ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

今じゃ言えない秘密じゃないけど 出来る事なら言いたくないよ

また一人、有名人が薬物使用で逮捕された。そのニュースを聞いたとき、そっとしまっておきたかった過去の思い出が蘇ってきた。おいらは高校時代、その人物が所属する音楽グループをかなり愛聴していたときがあった。きっかけは、友人たちがCDを貸してくれたことだった。軽快なテクノのリズムには場違いな、度を越したおふざけと、どこか世間を揶揄した歌詞がまんべんにちりばめられていた。反抗期から抜けきれない高校生にとっては、そうした斜に構えた姿勢がかっこよく見えた。俺たちは、社会の常識には当てはまらない。世の中のやつは何にもわかってない。みんなバカだらけだ。なんの根拠もないのに、そんな風に自分が人とは違う存在に感じ、どこか優越感に浸っていた。

 高校を卒業をすると、友人たちはそれぞれ別の道を歩んだ。おいらは大学に進学し、新しい世界、新しい友人関係ができた。それに伴って、徐々に高校の友人たちとの交流が薄れ、気づけば愛聴した音楽も聴かなくなった。おいらは内心そのことに安堵していた。高校時代あれほど傾倒した世界観だったが、一方でどこか恐怖を感じていた。いつ自分がバカにされる対象になるのではないか。いや、もうすでに影では色々言われていないか。そんな不安が常につきまとった。

 でも一度染まった世界観は今でもひきづっている。ついウケ狙いで毒づいたことを言ったり、悪ふざけをしてしまうときがあるのだ。おいらは一見穏やかに見えるためか、そうしたおふざけをすると見た目とのギャップに余計受けた。でも家族は違った。おいらの内部にある醜い部分や上から目線を見透かしていた。恐ろしかった。だから、家族の前では、決して毒舌を言ったり、おふざけをすることはできなかった。

 できることなら、おいらはもう誰かを見下したり、バカにしたり、差別した言葉を言いたくない。むしろ、誰に対しても尊敬と感謝と愛情を持って接したい。恥ずかしいほどの言葉だけど、第二の闘病時代を経て、ようやくそう思えるようになった。おいらの心臓はおいら一人のものではない。たくさんの人々の手によって守られてきた宝石のような存在であり、おいらにはその宝石を汚さぬよう磨き続ける責務がある。

塵も積もれば山とならず

以前息子がある知能テストの問題を出してきた。どうやら学校で誰かに教わってきたようだ。その問題は、実際に有名企業の入社試験で出たらしい。その問題とは、「鶏を8ドルで仕入れて、一旦9ドルで売り、再び10ドルで買い戻して、11ドルで売った。ではいくらの儲けか?」というものであった。おいらは即2ドルの儲けと思ってしまったが、正解は2ドルの損なのだそうだ。その理由は、8ドルで買ったものを初めから11ドルで売れば3ドル儲けられたのに、実際は1ドルの儲けしかなっていないから(つまり、1ドル多く売って、1ドル多く買い戻し、1ドル多く売ったのでトータルで見ると1ドルの儲け)、2ドル損したということらしい。

 おいらは、この論理を何度息子に説明されても、後で自分で推敲しても、まるで理解できなかった。だって手元にあるお金は全体で2ドル増えているんじゃないの。1ドル儲ける取引を2回やったんだから2ドルの儲けでしょう。と、どうにも腑に落ちなかったのだ。だが、正解の考え方では、本来得られるはずのものを失ったという潜在的な損失と、1回買い戻したことによるコストの両方を、ちゃんと捉えられているという点で、もっとも優れた正解なのだそうだ。やはり一流企業の社員になるには、ずば抜けた柔軟性と多角的視点が必要なんだなと感心しつつも、いまだに答えの意味がよくわからないでいた。

 そこで別のことに例えて考えてみると、上記の答えの解釈とは異なるが、すっと腑に落ちるような理解ができた。例えば登山を考える。1000mの山を1回登り、一度下山して、もう一度同じ1000mの山を登ったとする。ではこの場合、登った山の高さは何mだろうか。単純に合計すれば2000mだが、それは2000mの山を登ったのとは全く別物である。2000mの山を登ることは、1000mの山を2回登ることよりはるかに難しい。おいらでも、入念にトレーニングをして挑めば1000mの山を登ることは全く不可能な話ではないかもしれない。しかし、2000mの山はどんなにトレーニングをしたところで、おいらには絶対に登れない山なのである。

