ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命についてつづるよ。

血の海を渡ると地獄

また、フォンタン再手術の話を再開しよう。

 術前の説明では、手術時間は12時間と予定された。一番時間がかかるのは、心臓に到達する前に心臓と胸骨の癒着をはがすことである。過去に心臓手術を受けたことのある人は、心臓が周囲の組織と癒着していることがよくある。おいらの心臓も事前のレントゲンやCTの画像から胸骨にべったりと癒着していることが見て取れた。これをそっと剥がさないと大出血を起こしてしまい、命にすら関わるのである。まずこの剥離に5時間はかかると予想された。その後、一番肝心な人工心肺をつなぎメイズ手術と心外導管をつなぐ手術を2時間ほどで済ませる。人工心肺につないでいる時間が長引くほど、術後の状態が悪くなるため、ここはできるだけ素早くやる必要がある。そして最後に、ペースメーカーのリードを挿入して、本体を埋め込むのに3時間ほど。また将来の際手術に備えて、癒着しないようゴアテックスのシートを心臓と胸骨の間に置いておくそうだ。だがこのシート設置は後々おいらを窮地に追いやることになる。その他最初の準備や術部を閉じたりなどの雑作業に1時間ちょっとという予定であった。

 12時間という予定でも結構長い。また、術中死亡率は5−10%と予想された。さらに、子供と違い大人の心臓手術は、術後かなり辛いものになると外科医から説明された。胸骨を切断して胸を開くため、後で骨や背中が痛むのだそうだ。それに、飲めない食べれない、動けない、といった不自由さも大人の方がストレスになるようだ。中には暴れてしまう人もいるらしい。次々と憂鬱になる話を聞かされたが、逆に具体的に聞けたことで、予想ができてかえって安心できた。子供の頃の手術では、術後のICUの期間が一番辛かった思い出がある。子供なので家族に会えないというのが特にさみしい面もあるが、窓もなく昼夜もわからず、様々な機械やチューブに繋がれて身動きも取れず、ともかく苦しかった。滞在期間も長かった。だから、ICUの期間を耐えられるかが勝負だと思った。幸いなことに、現在の手術ではできるだけICU滞在期間を短くする方針のようで、おいらの手術でもうまくいけば2日ほどで一般病棟に戻れる予定となった。それを聞いて、ますます安心感を覚えた。これは勝ったなと余裕すら感じ始めていた。

 そして、手術が開始された。おいらは無痛の12時間を終え、目覚めたら数日我慢すればすむと思っていた。しかし、実際の手術は22時間かかった。最初の癒着の剥離だけで10時間以上、メイズ手術と心外導管の設置はほぼ予定通りだったものの、リード埋め込みでも時間がかかった。さらにリード埋め込みの際に、どこかで出血しそれが止まらなくなる事態が起きたのだ。結局出血部位が特定できず、強引にガーゼを詰め込んで、一旦閉じることになった。そして、二日後ガーゼを取り除くための手術に5時間ほどかかった。合計で27時間に及ぶ手術となってしまった。

 1回目と2回目の手術の間は、麻酔が効いていておいら自身に記憶がない。しかし、記録を見ると一応目を覚ましたらしく、少しだけ家族と面会したらしい。まだこの時は人工呼吸器が口に入っていて、喋ることはできなかった。そして2回目の手術の翌日ようやくしっかりと目を覚ました。その時の様子は以前書いたとおりである。

 おいら自身は夢の中で知る由もないが、実際のところはかなり厳しい手術であったらしい。出血が止まらないため、病院にあるありったけの血液が輸血されたそうだ。手術の時から看病してくれたICUのある看護師さんは、無事出血が止まり手術を乗り切った時、まるで身内のように涙して喜んでくれたそうだ。それだけ際どかったのだろう。しかし、おいらにとって本当の戦いは、子供の頃と同様術後目がさめてからである。以前書いたように、目が覚めると嵐のような痛みと苦しみがとめどなく襲い掛かり、ひたすらに耐え抜くしかなかった。まるで、墜落中の飛行機の中にでもいるような、地獄に突っ込んでいくような気分であった。そんな中で気が狂うことなく理性を保つには、わずかな快楽でも良いからそれを貪欲に求めて気を紛らわすことであった。

