ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命についてつづるよ。

植物とかけてコンビニと解く

しばらく前、息子の学校の教室で、おいらがやっている植物の研究について話す機会があった。話終わった後、生徒から「なぜ植物を研究しているのですか」と質問された。おいらは、待ってましたとばかり得意げにその理由を答えた。おいらが植物を研究する最大の理由は、植物が動かないからである。我々人間をはじめとする動物には、動かない生き方は想像することすら難しい。だから、たまに植物を生き物と認識していない人すらいる。だが、もちろん植物は立派な生物であり、その生き方は非常に巧妙で完璧を期している。動かない植物の生き方を理解すると、我々人間社会の理解にも大いに役立つのである。病気の話ばかりだったので、たまにはそんな植物の話をしてみよう。

 動かない植物の生き方を理解する上で、おいらが特に着目している点は、植物個体の集まり(集団または個体群と呼ぶ)が空間上にどう分布しているかを調べることである。ちょっと抽象的すぎて分かりづらかったかもしれない。例えば、ある1種の植物について考えてみる。道端によく生えているタンポポならイメージがつきやすい。タンポポが生えている位置を地図上に落としていくと、たくさんの点が打たれていく。それを全体的に俯瞰してみると、でたらめに点が散らばっているように見えるかもしれない。ちょうど碁盤の目に置かれた碁石のようにだ。でも注意深く見ていくとあるパターンが見えてくる。例えば市街地だったら、空き地や公園にたくさんのタンポポがいて点の密度が高くなっているだろう。それから、道沿いの街路樹の足元には必ずと言っていいほど生えているので、道沿いに点が多く打たれているかもしれない。地図上に点がたくさんあればあるほど、仮に道が描かれていなくても道の存在が見えてくるほどだ。このように、植物の分布の仕方を調べると、その植物の生き方や好みの環境などの情報がわかったりする。

 他にも、まだまだ面白いことがわかる。例えば、空き地のように密度が高いところでは、タンポポの個体同士が資源を巡って熾烈な競争をするので、個体の死亡率が高くなる。また、光や水などの資源が多い場所は当然生きやすいがその分個体もたくさん密集する。それから植物の世界では、同じ種の個体同士が近くにいる方が他の種の個体が近くにいるより競争が激しくなりやすい。これは、同じ種の個体は備わった性質が同じなので、資源を得るための作戦が同じになり泥仕合になるからだ。逆に性質が異なる種間の場合、例えばA種は地面の下の方の水を吸収するのに優れ、B種が表層の水を得るのが得意ならば、AとBはあまり水を巡って争わずに済む。こうしてA種とB種の個体は近くにいながら共存できる。

 このように植物の分布を観察し続けると、まるで植物が動いているかのように時とともに分布が変化し、なぜそうなかったかの原因がわかってくるのだ。こうした理解が、我々の実社会の理解にどう役立つのか。例えば、コンビニ。コンビニの店舗も植物のように一度建てたら動かない。コンビニの位置を地図上に落としていくと、たくさんの点が散らばる。そしてタンポポと同様、あるところでは密集している。ここで植物の状況を当てはめてみる。おそらくコンビニも密集した場所では店舗間の競争が激しく、店舗の赤字が起きやすいだろう。資源(お客)の多いところでは、黒字になりやすいが、その分店舗もたくさん存在するはずだ。さらに、植物の競争同様、コンビニも同じ種類が近くにある方が競争が激しくなりそうだ。例えば、セブンが2店舗近くにあってもどちらかしか行かないので、共倒れしやすい。しかし、セブンとファミマなら、客の好みや気分によって行く店舗を変えるので、両立しうるかもしれない。

 一見全く別次元にある植物とコンビニが、意外にも共通した法則に支配されているとすれば、とても不思議である。植物もコンビニも動かないという唯一の共通点が、その後の生き方を決定的に方向づけてしまうのかもしれない。だとすれば、コンビニに限らず動かないものは皆、類似した法則性が見出せるだろう。それこそが人類が追い求める大統一理論なのだ。どう、あなたも植物のことをもっと知りたくなったかい。

弾切れ

先日の予想は見事に外れた。が、それはいい方向でのハズレだった。タンパクはわずかながらさらに改善したのだ。フルイトランによる絶妙なコントロールが効いたのだ。次の診察は3週間後になった。今後もフルイトランを飲む量を調節すれば良い状態を安定できるだろう。

