ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

奇跡を起こした飲む点滴

地獄入院が始まってから一ヶ月半が経過した。おいらは、SD病院からなかば逃亡するようにNC病院に戻ることができた。NC病院に移ると入院生活は劇的に快適になった。まず、決定的に変わったのが食事である。SD病院での激マズ栄養ドリンクがなくなり、汁のみメニューからミキサー食に変わったのだ。ミキサー食とは、本来の料理を水気を足してミキサーしたものである。だから結局汁メニューではあるのだが、もとは固形のものだったので、これはごはんだ、これは焼き魚だな、こっちは煮物か、とそれぞれの味を楽しむことができた。ジュース、汁だけスープなどとは全く違った。ときには、コロッケのようなものをミキサーしたものもでたが、ソースの味がしてなかなかおいしかった。栄養ドリンク(レナウェルA)や栄養補強スープ(メディミル)がでたりしたが、SD病院ででたような激マズではなくなった。

 PLEや貧血の治療もSD病院から引き続いた。アルブミン免疫グロブリンの点滴補充、輸血をやりすぎと思うくらい連日入れまくった。輸血は1単位(約280ml)を6時間ほどかけて一日2つ入れたりした。また、SD病院では中断していたハイゼントラも再開した。ハイゼントラは、免疫グロブリンを週一回皮下に点滴するものである。在宅でも行うことができ、おいらは一年ほど前のTCPCフォンタン転換手術の入院以来、ハイゼントラを在宅で継続していた。これはなかなか効果があり、手術のあとはしばらく蛋白が下がることなく安定することができた。しかし、ハイゼントラは珍しい薬のようで、SD病院では入手困難だったのか、中断してしまっていた。

 こうして、安定した治療と食事がなされるようになったものの、血便、貧血、低蛋白はいぜんとして続いたままであった。足の浮腫もひどく、着圧ソックスをはき、足をしぼる医療用マッサージ機を就寝時につけていたりした。そうすると朝には浮腫は引くものの、起き上がって足を下にするとまたすぐにむくんだ。また、血行が悪く、起きて座っていたりすると、膝より下が気持ち悪く紫色に変色し、しびれて筋肉痛のように重くだるくなった。一向に改善しない病状に、再び絶望感が込み上げてきたのだった。

 そんな状態で入院が二ヶ月を超えた頃、一時外泊の許可を頂くことができた。久しぶりに過ごす我が家は天国のようだった。暖かく柔らかい布団。ミキサーではない形のある食事。かむ必要がないほど柔らかく煮たカブや豆腐であったが優しい自然の味で、体に染みた。病院で出される栄養ドリンクやスープは添加物がてんこもりで、毎日飲んでいるとやがて口の中や舌がヒリヒリしてきた。舌の表面には舌苔のような白いものがこびりつき、舌の先端は白いブツブツができ、味覚がおかしくなった。そんななかで、添加物のない野菜本来の自然な味は本当においしかった。もう一度家に帰りたい。再び気力が湧いてきた一時外泊となった。

 そして、この外泊と前後して自主的に飲み始めたのが甘酒である。元々甘酒はあまり好きではなく、妻と姉に勧められ渋々飲んでみることにした。甘酒というと冬場の寒い時期に、温めてそのまま飲むイメージがある。妻が作ってくれたのは、果物(イチゴやブルーベリーなど)、牛乳と一緒にミキサーした甘酒スムージーだった。これが激ウマだったのだ。一時外泊のときの食事と同じく、自然で優しい甘さの味わいだった。

 甘酒は、ただおいしいだけでなく、奇跡を起こしたのだった。甘酒を飲み始めてから、胃腸の調子がとたんに良くなったのだ。便の色が、それまではコールタールや岩のりのような真っ黒だったものが、日に日に茶色に変わっていった。それに伴ってヘモグロビン値がほとんど下がらなくなった。明らかに、腸管内の出血がおさまってきたようなのだ。血中タンパクも安定し始め、アルブミンなどの点滴補充が必要でなくなった。甘酒はまさに飲む点滴であった。

 なぜ甘酒が効いたのかははっきりとわからない。おそらくは、今注目されている腸内フローラの改善にあるのだろう。甘酒には酒粕を元にしたものと、米麹を原料にしたものがあり、おいらが飲んでいたのは米麹のものである。米麹のものはアルコール分が一切なく、子供でも飲める。米のデンプンが麹カビによって糖に分解されたものなので、純粋に糖分の固まりの飲み物なのである。またビタミンや必須アミノ酸もたくさん含まれているらしい。こうした栄養分が腸内の善玉菌の栄養となり、善玉菌が増殖するのだ。また、甘酒に含まれる乳酸菌が腸内で直接善玉菌として働いてくれる可能性もあるだろう。ともかく、甘酒によって腸内フローラが健全な状態に戻ったようなのである。

