ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

所信表明

今朝、ニュースで優生保護法についてやっていた。現在は廃止されているが、平成8年までは施行されていたそうで、特定の障害を持つ人に対し、本人の承諾なしに不妊手術を受けさせることができる法律だった。先天性心疾患は遺伝性は低いものの、一昔前だったらおいらもまた手術を受けさせられる立場だったかもしれない。こうした法律があるように障害者への差別はいつの時代もなくならない。

 一方で、自分が障害者の立場になって以来、この国の福祉にとても恩恵を受けている。その手厚さに改めて驚くほどである。2年ほど前に障害者手帳を取得してから、様々な場面で手帳を示して、割引をしてもらっている。公共の博物館や美術館、交通機関、さらには温泉まで。おいら自身だけでなく、時には付き添い人も割引対象になるときがある。また、福祉医療制度によって、現在医療費のほとんどは支給されている(入院時の食事代など保険適用にならないものは除く)。また、昨年から障害基礎年金も受給できるようになった。税金の障害者控除もある。細かいところでは、電車などの優先席に座れたり、スーパーなどの駐車場の障害者用のスペースに停められたりもする。実際、電車で立ち続けたり、店舗から遠いところに車を停めて歩くのはおいらにとってかなりしんどいことなので大変助かっているのだが、こんなに優遇してもらっていいのだろうかと思わなくもない。

 こんな待遇を聞くと、障害者は社会の負担だと心のどこかで思ってしまう人もいても仕方ないかもしれない。おいら自身も、申し訳なく思いもする。だからというわけではないが、おいらは障害者の権利や差別撤廃に向けて声高々に主張することができない。障害者のことを負担に思ったり、気の毒やかわいそうと思ったり、正直自分は障害を持ちたくないという気持ちは自然のことのように思う。それを差別だと非難しては、余計に解決が困難になりそうだ。障害はやっぱりしんどいし、持っているとつらいことが多い。できれば持ちたくないというのは障害者自身も本音の気持ちだろう。

 でも、障害には負の面だけでなく正の面もある。おいら自身も、病気によってある意味かなり特殊な経験をし、それがおいらの人格形成に大きな影響を与えてきた。障害を否定していては、おいら自身を否定することになってしまう。4月からの職は、一見障害とは関係のない生物学の研究職である。しかし、きっと工夫を凝らせばどこかの場面で障害者としての視点や立場を生かせるときがくるだろう。健常者のようにばりばり仕事はできないが、おいらを雇ってよかったと思えるようなおいらにしかできない役割を果たせるように努めたい。まだ働いてもいないのに、ちょっと気の早い所信表明となってしまった。

おのおの抜かりなく

おいらの就職活動が終わった。先週受けた遠方での面談で、正式に採用されることになったのだ。4月からフルタイムの研究職に復帰する。ちょうど昨年の今頃、おいらは地獄入院のさなかにあり、生きるか死ぬかをさまよっていたことを思うとまさに奇跡的なことである。正直、もう二度とまともな研究職にはつけないだろうと思っていた。だから本当に本当にありがたい話である。

 4月からの勤め先は、今住んでいる環境とは真逆の南国の島である。今住んでいるところは、ときに本州で最も寒くなり−20℃もまれではない地域である。豪雪ではないものの1m以上は積もり、標高は1300mになる。先天性心疾患、特にフォンタン患者にとって寒さと高標高は大敵である。先行研究でも、高標高に住む患者ほど心不全になりやすく、運動機能が低下しやすいという報告がある。そんなわけで、南の島への移住は、心臓にとってもいいはずだ。仕事も決まり、体にも良い場所へ住めるなんて、これ以上になくめでたいことである。

 しかし正直おいらの気持ちは重かった。話が決まってからも、本当に移住していいのかと悩みに悩んだ。それは、ひとつに今の地域にもう大分長く住み愛着を感じていたからだ。おいらだけでなく、妻や子供もすっかり地域にとけ込み、知人友人ができていた。そうした人々と別れるのはとても寂しい。息子はスキーにはまり、ほぼ毎日練習に励んでいる。移住先は南国なので当然スキーなんてできなくなり、それもかわいそうでならない。それから、今の地域の食べ物がとてもおいしいのが名残惜しい。山国なので海の幸はないが、果物や野菜がとても新鮮でめちゃくちゃおいしいのだ。おいらは、桃、梨、ぶどう、りんご、みかん、など食べまくってのどを潤した。それは水分制限で常に口渇感が耐えないものには、命の恵みであった。それらを失うのは本当に寂しい。

