ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命についてつづるよ。

痛みでよみがえる記憶

今年の始めから、朝起きてから午前中の体調がすぐれない。その傾向は、地獄入院から退院した現在も続いている。大体は朝は寒気がして、寒気が酷いときには吐き気もある。体がだるく脈がやや速く息苦しい。朝食後少し横になって休むことも多いが、なかなか良くならない。しかし不思議なことに、いつもお昼ぐらいになると自然とよくなり楽になる。

 最近は、体に筋肉や脂肪がついてきたせいか、寒気は大分軽減された。しかし冬になり寒くなってきたためか、頭が重くなり軽く頭痛がするときがある。その頭痛で、子供頃は偏頭痛でかなり悩まされていた思い出がよみがえった。子供のときの偏頭痛はかなり激しい痛みで、痛みで目が覚めた。痛みのために強い吐き気を伴い、何度も吐いた。鎮痛薬を飲んでも吐いてしまううえ、乱用したために効かなくなった。吐くとほんの少しの間だけ痛みが和らぐので意識的に吐いたりもした。しかし、しばらくするとまた痛みがぶり返した。それを何度か繰り返しているうちにくたびれてうたた寝し、お昼頃に目覚めると痛みが治まっているのだった。そんわけで、偏頭痛があるときは学校を休んでいた。

 偏頭痛は12歳の時に受けたフォンタン手術の後がとくにひどかった。退院後半年近くほぼ連日のように頭痛に苦しんでいた。フォンタン循環に変わったことで体がまだなじでいなかったのかもしれない。時には痛みが強すぎて、緊急外来に駆け込んだりもしたが対処法がなかった。定期外来の診察のときに、頭痛のことを手術の執刀医に話したらなぜか怒られた。手術に問題があったかと指摘したように思われたのかもしれない。その医師にとっては、おいらの手術は完璧で芸術作品のようなものだったらしい。

 子供の頃の手術は、その当時心臓外科で日本で最高レベルと称されていたTJ病院で受けた。その医師は心臓外科のトップに位置していたので、いまでいうゴッドハンドを持つスーパードクターだった。せっかく神が完璧な手術したのに、偏頭痛を起こすのは、おいらが弱気になっているせいだ。もっとがんばれ、という激励の意味もこめて怒ったのだろう。幸いにして手術から一年くらい経過した頃には偏頭痛もほとんどなくなった。

 余談だが、今ではあり得ない話かもしれないが、診察のとき神の白衣のポケットはいつもお礼の包みでこんもり膨らんでいた。先天性疾患の子供が手術で命を救われたのだから、親としてはお礼をせずにいられなかったのだろう。おいらの親もおそらく渡したと思う。そんなのが当たり前の時代だった。

 手術後は、偏頭痛もすっかりなくなり心臓も体も抜群によくなり薬も一切飲まない黄金時代だった。しかし20数年が過ぎた頃、おいらにフォンタン術後症候群と呼ばれる新たな症状が発症した。おいらの第2の闘病時代の始まりである。第2闘病での主治医は、すぐにおいらにフォンタン再手術を勧めた。当初はその先生のいるNC病院で手術を受ける予定だったが、いろいろ日程が合わなかったりして古巣のTJ病院で受ける話に変更された。手術に先立って、TJ病院で一度カテーテル検査を受けることになった。20数年を経て久しぶりに訪れるTJ病院だった。

 TJ病院の外来棟はすっかり新設され、シティーホテルのロビーのようにきれいだった。しかし、入院病棟は子供の頃と全く変化がなかった。病室の各ベット脇にある木製棚は当時のままで、恐ろしく年期を感じさせた。壁に貼られた折り紙などは20数年前から張られていたのではないかと思うほど、色あせてホコリをかぶっていた。病棟は全体的に薄暗く、冷たく青白い蛍光灯の光に照らされていた。病棟にあるエコー検査室も一切変化がなく、壁や天井に浮き出たシミまでも鮮明に思い出されるような感じだった。横になって検査を受けていると実はまだ自分は子供のままで、大人までの今までの期間は全部夢だったのではないかとすら思えた。

 とはいえ、子供の頃とは違う点もあった。まず、同じ病室に入院していた人は皆大人だった(一人だけ高校生)。一人はおいらより年配で、医者にとめられているのにも関わらず、酒を飲んだり無茶をして入院をしていた。もう一人は、おいらと同じように大人になり心臓の調子が悪くなってしまった人だった。高校生はかなり元気そうだったが、やはり医者や看護師さんに隠れてお菓子やカップラーメンを食べたりして無茶していた。また、ときどき彼女が見舞いにきて、ベッドに潜っていちゃついたりしていた。病室の患者は皆、その音に聞き耳を立てていた。リーダー格の年配の方が、彼女がかえった後高校生に何をしていたかなどいろいろ聞いたりしていた。