 しかし、肝心のフルイトランの残薬数が明らかに足りなそうなのだ。前回の診察時に、薬を控えめの数しか処方してくれなかったのだ。正直足りるかなと不安に思ったが、なんとかなるだろうと高をくくってしまった。結局、先週までの経験通り、飲まない日を1日でも作ると確実に体重が増え、今日の時点で体重が51kgを超え入院危険域に入ってしまった。次の診察まで残り15日。手元にある薬は12錠。体重維持のためには1日1錠は最低必要だが、それすら足りない。さらに体重を減らすには時々1日2錠飲む必要がある。このまま途中で弾切れになれば完全に負け戦である。なんとか、薬を節約して乗り切るしかない。

 入院危険域になってからは案の定体がだるく、頭も重くちょっとした運動で息が苦しくなってきた。仕方なく今日も朝に1錠飲んで水を抜いた。あと11錠。これを2週間でどう配分するかが勝負である。だが実はおいらには、隠し持った兵器がまだある。それは1年以上前に処方され、余らしていた別の種類の利尿剤である。ヒドロクロロチアジド(ニュートライド)という薬で、フルイトランと同じサイアザイド系の利尿剤である。これも非常によく利尿剤だった。

 利尿剤にはいくつか種類があり、それぞれ効き方が異なる。おいらは、このサイアザイド系以外に、ループ系のダイアート、K保持系のセララ、バソプレシン拮抗系のサムスカを飲んでいる。入院するとダイアートがラシックスに、セララがアルダクトンに、と同じ系の別の薬に変わったりした。だからきっとフルイトランの代わりにニュートライドを飲んでも大丈夫だろうとまた高をくくっている。だけど、おいらは高をくくってこれまでろくな事は起きていないのだ。例えば、このブログの題名に貼り付けてあるヘリコプターの写真は、おいらが高をくくって起こした大事件を写したものである。その話はまたいつかしよう。

体重は物語る

明日はまた診察である。しかし、この1週間の体重の変化からだいたい検査結果の予想はついている。2週間前にフルイトランを毎日飲み続けた結果、大量に水抜きされ、タンパク量は大幅に改善した。その反面、脱水気味となり、フルイトランの服用を中止した。服用をやめるとみるみる体重が増え、体に水が溜まっていった。毎日800g増加した。体重が51kgを越すと入院レベルの危険域である。そこで、フルイトランを再び飲み体重の調整を図ることにした。

 2週間前はフルイトランを朝と夕に1錠1mgずつを飲んでいたが、まずは一日一回朝夕のどちらかで飲んでみた。体重の増加は止まった。しかし、減ることはなかった。1錠では現状維持が精一杯のようだ。そこで、朝夕と飲んでみると、期待通り体重は減り、49kg台に落とすことに成功した。その後は、1日に1錠のペースで飲み、体重をキープしている。最後通告の時が51.5kg、先週の劇的改善の時が48kg、そして今がその中間の49.8kg。だから、タンパクの量も最後通告時と改善時の中間あたりになるだろうと予想される。ズバリその予測値は、総タンパク5.0、アルブミンは2.9、IgGは610である。 

 正直、この予測通りだとあまりいい値とは言えない。できれば劇的改善の状態を維持してほしいが、まずは予測を上回るように、今晩は鳥の胸肉をたっぷり食べて駄目押しのタンパク補給することにした。これまでもタンパクが低下すると、低脂肪高タンパク食に切り替えて回復を図ろうとしてきた。牛乳の代わりに豆乳や低脂肪乳を飲んだり、豆腐を食べたり、肉も脂肪分の少ない部位を選ぶか魚にした。脂肪は消化がしにくく胃腸に負担をかけるため、タンパク漏出に拍車をかける危険があるからだ。さらに、水分制限もついているのでまるで試合前のボクサーのようだ。ボクサーにとって試合前の食事・水分制限は相当辛いものだそうだが、おいらにとってもやはり精神的に大きなストレスになった。食事のメニューが限られるし、脂が少ないものが続くと無性に脂っこいものが食べたくなるのだ。おいらは、PLEが4年前に発症して以来トンカツを食べていないが、ずっと食べたくて仕方がない。