 このことを主治医の先生に話すと、とても理解をしてくれて、病院の食事として出せないか検討してくれるほどだった。実際は、甘酒はそれなりに高価なのと、衛生管理が難しいという理由から食事としての提供は実現しなかったものの、積極的な摂取を推奨してくれたのだった。目に見える劇的な効果と、主治医のお墨付きをいただいたことで、おいらはますます積極的に甘酒を飲むようになった。毎日、3時のおやつの時間帯になると、甘酒と野菜や果物ジュース、あるいは飲むヨーグルトを混ぜて飲んだ。NC病院には、各ベッドに有料の冷蔵庫がなく、冷蔵保存しておきたいものは、ナースステーションにある冷蔵庫で預かってもらう。おいらは、3時頃になると看護師さんをコールして、預かってもらっている甘酒とジュースを持ってきてもらうのだ。おいらが毎日おいしそうに飲むので、看護師さんの間でもちょっとしたブームになり、同じように甘酒スムージーを作って飲む方もでてきた。おいらは、甘酒は米麹のものがいいですよ、混ぜるならこのジュースがおいしいですよとか、得意げになって看護師さんたちに教えていった。甘酒は退院した今もまだ毎日飲んでいる。さすがに少し飽きてきたものの、最近は温めたミルクやココアと一緒に飲んだりしている。紅茶やコーヒー、ほうじ茶なんかとも意外と合う。

 まだ、おいらだけの体験談なので、甘酒の効果のほどは眉唾物かもしれない。でも、添加物だらけの栄養ドリンクよりははるかにましだと思う。甘酒を飲み始めて、今では食事もかなり自由にとれるようになった。多少脂っこいものも大丈夫である。PLEで苦しんでいる方は、ぜひ甘酒を試してみてはいかがだろうか。病院も栄養ドリンクや点滴や薬に頼るのではなく、甘酒のような自然の食べ物で病気を治療するような改革を進めてほしい。その方が、患者にとって体に優しく、おいしく、そしてストレスがない治療になるだろう。病気にとって食事はときに薬以上に治療効果を左右するものである。食事をなめてはいけないのだ。

 地獄入院の食事事情はまた後日お話ししたい。これもまた地獄となり、栄養士さんと壮絶なせめぎ合いをすることになったのだった。

フォンタン術後の消化管出血と蛋白漏出性胃腸症

地獄入院の話を再開しよう。
 地獄入院は、貧血がきっかけで始まった。後々わかってきたことは、消化管内からの出血で貧血が起こり、出血は蛋白漏出性胃腸症の延長線上に生じたものだった。以前にも書いたようにそのような症例は極めて少ないが、ほぼ唯一ではないかと思われる報告論文が一つある。SD病院で、主治医の先生との怒り面談の際に、教えてもらった論文である。今回はこの論文について解説したい。ほとんど参考にする人はいないかもしれないが、おいらのように地獄入院を味あわないためにも、フォンタン術後PLEを発症している方の予備知識となれば幸いである。

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Himeshkumar Vyas, David J. Driscoll, Frank Cetta, Conor G. Loftus, Heidi M. Connolly (2006) Gastrointestinal bleeding and protein-losing enteropathy after the fontan operation, The American Journal of Cardiology, Volume 98: 666-667.
「フォンタン術後の消化管出血と蛋白漏出性胃腸症」

要旨:フォンタン術後に蛋白漏出性胃腸症(PLE)を発症した患者において、消化管出血をおこした症例はこれまで報告がなかった。我々は、そのような症状に見舞われた3名の患者について報告する。この出血は、PLEをきっかけとして起こり、視覚的に確認できた。そして、貧血を招き輸血を必要とした。侵襲的な検査では、消化管内の感染は見受けられなかった。したがって、この原因不明の消化管出血は、おそらくPLEの延長上に生じたものであると考えられる。

