ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

大放水

先週、入院の最後通告を突きつけられたが、フルイトランという利尿剤を増やしてあと一週間悪あがきすることになった。水抜きすれば、血中タンパクの濃度が上がるからだ。さらに駄目押しに、ハイゼントラ4g/20mLを2本打つことにした。これらの対処療法は見事に功を奏した。利尿剤により毎日尿が大放水され、体重が1週間で3kg以上も減った。そして今日の血液検査で、総タンパク(TP)は4.3から5.7へ、アルブミン(ALB)は2.5から3.3、IgGは460から750へ軒並み増加していたのだ。これくらいの値があれば、当面入院の心配はない。

 琵琶湖面をすれすれに飛ぶ人力飛行機のような瀕死状態だったが、奇跡が起きて突如に水位が下がり湖面までの距離が広がったようなものだ。もうしばらくは安心して飛行することができる。奇しくも、今日の診察で主治医の先生が「低空飛行を保っていきましょうね」と例えられていた。

 この一週間の治療は、焼け石に水のようなものだと思って入院を覚悟していたが、予想外の成果があったと言える。何よりタンパクの値のコントロールに方針が立ったことだ。体の水分が増え、体重がある一定以上になった時には(おいらの場合は51kgが目安)、フルイトランを飲みハイゼントラの増量する。そしてタンパク質量が回復したらそれらの服用を中止する。今後はこの調整によって、タンパク質量を一定に保つことができそうである。入院するどころか、非常に明るい見通しを感じて病院を後にしたのだった。

 ところで、本物の琵琶湖の水位も、国土交通省の管轄事務所が水門をコントロールすることで絶妙に調整されている。それ以前は水位が上がったりして、周辺地域の洪水被害が度々あったそうだ。調整によって、その危険がなくなった。しかし、こうした人為的なコントロールは時として自然に弊害をもたらす。琵琶湖岸の砂浜には、タチスズシロソウという絶滅危惧の植物が生育していた。この植物は、他の植物のいない開けた砂浜を好む。しかし、水位が安定すると砂浜の攪乱が起こらなくなり、砂浜に他の植物が侵入することになった。結果、タチスズシロソウは他の植物との競争に負けて、個体数が激減したのだ。タチスズシロソウのように、洪水などの攪乱が度々起こる環境を好む植物は意外と多い。洪水が起こるとタチスズシロソウ自体も流されてしまうが、洪水後の開けた砂浜に砂の中に残った種子が一斉に発芽する。そうして洪水以前よりも多数の個体が定着して、新たの種子を大量にばらまくのである。幸いタチスズシロソウの場合は、ビーチバレーコートのために琵琶湖砂浜を掘り起こして整備したところ、偶然にも大群落が復活していたことが十数年前に発見された。実はそれを発見した研究者はおいらの知り合いで、おいらもその大群落の調査に参加したことがあった。

 その調査の時はなんと奇跡的な現象だと思いながらも、まさか遠い将来のおいらを予言しているとは思わなかった。 おいらは、利尿剤によって体内の水位を調整したことで、ある面では体調を維持できるようになった。が、放水しすぎで脱水気味になり、尿と一緒に微量元素が排出されてしまい、夜中度々足がつるようになってしまったのだった。おいらにとって微量元素はタチスズシロソウであり、水位調整で失われかねない存在なのだ。どちらも一見それはあまりに微量で体(琵琶湖)に大した影響はなさそうだが、いざ失われると全体のバランスを崩しかねない役割を持っているのかもしれない。危ない危ない。生物学者でありながら希少な存在を安易に見過ごすところであった。そんなわけで今週はフルイトランを一旦停止することにした。