ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

20gに託された命

ペースメーカー(PM)が突然止まったら、おいらは一体どうなるのか。それは、5年前にPMを埋め込んだ時から、怖いもの見たさのような好奇心として、おいらの頭の片隅にずっと潜んでいた。図らずもその好奇心は満たされることになった。この1ヶ月半ほど、おいらを苦しめていた、だるさ、疲れやすさ、息苦しさ、心不全、極度の寒気、みぞおちの疼痛などの症状は、PM不全によるものだった。

 PMを埋め込んだのはフォンタン転換手術をした時で、手術後のおいらの心臓は自己心拍が40以下となっていた。その状態のままではすぐに全身がうっ血し、多臓器不全を起こしてしまう。だからPMで心拍を調節してあげる必要があった。PMの埋め込み方法としては、一般的によく行われるリードを鎖骨下静脈から挿入する方法と、その方法が何らかの理由で行えない場合として心筋に直接電極を固定する方法がある。おいらの場合はフォンタン転換手術と合わせて行ったこともあり、後者の方法がとられた。どちらがメリットがあるかはよくわからないが、後者はジェネレータを腹部に埋め込み、開胸手術によってリードを心筋に挿して固定する必要があるため、より難易度が高い。それはつまりリードを交換する際にも、再び開胸手術を行う必要があるのである。

 PMにはペーシング(刺激)とセンシング(感知)の役割がある。また、リードは心房か心室に一本だけ挿す(シングルチャンバー)と心房心室両方に挿す(デュアルチャンバー)の二種類がある。おいらのPMはデュアルで心房心室それぞれのペーシングとセンシングを行なっている(厳密にはその時の設定で異なる)。そのため、PM不全と一言でいっても、心房心室それぞれでペーシング不全(PMは刺激を送っているが心臓が反応していない場合)とセンシング不全(心臓の自己心拍をPMが感知できていない場合)がある。おいらの場合は、心房でのペーシング不全が起こっている状態だった。

 実は、おいらが将来心房性ペーシング不全になる可能性は、すでに埋め込み当時から予測できることだった。埋め込み時、おいらの心房の心筋はどこにリードを挿しても反応せず、反応する部位を見つけるのに相当苦労したらしい。後日妻から聞いた話では、手術の途中で執刀医が説明に訪れ、「もうどこも反応しなくて、ずっと胸を開いたままにしているんです」と困り果てている様子で、その外科医の目頭は長時間拡大鏡か何かをかけていた跡がくっきりと残り、皮膚がズルむけていたそうだ。そんなわけで、おいらの心房心筋は、土台からペーシングに反応しにくい状態になっていたのだ。ようやくなんとか反応する部位を見つけることができペーシングが機能したが、その後年月が経つにつれ反応が悪くなり、徐々に刺激電圧を上げて持ちこたえていた。

 今月6月の頭にいよいよ体調がしんどくなり、病院の救急に駆け込んだ。一通り検査するとやはり心房性ペーシング不全となっていたため入院になった。幸いその時もPMの電圧を上げる設定に変更したことで、反応するようになった。しかし、それから一週間後、また同じような不調が現れた。今度はペーシング不全に加え、センシング不全、さらに心房粗動まで発症していた。今度はPMの電圧を最大にしても反応せず、医師の顔からも明らかに落胆の表情がうかがえた。とりあえず心房粗動を電気ショックで止めて、その後また設定変更してみることになった。おいらが鎮静剤の眠りから目覚めた時には心房粗動も止まり、運よくペーシングにも無事反応するようになっていた。

 今現在、一応PMは機能している。しかし、最近の不安定な状況を考えると、いつまたPM不全に陥っても不思議ではない。医師の説明では、PM不全を回避するためには、抗不整脈薬を変えたりして不整脈が起きないようにする、アブレーションで不整脈を治す、あるいはリードを交換するしかないそうだ。電圧を上げ続けたことで、ジェネレータの電池もかなり消耗してしまっており、一年以内に交換が必要になった。しかし、新しい電池に交換しても、PM不全は解消できないそうだ。抗不整脈薬やアブレーションも不整脈を根治できるわけではなく、そもそも不整脈が起きなくてもPM不全になりうる。結局根本的にはリード交換しか方法がない。しかし、それには非常に困難な手術が待ち受けている。果たしてそれを引き受けてくれる外科医はいるのだろうか。おいらの運命はこのわずか20gの小さな装置にかかっている。