 そして、体の心配もある。移住先は温かくて心臓にはいいはずだが、夏はかなり暑いので今度はそれに耐えられるだろうか。新しい地域での病院はちゃんとケアしてくれるだろうか。現在かかっているNC病院は、本当に良くしていただいた。この病院がなければおいらはとっくに死んでいただろう。NC病院から離れることは不安が大きい。そんなおいらの不安に追い討ちをかけるように、先週いった定期検診では、血中蛋白の値が少し低下していた。もちろんまだ入院するようなレベルでは全然なかったが、もしこのまま低下し続ければ、最悪移住早々入院なんてこともありうる。そんなわけで、折角一度は減量したハイゼントラを再び増量することになった。

 職に就くという頂上は見えたものの、まだデスゾーンは脱していない。体は相変わらず寒さとプレドニン離脱症状で、朝は特に頭痛や関節痛、だるさなどに悩まされている。先日面談にいった際には、帰りの飛行機で案の定体調を崩してしまった。今後移住すれば何かと飛行機に乗る機会が増え、その度に体調を崩さないかと不安になった。引越の準備も進んでいない。場所が場所だけに、引越費用が異常に高く見積もられ、ある引越業者からは100万以上といわれた。とても無理な話なので、なんとか安くならないかと模索している。実はまだ移住先の住む家も決まっていない。現地での下見をせずに契約をしてくれるところがなかなかなくて、次々断られている。

 いっそ今のところに住み続け、研究職にこだわらずなにか障害者枠の職でもつけば良かったのではないかと悩みもする。でもそれはそれでリスクが大きいだろう。40歳にもなって、体が不自由のなか初めての仕事をするのはかなり疲労も大きいと思う。おいらは、才能もない3流研究者だけれども、一応研究者になるための高等教育を9年受け、その道で11年仕事して食ってきたのだ。研究職を続けることが一番おいらにとって合っていることは間違いない。いろいろ悩むところは多いが、ここは腹をくくって研究者としての人生に掛けるのだ。年は食ったがそんじゃそこらの研究者には、負ける気がせん。

ひとりじゃない

目覚めると、視界ははっきりしなかった。見える物は全てがぼやけ、光のスジが何本も見えた。徐々に感覚が戻ってくるにつれ自分の置かれた状況がわかってきた。口には呼吸器が入り、しゃべることもできない。ベッドの上に寝ているのはわかるが、全身ほとんど感覚はない。ピコピコと心電図の音や呼吸器の轟音がうるさくなり続けている。あとでわかったことだが、光のスジは天井についている蛍光灯の明かりがぼやけてスジのように見えたのだった。

 ふと、誰かがベッドサイドにきて、おいらの手を握り声をかけてきた。何人かいるようだ。だがそれが誰なのかははっきりしない。親なのか妻なのか、それとも医師か看護師なのか。あとでいわれたが、そのときのおいらは大分間違って認識していたらしい。ともかく親族の誰かが声をかけてくれたのだろうと思い、何か話そうとした。しかし、呼吸器が邪魔で声が出ない。そこで、ノートに文字を書こうとしたが、自分で書いている字が見えず、ぐちゃぐちゃになってしまった。そこで、文字盤を用意してもらい、指指しで一文字ずつ伝えることにした。だがそれも自分の指が見えずにどこをさしているかわからない。なかなか伝わらずおいらはといらついた。

 その後どのくらい時間が経ったのだろうか。数時間かあるいは一日か、やっと呼吸器が外された。呼吸器をはずすときは、のどの奥まで挿入された固いパイプを外すため、かなりきつかった。外した後ものどが痛み、口も自由に動かなかった。声を出そうとすると、宇宙人のようなかすれた声が出るだけだった。

 これは二年前の2015年6月に、フォンタン再手術を受けた直後の目覚めたときの状態である。今となってはかなり記憶が薄れてしまった。手術直後といっても手術後数日は麻酔で寝ていたので、実際は2日くらい後のことである。記憶が薄れたとはいえ、やはりそのときの状態はあまりに苦しかった。手術前から大手術になり術後もかなりつらい思いをすることを覚悟していたが、現実は想像を絶するものだった。痛みと苦しみが暴風雨のように全身を襲ってきた。絶望的なこの状況から逃げ出したかったが、どうすることもできずともかくひたすら我慢して時が過ぎるのを待つしかなかった。時間が経てば少しずつでもきっと楽になる、そう希望を持ち耐えに耐えた。少しでも気を緩め気持ちが負ければ、途端に気が狂ってしまいそうだった。一息一息全身で呼吸し、呼吸に全神経を集中させた。

