ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

うまい話には毒がある

うかつだった。もし間違っていたら死んでいたかもしれない状況だった。南の島に来て以来釣りにハマり、度々行っていた。家から車で10分くらいのところに港があり、そこでは結構簡単に魚が釣れた。時には魚肉ソーセージで、ガーラと呼ばれるアジ科の魚が釣れることすらあった。他にもイシガキダイ、クロホシフエダイなどの魚が釣れた。昨日も15cmほどの小魚が一匹釣れた。しょぼい釣果ではあるが、一人で食べるには十分な大きさだった。家に持って帰り、煮付けにして食べたら、身がフワフワで柔らかくとても美味しかった。

 その魚は、今までに何度も釣れて食べているクロホシフエダイそっくりだった。当然それだと思って何の疑いもなく食べた。しかしなんとなく気になってあとでネットで調べてみると、もっと似ている魚が見つかった。それはイッテンフエダイという魚で、解説を読むとシガテラ毒というのがあるではないか。シガテラ毒とは、サンゴ礁の周辺に生息する魚によって起こる食中毒で、その原因は海藻についている微生物が作り出す毒素が魚の体内に蓄積することによる。シガテラ毒の中毒症状は恐ろしく、下痢嘔吐などの消化器症状以外に、口や手足が痺れたりドライアイスセンセーションと呼ばれる温度感覚異常をもたらす神経症状があった。さらにおいらにとって危険なのは、不整脈、血圧低下、徐脈などの循環器症状もあるようなのだ。目の前が真っ暗になった。

 シガテラ毒による日本国内の死亡例はないという。だがそれは、健康な人が食べたからだろう。おいらのように重度の循環器疾患を持っている人間が食べたらどうなるのか。不整脈や徐脈なら埋め込んだペースメーカーがカバーしてくれるはずだ。いやそんな甘いわけがない。過去の経験では一度不整脈が発症すると、心臓がそれを学習したかのように、以後高頻度に不整脈を発症するようになったので、不整脈が止まらなくなるかもしれない。血圧低下も危ない。おいらは、普段から上が100以下と低いので、そこからさらに低下する危険もある。消化器症状も、それが原因で再びPLEが再発するかもしれない。多量の薬も飲んでいるので、その中にシガテラと相性の悪いものがある可能性もある。

 シガテラ中毒になったら、入院はまず避けられないし、下手したら日本初の死亡例になってしまうかもしれない。きっとテレビやネットのニュースに流れるだろう。「本日、シガテラ毒で40代の男性が死亡しました。国内での死亡例はこれが初めてです。男性は重度の心疾患を患っており、直接の原因は毒により急性の心不全が起こったことによるものとみられます。」この先に起こる恐ろしい未来が次々と思い浮かんだ。一度怖くなると、なんだかすでに口がしびれ始めているように感じた。今ならまだ間に合うかもしれないと吐き出そうとしたが、いくら喉の奥に指を突っ込んでもオエっとなるだけで出せなかった。

 気持ちばかりが焦った。すがるような思いでシガテラ毒について調べまくったが、加熱しても無毒化しない、小さい魚でも有毒になりうる、肉にも毒がある、など悪い情報が出てくるばかりだった。一途の望みをかけて、もう一度魚をじっくり同定してみた。幸い、魚の写真を撮ってあったので(下の写真)、それをネットの数々の写真と見比べると、どうもやっぱりクロホシフエダイのようだった。そうしているうちに、食べてから4時間ほどが経過していた。毒があればもう発症している時間なので、大丈夫なのだろう。結局、おいらが一人で勘違いして焦っていただけのようだった。

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 もし本当に毒があったら、小魚で死ぬという実に情けない事態になったかもしれない。それは、この数年心臓病と戦い続けてきたことがなんだったのかと思えるほど、馬鹿馬鹿しい死に方である。一時期は死にそうな状況から回復したというのに、雑魚であっさり死ぬ。そんなことをしては、家族や医者や看護師さんなどこれまでおいらを支えてくれた方々に、申し訳なさすぎる。でものんびり魚釣りして、釣った魚を味わって死ぬってのも幸せなのかな。

生きるための装備

年末年始は内地へ帰省した。帰省先は雪が降っており、寒さが耐えられるかとても不安だった。南の島に来る前は、毎年冬の寒さに耐えられず体調を崩して入院していたからだ。せっかく、南の島でこれまで安定してきたのに、帰省して体調を悪くしては元も子もない。おいらが体調を崩して入院してしまったら、最悪息子のスキー留学すらおじゃんになる危険すらある。そしたら、生涯頭が上がらない。

