ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

心臓に毛を生やそう

4年ぶりに学会に参加して研究発表を行った。昨年と一昨年は、入院していたため参加できなかった。学会参加だけでなく、ここ数年おいらは闘病に精一杯で、論文も出せず、調査もできず、まともに研究活動をしていなかった。論文は科学雑誌に投稿するものの、落とされ続けていた。そして昨年の地獄入院以降は、研究はおろか日常生活も介護が必要になり、もはや研究者として復帰するのは絶望的に思われた。

 長い間のブランクで、すっかり研究に対する感が鈍ってしまった。先日の学会は、鈍った研究力を少しでも取り戻そうという意味も込めて臨んだのだが、実際は甘くなかった。もはやおいらは、学会において忘れられた人物だった。触れてはいけない、関わりたくない存在になってしまった。何人かの知り合いにあったものの、皆会ったことを後悔するような、面倒臭そうな雰囲気を感じられた。あるいは、気づかないふりをしてすれ違っていった。そして肝心の発表も、聴衆はほとんど興味がなさそうだった。

 本当は、どれもおいらの被害妄想で、気のせいなのかもしれない。ただはっきりしているのは、おいらの研究者としての実力は現状相当低いということだ。他の研究者の発表内容はどれもハイレベルで、わからないものが多かった。でもそれでうじうじいじけて、病気のせいにしては心臓に申し訳なさすぎる。心臓も怒ってまた調子悪くなってしまうだろう。せっかく4月から職が得られたのだから、いじけている暇があったら、もっと勉強して少しでも追いつくようにすればいいのだろう。でも正直気が重い。新しい職場では、おいらよりはるかに若い研究者がバリバリ仕事している。先日の発表では、その方の発表も聞いたのだが、難しくてほとんど理解できなかった。きっとおいらが務め始めたら、あまりに無知で呆れられてしまうだろう。上司の先生も期待はずれで、がっかりするに違いない。

 今まで大好きだった研究がこんなに重く感じるのは初めてなことだ。でも、論文を書いて雑誌に掲載された時の喜びは、どんな嫌なことも吹き飛ばしてくれるだろう。おいらは、論文は人類が書く文章の中でも最も崇高な価値がある文ではないかと思っている。一つの論文を完成させるのには並大抵の労力ではできない。厳密な調査や実験によってデータを得て、科学的に適切な方法で分析し、その結果を簡潔かつ論理的に説明する。そして同業の研究者によって、厳しく審査される。そうすることにより、限界までミスをそぎ落とし、客観性と普遍性のある成果となる。だから一つの論文を発表できた時は、とてつもない達成感を感じる。仕事は辛いことも多いかもしれないけど、やり続けていればいつかまた論文を発表できるだろう。いっそ論文、論文と念仏のように唱えて、仕事に励むのだ。たとえ気狂いだと思われても、心臓に毛を生やして気にせず平然としていよう。