 このときのおいらは、死に限りなく近かった。無数の点滴やドレーンにつながれ、鼻には酸素吸入器がついて、ものすごい勢いで酸素を送っていた。まるでドライヤーを当てられているようだ。常にバイタルをモニターされ、24時間態勢で看護師や医師が監視していた。そんな状況の中、もしわずかでもこうした生命維持が止められたら、おいらは一瞬で死ぬだろうと強く感じたのだった。自力で命を維持する力は全くなかった。おいらの肉体はもはや生命体ではなく感じられた。実験で細胞だけが生きている臓器のようなものだった。そこから、生物として自力で命を維持するまでに回復するのは絶望的に遠く感じられた。でもそういうときこそ耐えるしかなかった。おいらにできるのはただ我慢して耐えること。耐えるといっても歯を食いしばって我慢するのではなく、苦しみや痛みに逆らわず今の状況に身を委ねじっとしていることだった。気持ちが折れずにそれを続けていればいつか回復する。そう信じた。そう信じられたのは、医師や看護師や家族が全力でおいらの命を救おうとしてくれていることがひしひしと伝わってきたからだ。もはや職務や責任を超え、心から助けたいという思いが伝わった。赤の他人のおいらを、なぜそこまで命を守ろうとするのか不思議なくらいだった。

 こうしておいらは救われた。我慢のかいがあり、希望通り少しずつ回復していった。その後の回復期も我慢の連続だった。水分制限でからからに口が渇いた。手術の傷口の消毒やドレーンを抜いたりなどは激痛だった。後に傷口が化膿し、切開したりなど新たな痛みが襲った。筋力が失われ歩行練習などのリハビリが続いた。でも、毎日少しずつ回復していく実感があった。

 フォンタン手術を始め先天性心疾患の開胸手術は、ほとんどの場合子供の頃に行われる。最近はフォンタン手術も3歳くらいまででやってしまうそうだ。おいらの最初のフォンタン手術は13歳のときだった。子供の方が術後の回復が早く、体の負担も少ないからだ。また、苦痛のコントロールもしっかりやるので、手術もそれほどしんどくない。実際おいらも、ファミコンをもらって入院最高と思うほど、お気楽だった。しかし、大人になるとそうはいかなくなる。おいらのフォンタン再手術も相当手こずったらしい。まず、子供の頃の手術の影響で心膜と骨の癒着がひどく、それを剥がすだけで5時間以上かかった。結局全体で22時間の手術となり、さらにその手術で出血が止まらなくなり、出血を止めるため2日後に再び5時間の手術を受けた。冒頭の目覚めは、その二つの手術を終えた後の話である。

 おいらのように旧式のフォンタン手術を受け、現在成人になっている人は何らかの合併症がでるとフォンタン再手術を受ける可能性が高い。おいらは比較的高齢での再手術だったため、なおさら苦労したのかもしれないが、だれであれ大人になってからの再手術はかなりの苦痛をともなうだろう。それは子供の頃とは比べ物にならない苦しみである。もしこれから再手術を受けようとしている人がこの文を読んだら、憂鬱になるかもしれない。でも、楽だったとか気休めのことはいえない。相当の覚悟が必要だと思う。

 こんな苦しみは本来受ける必要はないし、受けなくていいものだ。でもおいらはこの手術によって、それだけの価値のあるものを得たように思う。普通の生活の中では到底得ることのできないものだ。おいらは、この手術の前と後ですべてが変わったように感じる。身体も精神も考え方も行動もすべてが変わった。中にはいい意味でない変化もある。例えば筋力の衰えや腎肝機能の低下などは、未だに引きずっている。体が動かなくなり日常生活は格段に不便になった。一方で、不整脈がなくなったり、蛋白が安定したりなど改善した点も多い。

 想像を絶する苦しみを味わい、日常が不便になった分、些細なことに喜びや幸せを感じるようになった。手術後初めて口にした水分には、これまでの人生の中で最大と思えるほどの快感を感じた。わずか数十CCだったが、全身に染み渡るようだった。管が一つとれ、苦しみが少し減るたびに感動した。だが特に繊細になったのは、人の優しさだった。家族や医師や看護師さんに少し優しくされるだけで、涙があふれた。その涙には、感謝の気持ちと助けてという気持ちと、生きている実感を得た感動の気持ちなどいろいろ含まれていた。それがちょっとしたことであふれてしまうのだった。以前のおいらは、他人の優しさや感情に半ば無関心だった。どんなに親切にされても、感謝の意を示さず、当然のように振る舞っていたと思う。今もまだそういう面があるかもしれないが、それでも手術後に少しでも人の親切に気づくことができたことがよかった。それはこれからのおいらの人生を明るく照らす光のスジにちがいない。

