ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

寒気の正体

ここ最近、変な寒気が続いている。ブルブルと震えるわけではないが一日中ゾワゾワと体の内部から寒気がくる感じがある。風邪の引き始めのようなゾクゾクした寒気にも近い。だが実際寒いのかというと、必ずしもそうでない時もあり、手足はむしろ暑かったり、厚い布団をかぶっていると汗だくになったりもする。その反対に、厚着したり布団にくるまったりしていると、ますます寒気が強まる気がすることもある。もう暑いのか寒いのか混乱してしまうのだ。

 おいらは、お風呂で熱めのお湯に浸かった時にも似たような寒気を感じることがある。お湯に浸かっているため熱いはずなのに、なぜか体の芯の方から体表面に向かってじわーっと寒気の感覚が伝わってくるのだ。だが、それを周囲の人々に話しても誰もお風呂でそんな感覚にならないらしく共感されない。さらに、この異様な寒気についてネットで調べても、似た症状を説明した文章は見つからなかった。だからいまだに原因がわからず不安になっている。

 この寒気が出始めたのは実はここ最近のことではない。以前のブログ記事ですでに書いていたが、7月のアブレーション入院の少し前から寒気が度々出ていた。しかし、その頃は一日中じわっと続くというより、突発的に非常に強い寒気に襲われていた。夏なので家ではエアコンをつけているというのに、おいらはベランダの窓を開けて暑い外気温に当たり、さらに羽毛布団にくるまって震えていた。そしてしばらくして温まってくると今度は汗だくになった。アブレーション後数日は特に酷かった。電気毛布を最強にしてつけて被ってもまだ寒く感じた。その後、これらの寒気の原因は甲状腺機能低下症によるものだろうと診断され、薬を飲み始めてから落ち着いてきた。

 しかし、11月末くらいから上記の異様な寒気がまた襲ってきたのである。もちろん気温が下がってきたことも十分影響している。とはいえ、おいらが住むのは南の島。本日の気温も最低20.0℃、最高21.5℃ととても寒いと言えるような温度ではない。最近は夜間だけでなく日中も寒すぎてまともに仕事ができなくなってきた。だから、そんなおいらを見かねて職場ではおいら用にオイルヒーターとホットマットを買ってくれた。おかげで職場の寒さはだいぶ緩和されたものの、それでもまだ寒くて熱い飲み物をついたくさん飲んでしまい、結果トイレに行く頻度が増え、せっかく温まった体がトイレに行く廊下で冷えてしまう悪循環に陥っている。

 いったいこの異様な寒気の原因は何なのだろうか。そして、どうしたらこの寒さから逃れられるのか。暖房器具や布団や服や熱い飲み物で温めてもだめ。むしろ実際は物理的には寒くないのに寒さを感じてしまっていることすらある。となると真の原因は精神的なものだろうか。あっ!もしかして、これがいわゆる人肌恋しいというやつか。でもそうだとしたら、ますますどうしたら逃れられるのかな。

正解のない生き方

前回のブログで、学会のシンポジウムで講演することになったと書いた。今日はその講演内容を講演前に一足先に公開してしまおう。というわけで今回の話は、心臓や病気のこととは関係のないゴリゴリの生物学の話である。

 おいらは今から15年ほど前、鹿と大仏で有名な奈良公園で植物の研究をしていた。奈良公園で植物の研究なんて全くイメージのつかない人もいるかもしれない。しかし、奈良公園は実は日本国内の中でもシカが最も高い密度で生息している極めてユニークな地域であり、それゆえに植物が鹿からの採食を逃れるため巧みな防御戦略を進化させているのだ。だから植物の進化を研究する場所として、これ以上にないほどもってこいの地域なのである。おいらは、その奈良公園を舞台にした研究で、植物が”小さくなる”という防御戦略を進化させていたことと、小さくなったがゆえに待ち受けていた悲劇的運命を明らかにした。

 

小さくなる(矮小化する)植物

 最初に述べたように奈良公園では著しくシカ密度が高いために、植物は何らかの防御戦略を備えていなければ、すぐにシカに食べられてしまい公園内で生存し続けることは極めて難しい。よく知られている防御戦略は、体の中に毒を持つ(化学的防御という)方法や、葉や茎に沢山のトゲを生やす方法(物理的防御)がある。その他、植物の体の一部にアリを住まわせてアリに守ってもらう生物的防御というものもある。ところがおいらが奈良公園を散策してみると、これらのどの防御戦略も持っていなそうな植物がたくさん生育していたのだ。実際それらの植物を引きちぎってシカに与えてみると、特に嫌がるでもなくシカくんやシカさんやシカちゃんは食べた。