 TJ病院の循環器内科には、かなりセクシーな女医さんもいた。一度先天性心疾患の学会にいったときその女医さんを見かけたが、背中がぱっくり割れたドレスを着ていた。当然若いドクターがたかっていた。入院したときも、おいらの担当ではなかったがその女医さんがいた。あるとき検査を受けていると、たまたまその女医さんも検査室にいて、パソコンに向かっていた。相変わらず米倉涼子のドクターXのような格好をしていて、太ももまで露出しながら足を組んで座っていた。おいらの担当医は若い男性ドクターだったので、すぐにそのトラップに引っかかり、おいらの検査など上の空で米倉涼子に声をかけていた。

 こうしてTJ病院で入院してカテーテル検査を受けたものの、その後さらに話が変わり、結局フォンタン再手術はNC病院で受けることになった。カテーテル検査のときは、ミスって穿刺部で大量の内出血をおこし、腹部に20cm以上もの内出血痕ができた。しばらくはめちゃめちゃ痛くて、退院後も何日か起き上がれないほどだった。ばかばかしいことばかりで、全く意味のない検査入院となったが、子供のときから変わることがない古びた病棟が現実感を薄めてくれて、今では夢のような思い出になっている。しかし朝頭痛がすると、その思い出が記憶された脳細胞が刺激されるのか、現実感を帯びて思い出されるのだった。

ハイゼントラは依然と続く

このブログにアクセスしてくれる方は、ハイゼントラで検索してきた方が多いらしい。というわけで、今日はおいらのハイゼントラ体験の話をしたい。

 おいらは、昨年のフォンタン転換手術の後からハイゼントラを始めた。入院中に何度か練習をした後、退院後も自宅点滴で続けている。最初は週1回10mLだったが、消化管出血の地獄入院のときから、血中免疫グロブリン(IgG)やアルブミン量がなかなか改善しないため、週1回20mLに増量された。地獄入院の退院後は順調に回復し、10月から2週に一回20mLに減量された。ハイゼントラ自体はIgGなのだが、なぜかハイゼントラを点滴するとアルブミン量も共に改善する傾向がある。ハイゼントラは遅効性で点滴後数日間じわじわと効いてくるという利点がある。血管内に直接アルブミン免疫グロブリンを点滴補充する方法は、その瞬間だけの効果なので入れたその日はいいが、すぐにまた下がってしまう。ハイゼントラを始めたことにより、これまではたびたび入院して補充を受けていたのが補充が必要なくなったという方が結構いるらしい。実際おいらもハイゼントラを始めた結果、血中蛋白量がかなり安定するようになった。

 ハイゼントラの点滴はいつもお腹に刺している。他にも二の腕、太もも、背中に刺してもいいそうだが、太ももは痛そうだし、背中は自分では届かないのでやったことがない。二の腕は一度だけやった。二の腕は刺すときは痛くないけど、肉が薄いためか20mLもいれるとパンパンになり後で痛い。それに腕なので動かしにくいという欠点がある。というわけで、結局いつもお腹に左右交互に刺している。

 ハイゼントラの注射針は27G(0.40mm)で細いのだが、刺すときは結構痛い。点滴というと一般的には、柔らかいチューブを血管の中にいれる留置針(サーフローと呼ばれる)をイメージするが、ハイゼントラの場合は短時間だけなので、金属の針を刺したままにする。また、血管には刺さず、皮下に刺さるようにする。むしろ、血管に刺さって点滴液がすぐに血液内に流れてはいけないらしく、針を刺したときには、点滴を開始する前に血液が逆流してこないか確認する。

 ハイゼントラの針は痛いという意見が結構あるようで、メーカーが痛くない針を改良した。それ以前は針の角度が約30度に曲がって、テープまでついたタイプだった。新しく改良された針は翼状針で、以前のものよりわずかに針が短い。しかしテープがあらかじめついていないので、自分でテープで固定する必要があり、さらに角度をつけるためガーゼやアルコール綿をはさんだりして、結構めんどうである。その作業に手間取っているうちに針が抜けてしまったり、針がぐりぐりと動いた入りしてかえって痛い。そしてそもそも痛くないないよう改良したというが、刺すときの痛みは変わらなかった。という訳で、おいらは以前のタイプを今も使い続けている。