島に落ち着く。

実は、南の島に移住してすぐに、ある大学から公募の面接に呼ばれていた。テニュアトラックという任期なしの終身雇用につながる職だったので、もしこれが受かればよほどのことがない限り一生安泰である。しかし、新たな住居新しい職と、全てが始まったばかりだったので、最初は面接に行くかどうか迷った。だが、研究者の友人にたまたま出会う機会があり、このことを相談したところ、死んでも受けるべきだと喩された。さらに、新しい職場の上司の先生も、研究職につく厳しさを熟知しており、ぜひ受けるべきだと勧めてくれた。というわけで、おいらは新天地に向けて、一大決戦に打って出たのであった。

 面接用のプレゼンを入念に準備し、つまることなく時間ぴったりに話せるように練習を重ねた。想定質問に対する回答も色々と考えた。そして当日。準備の甲斐があって、面接は焦ることなく話すことができた。質問にもしっかり答えられたと思う。これはいけるかも、と期待に胸膨らませながら、帰りの飛行機で余韻に浸っていた。

 一般的に採用が決定すれば、面接後数日のうちに連絡が来る。だが、一週間、二週間、と待てど連絡は来なかった。その間、万が一と思い、引っ越しの段ボールは極力開けず、そのままの状態にしておいた。だから、ずっと長い旅行にでもきているようで腰が落ち着かず、どこかよそ者のような感覚だった。そうこうしているうちに、一月半がたった。もう旅行気分もよそ者気分もうんざりしていた。仕事も少し慣れて、職場の人々とも親しんできたので、このまま南の島にいた方がいいなと願うようになった。神はこの願いを見逃さなかった。これまで何十通ともらってきたように、不採用と書かれたピラピラの紙が届いたのだった。

 早速、その週の週末大型の家具をたんまりと買い込んだ。そしていつものようにビーチに行き、全身海に浸かった。実は南の島に来て海水浴をするのはこの時が初めてだった。それ以前は、ビーチに行っても足に少し浸かるだけで、体まで入らなかった。その日は、天候もちょうどよく最高に気持ちよかった。穴場なのか人も少なく、水はとても透き通っていて、小さな魚が時々群れをなして泳いでいた。砂浜には今まで行ったビーチの中でも一番多くオカヤドカリがいて、まるでおいら達を歓迎してくれているようだった。海に入ったことで、なんだか身も心も清められたような気がした。海水浴の後は、近くのカフェでかき氷を食べた。体に染み込むように氷が溶け、とんでもなく美味しかった。やっと我が家は南の島に落ち着いたんだ、そう心から感じることができた。

 これから今の職の任期が続く数年間、この地で生きていくのだ。そうと決まれば、毎日のんびり、ビーチでびちゃびちゃ、ぜんざいざんまい。

我が生涯に一片の悔い無し

運命は残酷だ、とはまさにこんなことを言うのだろう。先日、知り合いが突然亡くなられた。その人も心臓ではないが重い病気を持っており、手術を受け、時々発作に見舞われていたという。予兆はなかったが、急に発作が起き亡くなられたとのことだった。まだ若く、いつも明るく優しく、将来有望な優秀な方だった。本当に残念でならない。

 健康な人にとっては、死は恐怖であり、生きることより死ぬことの方がはるかに難しい。しかし、重い病気を持つ人には、死は生きることより易しい。ちょっと怠惰な生活を送るだけで死が急激に近づいてくる。飲み過ぎ食べ過ぎをしたところで、健康ならそれで死ぬことはまずないが、おいらだったらそれで胃腸を壊して出血し、入院して寝たきりになり衰弱死なんてことは十分ありうる。現に昔、ドーナツ1つ食べて、その後一月入院する羽目になったことがあった。風邪などの感染症にかかってもそれがきっかけで、体調を急激に悪化することもある。死ははるかに身近なのだ。