 

注) PMをPrime minister(首相)と置きかえると、とんでもない文章になります。

身体の幸せと心の幸せには50°Cの差がある。

おいらの住む南の島は梅雨の中休みに入り、この数日は日中30°C前後になるようになった。30°Cとなれば、一般的には汗ばんで暑さが鬱陶しい陽気だが、おいらにとってはすこぶる心地よい。もちろん、おいらにとっても30°Cは暑い。でも、寒さで体調を崩す心配がないのだ。寒さは本当に体にこたえる。日中30°Cにもなる今でさえ、朝方の冷えで苦しくて目が覚め、そのまま午前中は体の不調をひきづってしまうことがある。とはいえ、心地よい陽気になったおかげで息苦しさやだるさもだいぶ緩和され、自粛緩和と相まって平穏な日常に戻った感覚を人一倍強く感じることができた。

 そんな寒さに弱いおいらだが、南の島に移り住む前は本州では最も気温が低くなることがある山地高原に住んでいた。冬の最低気温は−20°Cを下回ることが度々あり、日中の最高気温も−10°Cを上回らない日々が続いたりもした。そんな寒い地域だと、さぞ北海道のように家の暖房設備が充実しているかと思うが、おいらが住んでいた家に限っては、二重サッシもなく床に断熱材もない築50年近いボロボロの平屋だった。だから冬場は家中の窓が凍り、玄関の扉も凍り、暖房のついていないトイレなどでは0度以下になった。南の島でさえ寒いのに、今思えばよく生きていたと思う。

 実際、生きていられない状況だったため、度々体調を崩し入院した。寒さだけが原因ではないが、おいらの心臓が不調になり始めたのもその家に住んでいた時からだった。不整脈が頻発し、蛋白漏出性胃腸症になり、全身が浮腫み、そしてついにフォンタン再手術に至った。おそらく、そんな寒い環境に住んでいなかったとしても、すでにおいらの心臓はかなり限界に達しており、いずれそれらの症状は出てきていただろう。しかし、寒さが最後のトリガーになったかもしれないとも思いもする。ほとんどゆとりのない心臓に、追い討ちをかけるようにダメージを与えてしまったのだ。

 でも、おいらはその地域に住んだことを全く後悔していない。それどころか、もし可能ならまた住みたいとすら思っている。闘病体験やその他のことでもものすごい辛い経験もしたが、一方でそれ以上に楽しく幸せを感じていた。食べ物はとんでもなく美味しく、水も空気も信じられないほど綺麗で、研究環境も恵まれて思う存分研究ができ、ちょっとドライブすれば有名な観光地が周囲にあちこちあり、温泉も入りたい放題だった。そして闘病生活を送った病院は、言葉に表せないほど素晴らしい病院だった。しかし残念ながら期限付きの研究職が切れたため住み続けることが叶わず、約8年の生活の後次の職を求めて南の島に移ることになった。

 身体のことを思えば、南の島に移住したことは本当に幸運である。それなのに、今でもあの極寒の地の生活を思い出してしまう。もしこの先の人生で、また大きな手術を受けることになったら、できることならまたあの病院で受けたいと願っている。そしてその時が来れば、またあの地域に戻って住むのが密かな夢だ。30°Cの環境でさえ寒さが辛い今の身体には、−20°Cの環境に戻ることはもはや自殺行為であろう。でも、おそらく決して人並みには長くはない残りの人生において、身体の快適さと心の喜びどちらが大切なのだろうか、と迷っている。

