ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

体重は物語る

明日はまた診察である。しかし、この1週間の体重の変化からだいたい検査結果の予想はついている。2週間前にフルイトランを毎日飲み続けた結果、大量に水抜きされ、タンパク量は大幅に改善した。その反面、脱水気味となり、フルイトランの服用を中止した。服用をやめるとみるみる体重が増え、体に水が溜まっていった。毎日800g増加した。体重が51kgを越すと入院レベルの危険域である。そこで、フルイトランを再び飲み体重の調整を図ることにした。

 2週間前はフルイトランを朝と夕に1錠1mgずつを飲んでいたが、まずは一日一回朝夕のどちらかで飲んでみた。体重の増加は止まった。しかし、減ることはなかった。1錠では現状維持が精一杯のようだ。そこで、朝夕と飲んでみると、期待通り体重は減り、49kg台に落とすことに成功した。その後は、1日に1錠のペースで飲み、体重をキープしている。最後通告の時が51.5kg、先週の劇的改善の時が48kg、そして今がその中間の49.8kg。だから、タンパクの量も最後通告時と改善時の中間あたりになるだろうと予想される。ズバリその予測値は、総タンパク5.0、アルブミンは2.9、IgGは610である。 

 正直、この予測通りだとあまりいい値とは言えない。できれば劇的改善の状態を維持してほしいが、まずは予測を上回るように、今晩は鳥の胸肉をたっぷり食べて駄目押しのタンパク補給することにした。これまでもタンパクが低下すると、低脂肪高タンパク食に切り替えて回復を図ろうとしてきた。牛乳の代わりに豆乳や低脂肪乳を飲んだり、豆腐を食べたり、肉も脂肪分の少ない部位を選ぶか魚にした。脂肪は消化がしにくく胃腸に負担をかけるため、タンパク漏出に拍車をかける危険があるからだ。さらに、水分制限もついているのでまるで試合前のボクサーのようだ。ボクサーにとって試合前の食事・水分制限は相当辛いものだそうだが、おいらにとってもやはり精神的に大きなストレスになった。食事のメニューが限られるし、脂が少ないものが続くと無性に脂っこいものが食べたくなるのだ。おいらは、PLEが4年前に発症して以来トンカツを食べていないが、ずっと食べたくて仕方がない。

 もし明日予測を上回ったら、ご褒美に4年ぶりにトンカツ食べちゃおうかな。でもそれをしたら、その後恐ろしく体重が増えるに違いない。おいらは試合の後も体重調整が引き続くのである。  

大放水

先週、入院の最後通告を突きつけられたが、フルイトランという利尿剤を増やしてあと一週間悪あがきすることになった。水抜きすれば、血中タンパクの濃度が上がるからだ。さらに駄目押しに、ハイゼントラ4g/20mLを2本打つことにした。これらの対処療法は見事に功を奏した。利尿剤により毎日尿が大放水され、体重が1週間で3kg以上も減った。そして今日の血液検査で、総タンパク(TP)は4.3から5.7へ、アルブミン(ALB)は2.5から3.3、IgGは460から750へ軒並み増加していたのだ。これくらいの値があれば、当面入院の心配はない。

 琵琶湖面をすれすれに飛ぶ人力飛行機のような瀕死状態だったが、奇跡が起きて突如に水位が下がり湖面までの距離が広がったようなものだ。もうしばらくは安心して飛行することができる。奇しくも、今日の診察で主治医の先生が「低空飛行を保っていきましょうね」と例えられていた。

 この一週間の治療は、焼け石に水のようなものだと思って入院を覚悟していたが、予想外の成果があったと言える。何よりタンパクの値のコントロールに方針が立ったことだ。体の水分が増え、体重がある一定以上になった時には(おいらの場合は51kgが目安)、フルイトランを飲みハイゼントラの増量する。そしてタンパク質量が回復したらそれらの服用を中止する。今後はこの調整によって、タンパク質量を一定に保つことができそうである。入院するどころか、非常に明るい見通しを感じて病院を後にしたのだった。

