ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

障害者はお荷物か

また日があく。書こうと思うことはいろいろあるけど、一話完結のように話をうまくまとめようとするから、重荷になってしまう。

 今日は、あまり触れたくない先月の障害者連続殺人事件について。ほとんどの障害者がこの事件に少なからず、影響を受けただろう。おいらも、こんな犯人の言うことなんて気にしないと思いながら、やはりいろいろ考えてしまった。

 障害者は社会や家族のお荷物か。これはどうしても気になってしまうことの一つである。たまに、自分の社会での存在意義というものを考えてしまう。そういうときは、体調がすぐれず、気が落ち込んでいるときが多い。気が落ち込んでいるから余計に、悪い方向に思いをめぐらす。自分は社会で何も役立ってないな、むしろ迷惑な存在だな、家族にも負担ばかりかけてるなあと。

 では、実際おいらがどのくらい社会の負担になっているかを紹介しよう。まず、医療費がすごくかかっている。昨年受けたフォンタン再手術で保険適用前医療費が700万を超えた。おいらは、子供の頃にも同レベルの心臓手術を3回受けているので、それぞれ700万とすると、手術だけで2800万円かかった。さらに、カテーテル検査やカテーテルアブレーション術なども総数10回以上受けている。それぞれ100万以上かかる。その他にも、ここ数年は蛋白漏出性胃腸症などの治療で何度も入院している。これらも入院ごとに数十万から百万近くはかかっているだろう。そして現在、毎日1万円以上の薬を飲んだりしている。以前はもっと高い薬を飲んでいたときもあった。これら全部を合わせると、おいらがこれまでにかかった医療費は、5000万以上一億円くらいはかかっているかもしれない。自己負担で払った部分もあるが、ここ数年はいろいろな免除や医療費支給の手続きをした結果、現在自己負担で払う医療費はほぼゼロになった。さらに、今年から障害基礎年金を受給できることとなり、まだ40才にして年金を納める側から支給される側になった。これらの医療費、年金は全て税金でまかなっている。おいらが働いておさめた税金もあるが、それよりはるかに大きい額だ。とんでもない金食い虫である。

 障害とは関係ないが、おいらは国立大学に勤めて研究しているので、研究費や給料も税金が元になっている。おいらの研究は、それに見合う研究なのだろうか。社会に役立つようなことなのだろうか。すくなくても、基礎生物学をやっている以上、すぐに役立つことはまずない。自然科学は人類の探究心を満たすため、人類が自然をより深く理解するために必要だと考えてはいる。芸術やスポーツと似たようなところがある。どちらも何か具体的に役立つという訳ではないが、人類の美の探求、人体の極限への探究心を満たすためでもある。このような探究心がなくなったり、満たされなくなれば、人類は生きる喜び、活力の一部を失うだろう。しかし今の経済難の社会では、こうした欲求は道楽であり必要なしと見なされてしまいがちである。とくに、一般には伝わりにくい自然科学研究は、年々肩身が狭くなっている。

 アカの他人からみれば、大金食い虫のおいらは、明らかにお荷物であろう。でも、おいらはとても幸運で幸せな身であった。おいらには妻と子がいる。妻と子はおいらのことを全くお荷物だとは思っていないことがひしひしと伝わってくる。以前、おいらが負担になってないかと聞いたこともあったが、そんなことかってに決めるんじゃない、と妻に怒られた。例の殺人事件では、障害者が死んだことは家族にとって本音ではほっとしている面もあるのではないかといった意見も聞かれた。実際そうであっても、仕方ないとおいらは思ってもいる。でもだからといって障害者は卑屈になる必要はないのだ。かりに、社会や家族の負担になっていたとしても、お荷物ではなく存在意義を見いだすことはできるはずだ。妻は言ってくれた。おいらは、生きていることに意義があると。そんなうれしい言葉はない。入院中など本当に体調が悪く苦しくて痛くて耐えらなそうなとき、何度ももう死んで楽になりないと思った。でも、妻の言ってくれた言葉がかすかな光となり、生きる意欲を奮い立たせてきた。おいらだけではない。だれしも生きていることに存在意義があるのだ。

 生物学的に考えると、障害者は多様性を育む重要な要素である。人類の文化や社会の多様性を広げ、生命進化の原動力にすらなる。この点はいずれまた詳しく書きたい。

今日のところはここまで。