頑張ることの断捨離

気づけば丸々1ヶ月このブログを更新できずにいた。理由はいくつかある。一番大きな理由は、ゴールデンウィーク前にうっ血性心不全を発症してしまい、GWは入院しその後も息苦しい日々が続いたためだ。入院前と入院中は、実に息苦しかった。特に夜中から午前中にかけてがひどく、夜は何度も溺れたような感覚がして目が覚めた。目が覚めた後は体を起こして深呼吸を続けたが息苦しさは治らなかった。そんなわけで、夜中は息苦しさで目を覚ますことを何度も繰り返し、まともに睡眠が取れない日々が続いた。睡眠不足が何日も続くと、常に頭がボーっとしてフラフラし、すごく眠くてあくびも出るのだが、なぜか眠すぎて眠れないという恐ろしい状態になった。

 うっ血性心不全になると、肺に水が溜まってしまい呼吸困難になる。GWに入院した時は、ともかく溜まった水を抜くために、連日一日2回利尿剤(フロセミド)を点滴から投与された。毎日2500mlほどの尿が出たおかげで、少しずつ息苦しさが和らいである程度眠れるようになってきた。そのため入院期間は5日間で済んだが、退院後も体のだるさや息苦しさは残った。だから退院したとはいえ、少し起き上がって動くだけで、すぐに疲れて苦しくなってしまい、ほぼ一日中横になって過ごしていた。

 今までのおいらだったら、この程度の短期間の入院や苦しさはなんて事なく耐えられていただろう。しかし、今回は精神的にもかなり衰弱してしまった。それは今年1月に死ぬ苦しみを味わった心室細動の入院に受けた精神的ダメージをひきづっていたこともある。起きていても寝ていても何をするにも息苦しく気力が湧かず、体がだるいのがとても辛かった。なんでこんな辛い思いをして生きているのだろう。なぜ生きるだけでこんなに頑張らないといけないのだ。苦しみに耐え頑張って生き続けるのに疲れてしまっていた。もはや涙すら流れないほど逃げ場のない追い詰められた気持ちになり、すがる思いで姉にメールを送った。

 

GWに心不全で入院してた

その頃から精神も弱ってしまったみたい

一日中だるくて気力がわかない

すごく眠いのに眠れない

気を失いそうな感覚

頑張って生きているのが辛い

だれかにもう頑張らなくていいといってほしい

でも生きている以上頑張らないといけない

寝るのも頑張る

起きるのも頑張る

食べたいもの飲みたいものも我慢して頑張る

出かけるのも我慢して頑張る

仕事も頑張る

明日も頑張る

頑張るだらけ

頑張らずにやれるものが何もない

 

しばらくして姉から返事が来た。

辛いね

ひとつづつ減らしていったら?

頑張りたいと思うものは残す

食べることなのか

仕事なのか

 

 姉からのメールにはこの後にもさらに愛情こもった言葉が続いていたが、おいらにはこの最初の5行が一番心に響き救われる思いだった。そう、減らしていけばいいのだ。おいらは頑張ることが辛いと思いながら、頑張ろうとし続けていたのだ。全てを頑張る必要はない。全てをうまくやらなくて良い。そう思えたら、すっと気持ちが楽になった。あとは頑張ることを断捨離していくだけだ。

 早速おいらは断捨離を実行した。今年1月から始めたツイッターをやめ、依頼されていた論文査読を断り、仕事もネット会議など疲れることは全て断った。なんならいつ仕事やめてもいいやと思うことにした。このブログも、間が空いてもいいし、内容がうまくまとまってなくてもいい。もう他人の評価も期待も気にしないのだ。そうして頑張らなくていいものを削っていけば、自分が最も大切に想うことが最後に残るはずだ。

 それが何かはまだ到達できていない。だから今も断捨離が続いている。でも一つずつ減らしていくと、息苦しさも少しずつ和らいでいく気がした。あ、でも勢い余って10万円の給付金申請書類は捨ててしまわないようにしよう。