 針を刺す前に、ハイゼントラの溶液を、ビンから注射器のシリンジに移す必要がある。移すときはシリンジにプラスチックの針を取り付けて、ビンのふたのゴムの部分に刺し、吸い上げる。ハイゼントラ溶液は粘度が高く泡立ちやすいため、泡立てないよういれるのが難しい。溶液を吸い上げるときに一旦シリンジ内の空気をビンの中に押し込むのだが、このときに針の先が液の中に沈んでいると泡立ってしまう。そのため、空気を押し込むときには、針を液の外に出すのがコツである。空気を押し込んでは溶液を吸い込むというのを何度か繰り返すと溶液が一通りシリンジに移る。最後の方は特に泡立ちやすいので慎重に行う。それから、針をビンのゴムから抜き取るときには、ビンの中が空っぽになっていないと、液が飛び出す危険があるので注意する。おいらは一度失敗し、べとべとのハイゼントラの液がそこら中に飛び散ったことがある。

 シリンジに溶液が移ったらプラスティックの針を取り外し、シリンジ内の空気をできるだけ押し出す。そして、50cmほどのチューブがついた点滴針をシリンジに取り付け、針の先の少し手前まで液を流し入れる。その後針を体に刺して固定してから、最後にシリンジを輸液ポンプにセットし、輸液速度を設定すれば準備完了である。いざ開始ボタンを押して液を流していく。

 輸液速度は人によって違うようだが、おいらの場合は20mL/hで入れるよう指示されている。しかし実際はもっと早く終わってほしいので、22mL/hくらいでやってしまう。自宅点滴なら医師も看護師さんもいないので、こういうときにズルできる。しかし、このズルも効かなくなった。ズルして速度を上げるとすぐにつまって警告音がなりとまってしまうのだ。結局20mL/hでやるほうがすんなり入って早かった。

 針を刺すときも痛いが、液を入れているときもピリピリしたりして痛いときがある。刺す前に、保冷剤で肌をじっくり冷やしておくと感覚がなくなり痛くなくなるが、それでも液を入れているときのピリピリは残る。針は細いし普通のサーフローの点滴よりはるかに痛くないはずだが、自分で刺すという恐怖心も相まって、かなり痛く感じてしまう。いざさすときは何度か深呼吸し、呼吸を止めて一思いに刺す。ここで恐怖心に負けて迷いがでるとなかなか針が皮膚に刺さらず、さらに痛い思いをする。一気にぷっと刺してしまうのが良い。全ての準備を終え点滴を開始してしまえば、しばらくまったりと横になって終わるの待てばいい。液がある程度入ると、皮膚がもっこりと膨らんでたんこぶができたようになる。それがまた少し痛いけど2、3日すれば引いてくる。

 ずいぶんと細かくほとんどの人が興味ないことをダラダラと書いてしまったけど、こんな感じでハイゼントラは痛いし面倒くさいのでできればなくなってほしい。糖尿病のインシュリン注射や人工透析などと比べれば全然頻度も少ないので、この程度で憂鬱になってはいけないのだろう。しかし、ハイゼントラの点滴をしながら横になっていると、まるで入院でもしているような非日常性を感じてしまい、なんだか少し憂鬱な気分になってしまうのだった。

至福のひととき

今おいらの幸せな時間は、飲み物を飲むときである。数年前から水分制限のために慢性的に口渇感がひどく、水分を口に含ませるのがとても心地よいのだ。口が渇く原因ははっきりとしないが、多種の利尿剤を飲んでいるせいなのか、ともかく唾液がでにくい。かといって腹水やむくみが悪化したりするので、水をがぶがぶ飲むわけにはいかない。そこで、しょっちゅう口をゆすいだりするのだが、うがいするとなぜかその後余計口が渇く。そんなわけで、頭の中はいつも何か飲みたい飲みたいという気持ちでいっぱいである。

 街に出れば、自動販売機など飲み物をつい目で追ってしまう。人が何か飲んでいるのを見るとうらやましくて仕方がない。レストランに入れば、すぐ水に口をつけてしまう。口渇感がなかった頃の感覚がもう思い出せない。家族や周囲の人を見ても、そんなに喉が渇いていたり、あまり水分をとっているようには見えないが、なぜそんなに喉が渇かないのかと不思議でならない。だから、たまに喉が渇いたとがぶがぶ飲んでいる人を見ると妙に安心してしまう。そうだよね、のど渇くよね、がぶがぶ飲みたいよねと、共感する。唾液がでるようにと、アメやガムを食べたりしたときもあったが、食べている最中はいいものの、終わるとさらに強烈に口が渇いてしまい後悔する。ただでさえ少ない唾液を出し切ってしまい、全くでなくなってしまったかのようだ。こんなに口が渇くのは、気持ちの問題もあるだろう。かつて水分を気にせずとれるときは、特にがぶがぶ飲みたいという欲求はなかった。飲んではいけないという我慢が、かえって禁断症状となりがぶ飲み欲を強めているかもしれない。