 そんなわけで、冬山に行くかのごとく徹底した防寒具を揃えることにした。そんなおいらを狙い撃ちするように、ユニクロヒートテックのさらに上をいく極暖ヒートテックなる商品のセールを始めていた。しかも、もう一段階レベルアップした超極暖なる商品まで揃えていた。おいらはそれらと裏側がモコモコのボアスウェットパンツを買い込み、靴下はモンベルアルパイン仕様の分厚い物を買った。さらに、寝ているときに冷えるのが一番問題なので、氷点下でも快適に過ごせるというモンベルのダウンの寝袋も買ってしまった。これだけ買うと、一回旅行に行けるくらいの金額になってしまったが、入院したら給料がもらえず収入がなくなってしまうことを考えたら、保険としては妥当なところである。

 徹底した装備の甲斐があって、帰省先では快適に過ごすことができた。しかし、意外なところで冷たさを感じることになった。公共交通機関を使うときは、大概障害者手帳を提示して割引してもらう。が、おいらが一人で乗った電車では割引が効かなかった。その電車では、付き添いがいない場合は割引が効かないそうなのだ。確かに、介護が必要でない障害者には、障害割引をする必要はないというのは一理ある。しかし、障害者は心身が不自由であるということだけでなく、それによって経済的にも貧しい場合が多い。医療費や介護費がかかったり、しっかりとした職に就けなかったりするからだ。それにおいらの防寒対策のように、ちょっとしたことに出費がかさむ事も多い。障害割引にはそれらに対する経済的支援の意味合いもあるだろう。幸いおいらは、現在は安定した収入を得て経済的にも困っていない。でもそれは今現在の話であり、これが10年先まで続く可能性は健常者に比べるとはるかに低い。おいらには、長く働ける保証はないのだ。だから、生命保険にも入れないし、終身雇用の職にもなかなかありつけない。

 障害者の方の中には、特に収入を得られている時には、手帳を示して割引してもらうことを後ろめたく思う方もいるだろう。実際おいらも、上記の割引を断られた時などは、罪悪感を感じてしまった。でも、本当は堂々と利用していいのだ。もしかすると、他人から非難されることもあるかもしれない。中には、障害者と健常者の平等を求めるなら、こうした割引も廃止すべきだという意見もある。だが、それは本末転倒で、障害割引は障害者と健常者が平等になるために必要なものなのだ。もし、こうした割引制度がなければ障害者は社会で生きていくことがますます厳しくなる。障害割引は、心からありがたい制度である。当然の権利とは思わないが、雪山で生きるための防寒具のごとく、社会で生きるための装備だと思う。

 再び南の島に戻ると、想像以上に暑かった。世間の冷たい風に当たったせいなのか、帰省先の寒い環境に慣れたせいなのかはわからないが、島の蒸し蒸しとする暑さが新鮮だった。空港から家の近くまでは、高速バスを使って帰った。上記のこともあり、手帳の提示に不安があったが、いざ提示すると運転士さんは快く割引してくれた。それどころか、通常は半額割引なのに、端数も切って70円多く割り引いてくれたのだ。なんだかおいらが帰ってきたことを、温かく迎えてくれているようで嬉しかった。帰省先の温泉より温かみを感じる瞬間だった。この島の暑さは、人々の温かさが生み出しているように思えた。

夢の競争

この冬、息子はスキー留学のため前に住んでいた山間部に旅立った。妻も保護者として同伴したため、おいらは一人南の島でお留守番である。本当は一緒についていきたかったが、仕事を休むことになり収入がなくなってしまう上、寒さに耐えきれそうになく、島にとどまるのが賢明なのだ。

 息子の夢は、いつかスキー選手になり、オリンピックに出場することだ。もちろん目指すのはメダルである。息子が憧れているのは、マルセル・ヒルシャーというアルペンスキーヤーで、回転や大回転といったアルペンの種目において、6年連続世界総合優勝しているスーパースターである。今期も現役で、すでにこの12月だけで各地の世界大会で4度1位を取っていて絶好調である。このままの調子で勝ち続ければ、今期も総合優勝は確実だろう。