VAC to the future

少し古い話だが5年前のTCPCフォンタン転換手術の時について、再び思い出話をしたい。 これまでに術前から一般病棟までの過程は以下の記事でお話しした。 

入院前:避けられない手術

入院後手術まで:人工心肺、結構心配

手術の状況:血の海を渡ると地獄

手術直後:ひとりじゃない

術後ICU永遠に続く砂漠

一般病棟帰還: ICUは命のゆりかご

一般病棟での生活:水と緑の豊かな病室

 

 こう整理すると、もうすでに語り尽くしたような感じもするが、今回は術後しばらくして起こった縦隔炎の話である。この話はすでに「水と緑の豊かな病室」の記事の中である程度書いているのだが、その詳細について記録のために記しておきたい。

 縦隔とは肺・大動脈・胸骨等の間にある空間を指し、その空間に炎症が起こったものを縦隔炎と呼ぶ。心臓・大血管手術後に1%ほどの割合で生じる重篤感染症とされる。もし細菌が縦隔周囲にある人工血管などの人工物に付着すると、抗生剤が効かずそこを苗床にして感染症が悪化してしまう。最悪再手術をして人工物を全取り換えしなくてはいけなくなる。

 タイトルにあるVAC (Vacuum Assisted Closure療法システム)とは、陰圧閉鎖療法のためにKCI社が開発した装置の名前であり、おいらは縦隔炎治療のために通算3ヶ月ほどお世話になった。それで陰圧閉鎖療法とは何かと言うと、肉がむき出しになる程のズタズタな創傷を受けた場合に、その治癒を促進させる治療法である。あまりにひどい創傷は、自己の治癒力だけでは完治が極めて困難である。そのまま放置していれば創部から新たな感染症にかかるリスクも高いため、なんとか治癒を促進させようとこの治療法が編み出された。原理は比較的単純で、創部を保護材とフィルムで密閉しひたすら吸引することで、肉芽の成長を促進させるというものだ。つまり、傷の部分を吸って吸って吸い続けるというわけである。

 おいらがこの装置を使うことになったきっかけは突然訪れた。TCPCフォンタン転換手術10日ほど経った時だった。すでに数日前にICUから一般病棟に戻り、介助して貰えば車椅子でトイレまで行けるまでになっていた。おいらは大きい方の用を足そうと力んでいると、胸の手術痕のところからヌルヌルと黄色い液体が垂れてきたのだ。一瞬こんなところからおしっこでも出たのかと馬鹿げたことが頭によぎったが、すぐ冷静になって手術痕を見てみると、傷に貼り付けたフィルムの内側にたっぷり液体が溜まっていた。液体は止まる様子がなく収まりきれなくなった分が隙間からあふれ出ていた。

 検査の結果、手術痕から感染症が起こり縦隔炎になっていることが判明した。CRPが9以上に跳ね上がり、血液培養検査により血中内に細菌の存在が確認されたため、すぐに抗生剤点滴治療が始まった。さらに創部を切開し、VACを用いて膿を吸引し続けることになった。

 VACをやるには心臓外科医や循環器内科医だけでは専門外であったため、整形外科の医師が呼ばれた。おいらは彼らに囲まれながら処置室に運ばれ、創部に局部麻酔を打たれ、メスで切開された。膿は手術痕に沿って2箇所から滲み出ており、それぞれ切開された。切開は胸骨がむき出しになる程深くなった。膿んだ肉はすでに神経が通っておらずあまり痛みを感じなかったが、逆に正常な肉は切るときに鋭い痛みが襲った。そしてVACが装着された。VACは初期の携帯電話のほど大きさで、持ち運びができるよう専用のショルダーバッグがついていた。整形外科の医師が、傷口の形に合わせ、スポンジ状の黒い保護材を切り取り、傷の上に被せていった。その上から密閉されるようにフィルムを貼り付けた。フィルムの中心部分にはチューブが繋がっており、中の空気が吸いだせるようになっている。チューブをVACに繋げ電源を入れスイッチを押すと、フィルム内の空気が一気に吸い込まれ、胸がきゅうっと痛くなった。