 以前、病気やその治療での痛みレベルの話をした。痛みを最小の1から最大の10で相対的に評価するものだ。これも同じことが言える。痛みレベル10は気絶寸前の一生トラウマになるほどの激痛である。無麻酔で切開されるとか、カテーテルを数カ所同時に突き刺されるといった拷問級だ。一方、痛みレベル1は蚊が刺してかゆい程度の痛みである。では蚊に10回刺されたらトラウマになるか、といったらまずそんなことはない。これらの例からわかるのは、物事は単純に足し算できないということだ。つまり、いくら小さいことを積み重ねても大きなことと同質にはならないのだ。

 ふとおいらの普段の生活を振り返ると、週に何日か20分くらい英語を勉強してみたり、本読んでみたり、楽器を練習してみたり、インパクトのない論文を細々と書いてみたり、と小さいことを積み重ねてばかりだった。来週、スキー留学へと旅立った妻と息子に2ヶ月半ぶりに再会する。大きな夢と目標に向かってトレーニングに励んだ息子は、どんな風に成長したのかな。会うのが待ち遠しくて、今なら2000mの山も登れそうなほど軽い足取りで、二人のプレゼントを探しに出かけた休日となった。

Dreams come true

朝の国民的ドラマの中で、「人の夢の話ほどつまらないものはない」というセリフがあった。というわけで、今回はおいらのつまらない夢の話をしよう。

 その夢は、いつ見たのかわからない。おそらく子供の頃だろう。もっと言えば、夢なのか現実だったのかもいまだにわからないものだった。おいらは手術室のベッドに寝かされていて、これから手術かカテーテル検査かを受けるようだった。すぐに麻酔が効き、意識を失った。ところが、しばらくしてまた目が覚めた。おいらの顔には、布が被されて何も見えなかったが、天井から非常に眩しい光が注いでいるのがわかった。ちょうど明るい部屋で瞼を閉じた時にみたいに、光が透けて見えたのだ。おいらの周りにはたくさん人がいるようだ。話し声や何かの器具の音がする。おいらの右側には外科医らしき人が立っているらしく、低い声で周囲の人に指示を出していた。どうやら、今まさにこれから手術が始まるような気配である。

 おいらは焦った。ちょっと待って!まだ起きてるよ!声を出したくても出せず、体を動かそうとしても指一本動かせなかった。このまま意識がある中で、胸を切られるのかと思うとたまらなく恐ろしくなってきた。そこで再び意識を失い、夢が終わった。実際にその後手術が行われたのか、あるいはなんでもないときに見た夢だったのかは、今となってははっきりしない。ただ、この夢の記憶だけは妙に鮮明に残っていて、手術中に目覚める恐怖心が体に染み込んでいる。

 その夢は20年以上の時間を経て現実となった。30代後半に受けたカテーテルアブレーションで、まさに夢と同じ状況になったのだ。手術台に寝て色々な準備が始まり、静脈麻酔を打たれてうとうとしてきた。あとは寝るだけと心地よい眠気に浸っていたが、なかなか完全に眠ることができない。そうこうするうちに顔に布が被され、人が集まってきて、いよいよ始まる気配になってきた。大丈夫。もうすぐ意識がなくなる。あと20秒ぐらいかな、いや10秒もないよ。そう思っている間にも、両鼠径部と首の部分にベチャベチャに消毒液を塗りたくられて、「何時何分、始めます」というスタートの合図が聞こえた。あれ、なんかやばい。次の瞬間、消毒を塗られた部位に一斉に麻酔の注射が打たれたのだ。おいらは、ぎいいいいいと声にならない悲鳴をあげ続けたが、悪夢のような現実からは逃れられなかった。

デリケートな多様性

今日書く話は、触れないでおくのが無難な非常にデリケートな話題である。そう、おいらの住んでいる南の島で、今週末、米軍基地建設の是非を問う住民投票が実施される。この島に長年根づく非常に重いテーマであり、おいらだけでなくおいらの周囲の人も皆ナーバスになっている。島の外に住む方には意外かもしれないが、島の人々の考えは必ずしも一枚岩ではない。皆、すごく悩んでいる。悩んでいるというよりも、困っているという方が正しいかもしれない。