 その中の一つにイヌタデという植物がいた。イヌタデは、田んぼの畦道などにごく普通に生育する特に珍しくもない植物である。おいらはイヌタデを以前から知っていたので、奈良公園に生育するイヌタデの個体を見た瞬間、今まで知っている形態とはあまりにかけ離れていて目を疑うほどだった。最初は同じ種とは思えなかったが、植物に詳しい別の研究者とも確認しどうやら奈良公園独自の形態なのではないかと考えた。そしてその後詳しく研究した結果、奈良公園に生育するイヌタデの個体は、他地域個体と比べ葉長や茎長が40〜50%も縮小した矮小形態を示していることがわかった。さらに、種から発芽させて育てた個体も矮小形態を示した。つまり、矮小形態は遺伝する特徴なのであった。また、矮小形態の個体と他の地域から取ってきた通常の形態(矮小化していない形態)の個体を奈良公園に移植して何日か観察すると、通常形態の個体はすぐに食べられてしまったが、矮小形態はなかなか食べられずに生き残っていた。矮小形態は被食を回避する上で確実に有効な戦略なのである。

f:id:susukigrassland:20201121163120p:plain

 

矮小化したイヌタデに待ち受けた悲劇的運命

 少し話が変わるが、トゲをたくさん生やして防御している植物には、シカが近寄ることすらない。触れただけで痛いからだ。この状況は、トゲ植物が想定しない副効果を生むことになった。実は、トゲ植物自身のみならず周囲にいる(防御手段を持っていない)他の植物もシカから守ったのだ。こうした効果を間接的防御作用と呼び、これはこれで面白い研究テーマとして注目されている。

 もちろんおいらもそんな面白い研究テーマをほっておくはずがない。そこで、奈良公園で生育していたトゲを持つイラクサという植物が間接的な防御作用を示すか、つまり他の植物も守っているかを調べてみた。ちなみに、他の人の研究で奈良公園イラクサは、トゲ防御をさらに強力に進化させており、他の地域と比べて50倍以上もトゲの数が多いのだそうだ。だから奈良公園で迂闊にイラクサを触ったりすれば地獄を見ることになる。おいらは調査中にお尻や腕や顔など何度も触れてしまいベソをかきながら調査していた。

 そうして、散々痛い思いをして入念に調査を行い、イラクサもトゲを強力に進化させたのだから、さぞ劇的な間接防御作用が証明できるだろうと期待した。ところが様々な手法で調査データを分析してみても、イラクサイヌタデに対し間接防御作用をほとんど示さなかったのだ。それは、皮肉にもイヌタデが鹿から身を守るためにい進化させた矮小化が原因であった。本来植物同士は、光や土の中の栄養や水を巡って争う敵の関係にある。当然、トゲ植物とその他の植物の間でも競争が起きているわけだが、防御作用はそれを上回る利点がある。しかし、イヌタデは矮小化したことで、イラクサからの恩恵を享受できなくなってしまったのだ。つまり、イラクサから防御作用よりも競争作用の方を強く受ける羽目になったのである。このことはおいらが行った野外移植実験で確かめることができた。おいらは、他の地域から通常形態(矮小化していない形態)のイヌタデ個体を持ってきて、トゲ植物のイラクサのすぐ隣に植えてみた。すると、通常形態の個体はイラクサの隣で鹿に食べられることなく無事生き残った。ところが、矮小化している形態(奈良公園に生育している個体)を同じようにイラクサの隣に植えてみると、枯れてしまったり成長が悪かったのだ。こうして、イヌタデは矮小形態になったがゆえに、かつては保護してくれていただろうトゲ植物イラクサが恐ろしい競争相手に変貌してしまったのだった。

 この話を聞いて、じゃあイヌタデはどうすればよかったのか。小さくならなければよかったのか、と思う方もいるかもしれない。しかし生物の生存戦略には最適な正解がない、というのが実際のところであり、この話のメッセージでもある。環境や状況が変われば、今まで最適だった戦略が不都合になるかもしれないのである。イヌタデにとって、鹿のたくさんいる奈良公園という環境では、小さくなることは生き残る上で正解である。しかし、奈良公園の中でも隣にイラクサがいるという特別な状況では、小さくなることが不利に働いてしまうのである。全ての環境や状況に最適な戦略はない。これが生物の非常に面白い宿命なのだ。