 VACのフィルムと保護材は3日に一度新しいものと交換した。その度に創部を消毒し、創部の穴深くにピンセットを差し込んでほじくられた。何度か切開を追加し、最終的には切開部分が10cm以上になった。一番きつかったのは胸骨を縛るワイヤーの一本を引き抜いたことだ。切開処置は、毎回処置室という名の拷問部屋に連れていかれてされる。おいらはおぞましい拷問の間、看護師さんの目を凝視して助けを乞うた。別の看護師さんはおいらの手を握ってくれて、おいらも恐怖に打ち勝とうと強く握り返した。もう相手が誰であろうとともかくすがりたかった。そのくせ、処置が終わり自分の病室に戻った時は、ダースベイダーの拷問から戻ってきたハンソロになったつもりで、「耐え抜いたぜ」と家族の前では余裕をかました。

 最終的には、電源が必要ないバネ式の小型な装置に交換され、退院後もひと月ほどつけ続けた(*1)。最初の頃は膿が1日に200〜300mlほど吸い出され続けたが、徐々に膿が出なくなり、傷も小さく閉じていき、人工物への感染の恐れもなくなった。おいらの未来はVACによって切り開かれたのだった。

 

*1 この時は入院時と退院後の2ヶ月で終わったが、その半年後再び縦隔炎を起こし、また一ヶ月ほどつけることになった。

マイペースな愛情

この時期にこんなのんきな話をしても99%の人が興味を引かないだろう。だからこそ、時代に流されないマイペースな話をしてみたいのだ。そう、おいらのもう一人の心の師匠で、ある意味マイペースを貫いた人物チャーリー・ヘイデンの話である。

 ヘイデンってどなた?と思った方も多いだろう。この時点でこの記事を読もうとしてくれる方の約半数は興味を失ったかもしれない。先日お話ししたおいらの一人目の心の師匠チャーリー・チャップリンに比べると、ヘイデンはるかに知名度は低い。チャーリー・ヘイデンとは、今はなきジャズベーシストの巨匠である。ジャズかあ。しかもベースなんて全然知らないよ、とさらに残った人の半分が脱落しただろう。

 今までこのブログではあまり書かなかったけれど、おいらは学生時代ジャズサークルに入りベースを弾いていた。そのころ、チャーリー・ヘイデンはおいらの一番の憧れの存在であり、ヘイデンのような演奏をしたくて彼のベースをひたすらコピーしていた。なんだ、同じ楽器を弾く憧れのミュージシャンだから師匠なのか。ごく普通のことじゃないかと、さらにここで半分くらいの人が興味を失ったに違いない。

 まあそう見捨てないでほしい。ではヘイデンのどこが素晴らしいのか。もちろん音楽的に素晴らしいことは言うまでもない。深いコクのある重い低音。アンプなどで極力増幅しない生音に近い木の響き。巨人が歩くようなもったりとしたビート感。早弾きや高音域の演奏といった超絶技巧を全くせず、リズムも時に無視し、スカスカに間の空いた演奏スタイル。それは、ちょっと聴いた限りではとても上手には聴こえず、すぐ真似ができそうに思ってしまう。しかし、なぜか全く真似できない。そんなわけで、過去から現代に至るまで、ヘイデンはどの時代の流行にも属さず、誰にも真似できない唯一無二の音を奏で続けたベーシストなのである。

 はい、わかりました。個性的なミュージシャンなんですね。それならおいらのようにコアなファンがいてもなんの珍しくもない話でしょう。とさらに半分の人が離脱したはずだ。しかし、ここからがおいらが師と崇める最大の理由である。チャーリー・ヘイデンの音は底なしに温かく優しい。聴いている人を包み込んでくれる。心が寂しい時に聴けば慰めてくれ、疲れた時ならゆりかごに揺られているように心地よい気持ちになる。たとえ今どんな辛い状況にあったとしても、生きててよかったなと思わせてくれる。そして何より、他人への攻撃的な気持ち、怒り、恨み、憎しみが薄れていくのだ。

