ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

我慢し続けると人生が終わる

地獄旅行を再開しよう。

 おいらには、自分のこれまでの経験に基づいた教訓がいくつかあり、それらの教訓はとても信頼している。そんな教訓の一つに、「どんなつらいこと痛いことも、我慢し続ければ終わる」というものがある。

 例えば、心臓病患者が受けるカテーテル検査。足の付け根や腕にある太い血管からカテーテルの管を挿入して心臓まで到達し、心臓内部の血圧などを測る検査だ。ある程度の年齢になれば、たいてい局部麻酔で検査をおこなう。おいらは、13歳のとき受けたカテーテル検査がとても痛くてトラウマになっていた。しかし、ここ数年ですでに5回ほどカテーテル検査を受けることになった。どれもとても嫌なものだったが、じっと我慢していれば必ず2時間ほどで終わった。また、数を重ねるごとにトラウマが解消され、大分恐怖心がなくなってきた。

 もっとたいしたことないこと、たとえば足を擦りむいた傷とか、頭痛、腹痛、吐き気、風邪など、体が苦しいことも我慢して時が経てばいずれ回復する。体的なことだけではない。終わりの見えないような膨大な仕事も我慢してやり続ければいつか終わる。誰かに怒られたり、喧嘩したりしても、我慢していればいずれ仲直りして気分が晴れる。人生に絶望を感じた失恋であろうと、そのうち気持ちが開き直れる。そういう経験を積み、つらいときにはじたばたせず我慢して耐えるのが一番だと感じていた。

 しかし、地獄入院はその教訓の信用が揺らいだのだった。入院して以来、体調はますます悪くなっていった。それに対する治療も、対処療法の行き当たりばったりに感じてならなかった。貧血の度合いが進めば輸血をし、血中蛋白が減ればアルブミンなどの補充。それを繰り返した。便の色はますます黒く赤くなり、胃腸も痛み吐き気が続いた。そのため、食事は、おもゆ、具無しスープ、ジュースなど汁状のものだけにかわり、その後栄養が足りないということで激マズの栄養補助ドリンクになった。病院で出される栄養補助ドリンクは、基本的に非常にまずい。おいらが飲んだのは、はじめペプチーノ、次にエンシュアHだった。胃腸に重い病気を抱え普通の食事がとれない人は、こうした栄養補助ドリンクを長期に飲んだりする。が、多くの人がそのまずさを訴えており、中には数年にわたって飲み続けている壮絶な苦しみをブログに綴っている方もいる。おいらは、たかだか数週間だったが、それでも耐えられないまずさだった。医者にそのまずさを訴えても、頑張って飲みましょうとだけいわれ相手にされなかった。

 ほかには、胃腸の粘膜を保護する飲み薬としてアルロイドGという薬を飲まされた。これは一回20mlほどを水無しで飲む薬で、緑色をして少し青リンゴのようなメロンソーダのような甘い香りがするが、ただの液体ではなくのもすごくドロドロしているのである。飲み込もうにも全然ノドの奥に流れていかない。飲むとき、ぬーーーーっと音でもするかのようにねばりつく。生命の危機を感じるほど不味い。あまりの不味さに、目から涙が吹き出すほどであった。おいらは、たった一回でノックアウトされ、もう飲まないとかたくなに拒絶した。激マズ栄養ドリンクももうやめてくれと拒絶し、それならばと胃瘻か鼻から管を通して栄養剤を流し込む案まで浮上した。

 しんどくてほとんど一日寝たきりで、ろくな食事もとらなかったため、日に日においらはやせ細っていった。血管は糸のように細くなり、連日の採血検査ではうまく血がとれず2度3度と刺すことがほとんどだった。うまく血管に刺さらないため、刺した後針を中でぐりぐりと動かして血管を探り、それがまた痛かった。その度に内出血して、両腕は無数の内出血痕で覆われた。比較的痛みの少ない腕の血管はほぼ全滅したため、手の甲や足の甲でも注射した。点滴のルートも2、3日でダメになり、何度も刺し直した。そのときも採血同様2度3度刺されたり、ぐりぐりされた。苦しい体調の中、激マズのドリンクを飲まされ、針で何度も刺され、まるで拷問であった。

 医師の対応にも次第に不信感が募っていった。その頃入院していたSD病院の主治医の先生は、滅多に診察に来なかった。来るのは、担当医の若い先生と中堅くらいの先生だった。若い先生は誠実な方だったが、自分の判断で治療を変更することは難しいらしく、上司の指示に従って治療にあたっていたため、おいらの訴えはあまり聞き入れられなかった。中堅の先生は、一見穏やかで優しい口調であったが、いつも頑張りましょうねというだけで、治療の方針などの説明を求めても、ろくに説明してくれなかった。どうせ説明しても素人にはわからないという見下しの態度をひしひしと感じた。おいらを見る目にも、もはや手を尽くしたかのような諦めのような哀れみのような雰囲気を感じさせた。

