ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

体調、神ってる。

ここ数年、年末年始のころはいつも体調が悪かった。そのためか、気分も落ち込み年が明けてもとてもめでたい気分にはなれなかった。今年の初めもまた気分が落ち込んでいて、それが祟ったのか地獄入院につながった。しかし、今年は違う。極めて体調が良いのだ。タンパクも下がっていなそうだし、むくみもない。腰や背中も痛くなくなった。寝ていて息苦しくもならず、寒気もなく胃腸のムカムカや吐き気もない。夜は、今までは2時間おきに起きてトイレに行っていたのに、最近は5、6時間まとまってぐっすり寝れるようになった。なんとも気持ちいい。昨年の今頃と比べると奇跡に近い回復ぶりである。同じ体とは思えないほどだ。

 体調が良い理由は、とんでもなくぐうたらに無理せずのんびり過ごしてきたからかもしれない。地獄入院の反動で、退院後は徹底して自分を甘やかしてきた。仕事は週2回ほどで、お昼もたっぷり休んでときどき昼寝もした。紅茶や炭酸水で至福のひと時を満喫した。桃、梨、ぶどう、リンゴ、みかんなど果物を好きなだけ食べた。ただし、無理をしないのが原則なので、食べ過ぎや飲み過ぎには気をつけた。極めつけは、サンタさんからファミコンミニをプレゼントされたことだ(息子に贈られたものだけど)。ファミコン世代のおいらには、たまらないものがあり、息子と一緒にゲラゲラ笑いながらやっている。

 でも、今こうして元気に過ごせるのは、家族や医師や看護師さん、職場の人々の助けがあったからに他ならない。だから、その恩返しに、今年以上に自分を甘やかして元気に過ごそう。いや、仕事を頑張ろう。来年はいい研究成果をだすよ。

SW=生物多様性

おいらは、生物多様性を研究している。なぜ生物は多様なのか。どうやって多様性は維持されるのか。多様であるとなにがおこるのか。おいらにとって、生物多様性はなんとも不思議な存在であり、なぜか魅力的なのだ。

 おいらが、生物多様性に興味を持ったのは、ほかでもなく映画STAR WARSのおかげである。そのためではないが、スターウォーズは最も好きな映画でもある。スターウォーズの魅力はあげればきりがないが、中でも映画に登場する生物多様性がすごい衝撃的であった。それを象徴するのが、第一作目エピソード4の酒場のシーンである。主人公ルークとオビワン、それにロボット2体が、自分たちを運んでくれるパイロットを探しにモス・アイズリー宇宙港を訪れる。そこで、優秀なパイロットがいるという悪党がたむろす酒場へ入っていくのだが、酒場の中には銀河中のさまざまな生物が集まっていたのだった。次々と画面上に現れる怪物のような生物たち。だれしもが、人間と同じように振る舞い、ある者は楽器を演奏し、ある者は酒を飲み会話を交わしていた。話す言語も様々だった。ごぼごぼと雑音にしか聞こえない言葉もあった。なんて宇宙は広いんだろう。宇宙のどこかにはこんな世界があり、様々な生命体がうごめいているのかもしれない。フィクションとはわかっていても、その壮大さに完全に心を奪われたのだった。

 地球上では我々人類が生命の頂点に位置すると錯覚してしまう。最も知的で、他のあらゆる生物に多大な影響を与え、他のあらゆる生物ができないことを成し遂げる。しかし、スターウォーズの世界では人間は一種族にしかすぎない。そこがまた魅力的だった。地球外に生物がいるかは、今はまだわかっていない。いる可能性は示唆されているものの、いたとしても微生物のようなものだろうとも予測されている。だとすれば、人間のような生命体は宇宙の中で他にいないのだろうか。それはなんだかとても寂しい。人間はロケットで宇宙空間に飛び立つことができるようになったが、まだその距離は地球からほんのわずかな範囲に限られる。到底、他の惑星に行って新たな生物にであうことはできそうにない。だとすれば、別の惑星から宇宙船にのって地球に訪れる生物がいてほしい。だから、UFOや異星人の目撃談もまたおいらはとても興味があるのだ。スターウォーズは、そんなおいらを夢を叶えてくれる映画だった。