 これから再手術を受ける方には、手術は地獄のように苦しいが頑張って欲しいと心から願う。きっとあなたの周囲には、全力で命を救おうとしてくれる人々がついていてくれるはずだ。決して一人ではない。

フォンタン術後の長期死亡要因

昨年、フォンタン患者の長期予後に関する論文が新たに発表された。

Tarek Alsaied,Jouke P Bokma,Mark E Engel,Joey M Kuijpers,Samuel P Hanke,Liesl Zuhlke,Bin Zhang,Gruschen R Veldtman. 2017. Factors associated with long-term mortality after Fontan procedures: a systematic review. Heart 103: 104-110.

大変興味深い内容だったので読んでみたのだが、難しくてあまりよく理解できなかった。わかった部分をおおざっぱに解説すると次のような内容だった。

 論文はレビュー論文(新たに実験してデータを取ったりするのではなく、先行研究の論文を沢山調べてこれまで発表された知見を整理する論文)。数ある論文の中からいくつかの条件を満たす28の論文(6707の患者のデータ)についてまとめた。

 その結果、6707人の患者のうち、1000名が死亡した(平均年2.1%の死亡率)。フォンタン術後の死亡要因は、35種類に分けられた。そのうち特に要因として多かったのが、*心不全(heart/Fontan failure, 22%)、*不整脈(16%)、*呼吸不全(15%)、*腎疾患(12%)、血栓症(10%)であった。このほかに、*フォンタン術を1990年以前に受けた人、左心低形成症候群(または、*解剖学的に右心室が体循環を担っている人)、*7歳以上でフォンタン術を受けた、*APCフォンタンの人、*術後ドレーン留置が長かった人、フォンタン圧が20mmHg以上、左心房圧13mmHg以上、*不整脈、*心不全血栓を持つ人、*蛋白漏出性胃腸症、鋳型気管支炎、*肝硬変、*低ナトリウム血症、*BNPが高い人などである。(*印はおいらが該当する要因)。

 この論文でも改めてわかるように、おいらは死亡リスクの高いフォンタン患者であるようだ。だから、今こうして比較的元気に生きていられるのは奇跡的なことかもしれない。実際、おいらの親は昨年の地獄入院のときの様子を知っているだけに、奇跡だ奇跡だと今だにいっている。でもこの程度で奇跡は終わらせたくない。今はまだ就活中、リハビリ中で、人並みの日常生活を送れていないけど、いつか定職に就き、仕事をして給料をいただき、家族を養い、休日や趣味を楽しみ、という生活を送ってやるのだ。障害施設連続殺傷事件以来、障害者は社会に不要などという意見も耳にするが、このおいらが不要でないことを証明してやるのだ。グレートな研究成果をあげて、人類に貢献するのだ。それは夢のような話だけれど、今までこんなに奇跡的な人生を送れたのだから、これからも奇跡が起こるんでないかい、と淡い期待を抱いているのである。

障害は自己PRになるか

ここ最近のおいらの主な活動は、就職活動である。つい先日も、筆記試験と面接を受けてきた。来週もまた、面接を受けに遠方へ赴く。就活では、おいらは病気のことを正直に打ち明けることが多い。応募書類に書いたり、面接のときにも話したりする。しかし、現実には病気のことを話してしまうと不合格になる可能性が高いだろう。もちろんあからさまにそんなことをすれば障害者差別になるだろうが、職務内容に体力が必要な業務が明記されていることも多く、暗に断られていることがままある。だから、病気のことは話さず応募しようかと毎回悩む。実際、応募書類に健康診断書などを求められなければ、表記する義務はない。自分に不利になるようなことはあえて書く必要はない。

 だが、病気は酒癖が悪いとか変な性癖があるとかと違い、欠点とはいいがたいところがある。それに、おいらの先天性心疾患は一生ものであり、なくなることがない。だから、もし採用されて働き始めれば早々に分かってしまうことだろう。あとで分かってこんな人とは思わなかったといわれても、やるせない。それに病気と知らず、体力的に無理な仕事をいろいろ頼まれてもできない。そんな訳で、後でお互いに後悔しないためにも、あらかじめ知ってもらった方がいいだろうと思って話している。