 オリンピックに出てメダルを取るなど、とてつもなく難しい夢である。しかし、息子なりにその夢を追い求めている。南の島ではスキーはできないが、その分自主トレに励み、毎日マラソンや縄跳び、ストレッチなどを続けた。もちろんヒルシャーの大会の滑りを動画でなんども見て、イメージトレーニングも行った。この程度では全然甘いのかもしれない。でも親バカのおいらは、息子の夢は叶うと心から信じている。

 そんな息子の夢よりはるかに小さいが、おいらにも夢がある。それは大学教員の職につき、自分の研究室を持つことだ。そして、若い学生とともに楽しい研究を思う存分やる。おいらの夢も、正直絶望的に難しい。まずおいらが無能で、業績も知名度もないことが一番の原因だが、40歳を超えているという状況もかなり厳しいだろう。そして悔しいことだが、先天性心疾患であることも不利に働いているだろう。だが、それだけにこの夢を実現したいのだ。病気のせいで、思うように研究ができなかった、採用されなかった、なんて言い訳をしたくないのだ。むしろひねくれているが、見事大学教員になって、健常者を見返してやるつもりなのである。

 息子とおいら、どちらの夢が叶うだろうか。それはこの冬にかかっている。息子はスキーが久しぶりで、最初は思うように滑れないかもしれない。すでに山間部の同級生達は息子より一ヶ月早くスキーを始めており、彼らにも追いつかないかもしれない。が、そこでめげずにトレーニングを続ければ、未来は開けるだろう。おいらもまた、一人になったからと怠惰な生活を送らずに体調を維持し、そして論文書きや公募書類書きを続ければ、夢の実現に近づくだろう。今季絶好調のマルセル・ヒルシャーはこの夏に足首を骨折する大怪我をした。しかし、その逆境を乗り越え、ダントツの成績を残し続けている。逆境は、時に人を飛躍する。息子は島でスキーができない、おいらは病気という逆境をそれぞれ負った。1500km以上離れた地で、息子とおいらはともに夢の実現に向けて逆境に立ち向かうのである。頑張れ息子。

りんごが赤くなると医者は喜ぶ

りんごが赤くなると医者が青くなる。栄養のあるりんごを食べていると病気にならず医者いらずという意味のことわざで、世界にも類似のことわざが存在する。しかし、このことわざ、医者にとってはずいぶんと失礼な話で、全くもって正しくない。

 前に住んでいた地域の知人の方々が立て続けにりんごを送ってくれた。皆おいらやおいらの家族を心配してくれたのだ。その地域は日本有数のりんごの生産地で、この時期の贈り物といえばりんごだった。さらに、りんごをもらう少し前においら自身もりんごをお取り寄せで箱買いしてしまっていた。だから、今おいらの家には100個以上のりんごが備蓄されている。果物大好き、りんご大好きなおいらにとっては天国のような状況である。

 当然毎日りんごを食べまくっている。朝食の時に食べ、夕食後に食べ、時には仕事から帰った後おやつに丸々一個かじったりもしている。それだけ食べても全然飽きない。それどころが、なぜかリンゴジュースまで買ってきたり、アップルティーを飲んだり、りんご味のガムを噛んだりすらしている。かた時もりんごの味から離れたくないような有様である。

 ひたすらりんごを食べたことが功を奏したようだ。おいらの血中タンパクはメキメキ上昇し、3月に南の島に引っ越して来て以来、最高値に達した。総タンパク6.7、アルブミン4.1、IgG1048とおいら史上の中でもかなり高い値である。ほんの1ヶ月ほど前は入院を宣告されるほど危機的な値に下がっていたのに、一体どうしたというのだ。その間対処したことは、利尿剤を増やして水分コントロールをしたことくらいだ。だが以前だったらそんな小手先はとても通じなかった。一度タンパクが下がると、アルブミンを静注しプレドニンを大幅に増量するしか対処法がなかった。しかし、今回はそうしたことを一切せず、劇的に改善したのだ。美味しいりんごを好きなだけ食べて、しかも健康になれるなんて、夢のようである。

 そうしておいらが回復したことを、おいら以上に喜んでくれたのがおいらの主治医の先生だった。先天性心疾患に関しては、患者の体調がどんなに良くなっても、医者いらずというわけにはいかず、定期的な診察は欠かせない。りんごを食べて患者が元気になろうが、仕事は減らないのだ。むしろ、患者を入院させないようにすることが、医者の腕の見せ所である。定期診察を怠っていないのに、患者が次々と体調を悪化させてしまったら、医者の面目丸潰れである。だから、赤いりんごは医者を青くするのでなく、喜ばすのである。