風前の研究者

おいらは、研究者業界の中ではもはや忘れ去られた存在である。ここ数年、学会発表も論文発表もろくにしておらず、他の研究者と共同研究したり交流することもほぼなくなった。一応大学の研究室で研究員として働いているが、おいらの仕事は研究室マネージメントであり、研究に直接関わったり表舞台に出ることはない。科学の歴史に残るような偉大な研究成果や膨大な研究業績があるわけでもなく、それどころかいっときでも脚光を浴びるような研究をしていたわけでもなかった。あの人は今、と思い出されることすらなく、このまま誰の記憶にも残らず研究の世界から消えていっても不思議ではない存在になりつつあった。

 しかし、そんなおいらの元にとんでもなく光栄な話が来たのである。学会シンポジウムの講演者として招待されたのだ。しかも、そのシンポジウムの講演者はただ学会で発表するだけでなく、後日発表内容を文章にして、それが本として出版されるというのだ*1。風前のともし火だったおいらが、大勢の聴衆の前で研究成果を発表し、さらにその成果が書物として販売される。本当にありがたくこれ以上になく光栄で心の底から嬉しかったが、時が経ち冷静になるにつれ、あまりに身に余る大役で恐ろしくなってきてしまった。

 何かの間違いじゃないのか。本当においらでいいのかい。招待してくれた方はおいらをどう見ているかわからないけど、おいらは研究の前線から遥か後方に下がった負傷兵や退役兵みたいなもんだよ。実際おいらができる話は、もう10年近く前にやっていた古い研究の思い出話だけだ。そのシンポジウムの参加者は第一線で活躍する研究者やこれから研究者を目指す学生たちばかりで、最新の研究成果を貪欲に求める飢えた狼たちなのだ。おいらの話は、あまりに古くて誰も見向きもしない腐った肉片になるに違いない。しかも、そのシンポジウムは12月にあるというのに、まだ発表の準備は50%ほどしかできていない。このままでは、おいらはそのシンポジウムの場を前例が無いほど白けさせ、おいらの研究者としてのともし火は完全に吹き消されるだろう。まともな神経の持ち主なら、焦りと不安と恐怖と重圧で気を失いそうな事態である。

 だが、読者の皆さん安心してほしい。おいらはこれまで数多くの生命の危機をくぐり抜けてきた。おいらにとって、命に関わることでなければ大抵の危機はそよ風みたいなものである。そよ風ではおいらのともし火は決して消えないのだ。そして何よりおいらは、生と死の両端を人一倍行き来した経験から、他の研究者にはないおいら独自の生命観を見出した。だから古いか新しいかは問題ではない。おいらは自信を持ってその生命観を語れば良いのだ。

 それでその独自の生命観とはどんなものなのか、実際おいらがどんなテーマを話す予定なのか。今回はそれをいち早くこのブログで書くつもりだったのだが、前置きが長すぎて残念ながら時間切れ。それはまた次回のお楽しみとさせていただきたい*2。

 

*1  その本は、各講演者がそれぞれ一章分を書きそれを寄せ集めて一冊の本になるので、おいら一人で一冊の本を書くわけではない。

*2  ひぃぃ、読者の怒りの嵐が吹き荒れてきた。このままではシンポジウムの前にともし火が消えてしまいそう。

不整脈との共存

先日心房粗動が再発し、電気ショックで止めた。7月末にアブレーションを受けてからわずか2ヶ月半での不整脈再発であった。今のところアブレーションで焼ききれていなかった所から発生したのか、あるいは全く新しい部位から発生したのかはわからないが、何れにしても儚い安息の期間だった。これまでにアブレーションを5回受けているが、いずれもしばらくすると再発していた。ひどい時には数日後には再発した時もあった。一度再発した以上、今後もちょくちょく不整脈が出てくるだろう。そして最終的には毎週、毎日のように発生するようになっていくのだ。不整脈は何度潰しても叩いてもしぶとく復活してくる魔物である。そこまでしぶとく復活するのには、彼ら(不整脈)なりの目的があるのか、電気刺激で心筋を拍動させるという生物学的構造を持った以上避けられない理由があるのだろう。

