ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

所信表明

今朝、ニュースで優生保護法についてやっていた。現在は廃止されているが、平成8年までは施行されていたそうで、特定の障害を持つ人に対し、本人の承諾なしに不妊手術を受けさせることができる法律だった。先天性心疾患は遺伝性は低いものの、一昔前だったらおいらもまた手術を受けさせられる立場だったかもしれない。こうした法律があるように障害者への差別はいつの時代もなくならない。

 一方で、自分が障害者の立場になって以来、この国の福祉にとても恩恵を受けている。その手厚さに改めて驚くほどである。2年ほど前に障害者手帳を取得してから、様々な場面で手帳を示して、割引をしてもらっている。公共の博物館や美術館、交通機関、さらには温泉まで。おいら自身だけでなく、時には付き添い人も割引対象になるときがある。また、福祉医療制度によって、現在医療費のほとんどは支給されている(入院時の食事代など保険適用にならないものは除く)。また、昨年から障害基礎年金も受給できるようになった。税金の障害者控除もある。細かいところでは、電車などの優先席に座れたり、スーパーなどの駐車場の障害者用のスペースに停められたりもする。実際、電車で立ち続けたり、店舗から遠いところに車を停めて歩くのはおいらにとってかなりしんどいことなので大変助かっているのだが、こんなに優遇してもらっていいのだろうかと思わなくもない。

 こんな待遇を聞くと、障害者は社会の負担だと心のどこかで思ってしまう人もいても仕方ないかもしれない。おいら自身も、申し訳なく思いもする。だからというわけではないが、おいらは障害者の権利や差別撤廃に向けて声高々に主張することができない。障害者のことを負担に思ったり、気の毒やかわいそうと思ったり、正直自分は障害を持ちたくないという気持ちは自然のことのように思う。それを差別だと非難しては、余計に解決が困難になりそうだ。障害はやっぱりしんどいし、持っているとつらいことが多い。できれば持ちたくないというのは障害者自身も本音の気持ちだろう。

 でも、障害には負の面だけでなく正の面もある。おいら自身も、病気によってある意味かなり特殊な経験をし、それがおいらの人格形成に大きな影響を与えてきた。障害を否定していては、おいら自身を否定することになってしまう。4月からの職は、一見障害とは関係のない生物学の研究職である。しかし、きっと工夫を凝らせばどこかの場面で障害者としての視点や立場を生かせるときがくるだろう。健常者のようにばりばり仕事はできないが、おいらを雇ってよかったと思えるようなおいらにしかできない役割を果たせるように努めたい。まだ働いてもいないのに、ちょっと気の早い所信表明となってしまった。