 応募書類には、できるだけ病気を持つことがプラスになるように書いている。たとえば、病気があることで人とは異なる経験をしたとか、独自の考え方が身に付いたとか。あるいは、業務内容が障害と関係づけられば、その点をアピールするなどだ。たとえば、里山創成学の研究職では、障害者にとっても生活しやすい里山創成をめざすなどとアピールした。

 残念ながらいまのところ採用には結びついていない。客観的に考えれば、おいらのように半年近くも入院したり、しょっちゅう通院したり、一日中働くのがしんどいような人物を雇用したいとは思わないだろう。今おいらは、フルタイムの職ばかり応募しているが、実際にフルタイムで働けるか不安がある。週5で40時間が基本で、ときには残業や出張、休日出勤もあるだろう。今のおいらの体力ではとてもこなせそうにない。そうなるとパートタイムの比較的楽な業務の職しかないが、そういう職は給料も安く、とても妻と子供3人で食べていかれない。現実的にはフルタイムの職は、障害者本人にとっても雇用側にとっても厳しいのである。

 おいらは、週5日・一日8時間、集中して勤務することは土台できないと諦めている。だから、8時間のうち人一倍集中する時間を作り、その時間で一日分の成果が出せるよう努力していきたいと思う。そして、目指すはおいら独自のオリジナルな仕事のスタイルを確立し、その職場で唯一無二な役割を果たせるようになることだ。障害者は意外にもそういう役割を演じやすい存在だと思う。たとえば、すごく単純なことだけど、仕事中ちょっとお茶して休憩しようとかは、障害者だからこそいいやすい特権に思う。その延長で、残業はやめよう、休日出勤もやめよう、もっとのんびり仕事しようなんてことも障害者だからこそ説得力を持っていえるかもしれない。障害者は、今問題になっている長時間労働、過労、ブラック企業を解消する救世主になるかもしれないのだ。だったら、なおさら企業側からすれば、障害者は厄介者かもしれないね。

デスゾーン

 世界には、標高8000mを超える山が14ある。8000m以上の環境は、酸素濃度が地上の約3分の1となり、これまで多くの登山家が死亡してきたため、「デスゾーン」と呼ばれている。その死亡率は、多くの山で5%以上になっているそうである。デスゾーンを攻略し、意識が朦朧とする中、山頂に立った登山家には、神々の姿が見えすらする。

 新年に入り、おいらはステロイド剤(プレドニン)の服用が8mg/日に減量された。ここ数年8mg以下に減量すると、蛋白漏出性胃腸症が再発し、入院して再び40mgほどに増量というのを繰り返してきた。昨年の地獄入院もまた、8mgへ減量した後に起きた。だから、8mgはおいらにとってデスゾーン突入なのである。さらに今回は、利尿剤とハイゼントラも合わせて減量した。つまり、以前より水分が溜りやすくタンパク補給が少ない状態での突入である。まるで、無酸素で8000m峰登頂を目指すようなものである。

 今のところ、まだ体調は良い。利尿剤(ニュートライド)をなくし、多少おしっこの量は減ったもののそれなりにでている。浮腫んだ様子も感じられない。しかし、一方でステロイド離脱症状に当たるような症状もでてきている。倦怠感、関節痛、気力の低下、寒気、異常な眠気、胃腸のもたれ。だから、決して油断してはいけない。

 寒い冬の時期でのデスゾーン突入は、特に危険が大きい。ただでさえ、寒さで心臓の負担が大きく体調が悪くなりやすい。これまでも冬期に体調を崩し入院することが多かった。だから、8mgへの減量は春になるまで待った方がよいとも考えた。実際、医師はもっと早くから減量したそうだったが、とりあえず年明けまでは様子が見たいということで先延ばししてもらっていた。しかし年明け最初の診察で、医師はもういい加減減らしたそうだったので、挑戦してみることにしたのだ。

 ちなみに今年は、おいらは本厄の年である。そんな年にデスゾーン突入はかなり薄気味悪いが、厄年は悪いことばかりではなくいいことも大きく起こるぶれの大きい年なのである。もしかすると、ここ数年失敗し続けたデスゾーンをついに攻略し、そのまま良い体調を維持できるかもしれない。ここ半年の回復ぶりからは、それを十分期待できる。離脱症状で意識が朦朧とする中、デスゾーンを突破し、おいらも神々の姿を拝みたい。

入院最高!