 もし明日予測を上回ったら、ご褒美に4年ぶりにトンカツ食べちゃおうかな。でもそれをしたら、その後恐ろしく体重が増えるに違いない。おいらは試合の後も体重調整が引き続くのである。  

大放水

先週、入院の最後通告を突きつけられたが、フルイトランという利尿剤を増やしてあと一週間悪あがきすることになった。水抜きすれば、血中タンパクの濃度が上がるからだ。さらに駄目押しに、ハイゼントラ4g/20mLを2本打つことにした。これらの対処療法は見事に功を奏した。利尿剤により毎日尿が大放水され、体重が1週間で3kg以上も減った。そして今日の血液検査で、総タンパク(TP)は4.3から5.7へ、アルブミン(ALB)は2.5から3.3、IgGは460から750へ軒並み増加していたのだ。これくらいの値があれば、当面入院の心配はない。

 琵琶湖面をすれすれに飛ぶ人力飛行機のような瀕死状態だったが、奇跡が起きて突如に水位が下がり湖面までの距離が広がったようなものだ。もうしばらくは安心して飛行することができる。奇しくも、今日の診察で主治医の先生が「低空飛行を保っていきましょうね」と例えられていた。

 この一週間の治療は、焼け石に水のようなものだと思って入院を覚悟していたが、予想外の成果があったと言える。何よりタンパクの値のコントロールに方針が立ったことだ。体の水分が増え、体重がある一定以上になった時には(おいらの場合は51kgが目安)、フルイトランを飲みハイゼントラの増量する。そしてタンパク質量が回復したらそれらの服用を中止する。今後はこの調整によって、タンパク質量を一定に保つことができそうである。入院するどころか、非常に明るい見通しを感じて病院を後にしたのだった。

 ところで、本物の琵琶湖の水位も、国土交通省の管轄事務所が水門をコントロールすることで絶妙に調整されている。それ以前は水位が上がったりして、周辺地域の洪水被害が度々あったそうだ。調整によって、その危険がなくなった。しかし、こうした人為的なコントロールは時として自然に弊害をもたらす。琵琶湖岸の砂浜には、タチスズシロソウという絶滅危惧の植物が生育していた。この植物は、他の植物のいない開けた砂浜を好む。しかし、水位が安定すると砂浜の攪乱が起こらなくなり、砂浜に他の植物が侵入することになった。結果、タチスズシロソウは他の植物との競争に負けて、個体数が激減したのだ。タチスズシロソウのように、洪水などの攪乱が度々起こる環境を好む植物は意外と多い。洪水が起こるとタチスズシロソウ自体も流されてしまうが、洪水後の開けた砂浜に砂の中に残った種子が一斉に発芽する。そうして洪水以前よりも多数の個体が定着して、新たの種子を大量にばらまくのである。幸いタチスズシロソウの場合は、ビーチバレーコートのために琵琶湖砂浜を掘り起こして整備したところ、偶然にも大群落が復活していたことが十数年前に発見された。実はそれを発見した研究者はおいらの知り合いで、おいらもその大群落の調査に参加したことがあった。

 その調査の時はなんと奇跡的な現象だと思いながらも、まさか遠い将来のおいらを予言しているとは思わなかった。 おいらは、利尿剤によって体内の水位を調整したことで、ある面では体調を維持できるようになった。が、放水しすぎで脱水気味になり、尿と一緒に微量元素が排出されてしまい、夜中度々足がつるようになってしまったのだった。おいらにとって微量元素はタチスズシロソウであり、水位調整で失われかねない存在なのだ。どちらも一見それはあまりに微量で体(琵琶湖)に大した影響はなさそうだが、いざ失われると全体のバランスを崩しかねない役割を持っているのかもしれない。危ない危ない。生物学者でありながら希少な存在を安易に見過ごすところであった。そんなわけで今週はフルイトランを一旦停止することにした。

鳥になりたい

日本最大の湖、琵琶湖。その湖で、毎年鳥を夢見て人々が熱い挑戦を繰り広げている大会がある。鳥人間コンテストは、おいらが子供の頃毎年楽しみにしていた番組だった。いつの時か、ついに琵琶湖対岸まで飛行して飛行距離の限界に到達するまではよく見ていた。湖面すれすれを飛びながら、なんとか持ちこたえて低空飛行を続ける人力飛行機の姿は、とてもハラハラした。飛行機のペダルを漕ぐ操縦士の苦しそうな様子が、また緊張感を高めた。落ちそうで落ちない、なんども水面につきそうになりながらそのたびに少し浮上して飛行するスリルがたまらなかった。そして、いよいよ体力の限界が来ると、操縦士は最後の力をふりしぼってペダルを漕ぎ、少し浮上したかと思うとすぐに失速して着水するのだった。着水して崩れ落ちる飛行機の姿が、まるで事切れて息絶えた人のように見えた。

