ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

日常生活活動が極度に制限されている人

引き続きおいらの命綱である社会福祉制度の話をしよう。障害者手帳や障害基礎年金には複数の等級があり、それは障害の程度によって決まる。例えば、障害者手帳の場合は、心機能障害には1、3、4級があり、1級が一番障害の程度が重い。それぞれは、自己身辺、家庭、社会とその活動レベルの違いはあれど、いずれもその活動レベルにおいて日常生活活動が極度に制限されるものという基準になっている。

 日常生活活動が極度に制限されるという基準は、あくまで健常者と比べての話だ。正直おいら自身はそんな極度というほど制限された生活を送っていないと思ってしまう。おいらは、生まれて以来障害を持った体で生きてきた。だから、日常的に息切れしたり、階段を登れなかったりすることも、それが普通と感じている。長年障害のある体に合わせた生活スタイルで過ごしているため、それが制限を受けているものなのかよくわからない。おいらにとっては、この体とこの生活が普通であり、それは極度に制限を受けている生き方とは感じないのだ。

 でも時々、もし健常な体だったら、どんな感じだろうかどれほど楽なのだろうかと思うこともある。もしそれを体験することができれば、おいらの今の生活が実際に極度に制限されていることを実感できるかもしれない。以前にもお話ししたが、おいらにも健常者とほぼ変わらない黄金時代があった。飲食の制限はなく、酒を飲もうが、脂っこいものを食べようが、大食いしようが平気だった。徹夜したり、登山したり、満員電車に長時間乗ったりもできた。研究のために、朝から晩まで生物の野外調査に出かけたりもした。現在はその全てができない。だからその頃と比べれば、確かに今は極度に制限された生活を送っていると言える。

 しかしやはり、今の生き方を極度に制限されていると捉えるのには、少し違和感がある。極度に制限されていると言われると、ネガティヴな印象を受けてしまう。なんだかとても虐げられた窮屈な生活を送っているようだ。毎日辛くて苦しくて耐え忍んでいるような気がしてくる。入院すれば確かにそんな日々になる。でも本当にそんな辛い気分で生活していたら、そう長く耐えられるものではない。いつか自暴自棄になったり、狂ったり、死にたくなってしまうだろう。でも、おいらの日常生活は虐げられてもいないし、辛くて苦しいわけでもない。制限はあるかもしれないが、その中でも喜びや楽しみを日々見出している。むしろ制限がある方が、ちょっとしたことに大きな幸せを感じたりもするのだ。健常者の視点から見れば、障害者は制限がある生き方にみえるだろう。では逆に、障害者の視点から見ると健常者はどんな生き方に見えるだろうか。制限のない生き方に見えるだろうか。