ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

フォンタン子の生き方

とてもありがたいことに、今後のラインナップを載せて以来、多くの方々からコメントやリクエストをいただいた。今後いただいたリクエストには時間はかかっても一つ一つお話ししていきたいと思う。しかし、今回はリクエストにないことを書いてしまう。なんと天邪鬼なやつだがどうかお許しいただきたい。

 コメントをいただいた方には、ご自身が先天性心疾患の方ももちろんおられるが、お子さんが先天性心疾患である親御さんも多い。そうした親御さんに向けて、おいらのおこがましい余計なお節介なメッセージをお伝えしたい。気を害したらごめんなさい。

 病気の子供を持つ親御さんの中には、そうした重い心臓病を抱えた子供を産んだことに対し強い自責の念を感じている人も多いのでないだろうか。あるいは、罪悪感を感じながらも後悔をしていたり、どうして我が子がこんな目にとやり場ない怒りを感じたりもするかもしれない。入院や手術によって痛みに苦しむ我が子を見ると、自分自身が苦しむより辛くなるかもしれない。できることなら代わってあげたいと願い、子供の前ではなんとか笑顔を保っても、一人になれば涙を流す日々が続いてしまいもする。さらには、そうしたストレスや不安が積み重なれば、夫婦間の喧嘩も増え、夫婦仲も危うくなったりする。せめて、子供が人一倍幸せになれるようにと、自分自身の欲や楽しみを全て捨て、子供のために自分の全てを捧げて尽くす方もいるかもしれない。

 実際、おいらの両親がそんな状態だった。しかし、唯一最後の点が違っていた。両親はある意味強欲で、自分の楽しみや幸せを捨てることはなかった。おいらの前でもタバコをガバガバ吸い、おいらには甘いものを禁止していながら自分たちは炭酸飲料を飲み、チョコやアイスを冷凍庫にしこたま貯めこみ、海外旅行をし、夜中までテレビゲームに狂い、そしてついには離婚した。でもそんなやりたい放題の親の姿が、おいら自身にとっても救いになり、また今こうして生きる力にもなっている。おいらも人一倍強欲で煩悩のかたまりの人間になったのだ。そのおかげで、入院中の苦しみの極限にあっても、水分や食べ物などわずかな快楽をおぞましく怪物のように狂い求め、それで生きながらえた。

 そんな怪物は傍目から見れば、ひどく醜い姿かもしれない。おしゃれでスマートで健康的な生き方は確かにかっこいい。でもおいらにはそんな生き方はできない。痩せ細った体。ガサガサの肌。曲がった背中。むくんだ顔。内出血痕だらけの四肢。すらりと姿勢良く立つこともできず、スタスタと機敏に歩けず、肉体の美しさを表現するパフォーマンスは何もできない。でも、そんなの関係ねぇなのである。

 おいらにとって、健康的生き方はほとんど興味がない。それより、この体でどう生きるかが重要である。そのことは生物がまじまじと教えてくれる。生物は、それぞれの種や個体が持つ機能や体の構造に応じて、最適な生き方をする。どの生物種も、自分の機能に合わない生き方などしない。カエルが鳥になろうとするだろうか。猿がイルカに憧れるか。植物がどこかに行こうと走り出すか。そんなことはありえない。生物は自らの最適な生き方を生まれながらにして誰よりもよく理解している(それを本能という)。おいらには、フォンタン患者としての生き方がある。それは健常な人にはできない、全くユニークな生き方である。その生き方を習得できたときフォンタンマスターの称号が得られる。フォンタン患者としての生き方に悩んだり、フォンタンであることに不運や不幸を感じているようでは、まだまだ修行が足りないのである。