Death is a natural part of life

「死は生きることの一部だ」。映画スターウォーズで、ジェダイマスターのヨーダが言った名言である。800年以上生き続けジェダイの頂点に立つヨーダが言うと、確かにとても深みのある言葉に感じる。がしかし、先天性心疾患者にとっては当たり前な感覚である。以前にも書いたが、先天性心疾患者には死は生きることより易しい。死は常に身近にある。だから、May the death be with you(死とともにあらんことを)、なのである。

 フォースがあらゆる生命に備わったエネルギーであるように、死もあらゆる生命に存在する流れのようなものだ。フォースと死はとてもよく似ているのだ。どちらも命あるものに必然的なものであり、避けることはできない。暗黒面の親玉シスは、「フォースで死を克服できる」と若きジェダイのアナキンを誘惑する。しかし、現実は死は必然でありフォースを持ってしても克服できないのだ。フォースを徹底的に修行したヨーダやオビワンは、死後も魂とフォースが一体となって蘇り、生きている人間と話すことができた。でもそれは亡霊みたいなもので、死を克服したのではない。彼らも生物である限り、死を経験し、それゆえにフォースをもつのだ。

 先天性心疾患者は、死を常に身近に感じている。死を経験するまでには至らなくても、死に近いところはたびたび経験してきた。それはある意味フォースの修行のようである。普通に生きているだけでは気づかないフォースに、知らず知らずのうちに肉薄していたのだ。だから、数々の試練をくぐり抜いた先天性心疾患者は、フォースを使えても不思議ではない。確かに、おいらはこれまでなんども奇跡を起こしてきたではないか。映画のようにものを浮かすことはできないが、全く動かなくなった体をリハビリで動かせるようになった。不整脈が止まらず無秩序に荒れ狂った心臓にメスを入れ秩序をもたらした。どんな医療行為も効かなかった消化管出血を、甘酒で回復させた。これらの奇跡は、無意識にフォースを使って起こしたのかもしれない。

 一見ウンチクがありそうだが、なんの中身も意味もない文章を書いてしまった。ただ単に、今日はおいらの大好きなスターウォーズの公開日のため、スターウォーズ用語をたくさん言いたかっただけである。でも、実在する人物の中でジェダイマスターに最も近い存在をあげるとすれば、やはり死の存在を深く理解した我々フォンタンマスターが最有力候補であることは間違いない。

植物とかけてコンビニと解く

しばらく前、息子の学校の教室で、おいらがやっている植物の研究について話す機会があった。話終わった後、生徒から「なぜ植物を研究しているのですか」と質問された。おいらは、待ってましたとばかり得意げにその理由を答えた。おいらが植物を研究する最大の理由は、植物が動かないからである。我々人間をはじめとする動物には、動かない生き方は想像することすら難しい。だから、たまに植物を生き物と認識していない人すらいる。だが、もちろん植物は立派な生物であり、その生き方は非常に巧妙で完璧を期している。動かない植物の生き方を理解すると、我々人間社会の理解にも大いに役立つのである。病気の話ばかりだったので、たまにはそんな植物の話をしてみよう。

 動かない植物の生き方を理解する上で、おいらが特に着目している点は、植物個体の集まり(集団または個体群と呼ぶ)が空間上にどう分布しているかを調べることである。ちょっと抽象的すぎて分かりづらかったかもしれない。例えば、ある1種の植物について考えてみる。道端によく生えているタンポポならイメージがつきやすい。タンポポが生えている位置を地図上に落としていくと、たくさんの点が打たれていく。それを全体的に俯瞰してみると、でたらめに点が散らばっているように見えるかもしれない。ちょうど碁盤の目に置かれた碁石のようにだ。でも注意深く見ていくとあるパターンが見えてくる。例えば市街地だったら、空き地や公園にたくさんのタンポポがいて点の密度が高くなっているだろう。それから、道沿いの街路樹の足元には必ずと言っていいほど生えているので、道沿いに点が多く打たれているかもしれない。地図上に点がたくさんあればあるほど、仮に道が描かれていなくても道の存在が見えてくるほどだ。このように、植物の分布の仕方を調べると、その植物の生き方や好みの環境などの情報がわかったりする。

