ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

かわいそうな感情

地獄入院の話はまだまだ続くので、ちょっと箸休めとして別の話題を書くことにする。

 先日、NHKのバリバラという番組で、障害者を感動の対象にすることをテーマにしていて、これは同時刻の裏でやっていた日テレの24時間テレビの批判として、かなり評判だったようだ。障害者が障害にめげず頑張る姿をテレビ的に作る出すことで、視聴者が感動して勇気づけられるというメディアのあり方は、障害者にとって差別的だということである。感動の対象になる障害者は、結局健常者にとってかわいそうな存在であり下の人間であるとみられてしまうのである。

 実際は、障害者だからといって日々そんなに頑張っていないし、おいらのブログでも書いているように愚痴は言うし弱音ははくしワガママも言う。障害にめげずにけなげに生きるどころか、思いっきりめげたりもするし、けなげに生きようという意識もない。それをテレビが演出して感動話に仕立てることは、ある種の虚構でありやらせである。こうして、感動の対象物としてさらけ出されることを「感動ポルノ」と呼ぶそうだが、それは確かに不快である。

 NHKと日テレどちらのメディアのあり方が良いかは、ここでは触れない。ただ、最近の24時間テレビは、正月番組みたいに単なるどんちゃん騒ぎのお祭り番組で何にも中身がないので、まったくみない。おいらがここで触れてみたいのは、障害者はかわいそうな存在かということである。おいらの結論から先にいうと、かわいそうな存在と思われても仕方がないと思っている。むしろ、人間なら生理的に本能的にかわいそうと思ってしまうのではないだろうかという気がする。

 障害にかかわらず、苦しい思いをしている人を見れば、ほぼ誰しも悲しくもなりかわいそうと思うのではないだろうか。入院していて、他の患者さんが苦しそうにしていればこちらもつらくなるしかわいそうと思ってしまう。特に患者が小さな子供だと、なおさらである。自分の子供が風邪などで熱にうなされていればかわいそうに思う。人間だけでなく、動物や時には物にさえかわいそうという感情がわくこともある。たとえば、タコのメスが卵を守り続けて最後はボロボロになって死ぬ姿などかわいそうと感じてしまう。車を廃車にするとき、愛着があるだけにかわいそうと思ってしまう。そうしたかわいそうという感情は、必ずしも相手を下にみているというふうにはならない。何でも食べられる人が好き嫌いの多い人を見て、人生損しているなかわいそうと思ったり、美的センスがなくていつも着ている服がダサい人を見て、かっこわるいなかわいそうと思うのは、多少見下しがあるかもしれない。そんな訳で、かわいそうという感情にも見下しの感情があったりなかったりいろいろなのだ。障害者をみてかわいそうと思う感情も同じく、見下しが含まれるときもあればないときもある。だから、一括りでかわいそう=見下しとは言い切れない。

 かわいそうという感情と同様に、変な物見慣れないものを見たいという欲求も自然なことだと思う。街で障害者に出会えば、たいていの人はなるべくじろじろ見ないように心がけるだろう。でも実際は見たいはずだ。子供はお構いなしにじろじろ見る。おいらも意識していなかったが、かなりじろじろ見ているようだ。障害者にかかわらず、レストランで大きな音を立てて皿を落としたりしたときとかもかなり見てしまう。変な服装やちょっと怖そうな人もみてしまう。そして、おいら自身杖をついて歩くようになって以来、見られる対象になった。

 でも、おいら個人はじろじろ見られても特に気にしない。むしろ、意図的に見ないようにしている人のほうが気になってしまう。おいらが思うに、見慣れない物はよくみて見慣れた物にすればいいのだ。ある程度みれば、見飽きるだろう。障害者など社会的なマイノリティーの人をよく見て、自分にとって見慣れた身近な存在となればいいと思う。

 ところで、昔の24時間テレビも確かそうだったと思うが、以前は障害だけが対象でなく、世界の超貧困地域の子供たちを取材したり、社会的弱者の現実をかなり真面目に取材していた。24時間テレビだけでなく、同様なドキュメンタリー番組が他の民放でもそれなりに流れていた。おいらは、フジテレビの類似のドキュメンタリー番組を見たときがかなり衝撃的なものとして記憶に残っている。フィリピンの超貧困地帯に暮らす人々を取材した内容だったが、見終わった後とても重い気持ちになった。感動なんて感情はなく、かわいそうも通り超して、ずしりと暗い気持ちになったのである。見たことを後悔するくらいであった。本当は、障害者や貧困者など社会的弱者の現実をしれば、そうした重い気持ちになるのであろう。とても感動などしていられないのである。視聴率はとれないだろうがお祭り騒ぎはやめて、そうした現実を伝える番組内容になればいいのではないかと、おいらは思う。

 戦争ドキュメンタリー番組も最近は減り、さらに悲惨な死体映像も滅多に流さなくなった。おいらが子供の頃は、結構放送されていて、トラウマになるほど怖かった。だから、おいらは戦争は理屈で反対という以前に、とんでもなく恐ろしい存在として生理的に拒絶してしまうのである。障害も戦争も現実を知ることは、時にとてもつらく怖く重いが、それを伝えることが今のメディアには欠けているように思う。