ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

証拠隠滅

南の島に移り住んで、丸2年が経過した。心筋梗塞不整脈などで何度か入院したものの、心臓の状態は概ね安定していた。一番大きな改善は、PLEによる入院がなくなったことだ。もちろん何度か危ない時期はあった。それでも、ステロイドの量を微調整し様子見することで、なんとか乗り切ることができた。南の島に移り住む前は、年に1、2回はPLE治療で入院していた。それに、一度再発すると回復には時間がかかり、入院期間も一ヶ月近くになることが常だった。それが一切なくなったことで、生活は圧倒的にゆとりを得ることができた。

 この劇的な改善の原因ははっきりしていて、亜熱帯地域特有の温暖で季節変化の少ない気候のおかげだった。温暖であること、季節変化が少ないことは、循環器系に極めて優しい環境のようだ。血管は暑さ寒さに敏感に反応する。寒い環境にいると、足先や手の指が冷たくなってくるが、これは冷たい外気温に冷やされること以上に、寒さで血管が収縮することによる影響が大きい。寒い環境では、内部体温を維持するために体の中心部に血液が集まり、末端部分は血が滞る。その極端な状態が凍傷である。逆に暖かい環境にいれば、血管は拡張し全身に血が行き渡る。

 同様に気温の季節変化があれば、血管はそれに敏感に反応する。日内の変化にも当然反応する。気温の変化が大きいほど、血管はそれに対する対応に迫られ、負担となる。血管が収縮したり拡張すれば、当然血圧も変化し、また心臓もそれに応じた反応が求められる。我がか弱き心臓くんは、ただでさえ普段からギリギリのところを頑張っているので、これ以上複雑な対応はとても無理な話なのだ。そのため、暑さ寒さの変化が大きいと心不全状態に陥り、PLEをはじめ様々な悪化が生じてしまう。

 これはおいらの個人的印象だけではないらしい。以前おいらの主治医の先生にこの点について尋ねてみた。その先生も、しばらく前は内地の寒い地域で勤めていた経験があり、その時と比べると南の島は心臓の状態が悪化する患者がほとんどいないそうだ。特にPLEは、寒い地域の病院では年中何人も入院していたのに、南の島の病院では誰も入院しないのだそうだ。また、スコットランドで行われた研究(*1)によれば、心不全患者の国の統計を分析したところ、冬に入院する確率が最も高い結果が得られた。同様に、急性心筋梗塞の発症も寒い日ほど高くなるという報告がある(*2)。寒さは心臓の大敵なのだ。

 気候と心臓病の関係は容易に想像がつきそうだが、以外にも研究例は少ない。おいらの経験は生きた証拠であり、いつか誰かがケーススタディとしてでも論文にしてくれたらうれしい。いやこの際自分で書くというのも手かもしれない。しかし、そんな貴重な証拠を潰すが如く、おいらは今ではすっかり好き放題してしまっている。あれほど制限していた水分も今はがぶ飲みし、かなり脂っぽいものですらたまに食べている。せっかくの南の島の恩恵も、貴重な論文のネタも、おいらの不摂生が台無しにしてしまっているのだ。

 

*1 Stewart, S. et al. 2002. Heart failure in a cold climate: seasonal variation in heart failure-related morbidity and mortality. Journal of the American College of Cardiology 39: 760-766.

*2 汪宏莉, et al. 2007. 急性心筋梗塞の発症と気象条件の関連性について. Journal of cardiology 49: 31-40.

覚悟の時代

年度の始めは、新しい職場や学校に通い始めたり、初めての地域に住み始めたりと、多くの人にとって不安と期待の時期である。特に今年は新元号が発表されたこともあってか、一段とまばゆい雰囲気に包まれている。おいらもまた、今年は例年になくなんだか明るい未来を期待してしまっている。

 明るい未来を期待する理由は、ないわけではない。ここ数年を思い返すと、おいらは第2の闘病時代に入った2013年以降、毎年3月から4月は入院しているか、入院開けすぐの衰弱した状態だった。2013年と2014年は蛋白漏出性胃腸症(PLE)で入院、2015年は不整脈でアブレーションと電気ショック入院、2016年はPLEと腰椎骨折の地獄入院、2018年は心筋梗塞で入院だった。比較的安定していたのは2017年で、おかげで南の島に移り住むことができた。しかしそれでも、体力はまだまだ弱く、ちょっとしたことで疲れたりむくんだりと安定はしていなかった。

 そして今年は、体調が極めて安定した状態で新年度を迎えられた。先日一瞬不整脈に見舞われたが、それもすぐに回復した。体調が安定していると、気持ちにもゆとりが出てくる。ここ最近、不思議と誰に対しても臆することなく接することができるようになった。こんなことは今まで全くなかった。これまでは内心いつもビクビクしていたり、恥ずかしかったり、遠慮していた。しかし、今は初対面の人ですら楽しく会話することができた。そんな自分の様子に、おいら自身がとても驚いている。