本文:3名の患者は、4歳, 12歳, 40歳。それぞれの心疾患はUnbalanced atrioventricular canal(心室中隔欠損?)、両房室弁左室挿入(左室型の単心室症)、三尖弁閉鎖症(左室型の単心室症)。4歳、12歳の患者は心外導管フォンタン、40歳の患者はAPCフォンタンを受けた。ヘモグロビン値は前二名が10g/dl台、3人目が8台。3名ともPLEを発症し、慢性的血便でそれにより貧血を引き起こしていた。患者3は、投薬治療により改善し、PLEと出血がおさまり輸血も一年以上していない。患者1は、投薬治療だけで一時的に回復した。しかし、房室弁修復術後、ふたたびPLEと出血が再発し心臓移植を受けた。移植後はPLEと出血がおさまった。患者2は薬物治療では効果がなく、最終的にフォンタン接続を取り除いた。術後紆余曲折があったものの、今は回復に向かっている。下痢は止まり、貧血はおさまり、腹水も改善したものの、アルブミン値は依然低いままである。
 フォンタン術後の患者で、PLEと消化管出血を示した症例は今まで報告されていない。たとえば、114名のPLE患者について調べた国際的な多機関による研究でも、出血は見られていない。
 出血の原因として、PLEの原因ともなる静脈圧の上昇が、毛細血管からの粘膜の出血を引き起こした可能性が1つ考えられる。しかし、上記の国際研究でも静脈圧が高いPLE患者はおり、今回の3名が特別高い訳でもなかった。さらに、フォンタン接続の閉塞や肺動脈狭窄といった症状も見られていない。静脈圧上昇を原因と考えるのには無理がある。
 感染やそれによる炎症も原因に考えられるが、出血とPLEが両方でる患者がこれほどまれなのは筋が合わない。血液凝固障害の原因も考えられなくもないが、通常凝固障害は出血よりも血栓症になるのが特徴的である。3名は正常な凝固指数を示していた。内視鏡や血管造影では検出できないような顕微鏡レベルの出血が起きているのかもしれない。原因は複合的であるが、この謎の消化管出血はきわめてまれなもののPLEの延長線上と見られる。
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 結論としては、極めて稀な症例であり、原因不明なようだ。その後も類似の報告例がでてこないので、相当稀なことなのだろう。幸か不幸かおいらはその稀な症状がでてしまった。おいら自身原因となるような思い当たるものはなかった。ただ、入院する半月ほど前くらいから、胃腸がもたれ、だるくて気力がでなかった記憶がある。便は下痢でもなく、色が黒くなるような血便でもなかった。とはいえ入院する前は年末年始のころだったので、暴飲暴食とまではいかないまでも、無茶な食事をして胃腸に負担をかけていたかもしれない。また、先天性心疾患の患者にとって冬の寒さは厳しく、血行動態を悪くしてしまう。今までも冬に体調を崩すことが多かった。さらに、PLEを治療するためのステロイド剤もかなり減ってきた頃だった。そうしたことが重なって、胃腸や他の内臓器官に十分血液を送ることができず、消化管がうっ血してふたたび炎症をおこし、PLEと出血を発症させたかもしれない。ただ、出血の方は、入院後に急激に悪くなったので、入院によるストレスと食事と度重なる内視鏡検査などが悪化させたのではないかと思う。入院当初は、医師の方も一週間ほどの入院と見込んでいたので、かなり想定外の悪化だったのだろう。
 稀なケースではあるが、稀だけに治療に難渋し、地獄を味わう羽目になった。似たような症状がでてきた方がおられたら、どうか早め早めの対応をお勧めしたい。

医者が望む理想の患者

今日は山田倫太郎くんの「患者が望む理想の医者:8か条」について、おいらなりのひねくれ解釈をしてみよう。彼は、先天性の複雑心奇形を持ち、たびたび手術を受けながら今も闘病を続ける中学生である。山田くんと8か条については、日テレの24時間テレビで紹介され、本も出版されているので、ご存知の方も多いだろう。これをいうとおいらのことがいろいろばれてしまうが、実はおいらは彼と同じ病院にかかっていて、時々外来で見かけることがある。といっても、特に話しかけたりすることはなく、面識はない。

 彼の8か条は、先天性心疾患の患者に限らず、全ての患者に当てはまることだろう。とくに、彼やおいらのように、度重なる長期入院を経験しているものにとっては、切実にまさにその通りと思うものばかりの8か条である。彼の8か条は、患者視点で患者から医者に向けて述べている。そこで、おいらはこれを逆に解釈してみることにした。つまり、医者視点で医者から患者に向けての8か条に解釈し直してみたのだ。それでは早速、そのひねくれ解釈を説明したい。

 

第1条:医者というのは、患者さんの病気だけを見ていれば良いというものではない。

 

これを逆に解釈すると、「患者というのは、医者に病気だけを診てもらえばいいというものではない。」ということになろうか。病気は複合的な要因で生じるものである。だから、病気そのものからくる痛みや苦しみだけを伝えていても、病気は治るものではない。食事、日常生活、精神状態、家族や知人との人間関係など時には赤裸々に話す必要もある。いくら薬や治療で痛みを抑えても、ろくな食生活をしていてはすぐに再発してしまう。どのような食事をすべきかなどよく相談する必要がある。まずい病院食がいやで隠れてカップ麺などを食べている患者も多い。それを正直に話すのは後ろめたいならば、むしろ遠慮なく食事をおいしくしてもらうよう求めるのだ。長引く治療や入院で、精神が不安になったりストレスを感じていれば、それも遠慮なく伝えるべきである。医者の判断材料を、検査結果の数値だけにしていてはだめだということだ。数値には表れない、体や心の状態も伝えることが大切である。

 

第2条;患者さんは、誰もが、自分の受ける治療や検査等に、不安を抱えている。

 

これを逆にすると、「医者は、誰もが、自分が行う治療や検査等に、不安を抱えている(完全な自信はない)。」ドクターXのように、完璧な自信を持つ医者などまずいないのだ。とくに、先天性心疾患のような難病の場合には、治療方針が確立していなかったり、先行事例がなかったりして、どのような治療が最適か答えがない場合も多い。当然、治療も手探りになる。だからときには、効果がなかったり悪化しさえする。恐ろしいようだが、そのことは肝に銘じておいた方がいい。

 

第3条:患者さんは、いつ苦しみ出すか分からない。

 

医者も、いつ苦しみ出すかわからない。これは医者も病気になるという意味ではなく、医者も治療が定まらず悩むことがあるという意味だ。患者に自信のない顔を見せる医者は頼りがいがなく不安だが、もし患者側にゆとりがあれば、そういうときは相談し合ってお互いに納得いく治療方針を探っていくしかない。患者とよく話すことで、医者の方も楽になることもあるだろう。

 

第4条:入院している患者さんにも自分の生活がある。

 