 そんなわけで、我が子が先天性心疾患だったとしても、全くくよくよする必要はない。その子には健常者とは違うその子独自の生き方があるというだけのことである。その生き方を楽しく果敢に挑めば良い。それに、我が子が自分とは違う全く新しい生き方に挑戦するなんて、なんだかすごくワクワクすることじゃないだろうか。おいらの子供は、健常な体で生まれた。だから、逆においらとは全く違う生き方をしていて、とても面白い。おいらができなかったスポーツを思う存分楽しみ、恐ろしく強靭な肉体を謳歌している。しかし一方で、ひとかけらの氷を口に含んだ時の、口に染み入る至福の感覚は、彼は一生味わうことはないだろう。あるいは手術室に入るときの、ダークファンタジー的異次元空間を体験することもないだろう。それはそれでまた面白い人生ではないだろうか。

 明日からおいらの夏休み。あいにくの台風だが、飛行機に乗って温泉・グルメ・絶景の強欲旅行を堪能するのだ。

完璧主義の心臓

人類史において、長らく生物は神が創造した奇跡の産物と考えられていた。生物の存在や構造は人類の理解を完全に超越しており、全知全能の神による創造無くしては生物の存在を説明できなかった。むしろ、生物の存在が神の実存を立証しているとすら見なされた。それほどまでに生物は奥深く、謎めいた存在であった。

 1859年にチャールズ・ダーウィンが「種の起源」という著書で自然選択説を提唱したことにより、生物を理解する決定的な道筋が開けた。最初の生命の起源は不明ながらも、ある生物が別の生物を生み出し、それが積み重なって現在見られる膨大な生物種が生み出された過程が説明できるようになったのだ。それから160年近く経った現在では、DNAをはじめとして生命現象のあらゆる部分が超詳細に解明され、神の存在を持ち出さなくても生物の多くを語れるようになった。だがそれでも、神への信仰心が厚い生物学者は少なくない。生命のことを深く知れば知るほど、その完璧さ、美しさに、神の創造を感じずにはいられないのだ。

 おいら自身は無信仰の人間ではあるが、やはり生物には言葉に表せられない神秘性を感じてしまう。幸か不幸か、先天性心疾患を持って生まれたことで、身をもって心臓の神秘性を感じることができた。心臓は、他の臓器に比べれば構造的も機能的にもかなり単純である。筋肉の塊であり、主たる機能は拍動して血液を送り出すことだけだ。肝臓のように、様々な物質を分解したり合成したりはしない。免疫細胞のように、異物を正確に識別し攻撃することもない。だがその単純さとは裏腹に、生命維持に必須の役割を果たし、その役割をあらゆる状況においても維持する能力を備えている。心臓は、機能性と合理性を究極的に追求した完璧主義の臓器であり、それゆえにその完璧さを失ったときの生命への影響は極めて大きい。

 先天性心疾患もまた神による創造なのだろうか。それとも単に偶然の帰着としてできた病気なのか。おいら自身はいずれもそうは思わない。むしろ神にも創造できず、生物が完璧な心臓を創造したからこその避けらない産物であり、もしかすると意図的に作り出した創造物ではないかとすら感じるのだ。いや〜、生物って本当に不可思議ですね。

不可思議を追い求める心

今回はリクエストを頂いた職業についてお話ししたい。なぜおいらが生物学者という職を選んだかについてである。2018年のあるアンケート調査によれば、小学生男子が将来なりたい職業は、野球やサッカーの選手を抜いて学者・博士が1位だそうだ。理由は定かではないが、近年日本人のノーベル賞受賞者が増加していることが挙げられる。そうした輝かしい成果や名誉を見れば、憧れるのも当然かもしれない。

 だが、現実にはノーベル賞受賞の道は極めて難しい。これまでにノーベル賞を受賞した日本人は23人(外国籍の日本出身者も含めると26名)。これと近い人数として、これまでにオリンピックで複数の金メダルを獲得した日本人は27名いるそうだ(夏季、冬季合わせて)。どちらが難しいかは単純に比較できるものではないが、どちらもとんでもなく難しいことは間違いない。何万人あるいは何十万人に一人だけが達成できる偉業である。さらにノーベル賞受賞は狙ってできるものではなく、努力や能力だけではどうにもならないところがある。だから、ノーベル賞受賞を夢としてみるのはいいけれど、真面目に目指すものではないのだ。