 そんな状況の中、追い討ちをかけるように、おいらを腰痛が襲った。あるとき床に落ちた物を拾おうとして、グギッと腰に強い痛みが走ったのだ。すでにほとんど寝たきりの状態だったが、これでさらにベッド上から動かなくなった。もうこのまま寝たきりでここで死んでいくんだろうと思い始めた。その方が、苦しみから解放されて楽だとも思ったが、これまでの人生を思い起こすと悔しくて仕方なくなってきた。なんでここで死ななきゃと行けないんだろう。全力で支えてくれた家族の労力や思いはどうなるのか。まだ探求したことはたくさんあるのに、道半ばで研究人生が終わってしまうではないか。それから、昨年フォンタン再手術を受けたとき、NC病院の医師や看護師さんは私の命を全力で助けてくれようとしてくれた。40近い年齢でPLEを発症している中でのフォンタン再手術は大変リスクが高い。にもかかわらず、心臓外科の先生は手術を引き受けてくれた。そうした努力がこんな簡単にあっさりと無駄になってしまう。それらを思うと死んでも死にきれず、悔しさとともに強烈な怒りが込み上げてきたのだった。

 これまで心の頼りにしてきたおいらの教訓に従っていてはだめなのだ。ただじっと我慢して耐えているだけでは、死んでしまう。だとしたら教訓をやぶり最後にもう一踏ん張りじたばたして、医者に怒りのたけをぶつけようと決意したのだった。後で冷静になってみると、おいらはそのときかなり凶暴で暴力的な態度だったろう。事前に怒りの質問状を渡し主治医との面談にのぞんだ。

 面談の日は、妻と母、それにおいらが信頼する看護師さん、若い担当医が同席した。面談が始まる前からおいらはすでに震えていた。面談の間、妻が横に寄り添いおいらの背中を優しくさすってくれた。主治医が登場した。ちょうど運悪くおいらはベット上で尿瓶でおしっこをしている最中だったが、主治医はそのことに気づかずおいらの横に座って早速面談を始めようとした。おいらは、その無神経さにますます怒りを募らせてしまったが、とりあえずは主治医の説明を一通り聞くことから面談は始まった。

 おいらの病態、これまでの治療について説明を受け、過去の事例について報告した論文も紹介された。PLEがさらに進んだ腸管出血の事例を報告した2006年のアメリカの論文である。病態も治療方針もおいらがすでに理解している範囲だった。論文は知らなかったが、これだけ時間かかってたった1つの論文しかみつからないのか、とさらに疑念を深めた。NC病院の医師との情報共有も十分できていなかった。とてもおいらの病気に真剣に向き合っているとは感じられない。こっちは命かかっているんだ、死ぬ覚悟なんだと悔しくて仕方なかった。今度はおいらが、事前に渡した質問状の内容を改めて口頭で説明した。全身が震え、言葉は途切れながらゆっくりとしか話せなかった。小さな声で単語一つ一つを息を吐くように出した。こんなところで死にたくない。悔しい。と、感じるままの感情も伝えた。さすがに医師はうなだれてしまい、しばらく沈黙が続いた後、NC病院に戻りましょうという結論になった。やっと地獄病院から脱出できることになったのだ。

 その日から、ステロイド剤のプレドニンも増量された。それまでなぜ少ない量でとどめていたのかはっきり理由を覚えていないが、プレドニンが15から40mgに増えると体調は一気に楽になった。胃腸の痛みと吐き気はずっとおさまり、だるさしんどさも減った。プレドニンは副腎皮質ステロイドともよばれ、副腎皮質ホルモンとして働く。このホルモンが不足すると、精神的に落ち込んだりうつになったりと、ようはやる気がなくなってくる。プレドニンが増量されたことで、おいらは精神的にも一気に前向きになった。これまでのネガティブな思考、医師への怒りが何だったのだと自分でも疑問に思うほどだった。だから、主治医の先生への怒りは、半ばうつの感情の八つ当たりだったろう。冷静になれば、もっと落ち着いた面談をすべきだったと思う。申し訳なかったと反省している。

 SD病院に転院してから約3週間。ようやく古巣のNC病院に帰還することができた。本当に生き返る思いだった。転院の際の移動は、Dr.カーに乗り、若い担当医の先生が付き添った。この先生は、自分が先天性心疾患の知識がまだ十分になく、よっぽどおいらの方が自分の病態をよく理解していることを認め、自分の知識不足や十分に治療を行えなかったことを謝ってくれた。かえって申し訳なくも感じたが、うれしかった。いい先生だなと思えた。車の中でいろいろなことを話しながら穏やかに時間は過ぎ、NC病院に無事戻ったのだった。

 これで、地獄入院の一つの山場は終わりである。しかし、この後まだ大小いくつかの峠が待ち構えていたのだった。この続きはまた今度。