 水分をとりすぎないためにも、少量をこまめにとるのが本当は良いのだろうがそれではまったく満たされない。そんなわけで、ペットボトル500mlを一気飲みするのがおいらの夢である。特に飲みたいのは炭酸飲料。最近は炭酸ブームのようで、多様な炭酸飲料がスーパーなどに陳列されていて、おいらを誘惑する。あれもこれも飲みたくて仕方がないが、我慢しなくてはいけない。しかしあれだけ誘惑されるともう我慢の限界で、ついに無糖の炭酸水に手を出すようになった。

 本当は500mlをがぶ飲みしたいところだが、一度に飲む量を200か多くて300mlでとめている。でもそれでも十分炭酸飲料を堪能できる。大量に飲むと炭酸ガスがゲップででて、鼻がツーンとするがそれが何とも気持ちいい。げふげふとゲップがでるのが楽しすぎる。あーおいしいな、幸せだなーと心の中で叫んでしまう。200か300くらい飲むと流石に唾液もじゅわじゅわとでるようになり、しばらく口の渇きがおさまる。それがまた中毒になる。もっともっと飲みたいと禁断症状がでてしまう。

 無糖の炭酸水にしているのは、健康面もあるが罪悪感を減らしたいという気持ちが大きい。甘い炭酸飲料をがぶ飲みして体調を崩しては言い訳のしようがないが、無糖の炭酸水なら水と一緒だしまだましかななんて思ってしまう。何種類かの炭酸水を試したが、おいらが一番気に入っているのはサントリー天然水スパークリングレモン味。炭酸が強く、ゲップもいい感じにでる。レモンの香りもよく、無糖なのになんだか甘みを感じることができる。ネットを見ると、同じのを気に入って箱買いしている人もいるようで、その人は一日に2本も3本も飲んでいるようだ。うらやましすぎる。おいらは500mlを二日くらいに分けて飲んでいるのに。いいな、いいな、とついに我慢の限界が来てこの間一日で500ml飲んでしまった。最高に幸せな一日だった。でもそのつけは当然あり、腹水が悪化して体重が増えてしまうのだった。

 おいらのもう一つのがぶ飲みタイムは、職場で休憩がてらにとるティータイムである。炭酸飲料と同じくらい紅茶にはまっていて、アツアツの紅茶をごくごくと飲むと、たまらなく幸せになる。おいらはとくにフルーツのフレーバーがついた紅茶が好きで、海外の紅茶メーカーからでているフレーバーティーのティーバッグがめちゃ美味しい。紅茶も200mlを一度に飲むが、このくらいなら腹水もわるくならないので罪悪感無く楽しめる。また、熱いので一気飲みできず、紅茶の香りをかぎながら長く味わうことができる。この一杯を飲むだけで、今日は幸せな日だったなと思うことができる。安い人生だな。

 さあ、そろそろティータイムだよ。今日もがぶがぶ飲んで幸せな一日にしよう。

むしろ負はあった方がいい

今、地球上の生物多様性は急速に失われている。生物多様性は、空気や水を浄化したり、食料、衣服、薬など様々な資源を生み出したり、と人類や他の生物に大きな恩恵を与えていると言われる。生物多様性が減少すれば、こうした恩恵を受けられなくなり、さらに多くの生物が絶滅し、ますます生物多様性が失われるという悪循環がおこると予想される。だから、生物多様性は大切であり守っていかなくてはいけない、と今は当たり前のように言われるようになった。

 生物多様性は、生物学者の間では厳密な定義がなされており、広義には「生物上に見られるあらゆる変異」ということができるだろう。つまり、種の多様性はもちろんのこと、一つの種内でも個体ごとに持っている遺伝子が異なること(遺伝的多様性という)や、地域間でそこに生育する生物種の組み合わせが異なること(群集の多様性という)なども生物多様性に含まれる。これらを全てひっくるめた生物多様性の根源的要因はなにかというと、遺伝子の変異となるだろう。種の違いは、個体間で遺伝子の違いが積み重なっていった結果である。種の多様性があることで群集の多様性が生まれる。全ての生物多様性は遺伝子上に生じた変異が元になっていると、生物学的には考えられている。