 不整脈の根絶がほぼ不可能である以上、不整脈と共存していくことがある意味おいらの宿命である。不整脈がなるべく起きないよう抗不整脈薬で予防しつつ、普段の生活の中で心臓に過度に負担をかける行動は控え、心臓様をなだめながら騙し騙し生活していくのだ。そしていざ不整脈が起きた時は、躊躇なくなるべく早く病院に駆け込み電気ショックで止める。それは、不整脈が起きないかと常に緊張を強いられる宿命でもあり、そこに重荷を感じ過ぎてしまえば、その荷をふと下ろしたい願望が出てくる。しかし、荷を降ろす時=おいらの死である。

 このブログではこれまでに何度か、おいらの寿命は50歳であろうと書いてきた。今からあと5年半である。今回不整脈の宿命を改めて実感し、5年半は短いどころかまだ5年半もあるのかとしみじみ感じるようになった。一般的には40代の人には残り5年半の寿命は短すぎるだろう。しかし、車や家電で置き換えて考えてみたら良い。例えば、5年前に新車で買ったあなたの車は、現在走行距離は10万キロを超え、あちこちにガタが出始め、走るとどこからか変な音がして、車検を出せばその度に修理箇所が出て高くつく。燃費もだいぶ悪くなり、ボディや内装にも傷や汚れも目立つようになったが、でもまあまだ走れないことは全然ない。そのような車をあと5年半乗ると思った時、短いと思うよりまだ5年半も乗るのかと思いもしないだろうか。同じように、乾燥機能がうまく働かなくなってきた洗濯機、野菜室の冷えが悪い冷蔵庫、など使えなくはないが、いつまで騙し騙し使っていくのか迷うような家電をあと5年以上使うのは長く感じないだろうか。

 ここまで読んでいただいた方は皆声を揃えて言うであろう。車や家電と人間の体は比較するものではない。全く別物だ。もちろんその通りである。車や家電は買い換えることができるが、人間の体はそれ一つしかない。どんなに古くなろうと傷がつこうと機能が落ちようと、その1つを最後まで使いきるしかないのだ。だから5年半は決して長くはない。騙し騙しでも維持できるのならもっともっと長く生きた方がいい。もちろんそうなのだが、一方で、おいらの価値観では長さと同じくらい質が重要に感じてもいる。ただ長く生きてもやりたいこともできず我慢し続け不整脈に怯える生活では辛いだけだ。

 不整脈を抑えることを最優先にして、ほとんどどこにも出かけず食事も限られたものを食べ、仕事も辞め、1日の大半を家の中で安静にして過ごしていれば、いっそ長生きできるかもしれない。いつか不整脈が本当にひどくなって来た時は、そうした生活もやむを得ないだろう。でも今はやりたい放題ではなくても、食べたいものを食べたいし、出かけたいし、仕事も続けたいし、新しいことにも挑戦したいのだ。その願望と不整脈の宿命の折り合いがつく時間が5年半なのである。それはおいらの現状を考えると、非常に現実的な予測であり、決して短すぎることはないと思っている。

総合的俯瞰的包括的網羅的な期待

日本学術会議の会員に推薦された候補者のうち、6名が菅総理に任命拒否されたことについて波紋が広がっている。今日は、研究者の底辺にいるおいらにとっては正直雲の上の遠い世界のようなこの問題について考えてみたい。以下に書いたことは学術会議側、総理側それぞれの言動を批判したものであり、それぞれから反感を買って袋叩き必須の内容である。

 実は、今回の問題が起きるまではおいらは日本学術会議という組織自体を知らなかった。もしかするとどこかで聞いたことがあったのかもしれないが、全く記憶がない。日本学術会議は学者の国会と例えられたりしているが、これまで10数年間大学研究機関に所属して、おいら自身が会員を推薦したりもちろんされたりする機会は一度もなかった。だから、誰を会員に推薦するかは、全研究者が投票などして決めているわけではなく、もっと上の偉い先生方がどこかで決めているのであろう。

 日本学術会議の会員名簿を見てみると、おいらが専門としている「生態学」関連でも何名かの研究者が会員になられていた。どの方も大学で教授職につき、膨大な研究業績を上げ、数多くの弟子を育て上げた、著名な大御所の研究者ばかりである。ただ、生態学という分野が学問分野の中では規模が小さいのか組織力がないのかはわからないが、そんな大御所先生であっても連携会員ばかりで正規の会員の方は見当たらなかった(実際はおられたらすみません)。つまり、今回の任命拒否問題の対象にすらならないのである。そんな訳で、3流研究者のおいらがこの先永遠に日本学術会議の会員に推薦されたり、何らかの関わりを持ったりすることはありえず、だから冒頭に述べたように雲の上の遠い世界の問題に感じてしまっていた。