 地球上の生物多様性は、その意義について科学者によってさまざま議論されている。おいらも生物学者の端くれとして、生物多様性の意義は理解しているが、正直そんなこととは全く関係なく、こどもの頃初めて酒場シーンをみたときのあまりの興奮と衝撃が未だ忘れられないのだ。生物多様性に触れるとそうした興奮や衝撃がよみがえり、心が躍ってしまうのである。なんだか面白くて仕方がなくなってしまうのだ。

狂った食欲

大分間があいてしまったが、地獄入院の話を再開しよう。できればこれで最後の話にしたい。

今日は食事の話である。食事は医療以上に病気の治療に効果がある。だから病気持ちの人、病気の予兆がある人、そしてもちろん健康の人も食事を決して舐めてはいけない。食事次第でどれほど健康になれるか、人生を楽しく生きられるか、が全く違ってくる。健康維持のための食事というと、多くの人は栄養バランスばかり注目してしまう。しかし、それは本質的に間違っている。そして、入院中にだされる病院食は、栄養バランスだけをみれば最高の食事である。しかしそれは完全に間違っている。

 地獄入院中のおいらの食事は、以前にも少し触れたように、胃腸の負担を極力減らすためまず絶食から始まりその後ジュース・スープの汁だけメニュー、激マズ栄養ドリンク、ミキサー食へと変化していった。その後は刻み食になり、徐々にお粥が固くなり、最終的に固形の食事になった。ただし、心臓や腎臓への負担を減らすため、塩分、タンパク質、水分が制限され、肝臓や消化管の負担を減らすため脂肪が厳しく制限された。どの制限が一番きついかは甲乙つけがたい。それぞれ特有の苦しみがある。まず、塩分。もともとおいらはこどもの頃から家庭が薄味だったので塩分制限は比較的苦にならなかった。しかし、ほうれん草などのおひたしが一切味がついていことがよくあり、これはなかなかつらかった。また、おかずの量に対し米の量が多いので、薄味のおかずではご飯をさばききれないのである。タンパク質は、消化したときの老廃物が多く、それを尿とともに排出するために腎臓に大きな負担がかかる。普通の成人男性なら一日70−90gが推奨されているが、おいらの場合は20−30gに制限されていた。タンパク質は意外にもお米にも結構含まれている。麺類などはさらに多い。だから麺類は一切でなかった。また、お米で大半のタンパク質を取ってしまうため、おかずには肉類がほとんどなかった。でてくるのは1cm角の角砂糖くらいの大きさの肉切れが2つ、3つといった具合だった。脂質はエネルギーが大きいだけでなく、料理を抜群に美味しくする。だから、中華料理、イタリア料理、フランス料理など大抵の料理にはたっぷり使われている。またアイス、ケーキ、クッキー、ポテトチップ、チョコなどのお菓子にもたっぷりだ。当然おいらの食事にはこれらは一切でてこない。角砂糖サイズの肉はまるで紙で作ったようにパッサパさだった。なぜここまでぱさぱさにできるのか不思議なほどだった。例えば、鳥のささみや胸肉など脂肪分の少ない肉も、中の水分が逃げないよう調理すれば(例えば片栗粉をつけてゆでるとか)、パサパサせずに美味しくできる。しかしでてくるものは、水分も脂肪分も完全に抜けた状態の代物ばかりだった。それは水分制限がありただでさえ口が渇いているおいらには、拷問のような料理だった。パサパサで味もせず、唾液がでないため、いつまでも飲み込むことができなかった。小さな2、3切れの肉片ですら食べられずに残してしまうことがあった。おいらは食べ物を残すのはとても罪悪感があり、残すとさらに気が滅入った。苦しくて切なくて涙が出たこともあった。そして、水分制限はこれまでも何度も書いているように、頭の中が常に水分のことを考えてしまうほど、強い禁断症状がでてしまうものだった。