 そうした気持ちになれるのは、彼の演奏がまさにそうだからである。ジャズの世界では少なからず共演者と競い合う演奏をしたりする。ジャズのジャムセッションで即興演奏を繰り広げることを、競演と表現したりもする。自分の演奏技術、アドリブ演奏を共演者や聴衆に誇示するのだ。しかし、チャーリー・ヘイデンの演奏にはそうした競争心が全く感じないのである。それどころか、他の人がどんな演奏をしようが、全くお構い無し。常に自分のペースと自分のスタイルの演奏を黙々と引き続けるのだ。多分世界が終わろうとする瞬間になっても、彼は自分の演奏スタイルを変えないだろう。

 なんだ、自己中な演奏家かあ、と幻滅した人もいるかもしれない。これで残りの半分の人もいなくなったかな。でも違うよ。チャーリー・ヘイデンは決して自己中じゃない。本当は他人と演奏できる幸せに深く浸っているのではないかとおいらは感じる。言い換えれば共演者への愛情を強く感じる演奏なのである。マイペースに聞こえる演奏は、相手に心を許し、自分のありのままの姿を相手にさらけ出している証なのだ。そうしたヘイデンの気持ちが共演者にも伝わるのか、どの共演者も普段の緊張に満ちたジャズ演奏では決して見せないとてもリラックスした演奏をしている。学生の頃のおいらは、素直に相手に愛情を示すなんて恥ずかしくできなかった。あなたのことが好きです。とても大切に思ってます。そんなことは言葉でも演奏でもとても表現できなかった。だから、ヘイデンの音を真似できなかったのだ。

 今のおいらならできるだろうか。いや、できない。それは恥ずかしさも少しあるが、自分自身の方が他人の愛情を欲してしまっているためだ。うわ、愛に飢えたキモいおっさんじゃないか。これでさらに残りの読者のほとんども興味を失っただろう。ほら、読者が半分の半分の半分の半分の半分に減り、最後に残ったわずかな人も失い、結局99%の人が興味をなくす話だったでしょう。ごめんなさい。チャーリー。あなたの良さをうまくお伝えできなくて。

 でも、最後まで残ってくれた1%の方のために、チャーリー・ヘイデンのとっておきアルバムを何枚か紹介して終わりにしよう。

 

ミズーリの空高く』チャーリーヘイデン&パッとメセニー

しみる。ともかくしみる曲の連続。これを聴いて一日中泣いた友達がいた。

 

ノクターンゴンサロ・ルバルカバチャーリー・ヘイデン

じとっとした気だるい暑い夏の夜にぴったりの作品。一晩中ゆっくりと酒を嗜みたくなるよ。

 

『Jasmime』キース・ジャレットチャーリー・ヘイデン

ヘイデン晩年の作品。長い長い音楽家の人生をキースとチャーリーがしみじみと語り合っているような演奏。楽しいことも辛いことも全部いい思い出。

 

『Long Ago And Far Away』チャーリー・ヘイデンブラッド・メルドー

同じくヘイデン最晩年の作品。ブラッドメルドーのとげとげしさ冷たさが一切取り除かれた、ゆったりとたゆたう演奏。特に3曲目のワルツは、まるでコロナの混沌が終息し世界中に平和が戻った後、あの時代を懐かしむような気分にさせてくれる。

心の師

おいらには、心の師と仰ぐ人物が二人いる。偶然にも二人ともチャーリーという名の外国人だ。今回はその二人の師匠についてお話ししたい。

 一人は、かの有名な喜劇王チャーリー・チャップリン。彼の存在を知ったのは、おいらが保育園の年長の頃だった。その頃のおいらは体調が不安定で、度々保育園を休んでいた。しかも一度休むと数日から一週間近く休むことも稀ではなかった。両親は共働きだったから、日中は一人で留守番してテレビの前に座椅子で陣取り、テレビ漬けの日々を過ごしていた。そして、その時よく観たのが父がVHSのビデオテープに録画したチャップリンの映画だった。