医者にも、自分の生活がある。これは文字通りで、医者も家族がいて休日がある。今日は休みで病院にいないからとせめてはいけない。それから、患者が入院中も自分の生活を維持したいのであれば、それも正直に相談したらいい。たとえば、夜中の検温は睡眠の妨げになるからやめてほしいとか、指につけるサチュレーションモニターはうっとおしいとか。意外と聞いてくれるものである。

 

第5条:入院している患者さんにとって、ベットは我が家のようなものだ。

 

だから、医者や看護師はカーテンのしまった患者のベットを訪ねるときは、それなりに気を使っているはずである。他人の家に入るもののようだからだ。時には着替え中などで、都合が悪い場合もある。そのときは出直す訳だが、すぐにまた押し掛けては迷惑と思われるだろうし、どのくらい時間が経ったら出直していいか悩みどころである。そうしているうちにも、別の患者の診察などがあり、いつの間にか数時間経過していることもある。そんなことはおかまいなく、おいらのようなモンスター患者は、なかなか訪ねてきてくれないとイラついてしまう。やはりこういうときも、看護師さんなどを通して、また来てもらえるか伝えたら良い。

 

第6条:患者や、患者の家族は、手術や検査の結果を心待ちにしている。

 

だから、結果がでたらすぐに持ってきてくれるのが望ましいが、現実的にはなかなかそうならない。血液検査の結果が翌日になっても持ってきてくれないことも多々ある。おいらはその度にイライラしてしまうが、医者も人間で忘れることがあると思ってしつこく結果を要求していくしかない。医者が結果を持ってきやすくする一つの方法として、持ってきてくれるたときはオーバーなほどうれしさを表現するのはいいかもしれない。人にプレゼントをあげたとき、すごく喜んでもらえたらまたあげたくなる。料理を作って、とてもおいしそうに食べてくれたら、今度はもっとおいしいものを作ってあげたくなる。逆に、そういうリアクションがないと、やりがいがなくなる。検査結果も、いい結果であれ悪い結果であれ、持ってきてくれた喜びを伝えられるとよい。

 

第7条:患者さんとの関係は、治療が終わればおしまいという訳ではない。

 

医者との関係も、治療が終わればおしまいという訳ではない。たいていの患者は、病気が治れば医者や病院と疎遠になる。しかし、先天性心疾患のような難病は、治療は永遠につづく。だから、手術などで一時劇的に回復して、病気が治ったように感じても、その後の定期検診などを怠ってはいけない。おいらは、それを怠り、子供の頃の最後の手術から二十数年診察を受けずにいたため、その後手遅れなほど合併症が進んでしまった苦い教訓がある。

 

第8条:医者はどんな状況でも諦めてはならない。

 

患者もどんな状況でも諦めてはならない。おいらは、地獄入院のときなどでとてもつらいとき、もう死にたいと思ったりしていたので、こんなこといえる立場じゃないが、やはり諦めたら病気は一気に進行する。患者側も治療に向けて、日々努力を惜しまないことだ。とはいえ、苦行のようにつらい治療やまずい食事などを我慢して続けていては、精神が持たずそれはそれで病気に悪い影響がある。自分にとってもなるべく苦しまず、継続できる範囲で努力するのが良いと思う。そしてどうやっても治療がうまくいかず、もう手を尽くしたと覚悟したときは、残された時間をどう生きるか考えたらいい。それは、生きることを諦めたことにはならない。

 おいらは、幸運にも地獄入院後は治療が効をそうして、今は順調に回復している。しかし、いつかまた下降に転じるだろう。そのときはもう回復できないかもしれないと覚悟している。自分の寿命が人ほど長くはないことも覚悟した。でも、息子が成人するまでは生きたい。それまでの時間をどう生きるか、日々考えている。

 おいらのひねくれ解釈をまとめると、医者と患者はよき同士であるべきだということだ。病気の治療は、両者の信頼と協力関係によって成り立ち、どちらか一方だけが頑張ったり、闘うものではない。治療のことは医者に任せたでは、実は医者も困ってしまうのである。多少うっとうしく感じられようとも、患者も積極的に治療方針に口を出していくくらいがいい。そのことを実感したエピソードはまたいつかお話ししたい。

心臓が教えてくれる

前回自分なりの経験に基づく教訓を紹介したので、今回ももう一つそんな教訓についてお話ししたい。

 自分に迫る危機や困難がどのくらい深刻なのかはなかなかわからない。それは頭で思っているよりも実際はもっと深刻だったりそうでもなかったりする。しかし、おいらの心臓は、身に迫る危機を頭以上に正確に感じ取ることができるのだ。

 例えば、仕事などでいろいろな締切に追われることがある。いくつもの締切ごとを抱えていると気持ちは焦ってくる。そういう場合、まず冷静になってどういうスケジュールで仕事を片付けていくか計画を立てる。計画の見通しができさえすれば、あとは焦らずに計画通り仕事を勧めていけばよい。もう締め切りなんて怖くない。余裕だなんて思ったりする。ところが、たいていスケジュール通りには進まない。頭で、スケジュールに余裕があると思うと、新たに別の予定を入れてしまったり、違うことを始めてしまったり、先延ばしにしてしまう。あるいは体調を崩したり、急な用事が入ったりしてしまうことある。そして気づけば、締切ギリギリになって全然終わっていないという事態に陥る。結局頭で考えた計画やゆとりなどほとんど信用できないのである。頭では、締切が迫っていることをそれほど深刻に捉えていなくても、実際はかなり危機的なことになっていることがしばしばあるのである。