 これだけ制限があると摂取できるものはかなり限られてくる。特にエネルギーを得るためには、炭水化物、糖分だけがほぼ頼みの綱となってしまう。そのため、これらの制限とは裏腹に、異常に甘い食べ物をともかく食べさせられた。糖質制限ダイエットをしている人からすればうらやましいかもしれないが、実は糖質は脂質や塩分やタンパク質と一緒にとるから美味しいのである。ケーキにはたっぷりの脂質が、お肉やラーメンや揚げ物には塩分、脂質、タンパク質がたくさん入っている。糖分だけというのは、アメとかゼリーとかジュースしかなくなってくる。おいらは、激マズ激甘栄養ドリンクや、アガロリーという激甘ゼリーを毎日食べさせられた。また、脂質の中では消化管に負担の少ない中鎖脂肪酸は摂取が許された。そのため、中鎖脂肪酸の油がたっぷりかかった、全然さっぱりしないぎとぎとのおひたしがでてきたりした。

 こうした食事メニューの一例を挙げると大体以下のようだった。朝はご飯、みそ汁、おひたし、卵焼き。昼は、ご飯、野菜炒め、サラダ、栄養ドリンク、激甘ゼリー、果物。夜、ご飯、煮物、肉または魚料理、おひたし。これだけ見ると、それなりの食事に見えるかもしれないが、ほぼ毎日これが変わらずに続くとつらかった。カレーやラーメンや揚げ物など夢のまた夢だった。せめて麺類やパンや辛いものも食べたかったがタンパク質や塩分が多くなるので、でてこなかった。次第においらは、食事することが苦痛になっていった。本来、入院患者にとって食事は一日の中で最も楽しみな至福の時間である。だから、毎食今日こそは美味しいものがでるとわずかな期待を抱くのだが、毎回裏切られ拷問に変わった。

 限界に達したおいらは、看護師さんや医者に食事を改善してもらうよう何度もお願いした。その結果、栄養士さんと面談することになった。だがおいらの食事は、栄養士さんにとっても極めて難しい献立だった。ほとんどの成分に制限がかかる一方、体力と筋力をつけるためそれなりのエネルギーを摂取する必要があった。カロリーの高い脂質やタンパク質をほとんどとれないため、頼みの綱の炭水化物などの糖質でできるだけカバーした。しかしそれでも、おいらの一日の摂取量は1400kカロリー程度にしかならなかった。理想的には1800くらいなければいけなかったが、とてもそこまで到達できずおいらの体重は一向に増えなかった。それに加えて、おいらのクレームが重なり、栄養士さんは相当追いつめられていただろう。でもおいらもまた拷問のような食事に追いつめられ必死だった。だから面談の際にはほぼけんか腰にあれこれと注文を付け、それでも改善しないと毎食の下膳の際に、要望をメモ書きし添えたりもした。栄養士さんはおいらとの面談が本当に嫌そうだったし、伝え聞いたところによると泣いてもいたそうだ。食事をめぐっておいらと栄養士さんは格闘していた。

 今冷静に客観的に思えば、申し訳なく思う。大勢の患者さんの食事も用意するため、おいらのためだけに手間ひまをかけていられないこともよくわかる。食事も治療の一環として、栄養バランスを最優先にしなくてはならないのもわかる。栄養士という立場からは最大限努力されていたことだろう。そして、おいら自身も体調が悪かったため味覚などが変化し、健康なときより食べ物が美味しく感じられなくなっていただろう。実際その病院の入院食は、数年前に入院した頃はとても美味しく感じられていた。

 食事は医療以上に病気の治療に効果がある。でもそれは、美味しいことが大前提で成り立つ。おいしい食事は栄養補給するという面だけでなく、生きる気力に直結するからだ。どんなに素晴らしい栄養バランスであっても、食べることが苦痛になるような食事では食べられない。仮に食べられたとしても、精神的にはとてつもないストレスがかかり、結局それが体の負担になるのだ。おいしい食事がとれないことは、死を予感する。死を願いすらしてしまう。おいらは人一倍食いしん坊かもしれない。妻に言わせると食に対する欲望が異常すぎるそうだ。食欲は、排泄欲、睡眠欲、性欲などとともに生理的な欲求であり、ある種本能的な欲望だ。それを生きがいとするのは人間らしくなく、あまりに個人的だ。人間ならもっと二次的な欲求、たとえば他人を楽しませたり幸せにしたり、社会に役立ったり、といった他人と共有できる社会的欲求に生きがいを感じるべきかもしれない。しかし、そうした人間性を見失ってしまうほど、おいしい食事をとれないことは苦しいものなのである。

