ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

水と緑の豊かな病室

すっかり間が空いてしまったが、また2年前の再手術の時の話に戻ろう。前回までのおさらいをすると、手術を終え、やっと一般病棟に戻ってきたところだった。

 一般病棟はともかく明るい。眩しいほどに陽の光が差し込んでくる。窓を開けると生暖かい風があたり、外気の匂いがした。都会の病院と違って、山に囲まれた絶景の見える地域にある病院だったため、山や森や水田からくる清々しい緑の匂いだった。それは本当に心地よい香りだ。おいらは植物を研究しているから、普段から植物に触れ匂いを嗅いできてはいたが、しばらく消毒と薬品の匂いで満たされた空間にいると、久しぶりの緑の香りは格別なものだった。

 そんな快適な一般病棟の生活はすぐに奪われた。病棟に戻って3日ほど経った晩、急に息苦しくなったのだ。最初は気のせいかと思ったが、かなりしんどい。医者がエコーで調べると、どうやら肺の下に水が溜まっているようだった。緊急でICUにうつされ、その日の深夜に水を抜いてドレーンを挿入する処置をすることになった。局所麻酔をして、太い注射針を肋骨のすき間に刺して、中の水を引っ張ると、それは水というより血だった。真っ赤な液体が200cc以上は取れた。液体は出続けている様子だったため、ドレーンを留置して吸引しつづけた。幸い、その翌日には一般病棟に戻ることができた。

 一般病棟に戻ると、豊かな緑の香りを楽しんでいれば済むわけではなかった。毎日立ったり歩いたり車椅子に乗るリハビリが続いた。食事は、相変わらずつわりの時のように匂いが気持ち悪くて、あまり食べられなかった。それでもちょっとずつ体が動くようになり、5本あったドレーンも全て取れ、体は回復してきている気がした。しかし、実際はおいらの手術創の中で、小さな見えない敵が大暴れしていたのだった。ある日車椅子に乗ってトイレにいき用を足そうとした時、手術創から膿がドボドボと溢れてきたのだ。手術創から細菌に感染し、内部が化膿しているようだった。血液の培養試験をすると陽性で、血液内にも細菌がいるようだった。早速、抗生物質の点滴投与が始まった。

 おいらの手術創の近くには人工物がたくさんある。開胸した時に切り開いた胸骨を縛り付けておく針金、癒着を防ぐために心臓と胸骨の間に敷いたゴアテックスのシート、そしてフォンタン再手術の要の人工血管。もしこうした人工物に細菌が感染すると、大変危険な状態になる。抗生物質は血液が通う生きた組織には届くが、人工物は血管が通っていないため、抗生物質が届かないのだ。そのため、細菌は人工物を住処にして、どんどん増殖してしまう。最悪の場合、開胸手術をして全ての人工物を交換しなくてはいけなくなる。だから人工物への感染を絶対に避けなければならなかった。そのため、抗生物質を連日大量に点滴し、化膿した傷口は切開して化膿部分を切り取る処置を何度も受けた。ついには、胸骨を止めている針金も一つならとっても大丈夫だろうということで、引き抜いたりもした。切開をする処置は、局所麻酔をするもののめちゃ痛かった。針金を抜くときは体が持ち上がりそうになるほどの力でずりずりと抜かれた。抗生物質の大量投与により腎臓肝臓がやられ、γGTPが1000を超え、利尿薬のラシックスを一日に3、4回注射されたが、おしっこが全然出なくなってしまった。

 日に日に体調が悪化していくので心がくじけそうになった。そんなおいらの様子に気づいた担当医の先生が、ある晩声をかけてくれた。「心配しなくていいですよ。我々が絶対に治します。〇〇さん(おいら)は、頑張らなくていいんです。ゆっくり休んでください。」そんな優しく心強い言葉をかけられると、おいらの目はビチョビチョに濡れていった。体の中からも傷口からも目からも、液が溢れ出る毎日だった。