 だから、突然発作が起きて死んでしまった場合も、周りの人から見ればあまりに急なことでも、本人にとっては突然には思わないだろう。ついに来たか、という感覚なのではないだろうか。遅かれ早かれ、いつか必ずやってくる出来事なのである。そうであれば、普段から最大限注意して、危険な状態にならないように過ごせばいいのかもしれない。だがそれではあまりに窮屈なのである。それに全く注意していないわけではない。むしろ日常的に注意し続けていて、それだからこそいつも死を身近に感じているのだ。

 でも、死がそれほど身近にあるおかげで、死はもはや恐怖ではない。死という命あるものにとってある意味最大の恐怖に怯えることなく、生きていけるのだ。そして、死の恐怖を克服すれば、もう怖いものなしの最強なのである。知り合いの方も、そうした超越した精神を持った最強な人だっただろうと思う。だから、おいらの勝手な想像だが、未練を残して亡くなられたようには思えないのだ。きっと天国で、生前身近だった人々を温かく見守ってくれていることだろう。

人工心肺、結構心配

手術の6日前に入院が始まった。入院するとすぐに、レントゲン、心電図、CT、採血、エコー、肺機能検査と、休む暇なく検査を受けた。さらに、その頃はPLEが再発していたため血中タンパクがかなり低く、点滴でアルブミングロブリンの補充も受けた。タンパクの点滴補充は手術の前日まで何度も続いた。また、心臓の機能が落ちていたため、コアテックという強心剤を点滴されたが、相性が悪くすぐに不整脈が出て余計苦しくなった。しかし何を考えているのか、翌日もコアテックを打たれ、当然不整脈が出て中止になった。また、手術後に脳機能の異常が起きる可能性がないかを確認するため、脳のMRI検査を受けた。そのほかにも、外科医、内科医、麻酔科医、ICUの看護師などからそれぞれ手術に関する説明があり、手術後にどのような状態になるかなど詳しく説明された。こうして、手術までの数日間は慌ただしく過ぎていった。でもこうした検査や説明を受けたことで、心の準備が整い手術への不安も和らいでいった。 

 そして、手術当日となった。前日の夜はさすがに3時ごろから寝れなかった。朝9時から始まるため、朝食は取らず浣腸をされた。手術室には確か車椅子に乗って行ったと思う。すでにこの数年、カテーテル検査やアブレーションを何度も受けていたので、手術室の雰囲気は慣れていた。手術室の並んだ病棟には大きな自動扉を開けて入る。中の壁はみな薄い青緑色で、以外にも蒸し暑く消毒液の匂いがムンムンに立ち込めていた。医者や看護師の着ている服もほとんどは同じ青緑色でたまに、黒やピンク色の人もいた。 

 しかし、いざ手術室に入ると、カテーテル検査室とはやはり全然違っていた。手術台の上のライトは桁違いに大きかった。部屋の大きさはそれほど大きくなかったが、手術台は想像していたより大きくゆったりと横になることができた。しかし何より一番驚いたのは、人工心肺装置だった。そいつはとても大きく、おそらく横幅と高さが1.5mはあっただろう。透明のチューブや菅が無数に絡み合っていて、すでに菅の中にはおどろおどろしく赤い血液が満たされていた。この後、おいらはこいつに繋がれるのだ。そして、おいらの血液がこの装置の中に流れていくのだ。なんだかこの装置自体が生きているのような気配すら感じ、この化け物に自分の命が吸い取られそうで、急に恐ろしくなってしまった。

 おいらは自力でベッドの上に乗り寝転ぶと、これから始まる身の毛もよだつ生体解剖を想像し、早く寝てしまいたかった。カテーテルの時もそうだったが、これまでは麻酔がうたれる前に色々な電極をつけたり、シールをつけたり、あるいは点滴を打ったりなどの準備があり、なかなか手術本番が始まらなかった。その間、意識があるので恐怖心がどんどん膨らんでしまうのだ。だが、この時は幸運にも手術台の上に寝転ぶとすぐに眠らせるガスを吸わされ、あっという間に意識を失っていった。次に目が覚めたのは、それから4日後の事だった。