 退院してかなりいろいろなものが制限無く食べられるようになったが、今でも食欲はすさまじい。暇さえあれば、インターネットのグルメサイトを検索し食べ物探しをしてしまう。日常生活でも今日や明日の献立で頭が一杯である。だから、食に対する欲望をそう簡単になくすことはできそうにない。せめて自分だけの満足のためではなく、家族や友人などと一緒に食べる楽しみを生きがいにしていきたいと思う。

いつの時代にも必ずある幸せ

このブログもずいぶんと堅苦しい真面目な内容ばかりになってしまった。当初はもっとふざけた軽い内容を書いていくつもりだったが、病気のこととなるとどうもそううまく書けないらしい。そんなわけで、今日はふざけた内容を書きたいと思ったのだが、いざとなるなかなかアイデアが思いつかない。

 実は、学生のころ日誌代わりにふざけたブログを書いていたことがある。お手本にしようと、久しぶりにそのときの記事を見直し見たら、ふざけているを超えてひどい内容だった。たとえば、お酒と題したある日の記事は「お酒を飲んで気持ちよくなり楽しいですが、今日何をしてきたかあまり思い出せません。餃子を食べた気がします。まあ満足したということで、お酒に感謝。」とあった。他人からすれば全くどうでもいい内容であり、堕落した生活を表明しているだけである。さらには、その堕落した生活をどこか自慢しているような感があり、うっとおしい。

 このおふざけブログを書いていた頃は、これまで何度か書いているおいらの黄金時代だった。体調はとてもよくて健常者と変わらない生活ができた。好きなものを好きなだけ飲み食いし、夜更かしもし生活リズムも不規則だった。それでも体調を崩すことはほとんどなかった。今のおいらからすれば、とてもうらやましい生活に感じる。しかし、その恵まれた丈夫な体を当時は当たり前に感じ、いたわることをしなかった。それは今では二度と取り戻せない健康体だった。

 でも、今の方が不幸かというとそうは感じていない。というか、幸せという意味では今も昔も変わらないと思っている。健康体のときには健康体の幸せがあり、今の体にはそれにあった幸せがある。幸せを感じる種類や対象が変わったのである。ほんとかな。強がっているだけじゃないの。そう自問しても、過去に戻りたいという気もない。

 確かに昔はなんでもできた。生物学者としていつか第一線で活躍するんだと、華やかな未来も夢見ていた。でも心の奥底では実はそうした華やかな未来は訪れないこと、自分には限界があることを薄々感じていた。その恐怖を忘れるために、ふざけた怠惰な生活をし、若者らしく息巻いていたのかもしれない。そして、今自分には厳しい限界があることをはっきり自覚した。第一線どころか生物学者としての人生も断たれようとしていた。体も無理が利かず、いつ再び入院し、次は本当に生きて退院できない可能性が高いことも感じている。子供が成人になるまで生きられない可能性も極めて大きい。ある意味で諦めの境地に達したような気持ちになった。でもそのおかげで、若者のときに日々感じていた恐怖がなくなって楽になった。日々の些細なことに幸せを見いだすようになった。たとえば、今日も紅茶を飲み至福の一時を楽しんだ。

 この先どんな人生がくるのかはわからない。奇跡的に回復しまた黄金時代になれるようになるかもしれないし、覚悟した通り徐々に弱っていくかもしれない。でもそれぞれにはそれぞれの楽しみがあり幸せがあるのだ。そう思うとどんな人生になろうともう怖くない。

 何のオチもないつまらない内容になってしまったな。でも、昔の自分風に言えば「ブログを書いて気持ちよくなり楽しいですが、何を書いたかあまり思い出せません。まあ満足したということで、ブログに感謝。」

痛みでよみがえる記憶

今年の始めから、朝起きてから午前中の体調がすぐれない。その傾向は、地獄入院から退院した現在も続いている。大体は朝は寒気がして、寒気が酷いときには吐き気もある。体がだるく脈がやや速く息苦しい。朝食後少し横になって休むことも多いが、なかなか良くならない。しかし不思議なことに、いつもお昼ぐらいになると自然とよくなり楽になる。