 今回の任命拒否問題で最も問題視されている点は、学問の自由や言論の自由が侵害されるのではないかという懸念である。確かに総理の個人的判断で、ある特定の思想や研究を行う研究者が会員に任命されないことが起これば、長い目で見ると学問の萎縮につながる恐れはあるだろう。でも、同じ研究者でありながらあえて反論すれば、そもそもこの日本学術会議がこの国の学問の自由を守っているのかが、全然実感がわかないのだ。これまでおいらは自分の研究を計画し実施する上で、自分の判断で自由に行うことができた。もちろん研究予算や研究場所、労力など様々な制約はあったものの、それは誰かから自由を侵害されたためではない。予算を獲得しようと思えば応募する機会はたくさんあったし、研究場所を世界の果ての秘境にすることだって(予算やおいらのスキルが可能なら)できた。もしかしたら、おいらが知らないだけでおいらが自由に研究活動をできたのは、この組織のおかげなのかもしれない。でも、どうにもそうした実感はわかず、そのことを示す根拠も見当たらないのだ。

 もう一つ、先に述べた正規会員に生態学者が選ばれていないことが示しているように、日本学術会議が日本の全学問分野から平等に会員が選ばれているわけではないのも確かだろう。それは意図したものではないだろうが、結果としてどうしても会員のいない学問分野の声はこうした会議に反映されにくくなる。つまり、否が応でも学術会議の提言や学問的指向に偏りが出てしまうのだ。こうした状況を考えても、日本学術会議という組織の存在によって全ての学問の自由や言論の自由がどこまで守られるのかが純粋に疑問に感じてしまうのである。

 そんなわけで、今回の任命拒否によって学問の自由が侵害されるならば、その具体的根拠や証拠を示すか、あるいはいっそ日本学術会議の会員がどうなろうとも我々個々の研究者は今もそしてこれからもずっと自由に研究するのだという気骨ある姿勢を示すことを期待したい。

 さて、この任命拒否問題でもう一つ重要な問題点は、任命拒否した理由を総理がはっきり説明しないことである。これはおいらも全く納得できない。説明なく拒否するなんて、既読無視よりある意味感じ悪い。夫婦のどちらか一方が急に説明もなく不機嫌になって無視したりすることは、どの夫婦でも一度や二度はあるだろう。夫婦関係であればそうした急な不機嫌な態度も相手への甘えの現れとして理解できる面もあるが、今回は夫婦関係でもなく、また意図的に説明を避けており、ともかく不可解でストレスが溜まる。その後総理から「総合的俯瞰的活動を確保する観点」という全く説明になっていない理由が述べられ、さらに反感を買う事態になっている。

 ところで、総合的も俯瞰的もどちらも英語にすると、ほぼ意味としては同じ"comprehensive"と表すことができる。そして実はこの"comprehensive"という単語は研究論文で非常によく使われており、試しにGoogle Scholarで2020年以降に発行された論文を検索すると約122,000件の論文や著書でcomprehensiveが用いられており、研究者が大好きな言葉なのがわかる。comprehensiveというワードを使うことで、その研究がいかに壮大な視点で(俯瞰的、網羅的、包括的、総合的に)行ったかを強調できるので、研究をアピールする上でとても強力なワードなのだ。かく言うおいら自身も、過去に書いた論文のうち2つで使用していた。菅総理は意図したわけではないだろうが、研究者が大好きな「総合的俯瞰的」という言葉を使って意味不明な理由を述べたのは、ある意味すごい皮肉が効いているとも言える。

 話を戻すと、「総合的俯瞰的活動を確保する観点」という意味不明な説明が象徴するように、菅総理はまともに言葉を使えないことが、おいらはとてもうんざりしている。その点は前総理も同様に酷く、心の底から嫌だった。政治家は言葉を使って人々や官僚を説得したり納得させて、人を動かしていくことが仕事だとおいらは思っている。言葉を使えない政治家は、政治家として何の能力もなく役割を果たしていない。言葉が使えないから、代わりに金や権力で人を動かそうとする。実につまらないやり方である。