 では、このブログでテーマとなっている障害は、人類という種の中で見られる生物多様性の一部であると見なせるのだろうか。障害の種類によっては遺伝的変異が関与していることもあるが、事故などで手足を失ったなどの障害は遺伝子が原因ではないことが明らかだし、おいらのもつ先天性心疾患も遺伝的変異が原因とは特定されていない。となれば、生物学上の定義からすると遺伝的変異に起因しない障害は、生物多様性の一部ではなく、あくまで生きているうちに生じてしまったエラーみたいなものなのだろうか。実際、医療技術のない人間以外の生物種では、障害を持った個体は生存に極めて不利になり、子孫を残す前に死に絶えてしまうことがほとんどであろう。つまり、その生物種の進化には何も寄与しない場合がほとんどである。

 おいら自身は、障害は生物多様性の一部だと考えている。しかし、障害を生物多様性の一部とみるのは、現実的にはかなり受け入れがたいだろう。障害は、それを持つ個体にとってもその周囲の個体や社会にとってもデメリットが大きく、冒頭で述べたような生物多様性のメリットを生み出すとはなかなか考えられないからだ。でも、本来生物多様性とはそうしたメリット、デメリットとは関係のない概念なはずである。あくまで生物多様性が大切だとする根拠や守る意義として、研究者などがメリットを強調しているだけである。むしろ、メリットやデメリットとは関係なく生物多様性はその存在自体に意義がある、と考えるのが理想的ではないだろうか。皮肉な例だが、生物多様性が大切だと声高々に主張する研究者ほど、生物多様性は大切でないという意見には耳を貸さない。こうした意見の違いもまた生物多様性の一部とは考えられないだろうか。

 障害に対する負のイメージは大きい。障害という言葉自体に負の意味があり、負のイメージを持っていない人はいないだろう。負はできるだけない方がいいというのが自然な感情であり、負の存在を受け入れることは容易ではない。真に障害に対する差別や偏見がなくなるためには、メリットデメリットやプラスやマイナスとは関係なく、その存在を受け入れることができる悟りのような境地に達しないといけないのかもしれない。その道のりはとてつもなく険しく感じられるが、負はない方がいいという前提を取り払うことができれば、その道のりは一歩前進するかもしれない。だから、むしろ負はあった方がいいのだ、みんなたくさん負を持とう。今日のおいらの負は、間違って他人の歯ブラシを使ってしまったことである。

ステロイドに蝕まれた末路

気が重い地獄入院の話を再開しよう。

これまでの流れを簡単におさらいすると、新年早々に貧血のためNC病院へ緊急入院。内視鏡検査のためSD病院へすぐに転院し、検査後消化管出血が原因と判明。一旦NC病院にもどるも再検査のため再びSD病院に転院。消化管出血がさらに悪化。吐き気腹痛に苦しみ、食事もまともにとれず絶食や激マズ栄養ドリンクばかりの寝たきり生活で、体力筋力が衰え、病状は悪くなる一方。死を覚悟する。怒りの懇願のすえNC病院に戻る。食事が再開し、甘酒ドリンク効果もありようやく回復の兆しがでてくる。

 ここまでで約2ヶ月が経過した。しかし、地獄はまだ終わらなかった。おいらを腰痛とその後に続く腰椎圧迫骨折が襲ったのである。もしこれらがなければ、地獄入院はもっと早くおわり地獄というほどまではならなかっただろう。腰痛と骨折により、おいらはほとんどベッド上から動くことができなくなり、ちょっとした寝返りですら痛みに苦しむこととなった。腰痛はすでにSD病院に入院中に軽く発症していた。しかしまだ軽い状態だったので、歩いたり座ったりもできた。痛みのレベルも低く最大を10とすると3か4だった。看護師さんからはよく、痛みレベルが最大を10とするとどのくらいですかと聞かれた。実はこれが意外と難しい。10をどこに設定するかによるからだ。10を死ぬレベルとするのか我慢できる最大とするのか。普段生物の研究で、定量化を厳密に定義することが習慣になっているのがこういうところで仇となる。おそらくはもっと大雑把でいいのだろう。

