験をすると陽性で、血液内にも細菌がいるようだった。早速、抗生物質の点滴投与が始まった。

 おいらの手術創の近くには人工物がたくさんある。開胸した時に切り開いた胸骨を縛り付けておく針金、癒着を防ぐために心臓と胸骨の間に敷いたゴアテックスのシート、そしてフォンタン再手術の要の人工血管。もしこうした人工物に細菌が感染すると、大変危険な状態になる。抗生物質は血液が通う生きた組織には届くが、人工物は血管が通っていないため、抗生物質が届かないのだ。そのため、細菌は人工物を住処にして、どんどん増殖してしまう。最悪の場合、開胸手術をして全ての人工物を交換しなくてはいけなくなる。だから人工物への感染を絶対に避けなければならなかった。そのため、抗生物質を連日大量に点滴し、化膿した傷口は切開して化膿部分を切り取る処置を何度も受けた。ついには、胸骨を止めている針金も一つならとっても大丈夫だろうということで、引き抜いたりもした。切開をする処置は、局所麻酔をするもののめちゃ痛かった。針金を抜くときは体が持ち上がりそうになるほどの力でずりずりと抜かれた。抗生物質の大量投与により腎臓肝臓がやられ、γGTPが1000を超え、利尿薬のラシックスを一日に3、4回注射されたが、おしっこが全然出なくなってしまった。

 日に日に体調が悪化していくので心がくじけそうになった。そんなおいらの様子に気づいた担当医の先生が、ある晩声をかけてくれた。「心配しなくていいですよ。我々が絶対に治します。〇〇さん(おいら)は、頑張らなくていいんです。ゆっくり休んでください。」そんな優しく心強い言葉をかけられると、おいらの目はビチョビチョに濡れていった。体の中からも傷口からも目からも、液が溢れ出る毎日だった。

チキンレース

 おいらの体には致死性の病気がいくつも潜んでいる。まず本家の心臓は、不整脈などによる急性心不全で突然死する可能性がある。そうでなくても心機能が年々低下し心不全になるのは避けられない。それから先日切除した大腸ポリープは異常な数と増殖速度だったので、今後再発し続けいつかがん化する不安もある。肝臓は、C型肝炎とフォンタン術の合併症により肝硬変になっており、やがて肝がんになる可能性が高い。蛋白漏出性胃腸症は、すでに何度も紹介したように死亡率の高い症状である。また、ワーファリンを飲んでいるものの人工血管を入れているので血栓のリスクもある。それらが脳や心臓の血管につまれば、脳梗塞心筋梗塞になりうる。

 菌やウイルスが病原の感染症は、その毒性が低下する方向に進化する傾向がある。あまりに毒性が強く宿主(感染される側)の致死率が高いと、次の宿主に感染する前に宿主が死んでしまい、病原体が増殖できないからだ。病原体にとっては宿主を生かしたままの方が都合が良い。極めて致死率の高い感染症は、一気に蔓延しても宿主集団が全滅して途絶えてしまう場合がある。だから、病原菌の中に毒性の低い変異体が現れるとその変異体が広がっていく(ただし人間とネズミなど複数の種を宿主にする場合は話が複雑になる)。

 同じようなことが遺伝性の病気でも当てはまる。子供の間に死んでしまうような致死率の高い遺伝病は、その遺伝子を次世代に繋げることができず、淘汰されていく。そのため遺伝病には繁殖期を過ぎた頃に発病するものもある。あるいは発病しても繁殖期まで生存できる程度の病気だったりする。ただし、致死性の遺伝病が全くないわけではない。むしろその多くは、劣性遺伝で潜んでいる。劣性遺伝の場合は、その遺伝病を発症する対立遺伝子が2つ揃わないと(これを遺伝学用語でホモ接合と呼ぶ)、発現しない。2つの対立遺伝子のうちどちらかが遺伝病を発症しない正常タイプだと(これをヘテロ接合と呼ぶ)そちらの方が優勢になって、病気が発現しないのだ。当然ながら、2つの対立遺伝子がどちらも正常タイプの場合も発症しない(これもホモ接合)。全く同じ致死性の遺伝子を持っている人はそう多くはないので、それらの人がカップルになって子供を作ることはなかなかない。仮に子供を作っても、それぞれの親から致死性遺伝子を引き継ぐ必要があり、それは4分の1の確率でしか起こらない。だから、致死遺伝子がホモ接合することは滅多になく、人の集団の中で密かに遺伝していくのである。

 おいらの病気は、C型肝炎を除いては、どれも病原体による感染症でもなく、遺伝病でもない。だから上記のような理屈は当てはまらないのだが、もしそれぞれの病気に意思があるとすれば、彼らはおいらをギリギリまで痛めつけこそすれ、殺すまではできないはずだ。殺せば病気自身も死んでしまうからである。では、誰が死のリセットボタンを押すのだろうか。

 それぞれの病気の死亡リスクはわからない。おいら個人としては最後は心臓を原因にしたくない気持ちもあるが、心不全が一番穏やかな死を迎えられそうな気がする。ガンなどはその前の苦しみや痛みが大きいだろう。やっぱり、心臓病を持って生きた人生なのだから、最後も心臓が原因で死ぬのがおいららしい人生かもしれない。心臓君には重い責任を追わせてしまうが、死のリセットボタンは君が押してくれ。おいらは君なら許せるし本望だよ。

古傷

数々の手術、検査を繰り返してきたおいらの体には、たくさんの傷跡が残っている。一番大きいのは、胸にある開胸手術の手術痕で、胸の真ん中と右脇にT字のような配置でそれぞれ20cmほどのものがある。真ん中の傷は過去に3回開けており、3歳、12歳、39歳の時に開胸した。そのため、傷痕は場所によって大きく広がってケロイド化しており、さらに39歳の手術の際には、後日手術痕が化膿したために追加で切開し、喉元から鎖骨に沿ったあたりまで傷口が開いた。右わき腹にある手術痕は、8歳の時のものでブラックジャックの傷痕のように糸の痕も残っている。子供の頃の手術は糸で傷を縫い合わせていたので、抜糸が必要で、また傷もガーゼを当てていただけなので毎日消毒が必要だった。それらがものすごく痛かった。でも大人の時の手術では、傷の上に透明なフィルムを貼っていて糸の後もなく、消毒の必要もないので、その点楽だった。

 この他に溝落ちのあたりや肋骨の下あたりにドレーンの跡が合計10個近くある。左の腹にはペースメーカーを入れた傷痕が5cmほどあり、足の付け根の鼠蹊部には、カテーテルや人工心肺装置を入れた時の傷痕が無数にある。首筋にも臨時のペースメーカーを入れた跡がある。また腕には採血検査や点滴の注射でできた内出血の青あざが常に大きく広がっている。こうした傷痕は他の人から見れば、怖かったり痛々しかったり、かわいそうに見えたりするだろう。しかし、おいらにとっては歴戦をくぐり抜けた証であり、勲章なのだ。母も、他人がビビるだろうが黄門様の印籠のように見せればいいのだと言っていた。

 これらの傷痕に比べると特に小さくて目立たない傷が足首にある。5mmほどの切り傷で、今ではしわに紛れてはっきりしなくなってしまった。母に聞くと、この傷は3歳の手術の時に太い血管に点滴を入れるために切開した傷痕なのだそうだ。そう聞くと、3歳の時のおいらも頑張っていたなと思う。だから、小さいけれどこの傷がおいらには一番の勲章なのである。