 この一年、おいらの体調は、琵琶湖面を滑空する人力飛行機のようだった。徐々に血中タンパク濃度が落ち込んで行き、いずれ限界に達するのは見えていた。それでも、何度か持ち直したりした。貧血も同時に進行したが、途中鉄剤の投与を始めたことで回復した。6月ごろからは、血中アルブミン量が3前半に落ち込み、いつ入院してもおかしくない状態が続いた。毎月の検査でその値は確実に少しずつ低下していった。だがおいら自身は、粘れると思った。体調は決して悪くなかった。胃腸が痛くなったり気持ち悪くなることもなく、むくみもほとんどなかった。疲れやすい時はあったが、長引かなかった。仕事も無理をしなければ続けることができた。ギリギリの値だが入院するまでには至らないと感じて前向きにやってこれたのだ。

 しかし、全ての人力飛行機にいつか限界が来るように、おいらの体にも限界がきたようだ。今日の検診でアルブミンや血中総蛋白量が急激に低下していたのだ。そのまますぐ入院も勧められたが、一応あと一週間利尿剤を増やすなどの対処療法をやってみて、様子を見ることになった。それで改善しなければ来週から入院である。おそらく入院は避けられないだろう。実は、2週間前の検査では、少しだけタンパク量が改善したのだった。でもそれは今思えば、最後の力を振り絞った浮上だったのかもしれない。そのあとおいらの体は急激に失速してしまい、ついに着水することになったのだ。

 地獄入院から退院して、約1年半。その間大腸ポリープの入院はあったものの、体調を安定させ仕事を続け生活を維持できた。しかしついに限界がきた。もしかするとこの限界は、湖対岸に達したということなのかもしれない。PLEを発症して以来、4年9ヶ月の間何度も回復しては再発を繰り返していた。再発までの期間は過去最長1年で、多くは半年以内だった。それが1年半も粘れたのだ。それはおいらにとっての対岸であり限界到達点なのかもしれない。きっと入院して治療をすれば、今回もタンパク低下を食い止められるだろう。治療はプレドニンを一日40mg投与し、そこから徐々に下げていくことになる。そしてまた10mgを切ったあたりからタンパクの低下がみられ始め、1年半が経過する頃には限界値まで下がってしまうのだ。おいらのPLEへの挑戦はその繰り返しなのかもしれない。

 でも願わくは本当の鳥になりたい。限界に達せずいつまでも羽ばたいて飛んでいたいのだ。PLEの湖面に着水することなく、高い上空を安定して飛んでいたいのだ。それは人力飛行機を永久に漕ぎ続けることが不可能であるように、おいらにとっても不可能なチャレンジなのであろう。

研究材料になる研究者

おいらの症例は、これまでに少なくとも2回医学系の学会で発表されているようだ。そのどちらも、フォンタン再手術を受けた病院の医師による発表である。研究のデータとして使う際には、事前に同意書の記入を求められる。おいらも研究者の端くれだから、おいらの情報が研究に活用されて未来に役立つのはとても嬉しいので、なんのためらいもなくサインした。

 一つは、今から4年半以上前においらが初めてその病院にかかった頃の状況を報告したものだ。子供の頃のAPCフォンタン手術後、20年以上通院せず定期的診察を怠った(ドロップアウトした)結果、不整脈、PLE等のフォンタン術後症候群を発症したことを報告していた。発表の結論では、定期的フォローアップの必要性を説いていた。実際、その病院の主治医の先生からは「あなたは診察に来るのが少し遅すぎた。」と言われてしまい、先生としてももっと早くきていればあるいは定期的診察をしていればと、無念の思いが強かったのだろう。2つ目は、その病院でTCPCconversionをした患者をまとめて発表しているものである。複数の患者のデータが混ざっているが、その中でもおいらは最も年齢が高く、1回目のフォンタンから再手術までの期間が最も長く、唯一PLEを発症している患者だった。また、術前の病状が悪く治療に難渋し、入院期間も一番長かった。術後には手術創から菌が感染して縦隔炎を発症し、抗生剤投与や膿を吸い出す治療を続ける羽目になった。この病院の中でも、極めて特殊で難しい症例だったことがうかがえる。