 曖昧な表現が続いてしまって申し訳ない。せめて、少しでもスッキリしていただけるよう、おいら自身の考えをなるべく明確にお伝えしたい。おいらは、多様性をこよなく大事にしたいと思っている。だから、基地建設で生物多様性が失われることはやはり反対である。でもおいらが大切に思うのは、生物多様性だけではない。生き方の多様性、文化の多様性、主義・思想の多様性といった人間社会の多様性も大事に思う。そう思うようになったのは、生物多様性を研究していることも大きいが、やはり自分が障害を持っていることも少なからず関係する。おいらは、障害を持つ生き方は、多様な人間の生き方の一つであると考えている。そして、願わくはその生き方を社会に認めてほしい気持ちがある。しかし、そんなのは理想であり、障害を持つことはネガティブに思われるのが現実かもしれない。障害を持つ生き方は、確かに辛く苦しく痛いことの連続である。でもその分わずかな喜びでもひと際大きく感じることができる。苦しいからといって、不幸なわけではない。

 今回の投票は反対、賛成、どちらでもないの3択があり、もちろんどれを投票しても良い。しかし、実際は一つに投票することが暗黙の了解という雰囲気が漂ってしまっている。島の人々が困っているのはその点である。だからこの投票によって、思想の多様性がないがしろにされることが正直悲しい。生物多様性に関して言えば、多様性は創造するのには長い年月が必要だが、壊れて失うのはいとも簡単である。きっと人間社会における多様性も同じであろう。

 自分の考えと異なる投票結果が出ようと、それは自分が社会から否定されたことにはならない。単に多数派ではなかったというだけだ。逆に多数派の意見と同じだったとしても、自分が正しいと保証されたわけではない。多数派であろうと少数派であろうと気にせず、ある意味気楽に堂々と人々が投票できたらいいなと思う。

 人々の重苦しい気分を天が察したのか、このところどんよりした天気が続いている。時には、泣きはらしたかのように、土砂降りの雨が通り過ぎていった。そんなことには一切お構いなく、イソヒヨドリは今日も美しい鳴き声を奏で自らの生き方を謳歌していた。

妖しき統計

 おいらが専門にしている生態学は、生物学の中で最も統計を駆使する分野である。生物学には、生理学、発生学、細胞学などほとんど統計を用いない分野もあれば、生態学、系統分類学、遺伝学のように統計を使いまくる分野もある。実際、おいら自身も日々の研究活動の中で、さまざまな統計を使っている。だから、世間的に見ればおいらは統計に詳しい専門家と思われるかもしれない。

 今、国の統計不正問題が大きく騒がれており、その背景には、景気を良く見せようとした、組織ぐるみの隠蔽があるみたいだ、政権がからんでいるかもしれない、いやいや官僚の忖度だ、といった様々な疑惑が浮かび、虚無感が社会を覆う事態になってしまった。こんな時こそ、統計に詳しい人物の出番である。でも恥ずかしながら、おいらはそれらの疑惑を検証できるほどの証拠も知識も持っていないので、残念ながら真偽はわからない。とはいえ、それでは今まで学んできたことが何の役にも立たないので、拙い知識ではあるが、おいらなりにそもそも統計とはなんなのかについて説明してみたい。おいらの説明で、統計に少しでも関心を持っていただけたら幸いである。

 おいらが考える統計とは、すごく簡単に言えば、何かの数の集まりを特徴付ける指標である。具体的な例で話してみよう。まず何かの数の集まりとは、例えば、10個の卵のそれぞれの重さとか、100人の子供の身長といったことで、統計的な用語ではその数の集まりを集団と呼ぶ。そして、その集団の特徴をどうにかして簡潔に表現しようとする方法が、統計である。今回の統計不正問題と絡めて、A,B,C,D,Eさんの5人の年収を例にもう少し具体的に説明したい。この5人の年収が、200万、200万、200万、400万、1000万だったとする。この5人の年収を特徴付ける統計として、もっともわかりやすいのが代表値である。あとで述べるように実は代表値には色々な表し方があるが、その中で「平均」は、誰しもが一度は聞いたことがあるであろう。平均は5人の年収を全部足して人数(5)で割った値として計算できる。この例の場合は平均は400万になり、5人は平均400万の年収がある、という具合に説明したりする。でもなんかしっくりこない。5人中3人が年収200万で平均の半分しかないのに、本当に平均は集団の代表値として適しているのだろうか。