 ところで、本物の琵琶湖の水位も、国土交通省の管轄事務所が水門をコントロールすることで絶妙に調整されている。それ以前は水位が上がったりして、周辺地域の洪水被害が度々あったそうだ。調整によって、その危険がなくなった。しかし、こうした人為的なコントロールは時として自然に弊害をもたらす。琵琶湖岸の砂浜には、タチスズシロソウという絶滅危惧の植物が生育していた。この植物は、他の植物のいない開けた砂浜を好む。しかし、水位が安定すると砂浜の攪乱が起こらなくなり、砂浜に他の植物が侵入することになった。結果、タチスズシロソウは他の植物との競争に負けて、個体数が激減したのだ。タチスズシロソウのように、洪水などの攪乱が度々起こる環境を好む植物は意外と多い。洪水が起こるとタチスズシロソウ自体も流されてしまうが、洪水後の開けた砂浜に砂の中に残った種子が一斉に発芽する。そうして洪水以前よりも多数の個体が定着して、新たの種子を大量にばらまくのである。幸いタチスズシロソウの場合は、ビーチバレーコートのために琵琶湖砂浜を掘り起こして整備したところ、偶然にも大群落が復活していたことが十数年前に発見された。実はそれを発見した研究者はおいらの知り合いで、おいらもその大群落の調査に参加したことがあった。

 その調査の時はなんと奇跡的な現象だと思いながらも、まさか遠い将来のおいらを予言しているとは思わなかった。 おいらは、利尿剤によって体内の水位を調整したことで、ある面では体調を維持できるようになった。が、放水しすぎで脱水気味になり、尿と一緒に微量元素が排出されてしまい、夜中度々足がつるようになってしまったのだった。おいらにとって微量元素はタチスズシロソウであり、水位調整で失われかねない存在なのだ。どちらも一見それはあまりに微量で体(琵琶湖)に大した影響はなさそうだが、いざ失われると全体のバランスを崩しかねない役割を持っているのかもしれない。危ない危ない。生物学者でありながら希少な存在を安易に見過ごすところであった。そんなわけで今週はフルイトランを一旦停止することにした。

鳥になりたい

日本最大の湖、琵琶湖。その湖で、毎年鳥を夢見て人々が熱い挑戦を繰り広げている大会がある。鳥人間コンテストは、おいらが子供の頃毎年楽しみにしていた番組だった。いつの時か、ついに琵琶湖対岸まで飛行して飛行距離の限界に到達するまではよく見ていた。湖面すれすれを飛びながら、なんとか持ちこたえて低空飛行を続ける人力飛行機の姿は、とてもハラハラした。飛行機のペダルを漕ぐ操縦士の苦しそうな様子が、また緊張感を高めた。落ちそうで落ちない、なんども水面につきそうになりながらそのたびに少し浮上して飛行するスリルがたまらなかった。そして、いよいよ体力の限界が来ると、操縦士は最後の力をふりしぼってペダルを漕ぎ、少し浮上したかと思うとすぐに失速して着水するのだった。着水して崩れ落ちる飛行機の姿が、まるで事切れて息絶えた人のように見えた。

 この一年、おいらの体調は、琵琶湖面を滑空する人力飛行機のようだった。徐々に血中タンパク濃度が落ち込んで行き、いずれ限界に達するのは見えていた。それでも、何度か持ち直したりした。貧血も同時に進行したが、途中鉄剤の投与を始めたことで回復した。6月ごろからは、血中アルブミン量が3前半に落ち込み、いつ入院してもおかしくない状態が続いた。毎月の検査でその値は確実に少しずつ低下していった。だがおいら自身は、粘れると思った。体調は決して悪くなかった。胃腸が痛くなったり気持ち悪くなることもなく、むくみもほとんどなかった。疲れやすい時はあったが、長引かなかった。仕事も無理をしなければ続けることができた。ギリギリの値だが入院するまでには至らないと感じて前向きにやってこれたのだ。