 他にも、まだまだ面白いことがわかる。例えば、空き地のように密度が高いところでは、タンポポの個体同士が資源を巡って熾烈な競争をするので、個体の死亡率が高くなる。また、光や水などの資源が多い場所は当然生きやすいがその分個体もたくさん密集する。それから植物の世界では、同じ種の個体同士が近くにいる方が他の種の個体が近くにいるより競争が激しくなりやすい。これは、同じ種の個体は備わった性質が同じなので、資源を得るための作戦が同じになり泥仕合になるからだ。逆に性質が異なる種間の場合、例えばA種は地面の下の方の水を吸収するのに優れ、B種が表層の水を得るのが得意ならば、AとBはあまり水を巡って争わずに済む。こうしてA種とB種の個体は近くにいながら共存できる。

 このように植物の分布を観察し続けると、まるで植物が動いているかのように時とともに分布が変化し、なぜそうなかったかの原因がわかってくるのだ。こうした理解が、我々の実社会の理解にどう役立つのか。例えば、コンビニ。コンビニの店舗も植物のように一度建てたら動かない。コンビニの位置を地図上に落としていくと、たくさんの点が散らばる。そしてタンポポと同様、あるところでは密集している。ここで植物の状況を当てはめてみる。おそらくコンビニも密集した場所では店舗間の競争が激しく、店舗の赤字が起きやすいだろう。資源(お客)の多いところでは、黒字になりやすいが、その分店舗もたくさん存在するはずだ。さらに、植物の競争同様、コンビニも同じ種類が近くにある方が競争が激しくなりそうだ。例えば、セブンが2店舗近くにあってもどちらかしか行かないので、共倒れしやすい。しかし、セブンとファミマなら、客の好みや気分によって行く店舗を変えるので、両立しうるかもしれない。

 一見全く別次元にある植物とコンビニが、意外にも共通した法則に支配されているとすれば、とても不思議である。植物もコンビニも動かないという唯一の共通点が、その後の生き方を決定的に方向づけてしまうのかもしれない。だとすれば、コンビニに限らず動かないものは皆、類似した法則性が見出せるだろう。それこそが人類が追い求める大統一理論なのだ。どう、あなたも植物のことをもっと知りたくなったかい。

弾切れ

先日の予想は見事に外れた。が、それはいい方向でのハズレだった。タンパクはわずかながらさらに改善したのだ。フルイトランによる絶妙なコントロールが効いたのだ。次の診察は3週間後になった。今後もフルイトランを飲む量を調節すれば良い状態を安定できるだろう。

 しかし、肝心のフルイトランの残薬数が明らかに足りなそうなのだ。前回の診察時に、薬を控えめの数しか処方してくれなかったのだ。正直足りるかなと不安に思ったが、なんとかなるだろうと高をくくってしまった。結局、先週までの経験通り、飲まない日を1日でも作ると確実に体重が増え、今日の時点で体重が51kgを超え入院危険域に入ってしまった。次の診察まで残り15日。手元にある薬は12錠。体重維持のためには1日1錠は最低必要だが、それすら足りない。さらに体重を減らすには時々1日2錠飲む必要がある。このまま途中で弾切れになれば完全に負け戦である。なんとか、薬を節約して乗り切るしかない。

 入院危険域になってからは案の定体がだるく、頭も重くちょっとした運動で息が苦しくなってきた。仕方なく今日も朝に1錠飲んで水を抜いた。あと11錠。これを2週間でどう配分するかが勝負である。だが実はおいらには、隠し持った兵器がまだある。それは1年以上前に処方され、余らしていた別の種類の利尿剤である。ヒドロクロロチアジド(ニュートライド)という薬で、フルイトランと同じサイアザイド系の利尿剤である。これも非常によく利尿剤だった。

 利尿剤にはいくつか種類があり、それぞれ効き方が異なる。おいらは、このサイアザイド系以外に、ループ系のダイアート、K保持系のセララ、バソプレシン拮抗系のサムスカを飲んでいる。入院するとダイアートがラシックスに、セララがアルダクトンに、と同じ系の別の薬に変わったりした。だからきっとフルイトランの代わりにニュートライドを飲んでも大丈夫だろうとまた高をくくっている。だけど、おいらは高をくくってこれまでろくな事は起きていないのだ。例えば、このブログの題名に貼り付けてあるヘリコプターの写真は、おいらが高をくくって起こした大事件を写したものである。その話はまたいつかしよう。