 研究者の世界は、もっと現実的な面で厳しい。大学や研究機関での終身雇用の研究職は、圧倒的に少なく極めて狭き門である。大学4年間、大学院修士課程2年間、大学院博士課程3年間を出て、晴れて博士になれても全く職がない。なんとか就ける職は、いわゆるポスドクと言われる期限付きの研究員のポストだけだ。おいらは40歳を過ぎてもポスドクを続けており、研究者としての能力も技術もろくになく、将来の目処が立たないために家族には負担をかけ続け、冷静に考えていくと絶望的な気持ちになったりもする。

 それでもおいらが研究職を続けるのは、生物の研究があまりに魅力的だからだ。生物のことを知れば知るほど、見れば見るほど、不可思議な存在に思えてくる。おいらの心臓くんもまさにそんな存在の一つなのである。生物とは、人類の理解の限界を超えた存在、言葉では永遠に表現できない存在かもしれないが、研究を通じてそのごくごく一部でも説明できた時、深い感動と喜びで満たされるのだ。だから生物のことも心臓のことも、これからも研究し続けたい。

今後のラインナップ

過去の記事を読み直してみると、途中で話が終わってしまった話題、いつか話すといって話していないテーマ、いただいたコメントからのリクエストなど今後書きたいことが結構あった。備忘録のために、それらをまとめておきたい。

 

1. いつか話すといって話していないもの

  • ステロイド動脈硬化を導くメカニズム
  • ブログタイトル写真のヘリコプター大事件
  • 海で溺れて大搬送ののち緊急入院の巻
  • ステロイドがもたらす恐ろしい代償
  • PLEに関する初期の研究や近年の研究の解説

 

2. フォンタン再手術(TCPC conversion)入院の続き

手術のこと、ICUでの生活、一般病棟に戻った時のことは話したが、その後のリハビリや手術創の縦隔炎については、詳細を話さないままになっている。

 

3. フォンタンマスターへの道

水編のみしか説明していない。筋肉・骨編、食事編、知識編がまだある。

 

4. 読者の方々からのリクエス

  • 人生の中の最大の喜び
  • 生物多様性の面白話
  • 先天性心疾患の子供への親の接し方(子供が喜ぶこと、負担が軽くなること、気をつけて欲しいことなど)

 

5. その他書きたいと構想しているテーマ

  • シンチ検査は慎重にの巻
  • フォンタン術後長期生存率のレビュー
  • アブレーションはあぶねーっしょの巻
  • 子供の頃受けた手術の記憶(3歳編、8歳編、13歳編)

 

これらのテーマや新しいテーマでも良いので、何か聞きたいというテーマがあれば、リクエスト待ってるよ。誰からもリクエスト来なかったらおいらの心臓くんがすねちゃうからね。

真夜中の一杯

ここ数年の度重なる入院によって、習慣づいてしまったものがある。夜中に目を覚まして、一杯の冷たい水やお茶をゆっくり味わって飲むことだ。それはおいらにとって、睡眠以上に安らぎの時間になっている。

 入院中は大概厳しい水分制限がついて回った。飲んだ水分量はきっちりと記録する必要があり、だいたい一日1000〜1200mL程度しか飲めなかった。もっと少ない時もあった。その量だと3度の食事や薬を飲む時の水分でほとんど使ってしまうため、残りの水分量をそれ以外の時間でどう配分するかいつも悩んでいた。飲めない状況はもはや恐怖だった。すごく喉が渇いても、後先のことを考えると気兼ねなく飲めなかった。だからいつでも飲めるようにと、1日が終わるギリギリの時間まで水分を残していた。

 1日の切り替わりは、だいたい夜中の0時だった。0時をまたぐと、飲んだ水分量がリセットされ、また1日分の水分量が飲めることになっていた。前日の余った分は次の日に繰り越せなかった。だから、0時になる少し前、午後11時半ごろになると、その日の残量を飲みきることができた。もうその後のために節約する必要はないのだ。水分を心置きなく飲める唯一の時間だった。