 最近は、体に筋肉や脂肪がついてきたせいか、寒気は大分軽減された。しかし冬になり寒くなってきたためか、頭が重くなり軽く頭痛がするときがある。その頭痛で、子供頃は偏頭痛でかなり悩まされていた思い出がよみがえった。子供のときの偏頭痛はかなり激しい痛みで、痛みで目が覚めた。痛みのために強い吐き気を伴い、何度も吐いた。鎮痛薬を飲んでも吐いてしまううえ、乱用したために効かなくなった。吐くとほんの少しの間だけ痛みが和らぐので意識的に吐いたりもした。しかし、しばらくするとまた痛みがぶり返した。それを何度か繰り返しているうちにくたびれてうたた寝し、お昼頃に目覚めると痛みが治まっているのだった。そんわけで、偏頭痛があるときは学校を休んでいた。

 偏頭痛は12歳の時に受けたフォンタン手術の後がとくにひどかった。退院後半年近くほぼ連日のように頭痛に苦しんでいた。フォンタン循環に変わったことで体がまだなじでいなかったのかもしれない。時には痛みが強すぎて、緊急外来に駆け込んだりもしたが対処法がなかった。定期外来の診察のときに、頭痛のことを手術の執刀医に話したらなぜか怒られた。手術に問題があったかと指摘したように思われたのかもしれない。その医師にとっては、おいらの手術は完璧で芸術作品のようなものだったらしい。

 子供の頃の手術は、その当時心臓外科で日本で最高レベルと称されていたTJ病院で受けた。その医師は心臓外科のトップに位置していたので、いまでいうゴッドハンドを持つスーパードクターだった。せっかく神が完璧な手術したのに、偏頭痛を起こすのは、おいらが弱気になっているせいだ。もっとがんばれ、という激励の意味もこめて怒ったのだろう。幸いにして手術から一年くらい経過した頃には偏頭痛もほとんどなくなった。

 余談だが、今ではあり得ない話かもしれないが、診察のとき神の白衣のポケットはいつもお礼の包みでこんもり膨らんでいた。先天性疾患の子供が手術で命を救われたのだから、親としてはお礼をせずにいられなかったのだろう。おいらの親もおそらく渡したと思う。そんなのが当たり前の時代だった。

 手術後は、偏頭痛もすっかりなくなり心臓も体も抜群によくなり薬も一切飲まない黄金時代だった。しかし20数年が過ぎた頃、おいらにフォンタン術後症候群と呼ばれる新たな症状が発症した。おいらの第2の闘病時代の始まりである。第2闘病での主治医は、すぐにおいらにフォンタン再手術を勧めた。当初はその先生のいるNC病院で手術を受ける予定だったが、いろいろ日程が合わなかったりして古巣のTJ病院で受ける話に変更された。手術に先立って、TJ病院で一度カテーテル検査を受けることになった。20数年を経て久しぶりに訪れるTJ病院だった。

 TJ病院の外来棟はすっかり新設され、シティーホテルのロビーのようにきれいだった。しかし、入院病棟は子供の頃と全く変化がなかった。病室の各ベット脇にある木製棚は当時のままで、恐ろしく年期を感じさせた。壁に貼られた折り紙などは20数年前から張られていたのではないかと思うほど、色あせてホコリをかぶっていた。病棟は全体的に薄暗く、冷たく青白い蛍光灯の光に照らされていた。病棟にあるエコー検査室も一切変化がなく、壁や天井に浮き出たシミまでも鮮明に思い出されるような感じだった。横になって検査を受けていると実はまだ自分は子供のままで、大人までの今までの期間は全部夢だったのではないかとすら思えた。

 とはいえ、子供の頃とは違う点もあった。まず、同じ病室に入院していた人は皆大人だった(一人だけ高校生)。一人はおいらより年配で、医者にとめられているのにも関わらず、酒を飲んだり無茶をして入院をしていた。もう一人は、おいらと同じように大人になり心臓の調子が悪くなってしまった人だった。高校生はかなり元気そうだったが、やはり医者や看護師さんに隠れてお菓子やカップラーメンを食べたりして無茶していた。また、ときどき彼女が見舞いにきて、ベッドに潜っていちゃついたりしていた。病室の患者は皆、その音に聞き耳を立てていた。リーダー格の年配の方が、彼女がかえった後高校生に何をしていたかなどいろいろ聞いたりしていた。

