ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

輝く人々

平昌オリンピックが開幕した。競技をしているどの選手も輝いて見える。この日のために人生の全てをつぎ込んできたかのように、全力で競技に立ち向かっていた。それだけに負けた時の悔しさも、勝った時の歓びも、想像を絶する感覚なのだろう。そのような超越した感覚を味わった選手たちは、どこか悟りを開いたかのように神々しく、輝いて見えるのだった。

 それに対し、今のおいらの日常は、よく言えばのんびりと無理せず、悪く言えばダラダラと怠けて過ごしている。選手たちのような緊迫した勝負の時間は一切ない。全力を注ぐようなことなど何もしていない。その日何をしたのか、なにを食べたのか思い出せないほど、何も考えず生きている。しかしそんなおいらも、以前は人生の全てをかけて全力で病気と戦っていた。フォンタン再手術をして手術後初めて目が覚めた時、想像を絶する痛みと苦しみが全身を襲っていたが、その全てを受け止めて耐え抜いた。だから手術から生き返って一般病棟に戻れた時は、嬉しいという言葉では簡単に表現できない感覚だった。病室の窓から差し込む光はあまりに眩しかった。生きているこの世界の全てが輝いて見えたのだ。

 その時のおいらの姿も、オリンピック選手のように輝いていただろうか。実際には顔はぶくぶくにむくみ、手足はやせ細り、身体中に点滴やドレーンが繋がれ、輝いているどころか、死にかかっているようにしか見えなかっただろう。しかし、おいら自身にとっては、本当に貴重な体験だった。人生を変える出来事だった。

 とまあ、自分の経験をオリンピック選手の姿と重ね合わせて美しく書き連ねてみたところで、おいらの経験は人々に感動を与えないし、おいら自身も願わくは二度と味わいたくはない。でも、オリンピック選手と共通することがあるとすれば、それは周囲の人々の支えがなければ今の自分はないということだ。その感謝の気持ちはいつまでも忘れたくない。