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 チャップリンの素晴らしさは、今更おいらがあれこれと説明するまでもない。独特のユーモアと計算され尽くした芸。それは、先日亡くなった志村けんドリフターズに通じるものがある。というよりドリフターズは、チャップリンの芸を徹底的に学んだのだろう。そして決して他人を見下すことも自分自身を卑下することもない底知れぬ人間愛。彼の映画を見終えた後は、面白かったという印象以上に不思議な幸福感に包まれるのであった。

 おいらがチャップリンを心の師と仰ぐのは、劇中での彼の何気ない一つ一つの仕草にある。劇中の彼の役は、大概どん底に貧しく、ボロボロの服を着て、今日食べるものにも困っている人物である。だから、度々人の食べ物をこっそりくすねたり、無賃乗車を試みたり、インチキな商売をやったりもする。それなのに、彼は人間としての尊厳を決して忘れていないのだ。たとえどんなにみすぼらしい格好でも、常に紳士的に振る舞うのである。転んで服に汚れがつけばはたき落し、人に挨拶するときは毎回帽子を脱ぎ、食事の前には感謝の祈りを捧げ、脱いだ帽子や杖や服はほったらかしにせずちゃんと片付ける。不幸な人をほっとけず、女性、子供、動物には深い愛情を注ぎ、時に身を呈して守ろうとする。こうした紳士的振る舞いは、決して自分をよく見せようとしているためではない。全てその根底にあるのは、他人に対する敬意と愛情なのだ。

 おいらは幼い心ながらにその清らかさ、美しさに映画を見るたびに新鮮な感動を味わっていた。だから、病気で休んだときに思う存分チャップリンの映画を観れるのがこの上なく楽しみだった。意図的に仮病をしたことはないが、もしかするとチャップリン観たさに無意識に体調が悪くなっていた時もあるかもしれない。そんなわけで、作品によっては100回くらい繰り返し観たものもあるだろう。それでも全く飽きなかった。

 チャップリンの作品の中でおいらのベストを挙げるとすれば『サーカス』であろう。チャップリンはひょんなことからサーカス団の団長に声をかけられ、ピエロとして入団する。その入団テストの時に、団長から「何かおふざけをやってみろ」と言われる。しかし、彼はおふざけというものが全然わからない。なぜなら彼は常に真面目に真剣に生きているからだ。だから、見よう見まねでおふざけっぽいことをやってみるが、それが全く面白くなく団長を激怒させてしまう。でも彼が真に面白くなるのは真剣に生きている時である。真面目に何かをやろうとすればするほど、彼は失敗しはちゃめちゃなことが起きてしまう。その姿は、時に人々に見下され呆れられ怒られもするが、彼はその生き方を貫く。どうして生きることにそんなに真剣になれるのだろう。人は誰しも面倒くさくなったり、手を抜いたり、諦めたり、疲れたりする時があるだろうに。そんなチャップリンの姿を見て育ったからだろうか。おいらは自分が病気であることに一度も不幸を感じたことがない。たとえそれが他人から見たら哀れな姿に見えようと、おいらはこの体で生きていくことになんの迷いもないのだ。

 サーカスの結末はある意味悲劇に終わる。同じ団員の美しくも悲しみにくれる女性に、密かな恋心を抱くチャップリン。彼は劇中ただひたすら彼女を励まし続けるが、結局彼女はイケメンのスターと結ばれてしまう。彼の愛情は報われることなく、最後は次の公演地に向かうサーカス団と別れ、一人荒野に佇みやがて行くあてもなく歩いて行く姿で終わる。その後ろ姿には寂しさを胸に抱えながらも明日に向かって進もうとする強い意志を感じる。その姿は、おいらが生涯目標とする姿となった。

 図らずも、その目標は20代に散々達成する。おいらはなんども恋をし、そして振られ続けた。あるときは、男性、女性双方の相談役になり二人の恋を応援し、あるときは振られた後も恋心を引きづりながら友人として接した。そしてどうしても心が張り裂けそうになったときは、チャップリンを思い出して笑顔を取り戻し、前を向くことができた。