 一方で、圧倒的な言葉の力を持ったヒトラーのような政治家が出てくれば、国を極めて危険な方向に導いてしまう可能性もあり、今回の件でいえば日本学術会議も学問全体も根こそぎ破壊できてしまうかもしれない。そう思うと、まるで言葉の使えない政治家の方が最悪の事態にはならなくてすむのではという消極的な希望を感じてしまいもする。それでもやはり政治家には人々を動かす説得力ある言葉を期待したいのだ。政治家にかかわらず、人に伝わる言葉を使える人物においらはとても憧れている。

 おいらがこのブログを書く目的の一つは、おいら自身も言葉をより上手に使えるようになりたいためである。誰にでもわかりやすく病気のことや生物のことを伝えられるようになりたいのだ。そして、伝えることにより、少しでも病気に対する偏見や差別がなくなったり、病気を持つ方に勇気や希望を感じてもらえたり、生きる魅力を感じてもらえたら、人々が(そして何よりおいら自身が)、ほんの僅かでも今よりも豊かで楽しく生きられるんじゃないかと、comprehensiveに期待しているのである。

 

注:言葉が使えないとは、話すことができないという表面的な意味では全くない。人に意味が通じる言語表現ができないことを指す。

フォンタン術後の単心室小児患者におけるCOVID-19の症例

新型コロナ感染症が世界中に拡大し半年以上が経過した。当初から、心疾患を持つ患者はコロナ感染症による重症化や死亡リスクが高いと言われてきたが、特に先天性心疾患の患者についてはどのくらいそのリスクが高いのかは全くわかっていなかった。感染拡大から半年以上が経ち、ようやくいくつかの研究成果が発表されてきたため、今日はその中の一つを紹介したい。

 

Linnane, N., Cox, D. W., & James, A. (2020). A case of COVID-19 in a patient with a univentricular heart post total cavopulmonary connection (Fontan) surgery. Cardiology in the Young, 10–12.

 

患者

心室心室、肺動脈弁閉鎖症、心房中隔欠損症、右大動脈弓を持つ10歳の少年。 双方向グレン手術を経て、3歳10ヶ月の時に心外導管型有窓フォンタン手術を受ける。

 

COVID-19発症前(1ヶ月前)の状況

酸素飽和度98%、心拍数は83bpm、血圧124/60。

 

発症時の状況

最初の外来では発熱、赤目、無気力、軽い咳症状。両親はコロナに陽性。本人も陽性だったが正常な酸素飽和状態であったため帰宅。4日後、呼吸の増加、咳の悪化、および持続的な発熱を示す。この段階で、酸素飽和度90%以上を維持するために、0.5L/minの酸素吸引が必要になった。

発症7日目に1L/minの酸素吸引が必要になる。胸部X線写真は、左中部および下部の浸潤影が顕著。静脈内セファロスポリンと経口マクロライド系抗生物質の投与を開始。地元の病院から大きな小児病院へ転院。 酸素吸引量は、8〜10日目で3L/minに増加。9日目も胸部X線写真に変化なし。CRP13。腎臓と腎臓のプロファイルは正常。人工呼吸器は必要なく、入院期間中病棟で治療。抗生物質投与は7日後に中止、その他の薬の処方はなし。14日目に地元の病院に戻り退院。

 

考察

これまでの研究によれば、(先天性心疾患有る無しに関わらず)コロナに感染した子供の90%が軽度または中等度の症状、5.2%が重度、0.6%が重篤な症状であることが示された。重度の症状は、呼吸困難、チアノーゼ、酸素飽和度<92%として定義され、重篤な症状は、呼吸不全、ショック、および多臓器不全の兆候が現れた。したがって、本研究での患者は重度の症状と診断される。

 

結論

本研究の症例では、10歳のフォンタン術後患者は感染後も重篤化することなく、ICU管理や人工呼吸器の使用も必要がなく、比較的短期間で回復した。そのため子供のフォンタン患者においては心疾患がCOVID-19感染による重篤化リスクになるとは必ずしも言いきれない。

 

おいらの感想と補足説明

この症例報告では、子供ではフォンタン循環であることがCOVID-19感染による重篤化リスクになるとは言えないと結論づけている。ただこれは、あまりに飛躍した結論であろう。まず症例が1例のみであり一般性が全くない。それに、この患者の男の子は感染前の状況が、酸素飽和度98%と穴開きフォンタンにしては信じられないほど高い。そんな良好な状態でさえ、感染時には酸素吸引がなければ90%を維持することが困難になった。チアノーゼ性の先天性心疾患を持つ患者は酸素飽和度が90%を下回る場合も多いだろう。だからそうした患者がコロナに感染したら、著しい酸素飽和度の低下を招きかねない。つまり、先天性心疾患患者は元々が低酸素状態にあるため、わずかな呼吸障害でも重度低酸素状態になりかねないのである。そして、低酸素状態が続くと心筋障害さらには、心機能低下や心不全に陥ってしまう危険があるのだ。