 先ほど、代表値を表す統計はいくつかあると述べた。より詳しく言えば、実は平均にも色々な種類があり、先ほどの例は算術平均と呼ばれるもので、これ以外にも値を対数変換して平均する幾何平均というものもある。それから、5つの値の中でもっとも中間にある中央値、一番出てくる頻度が高い最頻値なんかも集団の代表値として表す方法である。それぞれの統計値を先ほどの例に当てはめると、幾何平均が316万、中央値が200万、最頻値も200万となる。では、一体どの統計値が集団の代表値として適しているだろうか。

 それは、集団の中の値のばらつき具合(統計用語で分散と呼ぶ)を見れることでわかる。5人の年収の例では、集団の中に大きく外れた値(1000万)があるため、外れ値の影響を強く受けてしまう算術平均は、代表値としてあまり適さない。残念なことに、国の統計にかかわらずテレビや本や新聞などで出てくる平均にはほとんど分散が示されておらず、平均が適しているかを評価できない。言い換えれば、分散を示していない平均はほとんど信用できないのだ。

 ところで、今回の統計不正問題は、適した統計値を使っているかどうか以前の問題だった。そもそもの数の集まり(集団)が、誤った方法で集められた意味のない集団だったのだ。だから、この集団から平均や中央値や最頻値や分散をいくら求めたところで、全て信用できないのである。もはや、集団を正しく集め直すことはできない。つまりこの国の真の姿は永遠にわからないままになってしまったのだ。

 統計に関心を持ってもらうどころか、ますます統計が信頼できない話になってしまった。でもそれが統計を理解する出発点だとおいらは思っている。怪しいからこそ、むやみに統計を信じずその意味を深く考えることが大切である。そうして、突き詰めて調べ考えていくことで、集団の中に潜む法則が見えてくるのだ。おいらの研究は、生物における様々な数の集まり(例えば、植物個体が付ける花の数、葉の数など)を統計で表現し、その背後にある法則を解明することである。多様な統計手法を駆使しても、美しい法則にたどり着かないことがほとんどである。でも、稀に法則性を見出せた時、えも言われぬ感動に全身が満たされてしまう。だから統計は、妖しくも魅力的な存在である。

2つの記録

今から約3年前半の38歳の時、おいらはTCPC conversion(フォンタン転換手術)を受けた。その時の手術直後の状況を妻が記録してくれていた。このサイトを作ろうと思ったきっかけは、30年前の母の残した記録と3年前の妻の残した記録、その2つの記録があったことが大きい。

 辛い思い出しかない手術や入院のことなんて、正直本人は忘れたい思いだった。しかし、いざしばらく時間が経ち、後で記録を読み返すと、なんだかとても貴重な体験をしたように思えてきたのだ。記録が残っていて良かったと思った。そう思うと、おいらの記憶のなかにしまってある病気の体験も書き記しておきたいと思えてきた。記憶はいずれ薄れてしまう。しかし、ただノートに書き記すだけではすぐに飽きてやめてしまいそうだ。だから、継続できるよう書くことがノルマになり、そして自分だけでなく同じ病気を抱える人々にとっても少しでも役立つような情報として残したいと思った。そうして思いついたのが、インターネット上のブログだった。

 ブログを開設するにあたって、おいらなりにいくつかの制約を設けた。まず一つ目は、知人友人家族等いかなる知り合いにも、このブログの存在をおいら自身から紹介しないこと。その理由は、知り合いの目をできる限り意識したくなかったからだ。知り合いが読んでいると思うと、どうしてもその人に向けて内輪な話を書いてしまうリスクがある。大げさな言い方をすれば、できるだけ万人に話しかけるような内容にしたかったのだ。今ではもしかするとこっそり読んでいる知り合いもいるかもしれないが、おいら自身は誰が知っているか全くわからない。もし読んでいても、おいらに会ったときは秘密にしていてほしい。2つ目の制約は、できるだけわかりやすく丁寧な文章にする事である。わかりやすく丁寧な説明は、おいらが人と話す上でもっとも大切にしているポリシーでもあり、自分が患者として医療の説明を聞く際に切実に願っているためでもある。この点は、また別の機会にお話ししたい。3つ目は、病気のことに関して、なるべく全て隠すことなく書くことである。これは当初の病気の記録という目的のためにも、脚色をせず客観的に実際に体験したことを書き記すことが重要に思うからだ。