 入院が始まって2ヶ月半が経った頃。ちょうど久しぶりの天国のような一時外泊の数日後のことだった。ちょっと床に物を置こうとしてかがんだときに、バキッと強く腰を痛めたのだった。このときの痛みレベルは6。その後は歩くことができず車いす生活になった。そしてさらにその10日後、ベッド上で座っていたら今までとは違う痛みがじわじわと襲ってきた。腰椎が直接痛みだし、すぐに横になったが痛みがどんどん強くなっていった。痛みレベルは8か9ほどに達した。呼吸するだけで痛かった。早速形成外科の先生が来てCT検査をした結果、腰椎圧迫骨折だった。骨折の原因はPLE治療のためのステロイド薬の長期服用による副作用である。あらかじめそうした副作用がでる可能性があることは説明されていたが、まさか本当になるとは思わなかった。圧迫骨折が判明した日、自宅にいる妻に報告すると絶望のあまり妻は泣いた。おいらは当事者なのになんだか他人事のような訳がわからない心境だった。ただ何となく落ちるところまで落ちてしまったのかなと漠然と思った。

 その日から起き上がることはもちろん、寝返りすらできないほどベッド上で動けなくなってしまった。さっそく、腰を固定するコルセットを注文した。コルセットはオーダーメイドで、体のサイズを測り一週間程度でできあがった。その間完全に寝たきりで、ほんのわずかにベッドを起こすだけが許された。食事も排泄も洗髪も体拭きも、何から何まで横になったままやった。

 NC病院にはリハビリ科があり、二度目に戻ってきてから筋力トレーニングのためリハビリを受けていた。その頃は歩くことができたので、トレーニングルームでストレッチしたり、階段上り下りをしたり、後方歩行をやったりした。またベッド上や病室でできるトレーニング方法を教えてもらい、それを日々実践した。トレーニングの療養士さんは、自らスパルタだといった。実際、かなり痛くてもびしびしと鍛えられた。日々のトレーニングを怠けるとすぐに見破られた。圧迫骨折がおきるとこうしたトレーニングはほとんどできなくなったが、スパルタ先生はさらにスパルタになった。コルセットが届くまでは絶対安静だったが、コルセットが来てからはリハビリが再開された。コルセットをつけていても、ベッドから起き上がるだけで強烈に痛かった。ベッドを最大限に起こしてそこから上半身を起き上がらせ座るのだが、まずベッドを起こす途中で痛みが走った。おそるおそるギリギリゲームのようにベッドを1cmずつ小刻みに起こし、痛みが走りそうになるとちょっと戻したりを行き来した。スパルタ先生は、コルセットをつけていればどんなに痛くても絶対圧迫骨折が酷くなることはないといって、ベッドから起き上がりそこから立ち上がる練習をさせた。あるときは、立ち上がる途中で凄まじい痛みが走り、なんとか座り直してひいーーーと悲鳴をあげ続けた。それでもスパルタ先生は、「ほら、痛みはおさまってきたでしょう。もし骨折が起きていれば痛みは強まるはずだから大丈夫」といって、もだえるおいらに喝を入れた。

 だがこのスパルタトレーニングがなければ、今もおいらは動けなかっただろう。後で聞くとおいらは一生寝たきりになる寸前だったそうだ。2度目の腰痛と圧迫骨折により、おいらの筋力は激減してしまっていた。手足はがりがりになり、腹水のためお腹だけがふくれ、飢餓に苦しむ人々のような姿だった。体がとんでもなく重く感じられ、腕で体を起こすことも、足だけで立つこともできなくなった。トレーニングは、退院するまで続いた。起き上がり、立ち上がり、歩行器を使っての歩行。退院するときはなんとか両手で杖を使えば歩行できるまでになった。しかし、まだ床や低い椅子に座ることやそこから立ち上がることはできず、家に帰ってもある程度高いベッドや椅子に座って立ち上がる生活が続いた。便座も低すぎるので、座高を高くするアタッチメントや手すりをつけた。テーブルなど何かにつかまりながら床に座れるようになったのが退院後2ヶ月が経過した頃。最近ようやく何もつかまらずに床に座ったり立ったりできるようになった。それまではずっと立つしかなく、床がすごく遠くに感じられた。座りたいのに座れない、触ることもできない。家は畳なので、畳の上に寝転ぶ妻や子供がうらやましかった。夏だったのでひんやりした畳の上をゴロゴロできたらなんて気持ちいいだろうと想像した。片思いの相手のように、床を遠くいとおしく恋いこがれた。