 いつ悪化するかわからない体調に怯えているときは、自分の生き方を制限してしまう。人との交流は体力的にも精神的にも厳しいので、極力控えていた。しかし、これからはそんな制限をしなくても良いかもしれない。一方、それは試練でもある。おいらは、病気の制限を理由に甘えてもきた。面倒な交流を避け、家族や昔馴染みの友人など気楽な関係だけに甘んじていた。新たな人々と真摯に交流をしようとするならば、そんな甘えはもうできない。それは新時代に向けた、おいらの覚悟でもあり期待でもある。

電気と薬と心地よさ

例の薬物事件の話ではない。先週おいら自身が電気ショックを受けた。昨年10月に心房粗動が発症して以来、また同じ症状が出たのだった。電気ショックは心臓が止まった人にやるイメージが強いが、心房粗動や心房細動を止める応急処置的治療としてもよく使われる。専門的には同期カルディオバージョンと呼ぶらしい。おいらは、これまでなんども電気ショックを受けた経験があり、初めては今から5年前だった。昨年の10月のときも電気ショックを受け、今回で6回目となった。

 おいらがこれまで電気ショックを受けた時は全て意識がはっきりしていた。心肺蘇生法のガイドラインによれば、意識のある患者に対しては、電気ショックの前に必ず鎮静剤か麻酔の投与が必要であるとある。当然ながらおいらも毎回催眠鎮静剤を投与されていたので、電気ショック自体にはさほど恐怖や不安を感じなかった。しかし、ちょっぴり不安になり、念のため今回も始める前に看護師さんに聞いてみたら、安心させるようにすごく優しく手をさすりながら「そうですよ」と答えてくれた。おいらは笑みを浮かべて頷き、早く打ってくれないかと待ちわびた。今回おいらは、ミダゾラムという鎮静剤を静脈に刺さった点滴から投与された。

 催眠鎮静剤の効果は極めて強力である。静脈に流し込まれた薬が脳まで運ばれると、途端に瞼が重くなり意識が落ちていきそうになる。どんなに必死に抵抗して目を開け続けようとしても、薬が効き始めて10秒くらいでもう目を開けることができなくなり気を失う。次の瞬間また目が開くと、もうその時には一通りの手技が終わった後だった。おいらにとっては、目を閉じてまたすぐに目を開けたくらいにしか感じられなかった。

 しかし、今回の電気ショックは今までと少し違う体験だった。まず、後でわかったが催眠時間がわずか10分程度くらいだったらしい。これまでは30分以上は経過していた。それだけ短いせいなのか、おいらの脳が作り出した幻覚なのかわからないが、催眠されている間一瞬体が大きく揺さぶられたような気がしたのだ。もしかすると、電気ショックを受けた瞬間を感じたのだろうか。それを裏付けるかのように、目が覚め始めたとき、医者が「あれもう目を覚ましたよ。痛くなかったかな。」と会話しているのが聞こえた気がしたのだ。おいらは、電気ショックの衝撃で目を覚ましたのかもしれなかった。

 目が覚めてから鎮静剤が完全に切れて意識がはっきりするまでは、30分ほどかかった。毎回思うことだが、この時間は本当に気持ち良い。全身の感覚が鈍く、浮遊感があり、眠気とも異なるうっとりとした心地なのだ。美味しいものを食べたり、感動したり、性的な快楽を感じたときのような、刺激的な気持ち良さとは違った。ついさっきまで苦しかった心臓が嘘のように静まり、体から一切の不快感や痛みを感じない究極の平穏という心地よさだった。それは生きた生身の体では決して感じられないあの世の感覚のように思えた。

今じゃ言えない秘密じゃないけど 出来る事なら言いたくないよ

また一人、有名人が薬物使用で逮捕された。そのニュースを聞いたとき、そっとしまっておきたかった過去の思い出が蘇ってきた。おいらは高校時代、その人物が所属する音楽グループをかなり愛聴していたときがあった。きっかけは、友人たちがCDを貸してくれたことだった。軽快なテクノのリズムには場違いな、度を越したおふざけと、どこか世間を揶揄した歌詞がまんべんにちりばめられていた。反抗期から抜けきれない高校生にとっては、そうした斜に構えた姿勢がかっこよく見えた。俺たちは、社会の常識には当てはまらない。世の中のやつは何にもわかってない。みんなバカだらけだ。なんの根拠もないのに、そんな風に自分が人とは違う存在に感じ、どこか優越感に浸っていた。