 しかし、こういうときおいらの心臓は、極めて敏感に危機を感じ取ってくれる。頭ではまだ間に合うかななんておもっている時でも、なぜか心臓はドキドキと動悸がして焦り始める。事態が深刻になればなるほど、心臓は不整脈でもなったかのごとくバクバクと脈打つのだ。それは、締切がまだ一週間とかもっと先にあって全然間に合いそうなときでも、心臓が危機と感じればドキドキし始める。こうしておいらは、事の重大さ、深刻さに気づくことができ、何度も心臓に救われたことがある。なぜ心臓が正確に危機を感じ取ることができるのか理由はわからないが、おいらの心臓は健常な人よりずっと余裕がなく普段から全力に近いパワーで動いている。だから、ちょっとでも無理をしないといけないという状況になると、どの器官よりもいち早く焦り始めるのかもしれない。

 締切だけでなく、瞬間的に差し迫る危機にも心臓は強く反応する。たとえば、危ないものが自分の方向へ急に飛んできたり落ちてきたりしたとき、心臓はズキッーーと締め付けられる。転びそうになったり、高いところから落ちそうになったりしたときもそうだ。それから、怖そうな人と目を合わせてしまったり、ふと重大な過ちを犯していることに気づいたり、忘れ物をしたことに気づいたりしたときも、心臓はくうーーと締め付けられる。まあ、これらはおいらだけでなく多くの人がそうかもしれないが。

 今おいらは2つ締切ごとを抱えている。どちらもまだ一週間以上先で、2つなんてたいしたことはないのだが、どちらもそれなりに時間のかかる仕事だ。ほかにも締切はないものの、研究の論文を書いたりとなるべく早く進めないといけないことがある。幸いにもおいらの心臓はまだドキドキしていない。とりあえず、まだゆとりはありそうだ。とはいえ、余裕こいてこんなふうにブログ書いたりして現実逃避していると、心臓が焦り始めるだろう。今のおいらの心臓は以前よりさらにゆとりがない。心臓が焦り負担が大きくなれば、それを引き金に一気に体調がくずれ、最悪また入院ということも大いにあり得るのだ。だから、心臓がドキドキし始める前に、仕事を片付けたいと思う。心臓よ、これからもおいらに危機を教えておくれ。 

我慢し続けると人生が終わる

地獄旅行を再開しよう。

 おいらには、自分のこれまでの経験に基づいた教訓がいくつかあり、それらの教訓はとても信頼している。そんな教訓の一つに、「どんなつらいこと痛いことも、我慢し続ければ終わる」というものがある。

 例えば、心臓病患者が受けるカテーテル検査。足の付け根や腕にある太い血管からカテーテルの管を挿入して心臓まで到達し、心臓内部の血圧などを測る検査だ。ある程度の年齢になれば、たいてい局部麻酔で検査をおこなう。おいらは、13歳のとき受けたカテーテル検査がとても痛くてトラウマになっていた。しかし、ここ数年ですでに5回ほどカテーテル検査を受けることになった。どれもとても嫌なものだったが、じっと我慢していれば必ず2時間ほどで終わった。また、数を重ねるごとにトラウマが解消され、大分恐怖心がなくなってきた。

 もっとたいしたことないこと、たとえば足を擦りむいた傷とか、頭痛、腹痛、吐き気、風邪など、体が苦しいことも我慢して時が経てばいずれ回復する。体的なことだけではない。終わりの見えないような膨大な仕事も我慢してやり続ければいつか終わる。誰かに怒られたり、喧嘩したりしても、我慢していればいずれ仲直りして気分が晴れる。人生に絶望を感じた失恋であろうと、そのうち気持ちが開き直れる。そういう経験を積み、つらいときにはじたばたせず我慢して耐えるのが一番だと感じていた。

 しかし、地獄入院はその教訓の信用が揺らいだのだった。入院して以来、体調はますます悪くなっていった。それに対する治療も、対処療法の行き当たりばったりに感じてならなかった。貧血の度合いが進めば輸血をし、血中蛋白が減ればアルブミンなどの補充。それを繰り返した。便の色はますます黒く赤くなり、胃腸も痛み吐き気が続いた。そのため、食事は、おもゆ、具無しスープ、ジュースなど汁状のものだけにかわり、その後栄養が足りないということで激マズの栄養補助ドリンクになった。病院で出される栄養補助ドリンクは、基本的に非常にまずい。おいらが飲んだのは、はじめペプチーノ、次にエンシュアHだった。胃腸に重い病気を抱え普通の食事がとれない人は、こうした栄養補助ドリンクを長期に飲んだりする。が、多くの人がそのまずさを訴えており、中には数年にわたって飲み続けている壮絶な苦しみをブログに綴っている方もいる。おいらは、たかだか数週間だったが、それでも耐えられないまずさだった。医者にそのまずさを訴えても、頑張って飲みましょうとだけいわれ相手にされなかった。