 腰痛や圧迫骨折とは別に、もう一つおいらを苦しめることが起きた。昨年の手術痕が再び化膿したのだった。手術痕の化膿は、これまでに手術の後すぐそのご退院して一ヶ月後と2度すでに起きていた。今回が3度目だった。原因は細菌の感染だった。これもまた免疫機能を低下させるステロイドの副作用の一つである。PLEの治療にはステロイドは極めてよく効く。前回の記事で書いたように、おいらもこれまでに何度もステロイドで回復してきた。しかし、ステロイドは強い副作用のある大変危険な薬物である。だからできる限り量を減らし離脱を目指さなくてはいけない。ステロイドを3年以上長期服用をしたおいらの体は相当蝕まれていたのだろう。すぐにでも減らしたいが、急激な減量はかえって副作用が強く、PLEも悪化する。副作用を覚悟しつつ少しずつ減らしていくしかないのだ。一度手を付けたらやめられないステロイド。しかし、この禁断の毒薬に変わるPLEの治療法は今のところほぼない。

 手術痕化膿の治療は、化膿部の切開と膿みの吸引、抗生剤の長期服用からなる。しかしこれらの治療により、新たな痛みと腎機能の低下に苦しむことになった。ステロイドの代償はとてつもなく大きかった。その詳細はまた次の機会に話したい。今日のところはここまで。

 

PLE発症後の余命を予測する

蛋白漏出性胃腸症(PLE)は、フォンタン術後症候群の中でも特に予後不良とされる深刻な合併症である。その発生率はフォンタン術患者のうち4〜13%で低いものの、一度発症してしまうと治療に難渋し、根治はかなり難しい。死亡率も高く、当初は5年生存率50%程度と報告されていた(近年の研究では、もう少し高い生存率が報告されている)。これらPLEに関する初期の研究や近年の研究についての詳細はまた改めて解説していきたいが、日本語で解説されているものをすぐに読みたい方は、「大内秀雄. 2016. フォンタン術後患者のQOL向上をめざして:経時的な病態観察から学ぶ. 日本小児循環器学会誌 32: 141-153.」がネット上で入手できる。

 すでに何度も触れているように、おいらもPLEが発症したフォンタン術患者である。おいらのPLEがわかったのは、今から約3年8ヶ月ほど前。そこから、PLEや不整脈などのフォンタン術後症候群との闘病が始まった。PLEがわかったのは、血中アルブミン量が2g/dL台に下がっていたためだ。以後PLEの診断は、血液検査により3種類の血中タンパク質量を調べることで行っている。その3種とは、総タンパク量(TP)、アルブミン(Al)、免疫グロブリン(IgG)である。そして、治療は、ステロイドプレドニン)の投薬(飲み薬)、アルブミングロブリンの点滴補充、ハイゼントラ(免疫グロブリン)の定期的な自宅点滴で行ってきた。本日は、PLE闘病3年8ヶ月間の3種のタンパク量の変動と、ステロイドアルブミングロブリン点滴補充の量をずばんと公開してしまうのだ。個人情報もプライバシーもなんのそののお構いなし。生の血液検査結果を赤裸々に公開する、文字通り出血大サービスである。

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 ごちゃごちゃしてわかりにくいグラフになってしまったが、上の図がその全貌である。上のグラフが3種類のタンパク量の変化を表す。青が総タンパク(TP)、赤がアルブミン、緑が免疫グロブリンを表す。横軸がPLE闘病が始まった3年8ヶ月前からの経過日数で、現在までに約1300日が経過した。縦軸の左がTPとアルブミンの量、右が免疫グロブリンの量である。

 続いて下のグラフは、プレドニン(青線)、アルブミン補充量(赤点)、グロブリン補充量(緑点)を示す。定期的に自宅で点滴しているハイゼントラはこの図には示していない。上下両方のグラフにまたがってかかる灰色の線は、その期間に入院していたことを示す。一番下に入院の理由を簡単に書いた。図に示していないが、これ以外にも不整脈をとめるために電気ショックを受けた1泊2日の入院が何度かある。一番右側の消化管出血による入院が、これまで何度か書いてきた地獄入院である。

 グラフはわかりにくいので、丁寧に見て頂く必要はないが、このグラフからいくつかわかったことがある。

(1)800日目くらいまでは、アルブミンは4g/dL台、TPは6台を維持していたが、フォンタン再手術(TCPC conversion)の入院の前からアルブミンは4以上になることが難しくなった。しかし、地獄入院の後は再び回復し始めている。

(2)タンパク量が減少する(PLEが悪化する)と、プレドニンの量を増やす。最初は40mg/日くらいを飲み、それを徐々に減らしていく。しかし、10mg/日を切るとPLEが再発してしまう傾向がある。さらに、再発するまでの期間は徐々に短くなっている。最初のPLE発症から次の再発までは400日以上間があったが、その後は200日程度になってきている。