 おいらが最もお世話になったNC病院では、子供専門の病院だけあって、ナースステーションで冷たいお茶を常に用意してくれていた。そして患者はいつでも希望する量をもらうことができた。おいらは毎晩その日の残量100mLほどのお茶をもらっていた。看護師さんは、病院に用意してあるプラスチックカップにお茶を入れて病室まで持ってきてくれる。カップは、ちょうど100mLが入る大きさしかない半透明の計量カップで、お花や動物などの可愛いイラストがプリントされていた。40歳近いおっさんが、真夜中に子供用の可愛いカップを握りしめて必死にお茶を飲む姿は、側から見れば滑稽を通り越して気持ち悪いはずだった。でもおいらはそんなこと御構い無しだった。

 その夜中の一杯はこの上なく美味しかった。100mLのお茶を日本酒を舐めるようにちびりちびりと味わった。乾ききった口の中に冷えたお茶を含ませると、口を潤す快感とともにその日1日にあった辛く苦しい記憶が全て薄れていき、満ち足りた心地になれるのだった。永遠に続いてほしい時間に思えた。地獄のような入院生活の中で、生きている喜びを感じられる数少ないひとときであった。その生きがいを味わうため、一旦は眠ってしまっていても、11時頃になると自然と目を覚ますようになった。

 退院して水分制限がなくなった現在でも、その時の感覚が忘れられずにいる。今は11時とは限らないが、毎晩夜中に目を覚ましては一杯の水を飲んでしまう。一杯の水に生きがいを感じるなんて、おいらの人生はなんともチープな感じだが、見方を変えればすごくコスパの高い人生とも言える。でも調子に乗って水をガブガブ飲む快楽に溺れると、そのツケは直ぐに現れ、翌朝に顔がむくみ頭痛に苦しむ人生でもある。

Quantifying QOL

Quality of Life(QOL:生活の質)は、病人や障害者には馴染み深い用語である。しかし意外なことに、調べてみるとはっきりとした定義が見つからないのだ。Wikipediaでは、人生の内容や社会的な生活の質を指し、どれだけ人間らしい生活や自分らしい生活を送り幸福を見出しているか、という概念だと書かれている。あるいは、もっとシンプルに「生きがい」や「満足度」を意味するという説明もある。しかし、人間らしい生活にしろ満足度にしろ、それは人それぞれであり、主観的である。なかなか満足を感じられない人にとっては、QOLはいつも低くなってしまう。逆にどんなに不自由な生活をしていても、満足していればQOLは高くなる。結局それでは、QOLは本人の気持ち次第だということになる。

 QOLに似た概念に、Activities of Daily Living(ADL:日常生活の活動力)という用語がある。ADLは食事、排泄、入浴、歩行などの動作がどこまでできるかという行動制限にだけ着目した概念であるが、おいらが今までイメージしていたQOLはこの方が近かい。実際、診断書などでQOLを評価する場合にはADLを見ている場合が多い。しかし、ADLでは、おいらの考えるQOLにはまだ物足りないのだ。

 おいらはQOLを、様々な面でどれほど制約・制限があるかという尺度として捉えている。それは行動制限だけでなく、食べられるものや量が限られる食事制限や飲める水分量が限られる水分制限、アルコール制限、運動制限なども含む。この尺度は、健常な人ができる程度を100%としたときに、制約や制限の程度を数値化して客観的に表せるのが望ましい。例えば、健常な人が特に何も気にせずに1日に飲める水分量が2リットルだとしたら、今のおいらは1リットルくらいしか気にせずに飲めないので(それ以上飲むと浮腫む危険性が出てくる)、おいらの水分摂取量におけるQOLは50%ということになる。アルコールに関しては全く摂取できないので、アルコールQOLは0%である。そうした多様な項目についてそれぞれQOLを出しても良いし、それら全てを平均するなどして総合的なQOLを出しても良いが、重要な点は、制約や制限の程度であり、それは客観的に定量できるものであることだ。だから、幸せかどうか満足かどうかという気持ちの問題ではないのだ。