 ほかには、胃腸の粘膜を保護する飲み薬としてアルロイドGという薬を飲まされた。これは一回20mlほどを水無しで飲む薬で、緑色をして少し青リンゴのようなメロンソーダのような甘い香りがするが、ただの液体ではなくのもすごくドロドロしているのである。飲み込もうにも全然ノドの奥に流れていかない。飲むとき、ぬーーーーっと音でもするかのようにねばりつく。生命の危機を感じるほど不味い。あまりの不味さに、目から涙が吹き出すほどであった。おいらは、たった一回でノックアウトされ、もう飲まないとかたくなに拒絶した。激マズ栄養ドリンクももうやめてくれと拒絶し、それならばと胃瘻か鼻から管を通して栄養剤を流し込む案まで浮上した。

 しんどくてほとんど一日寝たきりで、ろくな食事もとらなかったため、日に日においらはやせ細っていった。血管は糸のように細くなり、連日の採血検査ではうまく血がとれず2度3度と刺すことがほとんどだった。うまく血管に刺さらないため、刺した後針を中でぐりぐりと動かして血管を探り、それがまた痛かった。その度に内出血して、両腕は無数の内出血痕で覆われた。比較的痛みの少ない腕の血管はほぼ全滅したため、手の甲や足の甲でも注射した。点滴のルートも2、3日でダメになり、何度も刺し直した。そのときも採血同様2度3度刺されたり、ぐりぐりされた。苦しい体調の中、激マズのドリンクを飲まされ、針で何度も刺され、まるで拷問であった。

 医師の対応にも次第に不信感が募っていった。その頃入院していたSD病院の主治医の先生は、滅多に診察に来なかった。来るのは、担当医の若い先生と中堅くらいの先生だった。若い先生は誠実な方だったが、自分の判断で治療を変更することは難しいらしく、上司の指示に従って治療にあたっていたため、おいらの訴えはあまり聞き入れられなかった。中堅の先生は、一見穏やかで優しい口調であったが、いつも頑張りましょうねというだけで、治療の方針などの説明を求めても、ろくに説明してくれなかった。どうせ説明しても素人にはわからないという見下しの態度をひしひしと感じた。おいらを見る目にも、もはや手を尽くしたかのような諦めのような哀れみのような雰囲気を感じさせた。

 そんな状況の中、追い討ちをかけるように、おいらを腰痛が襲った。あるとき床に落ちた物を拾おうとして、グギッと腰に強い痛みが走ったのだ。すでにほとんど寝たきりの状態だったが、これでさらにベッド上から動かなくなった。もうこのまま寝たきりでここで死んでいくんだろうと思い始めた。その方が、苦しみから解放されて楽だとも思ったが、これまでの人生を思い起こすと悔しくて仕方なくなってきた。なんでここで死ななきゃと行けないんだろう。全力で支えてくれた家族の労力や思いはどうなるのか。まだ探求したことはたくさんあるのに、道半ばで研究人生が終わってしまうではないか。それから、昨年フォンタン再手術を受けたとき、NC病院の医師や看護師さんは私の命を全力で助けてくれようとしてくれた。40近い年齢でPLEを発症している中でのフォンタン再手術は大変リスクが高い。にもかかわらず、心臓外科の先生は手術を引き受けてくれた。そうした努力がこんな簡単にあっさりと無駄になってしまう。それらを思うと死んでも死にきれず、悔しさとともに強烈な怒りが込み上げてきたのだった。

 これまで心の頼りにしてきたおいらの教訓に従っていてはだめなのだ。ただじっと我慢して耐えているだけでは、死んでしまう。だとしたら教訓をやぶり最後にもう一踏ん張りじたばたして、医者に怒りのたけをぶつけようと決意したのだった。後で冷静になってみると、おいらはそのときかなり凶暴で暴力的な態度だったろう。事前に怒りの質問状を渡し主治医との面談にのぞんだ。

 面談の日は、妻と母、それにおいらが信頼する看護師さん、若い担当医が同席した。面談が始まる前からおいらはすでに震えていた。面談の間、妻が横に寄り添いおいらの背中を優しくさすってくれた。主治医が登場した。ちょうど運悪くおいらはベット上で尿瓶でおしっこをしている最中だったが、主治医はそのことに気づかずおいらの横に座って早速面談を始めようとした。おいらは、その無神経さにますます怒りを募らせてしまったが、とりあえずは主治医の説明を一通り聞くことから面談は始まった。

 おいらの病態、これまでの治療について説明を受け、過去の事例について報告した論文も紹介された。PLEがさらに進んだ腸管出血の事例を報告した2006年のアメリカの論文である。病態も治療方針もおいらがすでに理解している範囲だった。論文は知らなかったが、これだけ時間かかってたった1つの論文しかみつからないのか、とさらに疑念を深めた。NC病院の医師との情報共有も十分できていなかった。とてもおいらの病気に真剣に向き合っているとは感じられない。こっちは命かかっているんだ、死ぬ覚悟なんだと悔しくて仕方なかった。今度はおいらが、事前に渡した質問状の内容を改めて口頭で説明した。全身が震え、言葉は途切れながらゆっくりとしか話せなかった。小さな声で単語一つ一つを息を吐くように出した。こんなところで死にたくない。悔しい。と、感じるままの感情も伝えた。さすがに医師はうなだれてしまい、しばらく沈黙が続いた後、NC病院に戻りましょうという結論になった。やっと地獄病院から脱出できることになったのだ。