希望も絶望も持たない

今から一年前の地獄入院から退院した直後。おいらはしゃがむことができず、床に座ることができなかった。電動式の介護ベッドに寝起きし、ベッドから体を起こす時は電動で上半身をあげる必要があった。腰椎圧迫骨折のためコルセットを体に巻き、痛みで寝返りするだけで悶絶した。杖無しでは歩けず、階段はおろか段差も1、2段上がるのも一苦労だった。椅子やトイレなど低いところにも座れず、トイレには座高を高くするアタッチメントをつけていた。トイレに行くのが大変なので、オシッコは尿瓶で寝ながらした。1日の大半はベッド上で過ごしていた。

 食事と水分制限も厳しく、腎臓や胃腸に負担をかけないよう、脂もの、塩分、タンパク質、水分を少なめにしなくてはならなかった。一方、栄養をたくさん摂る必要はあり、甘いものをやたらと間食した。そんなわけで外出するときはもちろん、家の中でも多くの場面で家族の介助が必要で、実際要介護認定を受けていた。自分の身の回りのこともできず、働いて収入を得るなど夢のまた夢だった。

 しかし、今その夢のまた夢が実現してしまった。疲れはするものの、週5日フルタイムで働き、家族を養えるほどの収入を得られるようになった。家族の介助も必要なくなり、床にも自由に座ったり寝転んだりできるようになった。食事も制限がなくなり、先日は200gのステーキをがっついた。念願だった水分も今ではペットボトルで炭酸水を一気飲みできた。そして今日、地獄入院からの退院後一度も再入院することなく丸一年が過ぎた。とても長い一年だった。

 振り返れば、地獄入院から今日まで辛いことがあまりに多く、もう二度と味わいたくはない。しかし、この一年の経験は、自分の生き方、人生観を大きく変えた。その意味で見れば、この経験は全く無駄ではない。一年前と現在どちらが良いというわけではないが、自分の生き方が楽になったように思う。諦めの気持ちもあるかもしれないが、多くを望まなくなり、些細なことで幸せを感じられるようになった。

 来年はどうなっているだろうか。この一年の経験で、未来は全く予想できないと思った。理想を掲げても叶わず、逆に絶望しても復活したりする。だから、理想も持たず、絶望もしない。無欲・無心で悟ったように生きるのだ。なんて、嘘。本当はパーマネントの大学教員職に着いて、好きな研究をやりたい放題やるのが夢。そのためにも、密かに毎日少しずつ論文を描き進めているのだ。来年までに論文3本出しちゃうよ。

艦砲ぬ喰ぇーぬくさー

かつてない猛烈な台風が南の島を上陸しようとしていた。その台風が来ることはだいぶ前からわかっていた。すでに太平洋のあちこちの島で同じ台風に襲われていたからだ。その島に来る直前も小笠原南方の硫黄島でやはり壊滅的被害を受けていた。島の周囲には、黒々とした波が海面を埋め尽くすほど無数に散らばっていた。さらに上陸前だというのに、島の地形が変わるほどに雨が降り注いだ。雨で濡れた陸上は赤く染まっていった。  

 そして、ついに朝方台風が上陸し始めた。当初は島の南側から上陸すると予想していたが、予想に反し西海岸から上陸した。人々はなすすべもなく暴風雨の中を逃げ惑った。雨風をしのごうと島のあちこちに洞穴を作って身を隠していたが、雨は容赦なくその中まで入ってきた。人々は台風に負けじと懸命に戦ったが、ろくな装備もない中とても敵う相手ではなかった。  

 結局、暴風雨は3ヶ月近く続いた。嵐と戦うため、女子供も関係なくほとんどの島民が駆り出され、そして悲惨なことに多くの人々が犠牲になった。生き残った者にとっても、その光景は地獄だった。地上のほとんどの建物は吹き飛ばされ、森や山も削られた。残ったのは残骸と犠牲者の山だった。しかし、それでも、生き残った人々はめげずに明るく希望を持って生きてきた。  