 高校を卒業をすると、友人たちはそれぞれ別の道を歩んだ。おいらは大学に進学し、新しい世界、新しい友人関係ができた。それに伴って、徐々に高校の友人たちとの交流が薄れ、気づけば愛聴した音楽も聴かなくなった。おいらは内心そのことに安堵していた。高校時代あれほど傾倒した世界観だったが、一方でどこか恐怖を感じていた。いつ自分がバカにされる対象になるのではないか。いや、もうすでに影では色々言われていないか。そんな不安が常につきまとった。

 でも一度染まった世界観は今でもひきづっている。ついウケ狙いで毒づいたことを言ったり、悪ふざけをしてしまうときがあるのだ。おいらは一見穏やかに見えるためか、そうしたおふざけをすると見た目とのギャップに余計受けた。でも家族は違った。おいらの内部にある醜い部分や上から目線を見透かしていた。恐ろしかった。だから、家族の前では、決して毒舌を言ったり、おふざけをすることはできなかった。

 できることなら、おいらはもう誰かを見下したり、バカにしたり、差別した言葉を言いたくない。むしろ、誰に対しても尊敬と感謝と愛情を持って接したい。恥ずかしいほどの言葉だけど、第二の闘病時代を経て、ようやくそう思えるようになった。おいらの心臓はおいら一人のものではない。たくさんの人々の手によって守られてきた宝石のような存在であり、おいらにはその宝石を汚さぬよう磨き続ける責務がある。

塵も積もれば山とならず

以前息子がある知能テストの問題を出してきた。どうやら学校で誰かに教わってきたようだ。その問題は、実際に有名企業の入社試験で出たらしい。その問題とは、「鶏を8ドルで仕入れて、一旦9ドルで売り、再び10ドルで買い戻して、11ドルで売った。ではいくらの儲けか?」というものであった。おいらは即2ドルの儲けと思ってしまったが、正解は2ドルの損なのだそうだ。その理由は、8ドルで買ったものを初めから11ドルで売れば3ドル儲けられたのに、実際は1ドルの儲けしかなっていないから(つまり、1ドル多く売って、1ドル多く買い戻し、1ドル多く売ったのでトータルで見ると1ドルの儲け)、2ドル損したということらしい。

 おいらは、この論理を何度息子に説明されても、後で自分で推敲しても、まるで理解できなかった。だって手元にあるお金は全体で2ドル増えているんじゃないの。1ドル儲ける取引を2回やったんだから2ドルの儲けでしょう。と、どうにも腑に落ちなかったのだ。だが、正解の考え方では、本来得られるはずのものを失ったという潜在的な損失と、1回買い戻したことによるコストの両方を、ちゃんと捉えられているという点で、もっとも優れた正解なのだそうだ。やはり一流企業の社員になるには、ずば抜けた柔軟性と多角的視点が必要なんだなと感心しつつも、いまだに答えの意味がよくわからないでいた。

 そこで別のことに例えて考えてみると、上記の答えの解釈とは異なるが、すっと腑に落ちるような理解ができた。例えば登山を考える。1000mの山を1回登り、一度下山して、もう一度同じ1000mの山を登ったとする。ではこの場合、登った山の高さは何mだろうか。単純に合計すれば2000mだが、それは2000mの山を登ったのとは全く別物である。2000mの山を登ることは、1000mの山を2回登ることよりはるかに難しい。おいらでも、入念にトレーニングをして挑めば1000mの山を登ることは全く不可能な話ではないかもしれない。しかし、2000mの山はどんなにトレーニングをしたところで、おいらには絶対に登れない山なのである。

 以前、病気やその治療での痛みレベルの話をした。痛みを最小の1から最大の10で相対的に評価するものだ。これも同じことが言える。痛みレベル10は気絶寸前の一生トラウマになるほどの激痛である。無麻酔で切開されるとか、カテーテルを数カ所同時に突き刺されるといった拷問級だ。一方、痛みレベル1は蚊が刺してかゆい程度の痛みである。では蚊に10回刺されたらトラウマになるか、といったらまずそんなことはない。これらの例からわかるのは、物事は単純に足し算できないということだ。つまり、いくら小さいことを積み重ねても大きなことと同質にはならないのだ。

 ふとおいらの普段の生活を振り返ると、週に何日か20分くらい英語を勉強してみたり、本読んでみたり、楽器を練習してみたり、インパクトのない論文を細々と書いてみたり、と小さいことを積み重ねてばかりだった。来週、スキー留学へと旅立った妻と息子に2ヶ月半ぶりに再会する。大きな夢と目標に向かってトレーニングに励んだ息子は、どんな風に成長したのかな。会うのが待ち遠しくて、今なら2000mの山も登れそうなほど軽い足取りで、二人のプレゼントを探しに出かけた休日となった。