 その日から、ステロイド剤のプレドニンも増量された。それまでなぜ少ない量でとどめていたのかはっきり理由を覚えていないが、プレドニンが15から40mgに増えると体調は一気に楽になった。胃腸の痛みと吐き気はずっとおさまり、だるさしんどさも減った。プレドニンは副腎皮質ステロイドともよばれ、副腎皮質ホルモンとして働く。このホルモンが不足すると、精神的に落ち込んだりうつになったりと、ようはやる気がなくなってくる。プレドニンが増量されたことで、おいらは精神的にも一気に前向きになった。これまでのネガティブな思考、医師への怒りが何だったのだと自分でも疑問に思うほどだった。だから、主治医の先生への怒りは、半ばうつの感情の八つ当たりだったろう。冷静になれば、もっと落ち着いた面談をすべきだったと思う。申し訳なかったと反省している。

 SD病院に転院してから約3週間。ようやく古巣のNC病院に帰還することができた。本当に生き返る思いだった。転院の際の移動は、Dr.カーに乗り、若い担当医の先生が付き添った。この先生は、自分が先天性心疾患の知識がまだ十分になく、よっぽどおいらの方が自分の病態をよく理解していることを認め、自分の知識不足や十分に治療を行えなかったことを謝ってくれた。かえって申し訳なくも感じたが、うれしかった。いい先生だなと思えた。車の中でいろいろなことを話しながら穏やかに時間は過ぎ、NC病院に無事戻ったのだった。

 これで、地獄入院の一つの山場は終わりである。しかし、この後まだ大小いくつかの峠が待ち構えていたのだった。この続きはまた今度。

かわいそうな感情

地獄入院の話はまだまだ続くので、ちょっと箸休めとして別の話題を書くことにする。

 先日、NHKのバリバラという番組で、障害者を感動の対象にすることをテーマにしていて、これは同時刻の裏でやっていた日テレの24時間テレビの批判として、かなり評判だったようだ。障害者が障害にめげず頑張る姿をテレビ的に作る出すことで、視聴者が感動して勇気づけられるというメディアのあり方は、障害者にとって差別的だということである。感動の対象になる障害者は、結局健常者にとってかわいそうな存在であり下の人間であるとみられてしまうのである。

 実際は、障害者だからといって日々そんなに頑張っていないし、おいらのブログでも書いているように愚痴は言うし弱音ははくしワガママも言う。障害にめげずにけなげに生きるどころか、思いっきりめげたりもするし、けなげに生きようという意識もない。それをテレビが演出して感動話に仕立てることは、ある種の虚構でありやらせである。こうして、感動の対象物としてさらけ出されることを「感動ポルノ」と呼ぶそうだが、それは確かに不快である。

 NHKと日テレどちらのメディアのあり方が良いかは、ここでは触れない。ただ、最近の24時間テレビは、正月番組みたいに単なるどんちゃん騒ぎのお祭り番組で何にも中身がないので、まったくみない。おいらがここで触れてみたいのは、障害者はかわいそうな存在かということである。おいらの結論から先にいうと、かわいそうな存在と思われても仕方がないと思っている。むしろ、人間なら生理的に本能的にかわいそうと思ってしまうのではないだろうかという気がする。

 障害にかかわらず、苦しい思いをしている人を見れば、ほぼ誰しも悲しくもなりかわいそうと思うのではないだろうか。入院していて、他の患者さんが苦しそうにしていればこちらもつらくなるしかわいそうと思ってしまう。特に患者が小さな子供だと、なおさらである。自分の子供が風邪などで熱にうなされていればかわいそうに思う。人間だけでなく、動物や時には物にさえかわいそうという感情がわくこともある。たとえば、タコのメスが卵を守り続けて最後はボロボロになって死ぬ姿などかわいそうと感じてしまう。車を廃車にするとき、愛着があるだけにかわいそうと思ってしまう。そうしたかわいそうという感情は、必ずしも相手を下にみているというふうにはならない。何でも食べられる人が好き嫌いの多い人を見て、人生損しているなかわいそうと思ったり、美的センスがなくていつも着ている服がダサい人を見て、かっこわるいなかわいそうと思うのは、多少見下しがあるかもしれない。そんな訳で、かわいそうという感情にも見下しの感情があったりなかったりいろいろなのだ。障害者をみてかわいそうと思う感情も同じく、見下しが含まれるときもあればないときもある。だから、一括りでかわいそう=見下しとは言い切れない。

 かわいそうという感情と同様に、変な物見慣れないものを見たいという欲求も自然なことだと思う。街で障害者に出会えば、たいていの人はなるべくじろじろ見ないように心がけるだろう。でも実際は見たいはずだ。子供はお構いなしにじろじろ見る。おいらも意識していなかったが、かなりじろじろ見ているようだ。障害者にかかわらず、レストランで大きな音を立てて皿を落としたりしたときとかもかなり見てしまう。変な服装やちょっと怖そうな人もみてしまう。そして、おいら自身杖をついて歩くようになって以来、見られる対象になった。