 お分かりの通り、これは今から70年以上前のある戦いを例えたものである。タイトルは、そうした戦中戦後の人々の様子を唄ったヒット曲だ。おいらを含め、現在の人々の多くはその当時を理解していない。今ならインターネットでその時の様子を写した写真や文がいくらでも見られる。しかし、おいらは臆病なのでそれすら恐ろしくて見ることができない。本当興味があっても、その常軌を逸した地獄は直視できないのだ。  

 それと比較するものではないが、障害者の状況を理解することもまたなかなか辛いことであろう。知りたくない気持ちになっても仕方がないように思う。悲惨な現実は知るべきことであるが、知るのは辛い。おいらはそういう感情を抱いてしまうことは差別的とは思わない。それを克服する方法は、多分少しずつ知って慣れていくしかないだろう。おいらも病気持ちだからといって、たとえ痛い目や苦しい目に会おうと、時に差別を受けようとめげず生きていきたい。そのためにも、辛い悲惨な歴史を学んでいくのだ。

奇跡は終焉させない。

TCPC conversionを受けた人は日本にどのくらいいるのだろうか。はっきりした数はわからないが、おいらが子供の時に手術を受け、おそらく日本で最もフォンタン手術の実施数が多いTJ病院では、70例あるようだ。このほかに、やはり先天性心疾患の手術実績の多いSKB病院では35例、関西で循環器専門の病院では2004年の段階で15例あるという。これ以外に、おいらが受けたNC病院を始め全国の病院でそれぞれ数例ある。以前日本全体でフォンタン手術を受けた人は4000人と医者から聞いたことがあるので、その一割400人くらいがTCPC conversionを受けたのではないかと思う。

 多くの研究で、旧式(APCフォンタンやLateral tunnelフォンタン)より、心外導管型のTCPCフォンタンの方が、長期予後が良いと報告されている。実際おいらも、APCフォンタンからTCPCに転換したことで、心臓の状態はかなり安定した。今こうして元気に過ごせるのは、再手術を受けたからに他ならない。だが、本当にTCPCフォンタンの長期予後が良いのかは少し疑問がある。

 まず、TCPCフォンタンの歴史が浅く、本当の意味で長期予後を観察できていない。TCPCフォンタンを受けた人はまだ長い人でも術後10数年といったところだろう。それに対し、APCフォンタンを受けた人はおいらのように術後30年近く経っている人もいる。それだけ長くたてば、合併症などが出てくることも否めない。おいらに合併症が出たのは、術後25年経った時だった。TCPCフォンタンもそのくらい経てばそれなりに合併症が出てくる可能性はある。実際、TCPCフォンタンを受けたのに術後10年ほどでPLEや不整脈などの合併症が出てきている人が結構いるようだ。そうした人が増えたことによって、フォンタン術後症候群が難病指定されるに至ったと思われる。

 だが、一方別の見方もできる。TCPCフォンタンはAPCフォンタンと比べ手術が容易な為、より心臓の状態が悪い人にも適用されている可能性がある。それに対し、APCフォンタンは難しいため、心臓がそれに耐えられるほど状態が良い人にだけ行われてきた。だから、おいらはAPCフォンタンを受けられただけまだ良い方だったのだろう。もしそうだとすれば、TCPCフォンタンを受けた人の中には心臓の状態が悪い人も含まれ、その人々は合併症が出やすいのかもしれない。

 真実はわからない。しかし、どのタイプのフォンタン手術を受けたにせよ、遅かれ早かれ合併症の発症はほぼ避けられないだろう。このブログの一番初めの頃に書いたように、奇跡の手術ではなくなってしまったのだ。だから、フォンタン術後患者の寿命は残念なことに健常者並みにはあまり望めないだろう。いつかフォンタンに変わる本当の奇跡の手術が開発されるかもしれない。おいら自身は50歳までと子供の頃から思っている。でも不思議に不安や恐怖はない。そうこうしているうちに、先日またひとつ歳をとり、50までもう10年を切った。いつかフォンタンに変わる本当の奇跡の手術が開発されるだろうか。まあそんな奇跡と、おいらが50歳までに論文を50本書くのとどっちが奇跡かな(あと30本もあるよ)。