 一方、別の研究においても、成人の先天性心疾患患者はコロナに感染しても比較的軽症ですんでいると報告している。その理由として、成人先天性心疾患患者は比較的年齢若いことと、高齢、肥満、高血圧、糖尿病などの他のリスク因子を持っている割合が低いことがあげられるようである。そしてもう一つ注目すべき点として、全感染者数の中での先天性心疾患患者の割合が少ないそうだ。なぜ少ないのか。それは患者本人やその家族が、コロナへの感染リスクをできる限り減らそうと日々の行動に細心の注意を払っていたためである。

 我々先天性心疾患を持つ患者は、生まれながらの闘病生活の中で何度となく死のリスクに直面し、その度に乗り越えてきた。その経験は、未だ解決の糸口が見えない世界的パンデミックの危機に対しても、今まさに強力な武器として活かされているのである。

 

その他の参考文献

Frogoudaki, A., Farmakis, D., Tsounis, D., Liori, S., Stamoulis, K., Ikonomidis, I., … Parissis, J. (2020). Telephone based survey in adults with congenital heart disease during COVID-19 pandemic. Cardiology Journal.

Sabatino, J., Ferrero, P., Chessa, M., Bianco, F., Ciliberti, P., Secinaro, A., … Di Salvo, G. (2020). COVID-19 and Congenital Heart Disease: Results from a Nationwide Survey. Journal of Clinical Medicine, 9(6), 1774.

Tan, W., & Aboulhosn, J. (2020). The cardiovascular burden of coronavirus disease 2019 (COVID-19) with a focus on congenital heart disease. International Journal of Cardiology, 309, 70–77.

フォンタン料理の極意

 随分と大胆なタイトルだが、今日は最近2週間においらが料理して食べたものを紹介しながら、フォンタン患者の食事事情についてお話ししたい。

 まず前提として、先天性心疾患を持つ人のほとんどは、程度に差はあれど食事に何らかの制限が掛かっている。塩分と水分は心臓に負担がかかるためほぼ全ての心疾患患者に制限があり、蛋白漏出性胃腸症(PLE)を発症したフォンタン患者は胃腸の負担を減らすため脂肪制限もある。また大食いもよくない。一方、タンパク質は多めに摂る必要がある。つまり高タンパク低カロリー食というわけだ。おいらの場合は、これらの中で脂肪分制限を最も厳密に守る必要があり、脂肪を取りすぎるとほぼ確実に胃腸の調子が悪くなり、みぞおちが痛み、動悸がして、ひどい時には下痢になり、最悪PLEが急激に悪化して病院送りになる。過去には、クリームが多めに乗ったドーナッツを一つ食べて翌日から一ヶ月入院したことがあった。

 しかしながら、これらの制限を厳守すると大部分のお店で外食ができなくなる。中華料理、イタリア料理、揚げ物系、肉系(焼肉・ハンバーグ・ステーキ等)、炒め物などはかなり厳しい。特においらの住む南の島は、こうした料理を提供するお店がほとんどであり、日本蕎麦、うどん、和食のお店は数える程しかない。定食屋はたくさんあるが、どの店も量が非常に多い上、油多めで味くーたーな料理が並ぶ。というわけで、おいらが自分の体に合う物を食べるためには、必然的に自分で作るしかなくなったのである。

 前置きが長くなってしまった。では、どんなものをここ最近は料理して食べたのか。

 まず朝食はほぼ年間を通じて変化がない。パン一枚に、パンに挟む具(ソーセージ、ハム、オムレツなど)。それにレタス。それからバナナ・冷凍ブルーベリー・フルグラ・季節の果物(今だとドラゴンフルーツ)をトッピングしたインスタ映え間違えなしのヨーグルト。そして、甘酒入り低脂肪牛乳。朝の準備は家の中で一番早起きなおいらが主に行い、途中から子供が起きて手伝ってくれる。