Dreams come true

朝の国民的ドラマの中で、「人の夢の話ほどつまらないものはない」というセリフがあった。というわけで、今回はおいらのつまらない夢の話をしよう。

 その夢は、いつ見たのかわからない。おそらく子供の頃だろう。もっと言えば、夢なのか現実だったのかもいまだにわからないものだった。おいらは手術室のベッドに寝かされていて、これから手術かカテーテル検査かを受けるようだった。すぐに麻酔が効き、意識を失った。ところが、しばらくしてまた目が覚めた。おいらの顔には、布が被されて何も見えなかったが、天井から非常に眩しい光が注いでいるのがわかった。ちょうど明るい部屋で瞼を閉じた時にみたいに、光が透けて見えたのだ。おいらの周りにはたくさん人がいるようだ。話し声や何かの器具の音がする。おいらの右側には外科医らしき人が立っているらしく、低い声で周囲の人に指示を出していた。どうやら、今まさにこれから手術が始まるような気配である。

 おいらは焦った。ちょっと待って!まだ起きてるよ!声を出したくても出せず、体を動かそうとしても指一本動かせなかった。このまま意識がある中で、胸を切られるのかと思うとたまらなく恐ろしくなってきた。そこで再び意識を失い、夢が終わった。実際にその後手術が行われたのか、あるいはなんでもないときに見た夢だったのかは、今となってははっきりしない。ただ、この夢の記憶だけは妙に鮮明に残っていて、手術中に目覚める恐怖心が体に染み込んでいる。

 その夢は20年以上の時間を経て現実となった。30代後半に受けたカテーテルアブレーションで、まさに夢と同じ状況になったのだ。手術台に寝て色々な準備が始まり、静脈麻酔を打たれてうとうとしてきた。あとは寝るだけと心地よい眠気に浸っていたが、なかなか完全に眠ることができない。そうこうするうちに顔に布が被され、人が集まってきて、いよいよ始まる気配になってきた。大丈夫。もうすぐ意識がなくなる。あと20秒ぐらいかな、いや10秒もないよ。そう思っている間にも、両鼠径部と首の部分にベチャベチャに消毒液を塗りたくられて、「何時何分、始めます」というスタートの合図が聞こえた。あれ、なんかやばい。次の瞬間、消毒を塗られた部位に一斉に麻酔の注射が打たれたのだ。おいらは、ぎいいいいいと声にならない悲鳴をあげ続けたが、悪夢のような現実からは逃れられなかった。

デリケートな多様性

今日書く話は、触れないでおくのが無難な非常にデリケートな話題である。そう、おいらの住んでいる南の島で、今週末、米軍基地建設の是非を問う住民投票が実施される。この島に長年根づく非常に重いテーマであり、おいらだけでなくおいらの周囲の人も皆ナーバスになっている。島の外に住む方には意外かもしれないが、島の人々の考えは必ずしも一枚岩ではない。皆、すごく悩んでいる。悩んでいるというよりも、困っているという方が正しいかもしれない。

 曖昧な表現が続いてしまって申し訳ない。せめて、少しでもスッキリしていただけるよう、おいら自身の考えをなるべく明確にお伝えしたい。おいらは、多様性をこよなく大事にしたいと思っている。だから、基地建設で生物多様性が失われることはやはり反対である。でもおいらが大切に思うのは、生物多様性だけではない。生き方の多様性、文化の多様性、主義・思想の多様性といった人間社会の多様性も大事に思う。そう思うようになったのは、生物多様性を研究していることも大きいが、やはり自分が障害を持っていることも少なからず関係する。おいらは、障害を持つ生き方は、多様な人間の生き方の一つであると考えている。そして、願わくはその生き方を社会に認めてほしい気持ちがある。しかし、そんなのは理想であり、障害を持つことはネガティブに思われるのが現実かもしれない。障害を持つ生き方は、確かに辛く苦しく痛いことの連続である。でもその分わずかな喜びでもひと際大きく感じることができる。苦しいからといって、不幸なわけではない。

 今回の投票は反対、賛成、どちらでもないの3択があり、もちろんどれを投票しても良い。しかし、実際は一つに投票することが暗黙の了解という雰囲気が漂ってしまっている。島の人々が困っているのはその点である。だからこの投票によって、思想の多様性がないがしろにされることが正直悲しい。生物多様性に関して言えば、多様性は創造するのには長い年月が必要だが、壊れて失うのはいとも簡単である。きっと人間社会における多様性も同じであろう。

 自分の考えと異なる投票結果が出ようと、それは自分が社会から否定されたことにはならない。単に多数派ではなかったというだけだ。逆に多数派の意見と同じだったとしても、自分が正しいと保証されたわけではない。多数派であろうと少数派であろうと気にせず、ある意味気楽に堂々と人々が投票できたらいいなと思う。

 人々の重苦しい気分を天が察したのか、このところどんよりした天気が続いている。時には、泣きはらしたかのように、土砂降りの雨が通り過ぎていった。そんなことには一切お構いなく、イソヒヨドリは今日も美しい鳴き声を奏で自らの生き方を謳歌していた。