 TJ病院の循環器内科には、かなりセクシーな女医さんもいた。一度先天性心疾患の学会にいったときその女医さんを見かけたが、背中がぱっくり割れたドレスを着ていた。当然若いドクターがたかっていた。入院したときも、おいらの担当ではなかったがその女医さんがいた。あるとき検査を受けていると、たまたまその女医さんも検査室にいて、パソコンに向かっていた。相変わらず米倉涼子のドクターXのような格好をしていて、太ももまで露出しながら足を組んで座っていた。おいらの担当医は若い男性ドクターだったので、すぐにそのトラップに引っかかり、おいらの検査など上の空で米倉涼子に声をかけていた。

 こうしてTJ病院で入院してカテーテル検査を受けたものの、その後さらに話が変わり、結局フォンタン再手術はNC病院で受けることになった。カテーテル検査のときは、ミスって穿刺部で大量の内出血をおこし、腹部に20cm以上もの内出血痕ができた。しばらくはめちゃめちゃ痛くて、退院後も何日か起き上がれないほどだった。ばかばかしいことばかりで、全く意味のない検査入院となったが、子供のときから変わることがない古びた病棟が現実感を薄めてくれて、今では夢のような思い出になっている。しかし朝頭痛がすると、その思い出が記憶された脳細胞が刺激されるのか、現実感を帯びて思い出されるのだった。

ハイゼントラは依然と続く

このブログにアクセスしてくれる方は、ハイゼントラで検索してきた方が多いらしい。というわけで、今日はおいらのハイゼントラ体験の話をしたい。

 おいらは、昨年のフォンタン転換手術の後からハイゼントラを始めた。入院中に何度か練習をした後、退院後も自宅点滴で続けている。最初は週1回10mLだったが、消化管出血の地獄入院のときから、血中免疫グロブリン(IgG)やアルブミン量がなかなか改善しないため、週1回20mLに増量された。地獄入院の退院後は順調に回復し、10月から2週に一回20mLに減量された。ハイゼントラ自体はIgGなのだが、なぜかハイゼントラを点滴するとアルブミン量も共に改善する傾向がある。ハイゼントラは遅効性で点滴後数日間じわじわと効いてくるという利点がある。血管内に直接アルブミン免疫グロブリンを点滴補充する方法は、その瞬間だけの効果なので入れたその日はいいが、すぐにまた下がってしまう。ハイゼントラを始めたことにより、これまではたびたび入院して補充を受けていたのが補充が必要なくなったという方が結構いるらしい。実際おいらもハイゼントラを始めた結果、血中蛋白量がかなり安定するようになった。

 ハイゼントラの点滴はいつもお腹に刺している。他にも二の腕、太もも、背中に刺してもいいそうだが、太ももは痛そうだし、背中は自分では届かないのでやったことがない。二の腕は一度だけやった。二の腕は刺すときは痛くないけど、肉が薄いためか20mLもいれるとパンパンになり後で痛い。それに腕なので動かしにくいという欠点がある。というわけで、結局いつもお腹に左右交互に刺している。

 ハイゼントラの注射針は27G(0.40mm)で細いのだが、刺すときは結構痛い。点滴というと一般的には、柔らかいチューブを血管の中にいれる留置針(サーフローと呼ばれる)をイメージするが、ハイゼントラの場合は短時間だけなので、金属の針を刺したままにする。また、血管には刺さず、皮下に刺さるようにする。むしろ、血管に刺さって点滴液がすぐに血液内に流れてはいけないらしく、針を刺したときには、点滴を開始する前に血液が逆流してこないか確認する。