(3)3種類のタンパク質量は、同調して変動している。また、時期により大きく変動しているが、3年8ヶ月という長い期間で見ると、どれも減少傾向にある(上のグラフの点線で示したのがそれぞれの回帰直線)。

 

こうした3つの特徴をみても、PLEは一度発症してしまうと治療に難渋し、根治は難しいということがよくわかる。厳しく見れば、プレドニンの効きも弱くなり年々悪くなっていると言えるかもしれない。では、このままPLEが進行すると、おいらの寿命はどのくらいなのだろうか。そこで、3種類のタンパク質量から得られた回帰直線を用いて、おいらの寿命を予測してみた。

 予測にあたって次の仮定を置いた。まず最も厳しい条件で仮定した場合は、回帰直線がTPを5を下回る、アルブミンが3を下回る、免疫グロブリンが500を下回る条件とした。実際にはこのくらいの値では、まだ死んでしまうことはないと思うが、回帰直線がこれらの値を下回るような状態になると、体のむくみもひどくなり日常生活を送るにはかなりしんどい状態になるだろう。その状態が続けば不整脈が再発したり、腎臓や肝臓が機能不全を起こしたりして、急に容態が悪化する可能性もある。そこで、これを最低余命として、これらの条件に達するまでの残り日数を回帰直線から逆算すると、最短であと約2ヶ月、最長で約73ヶ月、平均すると31ヶ月(約2年半)となる。5年生存率50%といわれていることからすると、PLEが発症してから3年8ヶ月で残り2年半が最低余命というのはあながちあり得なくもない予測になる。

 いやいや、いくらなんでもそんな厳しくないでしょう。ということで次はもう少し緩い条件を検討してみた。それは、回帰直線がTPを4を下回る、アルブミンが2を下回る、免疫グロブリンが400を下回る条件である。これを最長余命と仮定した。現実にはこれより低い値であっても頑張って闘病を続けている方もたくさんおられるので、まだこの条件になったからといってすぐ死んでしまう訳ではないが、ここまで低い値になってしまうと、ほぼ入院をし続けないといけなくなるだろう。おいらがPLE治療のため入院したときも、一時的にこのくらいの値に下がってしまったときである。この最長余命条件で残りの日数を計算すると、最短で43ヶ月、最長で119ヶ月、平均83ヶ月となった。おいらは、子供の頃から50歳くらいの寿命だろうと覚悟してきた。今40歳なので、最長119ヶ月(約10年)は、ちょうどそれに一致する。やはり、子供の頃からの覚悟は、妥当なのかもしれない。

 この予測はあくまでおいらの適当な予測なので、何の根拠もない。幸いにも、地獄入院の後は奇跡的な回復が続いており、もしこの回復が今後も継続していけば予測の寿命はもっと改善されていくだろう。予測はあくまで一つの目安として、少し覚悟しつつ、でもそれにとらわれすぎず、今の健康を維持していきたい。

スモールフレンドリージャイアント

子供の頃、よく見る夢があった。真夜中の街を巨人が徘徊する夢である。巨人の姿は見えず、どすんどすんと足音だけが聞こえ、おいらは家で寝ながら足音が近づいてくるのをじっと聞いていた。不思議と怖さはなかった。むしろ、巨人は散歩でもして楽しんでいるように聞こえ、安心感を感じていた。その足音を聞いていると、おいらはより深く心地よい眠りに落ちていくことができた。

 巨人の足音の正体は、おいらの心臓の音だった。体をある特定の角度にして寝ていると、心臓の拍動音が布団や枕を伝わって直接耳に響くのだった。それが夢の中では、巨人の足音になり、人々が寝静まった真夜中の街を歩いている気がしていたのだ。だから、巨人の足音が力強く安定しているほど、おいらの心臓はしっかり動いていることを示しているのである。足音に安心感を感じるのはそのためであろう。

 残念ながら、今はもう巨人の夢を見ることがなくなった。不整脈により、足音は不規則になり、むしろ苦しくなってしまった。あるときは素早い頻拍であったり、まるでつまづいたかのように脈が飛んだりしている。それでも、今もたまに安心感を得たくて、寝ているとき耳に響く角度を探して音を聞いたりしている。たとえ不整脈であっても、おいらの内なる小さな巨人が立てる足音は、とてもけなげであり、おいらを励ましてくれる音なのだ。