 そして最後4つ目の制約は、制約というより願望というべきかもしれない。それは、辛い、苦しい、痛いばかりの病気の体験の中から、わずかでも希望を見出すことである。母と妻の記録は、どちらも起きたことを時系列的に淡々と記しているだけだが、読むとなぜか生きる希望が湧く内容だった。手術後に少しずつ意識と感覚が回復していく様子は、死の淵から這い上がろうとしている人を見ているようで、自分のことなのに応援したくなるのだった。

 そんなわけで、ここ数ヶ月ブログの更新頻度が少ないのは、最近とくに目立った病気の体験がなく、希望を見出せる内容がないからだった。というのは言い訳で、本当は単に怠けているだけ。先天性心疾患だからといって、常に命の危機が迫る展開があるわけではなく、懸命に生きているわけでもなく、世の中年男性と変わりなく、だらけた平凡な日常を過ごしているのである。

インクレディブル・ファミリー

今から約30年前の12歳の時、おいらはAPCフォンタン手術を受けた。その時の入院の状況を両親が記録して1冊のファイルにまとめて残していた。ファイルには記録だけでなく、当時のクラスの同級生からいただいた手紙も保存されていた。どの手紙にも、おいらが手術を頑張ったことを讃える言葉が綴られていた。クラス全員からそんな手紙をもらったので、おいらは自分がヒーローになったかのように錯覚し、ご満悦に浸っていた。ファイルの記録や手紙をもとに、おいらのご満悦なフォンタン手術の武勇伝を紹介しよう。

 入院期間は59日間。近年のフォンタン手術では3週間ほどの入院で済むらしいが、30年前では2ヶ月でも順当な方だったろう。手術時間は21時間30分で、長いのかどうかはわからない。5年前に受けたフォンタン再手術では、当初予定の10時間を大幅に超えて22時間かかった。手術を受ける当日の朝、「いたくない?いつもどれるの?」と涙目で母に聞いたようだ。

 懇願虚しく手術後のICUは、長く辛いものだった。ICU滞在は12日間、導尿カテーテルは14日間入れ続けた。これは今の医療の常識からはかなり長い。最近の知見では、ICU滞在期間が長いほど術後回復が遅れることがわかり、早ければ手術後2日くらいで一般病棟に戻すようにしているようだ。長期間のICUは精神的に相当のストレスとなり、滞在中かなり暴れたりしたらしい。いわゆるICU症候群におちいっていた。

 なんとか一般病棟に戻れても、その後2週間ほど容体は安定しなかった。特に、胸水が止まらず胸に刺したドレーンから廃液が毎日300ccほどで続けていた。そのため水分制限も厳しく、1日約800ccほどしか飲めなかった。ようやく胸水が止まったのは手術後1ヶ月が経った頃だった。最後のドレーンを抜くときは、留置期間が長すぎたためにドレーンが内部の肉に癒着してしまっており、引き抜くとバリバリと剥がれる感覚がした。おいらは激痛で歯が欠けそうなほどに力強く食いしばって呻き声を上げた。ドレーンを抜くとまた胸水が溜まり始め不安が走った。幸いその後胸水は徐々に減り、体力も回復し始め、一般病棟に戻って3週間ほどで退院となった。退院する3日前、心臓カテーテル検査を受けたが、これが凄まじい痛みで検査後激しく嘔吐し、その後生涯にわたってカテーテルがトラウマになった。

 フォンタン手術により、これまでほとんど肺に送られてこなかった血液が大量に送られるようになった。しかし、その新しい循環系にはなかなか体がなじめず、退院後2ヶ月ほど毎朝頭痛と吐き気に苦しめられた。ある外来診察のとき、そのことを執刀医に伝えると、「そんなことはない!手術は完璧に成功したのだ!」となぜか厳しく怒られた。母は泣いていたが、おいらはよくわからずぽかんとしていた。

 クラスメートからのお褒めの言葉とは異なり、現実はおいらはただ痛みに苦しんでいただけだ。ファイルの記録からわかるのは、本当に頑張ったのはおいらではなくおいらの家族だった。毎日不安でたまらなかっただろうに、それでも気丈に振る舞っておいらを介助し、知人友人から輸血を募り、仕事をした。真のヒーローは家族なのである。ファイルの最後のページに1枚のレシートが挟まっていた。退院前日の夕方に買ったケーキのレシートのようだ。おそらく退院した日に家族でケーキを食べて祝ったのだろう。それはおいらと家族が長い苦しみから解放され、ヒーローから普通の家族に戻った瞬間だった。