 ハイゼントラの針は痛いという意見が結構あるようで、メーカーが痛くない針を改良した。それ以前は針の角度が約30度に曲がって、テープまでついたタイプだった。新しく改良された針は翼状針で、以前のものよりわずかに針が短い。しかしテープがあらかじめついていないので、自分でテープで固定する必要があり、さらに角度をつけるためガーゼやアルコール綿をはさんだりして、結構めんどうである。その作業に手間取っているうちに針が抜けてしまったり、針がぐりぐりと動いた入りしてかえって痛い。そしてそもそも痛くないないよう改良したというが、刺すときの痛みは変わらなかった。という訳で、おいらは以前のタイプを今も使い続けている。

 針を刺す前に、ハイゼントラの溶液を、ビンから注射器のシリンジに移す必要がある。移すときはシリンジにプラスチックの針を取り付けて、ビンのふたのゴムの部分に刺し、吸い上げる。ハイゼントラ溶液は粘度が高く泡立ちやすいため、泡立てないよういれるのが難しい。溶液を吸い上げるときに一旦シリンジ内の空気をビンの中に押し込むのだが、このときに針の先が液の中に沈んでいると泡立ってしまう。そのため、空気を押し込むときには、針を液の外に出すのがコツである。空気を押し込んでは溶液を吸い込むというのを何度か繰り返すと溶液が一通りシリンジに移る。最後の方は特に泡立ちやすいので慎重に行う。それから、針をビンのゴムから抜き取るときには、ビンの中が空っぽになっていないと、液が飛び出す危険があるので注意する。おいらは一度失敗し、べとべとのハイゼントラの液がそこら中に飛び散ったことがある。

 シリンジに溶液が移ったらプラスティックの針を取り外し、シリンジ内の空気をできるだけ押し出す。そして、50cmほどのチューブがついた点滴針をシリンジに取り付け、針の先の少し手前まで液を流し入れる。その後針を体に刺して固定してから、最後にシリンジを輸液ポンプにセットし、輸液速度を設定すれば準備完了である。いざ開始ボタンを押して液を流していく。

 輸液速度は人によって違うようだが、おいらの場合は20mL/hで入れるよう指示されている。しかし実際はもっと早く終わってほしいので、22mL/hくらいでやってしまう。自宅点滴なら医師も看護師さんもいないので、こういうときにズルできる。しかし、このズルも効かなくなった。ズルして速度を上げるとすぐにつまって警告音がなりとまってしまうのだ。結局20mL/hでやるほうがすんなり入って早かった。

 針を刺すときも痛いが、液を入れているときもピリピリしたりして痛いときがある。刺す前に、保冷剤で肌をじっくり冷やしておくと感覚がなくなり痛くなくなるが、それでも液を入れているときのピリピリは残る。針は細いし普通のサーフローの点滴よりはるかに痛くないはずだが、自分で刺すという恐怖心も相まって、かなり痛く感じてしまう。いざさすときは何度か深呼吸し、呼吸を止めて一思いに刺す。ここで恐怖心に負けて迷いがでるとなかなか針が皮膚に刺さらず、さらに痛い思いをする。一気にぷっと刺してしまうのが良い。全ての準備を終え点滴を開始してしまえば、しばらくまったりと横になって終わるの待てばいい。液がある程度入ると、皮膚がもっこりと膨らんでたんこぶができたようになる。それがまた少し痛いけど2、3日すれば引いてくる。

 ずいぶんと細かくほとんどの人が興味ないことをダラダラと書いてしまったけど、こんな感じでハイゼントラは痛いし面倒くさいのでできればなくなってほしい。糖尿病のインシュリン注射や人工透析などと比べれば全然頻度も少ないので、この程度で憂鬱になってはいけないのだろう。しかし、ハイゼントラの点滴をしながら横になっていると、まるで入院でもしているような非日常性を感じてしまい、なんだか少し憂鬱な気分になってしまうのだった。

至福のひととき

今おいらの幸せな時間は、飲み物を飲むときである。数年前から水分制限のために慢性的に口渇感がひどく、水分を口に含ませるのがとても心地よいのだ。口が渇く原因ははっきりとしないが、多種の利尿剤を飲んでいるせいなのか、ともかく唾液がでにくい。かといって腹水やむくみが悪化したりするので、水をがぶがぶ飲むわけにはいかない。そこで、しょっちゅう口をゆすいだりするのだが、うがいするとなぜかその後余計口が渇く。そんなわけで、頭の中はいつも何か飲みたい飲みたいという気持ちでいっぱいである。