 しかし、全ての人力飛行機にいつか限界が来るように、おいらの体にも限界がきたようだ。今日の検診でアルブミンや血中総蛋白量が急激に低下していたのだ。そのまますぐ入院も勧められたが、一応あと一週間利尿剤を増やすなどの対処療法をやってみて、様子を見ることになった。それで改善しなければ来週から入院である。おそらく入院は避けられないだろう。実は、2週間前の検査では、少しだけタンパク量が改善したのだった。でもそれは今思えば、最後の力を振り絞った浮上だったのかもしれない。そのあとおいらの体は急激に失速してしまい、ついに着水することになったのだ。

 地獄入院から退院して、約1年半。その間大腸ポリープの入院はあったものの、体調を安定させ仕事を続け生活を維持できた。しかしついに限界がきた。もしかするとこの限界は、湖対岸に達したということなのかもしれない。PLEを発症して以来、4年9ヶ月の間何度も回復しては再発を繰り返していた。再発までの期間は過去最長1年で、多くは半年以内だった。それが1年半も粘れたのだ。それはおいらにとっての対岸であり限界到達点なのかもしれない。きっと入院して治療をすれば、今回もタンパク低下を食い止められるだろう。治療はプレドニンを一日40mg投与し、そこから徐々に下げていくことになる。そしてまた10mgを切ったあたりからタンパクの低下がみられ始め、1年半が経過する頃には限界値まで下がってしまうのだ。おいらのPLEへの挑戦はその繰り返しなのかもしれない。

 でも願わくは本当の鳥になりたい。限界に達せずいつまでも羽ばたいて飛んでいたいのだ。PLEの湖面に着水することなく、高い上空を安定して飛んでいたいのだ。それは人力飛行機を永久に漕ぎ続けることが不可能であるように、おいらにとっても不可能なチャレンジなのであろう。

研究材料になる研究者

おいらの症例は、これまでに少なくとも2回医学系の学会で発表されているようだ。そのどちらも、フォンタン再手術を受けた病院の医師による発表である。研究のデータとして使う際には、事前に同意書の記入を求められる。おいらも研究者の端くれだから、おいらの情報が研究に活用されて未来に役立つのはとても嬉しいので、なんのためらいもなくサインした。

 一つは、今から4年半以上前においらが初めてその病院にかかった頃の状況を報告したものだ。子供の頃のAPCフォンタン手術後、20年以上通院せず定期的診察を怠った(ドロップアウトした)結果、不整脈、PLE等のフォンタン術後症候群を発症したことを報告していた。発表の結論では、定期的フォローアップの必要性を説いていた。実際、その病院の主治医の先生からは「あなたは診察に来るのが少し遅すぎた。」と言われてしまい、先生としてももっと早くきていればあるいは定期的診察をしていればと、無念の思いが強かったのだろう。2つ目は、その病院でTCPCconversionをした患者をまとめて発表しているものである。複数の患者のデータが混ざっているが、その中でもおいらは最も年齢が高く、1回目のフォンタンから再手術までの期間が最も長く、唯一PLEを発症している患者だった。また、術前の病状が悪く治療に難渋し、入院期間も一番長かった。術後には手術創から菌が感染して縦隔炎を発症し、抗生剤投与や膿を吸い出す治療を続ける羽目になった。この病院の中でも、極めて特殊で難しい症例だったことがうかがえる。

 その病院は、本来子供専門の病院なので、こんな大人の病状が悪い患者を見るのはさぞ大変であったろう。しかし、その病院の主治医の先生は、初めておいらを診察した時からおいらを引き受ける覚悟をしてくれているようであり、「(病状は深刻だが)私は最後まで諦めない」と強く言ってくれたことがとてもありがたかった。だから、おいら自身も覚悟を決めて今後の治療を受けようという気になったのだ。子供の頃の経験で、手術や入院は死ぬほど嫌だったが、この病院ならなんだか乗り越えられそうな気がした。そうして4年間お世話になり、おいらは生き延びた。