 おいらが勝手に定義づけたQOLに従えば、かなしいことにほとんどの障害者の人は一生QOLが低いままになってしまう。おそらくそれではあまり印象が良くないということで、制約や制限があろうとも人生に満足できればQOLは高くなるという曖昧な概念に変化していったのかもしれない。でもそれはなんだかただの気休めである。どう満足していようが制限があることには変わりない。むしろその制限をしっかり評価して欲しいのだ。

 制約や制限の程度と厳密に定義づければ、それは病人や障害者だけでなく全ての人に当てはめて評価することができる。先日の豪雨に被災された方々は、現在一時的にQOLが著しく低くなっていることだろう。どういった項目のQOLがどの程度低いかが把握できれば、それを改善するための具体的な対策も立てやすいかもしれない。病人や障害者に対しても本人が満足していればQOLが高いなどと判断せず、純粋にどれだけの制約があるかを評価してくれた方がありがたいと思う。

 制限が多いのでQOLは低い。それはそれ。でも毎日何かに満足している。そういう生き方がおいらは好きだ。

常備携帯セット

先日の豪雨では、西日本全域に甚大な被害をもたらした。今尚犠牲者の数が増え続けており、一刻も早い救出と復旧をお祈りしたい。このような大災害に見舞われた時、おいらのような持病を持つ人々にとって最も深刻なのは、薬の確保であろう。仮に水や食料や避難場所が確保できたとしても、薬がなければわずか1日で急激に体調が悪化する危険がある。おいらの場合は、全ての薬を止めたら一体何が起こるのかわからないが、まず利尿剤がないことで一気にむくみ始めて、ステロイド剤が切れれば離脱症でだるさや寒気、腹痛などに見舞われて、消化管に炎症反応が起こりタンパクが漏れるだろう。ワーファリンなどの抗凝固剤が切れれば、血栓ができて心筋梗塞などが発生する可能性も高い。抗不整脈剤がなくなれば、不整脈が再発するかもしれない。一度それらの症状が出てしまうと、再び薬が飲めるようになっても回復は難しくなる。

 災害時にいち早く確実に必要な薬を手に入れられるようにするためには、お薬手帳を携帯していることが非常に重要なようだ。主治医以外の医師が診断しても、カルテがなければすぐに何が必要かはなかなかわからない。お薬手帳があれば、毎日飲んでいる薬が書かれているので、とりあえずその薬を処方すればなんとかなる。  災害時を意識しているわけではないが、おいらは常にお薬手帳を携帯している。肩掛けの小さなカバンに、財布や鍵などと一緒に入れて、どこに行くにも持ち歩いているのだ。他にも障害者手帳や各病院の診察券、保険証、指定難病等の受給者証等、医療関係の重要書類が全て収められている。絆創膏やアルコール綿など応急処置用品もある。おいらの命綱とも言えるようなものが詰まっているのだ。

 それだけ色々入ると、一つ一つは小さくてもそれなりにかさばって重い。だからちょっとでも軽量化しようと、小さなゴミクズも丹念に取り除いてしまう。病気と関係のないお店のポイントカードとかもなるべく持たない。それでもなんだか重たいから、医療関係書類の中では普段あまり使わないペースメーカー手帳は家に置いたままにしていた。しかし、先日の診察でもそうだったが急にペースメーカーチェックをすることがあり、手帳を携帯していなくて困ったことが度々ある。3月の急性心筋梗塞の時もペースメーカー手帳がなくて、治療がすぐに始められない事態になった。そんなわけで、今月からペースメーカー手帳も肩掛けカバンに常備されることになった。またさらに重くなってしまったが、この重みはおいらの命を守る重みなのである。容量オーバーで膨らんだカバンは、まるでおいらの肥大化した心臓を象徴するようであり、重くてかさばって邪魔なのに腕に抱えているとなぜか安心するのだった。