 街に出れば、自動販売機など飲み物をつい目で追ってしまう。人が何か飲んでいるのを見るとうらやましくて仕方がない。レストランに入れば、すぐ水に口をつけてしまう。口渇感がなかった頃の感覚がもう思い出せない。家族や周囲の人を見ても、そんなに喉が渇いていたり、あまり水分をとっているようには見えないが、なぜそんなに喉が渇かないのかと不思議でならない。だから、たまに喉が渇いたとがぶがぶ飲んでいる人を見ると妙に安心してしまう。そうだよね、のど渇くよね、がぶがぶ飲みたいよねと、共感する。唾液がでるようにと、アメやガムを食べたりしたときもあったが、食べている最中はいいものの、終わるとさらに強烈に口が渇いてしまい後悔する。ただでさえ少ない唾液を出し切ってしまい、全くでなくなってしまったかのようだ。こんなに口が渇くのは、気持ちの問題もあるだろう。かつて水分を気にせずとれるときは、特にがぶがぶ飲みたいという欲求はなかった。飲んではいけないという我慢が、かえって禁断症状となりがぶ飲み欲を強めているかもしれない。

 水分をとりすぎないためにも、少量をこまめにとるのが本当は良いのだろうがそれではまったく満たされない。そんなわけで、ペットボトル500mlを一気飲みするのがおいらの夢である。特に飲みたいのは炭酸飲料。最近は炭酸ブームのようで、多様な炭酸飲料がスーパーなどに陳列されていて、おいらを誘惑する。あれもこれも飲みたくて仕方がないが、我慢しなくてはいけない。しかしあれだけ誘惑されるともう我慢の限界で、ついに無糖の炭酸水に手を出すようになった。

 本当は500mlをがぶ飲みしたいところだが、一度に飲む量を200か多くて300mlでとめている。でもそれでも十分炭酸飲料を堪能できる。大量に飲むと炭酸ガスがゲップででて、鼻がツーンとするがそれが何とも気持ちいい。げふげふとゲップがでるのが楽しすぎる。あーおいしいな、幸せだなーと心の中で叫んでしまう。200か300くらい飲むと流石に唾液もじゅわじゅわとでるようになり、しばらく口の渇きがおさまる。それがまた中毒になる。もっともっと飲みたいと禁断症状がでてしまう。

 無糖の炭酸水にしているのは、健康面もあるが罪悪感を減らしたいという気持ちが大きい。甘い炭酸飲料をがぶ飲みして体調を崩しては言い訳のしようがないが、無糖の炭酸水なら水と一緒だしまだましかななんて思ってしまう。何種類かの炭酸水を試したが、おいらが一番気に入っているのはサントリー天然水スパークリングレモン味。炭酸が強く、ゲップもいい感じにでる。レモンの香りもよく、無糖なのになんだか甘みを感じることができる。ネットを見ると、同じのを気に入って箱買いしている人もいるようで、その人は一日に2本も3本も飲んでいるようだ。うらやましすぎる。おいらは500mlを二日くらいに分けて飲んでいるのに。いいな、いいな、とついに我慢の限界が来てこの間一日で500ml飲んでしまった。最高に幸せな一日だった。でもそのつけは当然あり、腹水が悪化して体重が増えてしまうのだった。

 おいらのもう一つのがぶ飲みタイムは、職場で休憩がてらにとるティータイムである。炭酸飲料と同じくらい紅茶にはまっていて、アツアツの紅茶をごくごくと飲むと、たまらなく幸せになる。おいらはとくにフルーツのフレーバーがついた紅茶が好きで、海外の紅茶メーカーからでているフレーバーティーのティーバッグがめちゃ美味しい。紅茶も200mlを一度に飲むが、このくらいなら腹水もわるくならないので罪悪感無く楽しめる。また、熱いので一気飲みできず、紅茶の香りをかぎながら長く味わうことができる。この一杯を飲むだけで、今日は幸せな日だったなと思うことができる。安い人生だな。

 さあ、そろそろティータイムだよ。今日もがぶがぶ飲んで幸せな一日にしよう。