 その病院は、本来子供専門の病院なので、こんな大人の病状が悪い患者を見るのはさぞ大変であったろう。しかし、その病院の主治医の先生は、初めておいらを診察した時からおいらを引き受ける覚悟をしてくれているようであり、「(病状は深刻だが)私は最後まで諦めない」と強く言ってくれたことがとてもありがたかった。だから、おいら自身も覚悟を決めて今後の治療を受けようという気になったのだ。子供の頃の経験で、手術や入院は死ぬほど嫌だったが、この病院ならなんだか乗り越えられそうな気がした。そうして4年間お世話になり、おいらは生き延びた。

 それだけに、おいらの症例がこの病院の研究成果になることは、おいら自身大変嬉しいことだ。命を救ってくれた恩返しにはならないかもしれないが、今度はおいら自身が研究成果を発表する番である。つい最近、約1年半ぶりに論文を発表することができた。昨年の地獄入院の頃から書き続けていたものだ。研究材料になり、研究成果となり、そして自らの研究成果を発表する。そうして、世界の科学が少しずつ進んでいく。今後も命ある限り、研究成果を発表していきたい。でも、また研究材料として貢献するかもしれないな。

最大の喜び

両親が、おいらのことで一番喜んだ時のことは、今でも強く心に残っている。それは、心臓の手術を無事終えた時、ではない。もちろんその時も喜んだと思うが、喜びより安堵感の方が大きかったろう。それに、おいら自身は手術後すぐは眠っているか意識が朦朧としているので、両親がどんな感情であったかなど知る由もない。手術後しばらくたって、おいらの意識もはっきりした時には、両親も落ち着いた顔つきになっていた。  

 それから、3歳の時の心臓手術を終えて退院し、初めて一人で立てるようになった時も両親は喜んだろうが、おいら自身が3歳なので両親の感情など覚えていない。同様に8歳の手術の後初めて走れるようになった時のことも覚えていない。両親が一番喜んだ出来事はもっともっとずっと後の事である。

 もったいぶって前置きが長くなってしまったが、その出来事とはおいらに子供ができた時のことである。実を言うと、その時おいらは結婚しておらず、子供ができたことで結婚を決意した。いわゆるデキ婚である。だから両親には、結婚することと子供ができたことを同時に報告しなければならなかった。その頃は、おいらは両親とは遠く離れて一人暮らしをしていたので、電話で報告することにした。正直、両親に何を言われるかと内心不安だった。非難されるのではないかとも思った。

 しかし、電話すると母も父も、泣き出しそうなほど喜んで祝福してくれた。実際泣いていたかもしれない。それは、孫ができるという喜びもあるが、おいらが独り立ちし家族を持って生きていることに喜んでいるようだった。子供の頃の両親は厳しくいつも怒っている印象だった。後に聞くと、一人で自立して生きていけるようにとあえて厳しく、家事の手伝いをさせたりと色々しつけたのだそうだ。前に書いたように、おいらが風邪などで寝込んだ時も、つきっきりで看病はせず仕事に出かけた。手術で入院している時も、付き添いで泊まったりはしなかった。でも、内心はずっと心配でたまらなかったろう。小さい時は、おいらが大人まで生きられるかが不安で、眠れない夜もあったはずだ。今でこそフォンタン患者が成人まで生きのびて、家庭を持つことは珍しくなくなった。でも、おいらが子供の頃は、大人まで生きられること自体が望みが薄かった。しかし、その心配や苦労が報われた。おいらは自立して収入を得て、そしてついに家庭を持ったのだ。それは親として子供を育て上げた喜びなのか、いややはりおいら自身が幸せを掴んだことへの喜びなのだろう。

 おいら自身には、まだ孫はいない。おいらの子供はまだ小学生なので、彼が結婚して子供を持つにはだいぶ先の話だろう。残念ながらそこまで生きられるかわからない。がもし、息子が子供ができたことを報告するまで生きられたら、その時はおいらの両親以上に喜びたいと思う。