 それだけに、おいらの症例がこの病院の研究成果になることは、おいら自身大変嬉しいことだ。命を救ってくれた恩返しにはならないかもしれないが、今度はおいら自身が研究成果を発表する番である。つい最近、約1年半ぶりに論文を発表することができた。昨年の地獄入院の頃から書き続けていたものだ。研究材料になり、研究成果となり、そして自らの研究成果を発表する。そうして、世界の科学が少しずつ進んでいく。今後も命ある限り、研究成果を発表していきたい。でも、また研究材料として貢献するかもしれないな。

最大の喜び

両親が、おいらのことで一番喜んだ時のことは、今でも強く心に残っている。それは、心臓の手術を無事終えた時、ではない。もちろんその時も喜んだと思うが、喜びより安堵感の方が大きかったろう。それに、おいら自身は手術後すぐは眠っているか意識が朦朧としているので、両親がどんな感情であったかなど知る由もない。手術後しばらくたって、おいらの意識もはっきりした時には、両親も落ち着いた顔つきになっていた。  

 それから、3歳の時の心臓手術を終えて退院し、初めて一人で立てるようになった時も両親は喜んだろうが、おいら自身が3歳なので両親の感情など覚えていない。同様に8歳の手術の後初めて走れるようになった時のことも覚えていない。両親が一番喜んだ出来事はもっともっとずっと後の事である。

 もったいぶって前置きが長くなってしまったが、その出来事とはおいらに子供ができた時のことである。実を言うと、その時おいらは結婚しておらず、子供ができたことで結婚を決意した。いわゆるデキ婚である。だから両親には、結婚することと子供ができたことを同時に報告しなければならなかった。その頃は、おいらは両親とは遠く離れて一人暮らしをしていたので、電話で報告することにした。正直、両親に何を言われるかと内心不安だった。非難されるのではないかとも思った。

 しかし、電話すると母も父も、泣き出しそうなほど喜んで祝福してくれた。実際泣いていたかもしれない。それは、孫ができるという喜びもあるが、おいらが独り立ちし家族を持って生きていることに喜んでいるようだった。子供の頃の両親は厳しくいつも怒っている印象だった。後に聞くと、一人で自立して生きていけるようにとあえて厳しく、家事の手伝いをさせたりと色々しつけたのだそうだ。前に書いたように、おいらが風邪などで寝込んだ時も、つきっきりで看病はせず仕事に出かけた。手術で入院している時も、付き添いで泊まったりはしなかった。でも、内心はずっと心配でたまらなかったろう。小さい時は、おいらが大人まで生きられるかが不安で、眠れない夜もあったはずだ。今でこそフォンタン患者が成人まで生きのびて、家庭を持つことは珍しくなくなった。でも、おいらが子供の頃は、大人まで生きられること自体が望みが薄かった。しかし、その心配や苦労が報われた。おいらは自立して収入を得て、そしてついに家庭を持ったのだ。それは親として子供を育て上げた喜びなのか、いややはりおいら自身が幸せを掴んだことへの喜びなのだろう。

 おいら自身には、まだ孫はいない。おいらの子供はまだ小学生なので、彼が結婚して子供を持つにはだいぶ先の話だろう。残念ながらそこまで生きられるかわからない。がもし、息子が子供ができたことを報告するまで生きられたら、その時はおいらの両親以上に喜びたいと思う。

強がる心、弱い心臓

先日、数年ぶりに旧友から連絡が届いた。おいらが黄金期だった時の友人だ。おいらが今南の島で住んでいることを伝えると、旅行がてら行ってみようかと話してきた。が、おいらは、おいらに会ってもつまらないから来なくていいと言ってしまった。本当は会いたい気持ちもあった。しかし一方で、今のおいらの姿を見られるのがいやでもあった。旧友は黄金期の元気な時のおいらの姿しか知らない。もちろん病気のことは話してはあるが、実際会えば変わり果てた姿に少なからず驚くだろう。腰や背中が曲がり、手足は痩せ細り、むくんで丸くなった顔。階段や坂は、一歩一歩やっとの思いで登り、ちょっとしたことで息切れして疲れてしまう。会えば、いやでも哀れみや同情の気持ちが湧いてしまうことであろう。