 でも、おいら個人はじろじろ見られても特に気にしない。むしろ、意図的に見ないようにしている人のほうが気になってしまう。おいらが思うに、見慣れない物はよくみて見慣れた物にすればいいのだ。ある程度みれば、見飽きるだろう。障害者など社会的なマイノリティーの人をよく見て、自分にとって見慣れた身近な存在となればいいと思う。

 ところで、昔の24時間テレビも確かそうだったと思うが、以前は障害だけが対象でなく、世界の超貧困地域の子供たちを取材したり、社会的弱者の現実をかなり真面目に取材していた。24時間テレビだけでなく、同様なドキュメンタリー番組が他の民放でもそれなりに流れていた。おいらは、フジテレビの類似のドキュメンタリー番組を見たときがかなり衝撃的なものとして記憶に残っている。フィリピンの超貧困地帯に暮らす人々を取材した内容だったが、見終わった後とても重い気持ちになった。感動なんて感情はなく、かわいそうも通り超して、ずしりと暗い気持ちになったのである。見たことを後悔するくらいであった。本当は、障害者や貧困者など社会的弱者の現実をしれば、そうした重い気持ちになるのであろう。とても感動などしていられないのである。視聴率はとれないだろうがお祭り騒ぎはやめて、そうした現実を伝える番組内容になればいいのではないかと、おいらは思う。

 戦争ドキュメンタリー番組も最近は減り、さらに悲惨な死体映像も滅多に流さなくなった。おいらが子供の頃は、結構放送されていて、トラウマになるほど怖かった。だから、おいらは戦争は理屈で反対という以前に、とんでもなく恐ろしい存在として生理的に拒絶してしまうのである。障害も戦争も現実を知ることは、時にとてもつらく怖く重いが、それを伝えることが今のメディアには欠けているように思う。

底なし地獄

NC病院からSD病院へ二度目の転院をした。年初めにNC病院に入院してから4週間が経とうとしていた。病状はますます悪くなり、便の色は真っ黒のまま、さらには赤く血の色に変わってきた。相当量の出血が起きているようである。転院してまもなく、3度目の内視鏡検査を受けた。今度は、口からの腸管上半分とお尻からの大腸を含む腸管下半分を二日にわたって徹底的に調べた。すでに腹痛と吐き気で数日絶食状態であったため、まずい下剤は500mlほどで済んだ。しかし、内視鏡検査の途中、血圧が下がり検査は中止され、後日再び受けることになった。その間食事はお粥食がでた。お粥は初めはおもゆから段階的に固くなっていった。米に関してはそうした配慮がなされていたが、なぜかおかずはごく普通だった。そして、中止になってから4日後再び内視鏡検査を受けた。今度は食事が再開されていたため、下剤を1L飲んだ。ただ、日誌にはそう記録してあるが、このころの記憶があまりない。ただお腹の痛み、気持ち悪さ、吐き気が毎日記録されていた。
 内視鏡検査の結果、今回も目立った出血部位を見つけることはできなかった。どうやら腸管表面広域にわたってじわじわと出血しているようであった。出血部位がピンポイントの場合、その部位を焼くなどして出血を止める治療が行える。しかし、おいらの出血は腸管表面のいたるところからであったため、そうした治療が行えず、投薬と輸血によって徐々に治るのを待つしかなかった。血中蛋白が下がればアルブミングロブリンの補充を行い、ヘモグロビンが下がれば輸血するという対処療法で、症状の改善を待つばかりの日々が続いた。しかし、症状は悪くなるばかりだった。夜も眠れず、夜中の病棟を徘徊した。すがるような思いでナースステーションの前のソファーでうなだれて座っていると、看護師さんがきてくれたがどうすることもできず、結局自分のベッドに戻って朝が来るのをじっと待つしかなかった。
 日中、太陽の日がさし人々が活発に動いているときは、少し気持ちにも活気がでてくる。食事をしたり、テレビを見たり、売店に行ったり、家族が見舞いにきてくれたりと、それなりに時間をつぶすことができる。しかし夜は、暗闇の中で横になることしかやることがなく、時間がとてつもなく長く感じられた。一時間ぐらい経ったかと思って時計をみると数分しか経っていなかったりして、永遠に夜が続くように思えた。横になると息苦しく、そのまま闇の奥深くに落ちていくような恐怖を感じた。精神的にも肉体的にも限界だった。でも、おいらは痛みや苦しみに人一倍弱い。だから、本当は対したことないのに単に気持ちが負けているだけだと思ってがまんした。いや本当は、我慢できず家族や看護師さんに連日弱音を吐いていた。そんなとき、入院している患者さんから、「大丈夫か。すごいつらそうだぞ」と声をかけられた。その言葉で、他人からみても悪そうなんだとわかり、虚勢を張っていた気持ちがすっととれ、力が抜けてそのまま床に座り込んでしまった。ようやく、看護師さんもおいらの限界を察知し、緊急で個室へ移され重看護体制になった。だが、個室に移ってからが究極の地獄の幕開けであった。このまま、この個室で死ぬであろうと本気で覚悟し始めた。死んで楽になりたいという気持ちはますます強まったが、妻や子を思いやり残した研究を思うと、最後にもう一踏ん張りすべく、おいらは医師に戦いを挑むことを決意したのだった。