 

 長くなってしまったので、もう一人のチャーリーの話はまた今度。

死までの近さ

志村けんコロナウイルス肺炎による急死によって、死が他人事ではなく急激に身近に感じた人も多いだろう。自分のよく知っている人、好きな人、身近な人が亡くなってしまうということが現実に起きたのだ。もしかすると、もっと身近な人あるいは自分自身にも、そのリスクがあるかもしれない。そんな不安と悲しみが混ざりあって、人それぞれ様々な感情が沸き起こっている。ある人は深い哀しみに落ち、ある人は怒りに転化し、またある人は故人に感謝し、そしてある人は大切な人を守りぬく決意を新たにする。感情は違えど、どれも他人を想うという気持ちは同じである。それだけ、彼は人々に愛され、また彼自身も人を想う人だったのだなと感じ、不謹慎かもしれないが感謝のような嬉しさのような、そして憧れの感情が出てしまった。これからも人々の心の中でおふざけをして笑わせてくれることを願っている。

 ところで、死が他人事でなく身近に感じるという気持ちは、先天性心疾患患者とその家族にとっては、今回始まったことではなく、常に頭の片隅に漂っている。手術をしたり容態が悪くなれば、片隅どころか頭全体を埋め尽くし、溢れ出さんばかりになりもする。おいらはこの感覚を、長年の経験と修行から、より具体的な数値によって客観的に感じられるようになった。例えば、もし死と生の間を0から10で表すとすれば、普段いるところは3、将来的な回復や改善が見込まれるときは4や5になる。しかし一方で、体調がじわじわ悪化しているときは2に足を踏み入れている。先日心室細動が起こったときは、1を切っているように感じられた。だから、思わず「死ぬの、死ぬの」と叫びながら看護師さんに尋ねてしまった。

 おそらく、若く健康な人であれば、8か9、すごい人なら10のフロアにいると感じているだろう。おいらは8から10のフロアに立ったことがないので、そこがどんな世界なのかは想像もつかないが、その世界にいる人にとっては死すなわち0はあまりにも遠い。だから死を身近に感じることは極めて難しくて当然なのだ。そこはおどろおどろしい闇の世界であり、無が支配しているのか、それとも恐ろしい鬼たちがのさばっているのかはわからないが、恐怖と絶望の世界に見える。

 おいらも0の世界がどんな所かはもちろんわからない。でも、なぜか恐怖と絶望の世界には思えないのだ。うまく表現ができないが、おいらという生き方が終わったんだなと思える世界に感じる。そこには、後悔や無念や良いや悪いといった人生の評価や感想はなく、終わりというたった一回の出来事をじっくりと味わう世界。ある意味で命の究極の答えがわかる世界なのではないだろうかとも思える。だから、楽しみとは言わないが、命あるものの宿命としていつでも受け入れる覚悟はできたつもりである。

 最後にもう一つ不謹慎なことを述べて、志村けんへのお別れの言葉にしたい。おいらも先天性心疾患とともに40年以上生きてきて、最後はあっさりコロナで死んだら冗談じゃないと思いもする。え、そこ?ちょっちょっと勘弁してよ。今までの苦労はなんだったの。ダメダメもう一回やり直し。と言いたくなる。でも、おいらの人生は、先の予想がつかない究極の場面の連続だった。だから、コロナという全く予想もしていなかった死に方もその連続線上にあるかもしれないのだ(*1)。志村けんの死は、人生は予定調和でなく、だからこそ面白いのだと教えてくれるものであった。おいらも心臓が原因で死ぬなんて予定調和である必要もないのだ。あー、でもドリフの笑いは結構予定調和だけどなぜか面白いなあ。

 

*1 予想がつかない連続線上とは、ランダムウォークという確率論をイメージしたものである。ランダムウォークの動きの中では、どんなに中心付近をうろうろ歩いていても、あるとき突然に0に落ちてしまう事が起こりうる。