 昼食は、前日の夜のおかずの残りとご飯にミニトマトとかちょっとした野菜を弁当箱に詰めて職場に持っていく。休日は乾麺の蕎麦やうどんが多い。

 そして肝心の夜ご飯。我が家は共働きなため夕飯はおいらと妻がそれぞれ週の半分ずつ作っている。直近の過去2週間においらが作った夕食は、麻婆豆腐、カレー、肉じゃが、サバ缶トマトパスタ、韓国風鶏鍋(タッカンマリ)、ドライカレー、鶏の甘酢炒めであった(それぞれに副菜のサラダなどがつく)。意外と結構がっつり塩分も脂肪分もありそうなものばかりに思えるかもしれない。もちろんそこはしっかり工夫してある。この中でおいらが特に試行錯誤を繰り返して研究した麻婆豆腐について、一般的レシピとおいら流レシピで比較してみよう。

 

材料・調味料
(4人分)
一般分量 おいら流分量
木綿豆腐 400g 同じ
適量 なし
長ねぎ 1/3本 同じ
豚ひき肉 100g 150g
にんにく 1片 同じ
しょうが なし 1かけ
豆板醤 大さじ1 大さじ1/2
甜面醤 大さじ1 大さじ2/3
豆豉醤 小さじ1 同じ
ラー油 大さじ1 なし
サラダ油 大さじ2~3 大さじ1(ごま油)
鶏がらスープ 150ml 100ml(+水100mL)
大さじ1 同じ
しょうゆ 大さじ1 大さじ2/3
こしょう 少々 なし
水溶き片栗粉 大さじ2~3 同じ
四川花椒 1~2つまみ 1つまみ

が減量したもの、が増量したもの。 

 

  このように、肉は多いが油や塩分や辛味のある調味料の量を一般分量に比べて1/2から2/3に抑えている。また、肉から出た脂が多い場合にはある程度すくって取り除くこともある。これでは味気なくなりそうだが、材料を炒める順番、醤の香りの引き立て方、適切な火加減等を徹底的に工夫して、お店に負けない味を実現できるようになった。

 その他の料理でも、カレーは脂身の少ないぶつ切り鶏肉や豚スネ肉を使い、ルーは低脂肪減塩のものにしている。肉じゃがは少ない醤油で味が染みるよう30分以上寝かせてから食べる。サバ缶パスタは、トマトの酸味を和らげコクを高めるためにしっかり乳化させる。タッカンマリはもも肉の代わりに骨つきぶつ切り肉を使う。ドライカレーは挽肉から出た油をしっかりとキッチンペーパーで吸い取る。また、ナス、エリンギ、ピーマンなどの野菜でボリュームを増す。鳥甘酢炒めは胸肉を使い、パサつかないよう下味をつけ片栗粉をまぶして適度に焼いた後、最後にさっとタレを絡め炒める。こんな感じでどれも特別なことではないが、塩分、脂肪分をちょっとずつ減らすことを心がけ、その分素材の旨味がしっかりと出るように丁寧に下処理や調理をしていくように工夫している。

 なんだかドヤ顔で自慢話をしてしまったが、こうした工夫ができるまでにはだいぶ年月がかかった。もともと不器用なこともあり、最初は手間取って焦がしたり煮すぎて野菜がクタクタになったりと、火の入れ加減が全くうまくいかなかった。味加減なかなか定まらず、結局何を作っても妻が作った方が美味しく見た目も美しく細部まで丁寧な料理だった(それは今もそうである)。でも不器用には不器用のやりようがある。同じ料理のレシピサイトを片っぱしから見て、調理工程のイメージトレーニングを重ねた。手間取らないよう、料理番組のように全ての材料と調味料をあらかじめ必要分を揃えて下準備を万全にして、いざ火を使って調理するときはすぐに材料を使えるようにした。細かい点では、調理器具をすぐに洗い台所を清潔に保つ、食材や器具の水気をこまめに拭き取る、食材を同じサイズに切る、何度も味見する、など料理の基本を一つ一つ学習していった。そうして、めげずに何度も同じ料理を作り徐々に改良や修正を加えた結果、ようやく自分の体にあった料理の極意を会得できたのである。

 しかし、真の極意はまだ程遠い。特に不慣れな料理は全く歯がたたないことがある。今日も高野豆腐のストックがあったので基本の含め煮を作ってみたが、豆腐の分量を間違えて出汁を豆腐が全て吸い取ってしまい、味極薄でボソボソの高野豆腐が出来上がった。でもその味は入院中に出る病院食のようで、どこか慣れ親しんだ思い出深い味だった。