この年末、サンタさんからファミコンが贈られてきた(息子に贈られたものだけど)。おいらの手元にファミコンが来るのは子供の頃と合わせてこれで2度目になる。おいらの子供時代1980年代はファミコン全盛期だった。しかし、ファミコンは当時は高く、おいらの家は厳しい教育だったので、ファミコンを買ってもらうなど夢のまた夢だった。

 そんなころ、おいらが8才の1984年に二度目の心臓手術を受けることになった。今後フォンタン手術を受けるための前段階として肺動脈形成術である。入院中は親も親戚も知人も皆とても優しくしてくれる。そしてほしいものがあれば、買ってきてくれたりもした。ここぞとばかりファミコンをおねだりしたかったが、子供ながらに遠慮してしまい、おいらはゲームウォッチをねだった。ゲームウォッチとは、今でいうnintendo DSのような携帯型ゲーム機のことで、ゲームのソフトを換えることはできず、1つの機械に1つのゲームだけが遊べるものである。また、液晶画面に表示できる絵柄はデジタル時計のようにあらかじめ決まっていて、基本的に単純なゲームしかできない。

 しかしそれでも、退屈きわまりない入院生活を送るには、ゲームウォッチは最高のアイテムに思えたので、しつこくおねだりした。そしてついに親が買ってきてくれた。ところが、病室に現れた親の手にはゲームウォッチにしては大きすぎる紙袋をぶら下げていた。紙袋から現れたのは、ゲームウォッチの100万倍すごいファミコンだった。一体何を勘違いしたのか、親はファミコンゲームウォッチだと思ったらしい。一緒に買ってきたソフトはパックマンとワープマンという、どちらも今からするとかなり地味で単純なゲームだった。とはいえゲームウォッチに比べれば、圧倒的な差がある。フルカラーで自由自在な操作性、耳に残るBGMに強烈な効果音。アーケードゲームもやったことがないおいらにとって、初めて手にする本格的なゲーム機は凄まじく衝撃的だった。

 ファミコンはおいらだけでなく、周囲の人も一瞬で虜にしてしまった。同じ病室に入院している子たちはおいらのベッドに群がり、すぐに噂は広まり別の病室からも子供たちが押し寄せた。当然こんな状況を看護師さんは許すはずはなかった。わずか2日ほどでファミコンが禁止され家に持って帰ることになったのだった。結局すぐに退屈な入院生活にもどり、見かねた親が本来ご所望のゲームウォッチを買ってきてくれた。すでにファミコンの衝撃を受けた後では、ゲームウォッチはかなり色あせてみえたものの、家にファミコンがあるのが楽しみで、なんとか入院をのりきった。

 そんなわけで、今でこそ入院は地獄であるが、このころのおいらは「入院最高!」とほざいていた。今たとえファミコンがやり放題だとしても二度と入院はしたくはない。それに、最近の入院では、パソコンにゲームをダウンロードしたりブラウザゲームを立ち上げたりしていくらでもやっていたが、それでも死ぬほど退屈だった。

 8才の手術から退院したあとは、すっかりファミコン少年になり、友達とファミコンをしまくった。どんどんとファミコン中毒となり、お年玉でゲームソフトを買い、普段は遊ばないクラスの女子からもゲームソフトを借りたりした。ときには、友達の家にゲームソフトを借りにいって、友達がいないとその兄弟や親にお願いして借りたりもしたが、あとでその友達が怒り狂ってやってきた。ともかくゲームへ対する欲望がすごく、ゲーム中毒がおさまったのは中学になって友達がスーパーファミコンとかを手にするようになってからだった。今度は、おいらの家にそうした次世代ゲーム機はやってこなかった。

 それから約30年後、再びおいらの元にファミコンが登場したのだった。今ではレトロゲームと呼ばれ、ファミコン世代のノスタルジーに浸るためのアイテムにすぎないともいわれているが、それでもやはり実際手にすると嬉しい。初めてファミコンをしたときの衝撃、本来地獄であるはずの入院を最高といわしめるほどの感動が、よみがえるようであった。子供の頃のワクワク心躍る気持ちが思い出された。さすがに、今は子供の頃のように何時間でも飽きずにはできないが、小一時間やるには今でもとても楽しめた。そしてノスタルジーのない息子にはレトロすぎてつまらないかと思ったが、意外にもめちゃめちゃはまっていた。息子と二人で大笑いしながらファミコンをしていると、なんだかとても幸せに満ち足りた気分になれた。だから今も昔もおいらにとってはファミコンをしていると生きててよかったと思える瞬間なのだ。