 旧友を悲しませるのは嫌だし、同情されたくもなかった。対等な関係でいたかった。そうなるなら、嫌われたり呆れられても良いから、強がって突っぱねた方がよいと思った。それに、会えばどうしても病気のことを色々話してしまうだろう。それが、ここ数年のおいらの最大の出来事であり、人生の大部分を占めるからだ。最近はどんな調子か、何をやってるか、どんな出来事があったのか、などの近況報告をしようとすれば、全て病気につながっていく。今や病気はおいらそのものなのだ。それを聞いた人はどんな気持ちになるだろうか。おいらが笑い話として話せば、その場は笑ってくれるかもしれないが、あとで切ない気持ちになるだろう。

 でも本当は、先天性心疾患というものをより多くの人に伝えたい気持ちがある。それは先天性心疾患は病気であると同時に、その人の個性でもあることを証明したいからだ。先天性心疾患を持って生まれることで、その人の運命は健常者とは違う道に方向づけられる。入院や手術など普通なら滅多に経験しないことを数多く経験し、その経験がその人の個性を形作るのだ。おいらから先天性心疾患がなくなれば、それはもう完全に別の人間である。先天性心疾患はおいらにとっての土俵である。その土俵の上で、どう生きるかが、おいらの勝負なのである。

 個性と思うなら、堂々と自信を持って旧友に会えばいいはずだ。旧友なら、哀れむことなく個性として理解してくれるかもしれない。だけど、自分が最も得意な土俵の上で旧友と組んでもなんだか負けそうな気がして、怖気づいてしまったのだった。じゃあ、負けないってなんなんだ。それはおそらく、真に悲観的にならずに先天性心疾患を伝えられることである。

APCフォンタン術患者の30年後の運命

まさに自分が該当する興味深い論文を見つけたので紹介したい。

Chin Leng Poh et al. (2017) Three decades later: The fate of the population of patients who underwent the Atriopulmonary Fontan procedure. International Journal of Cardiology 231:99–104.

この論文では、APCフォンタンを受けた患者の長期予後を追跡した。対象となった患者は1975年から1994年に手術を受け生存した215人(この他に22名の入院中死亡患者がいる)。22年から28年後の状態を記録した。結果、その間に52人(24%)が死亡した。12人が心臓移植し、39人が転換再手術を受けた。7人がPLEになった。28年間の生存率は69%。フォンタン不具合(fontan failure)状態になったのは合計95人(死亡、移植、再手術、NYHA3以下などの患者)。

 111人が心房拡大し、130人に不整脈が発生した。28年間での不整脈回避率は23%。不整脈の発生は、有意に死亡、移植、フォンタン不具合のいずれかになる確率を高めた。42人が血栓塞栓を生じていた。また興味深い点として、先天性心疾患が専門でない成人循環器医師に受診している患者の方がフォンタン不具合になりやすかった。一方で、心奇形の種類やフォンタン前の手術様式(BTシャント、肺動脈結合等)などの違いは、フォンタン不具合になるかどうかに関係しなかった。

 この論文では、約3分の2の患者が術後30年経っても生存し、その大半は不整脈を発生しつつも現在も心臓の機能が保たれていると、明るい解釈で結論付けている。また、心房肥大化と不整脈の発生が、フォンタン不具合になる前兆であるとも指摘している。APCフォンタン術は、長期予後が悪いことがわかり現在は完全に否定されてしまったが、APCフォンタン術を比較的肯定的に捉えた論文としては、珍しいだろう。

 おいらは1989年にAPCフォンタンを受けており、この論文の典型的な患者と言える。論文の結果とも見事に一致し、右心房肥大、不整脈、PLE等を発生してフォンタン不具合となり、転換再手術を受けた。そして、結論のように、今のところある程度心臓は機能し、なんとか生きている。しかし、論文ではさらに将来の予後がどうなるかは予測されていない。APCに限らずフォンタン手術を受け、中年期になった人々が今後どこまでどんな状態で生きられるのかは、誰にもわからないのだ。それはおいらのような患者が、身をもってこれから証明していくしかないのだ。このブログでは、その経験をできる限りつまびらかに説明したいと思っている。