ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

バナナ以上に素直な生き方

『こんな夜更けにバナナかよ』は、筋ジストロフィーを抱える鹿野靖明氏の生活を取材したノンフィクション作品の本である。ボランティアとの交流や自立生活の実態が詳細に描かれた作品として評価され、映画化もされたのでご存知の方も多いだろう。おいらも何年か前に本を読み、とても印象深く記憶に残っている。鹿野氏は、多くのボランティア介助者のサポートを受けながら自立生活を実現した。その生活では、介助者にいつでも遠慮なくやってもらいたいことを要求しながら、自分に正直に自由奔放に生きていた。その生き方はある意味わがままで自己中でもあるが、一方で重度の障害を持っていても自分の人生や運命を卑下したり悲観したり我慢したりすることなく堂々と生きる姿勢を貫き、その生き方に多くの読者は感動したり勇気づけられたことだろう。
 だいぶ前に読んだのではっきりと覚えてはいないが、おいら自身のこの作品への感想は、印象深かったが感動したり勇気けられたという感情はさほど強く抱かなかった。むしろ、鹿野氏に対し共感できなかった部分の方が印象に残ってしまっている。確かボランティアの人々に対してもよく怒っていた場面があったと思うが、おいらは人に怒られたり怒っている人を見るのが苦手なこともあり、それらの場面が正直少し辛かった。とはいえ、彼に対しもっと大人しく生きろとは全く思わない。素直な生き方には憧れるが、彼の示した方法はおいらの目指す方法とは違うなと感じたのだった。
 タイトルの「こんな夜更けにバナナかよ」は、ある時鹿野氏が真夜中に付き添いボランティアに「バナナが食べたい」と言い出し、それに対しそのボランティアが感じた心の言葉から取られたもので、まさに鹿野氏の素直な生き方を表した象徴的なエピソードである。そのエピソードと似ているかどうかはわからないが、おいらも別のやり方で自分の素直な生き方を真夜中に体現していたことがあった。後半はそれについてお話ししたい。
 あらかじめお断りしておくと、ここからはとても汚い話になるので、皆さん覚悟してほしい。しかし、それは紛れもない事実であり、ある意味バナナ以上に素直な生き方を体現していたかもしれないことだ。それは、2016年に4ヶ月半の地獄入院をしていたときだった。その時のおいらは、腰痛と腰痛圧迫骨折が重なりベッド上で寝たきり状態になっていた。体の向きを変えるだけで腰に激痛が走るため起き上がることは当然できず、食事も排泄も全てのことをベッドの上で寝た姿勢で行っていた。 

地獄入院の詳細

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  そしてその頃、なぜか真夜中になると大の排泄をしたくなっていた時期があった。毎晩毎晩、夜中の1時か2時になるとしたくなるのだ。ご存知ない方のためにベッド上で寝たまま大をする方法を簡単に説明すると、ちりとりのような形をした簡易便器をお尻の下に差し込んで用を足す。ちりとりの上面の半分ほどには穴が空いており、穴のない部分にお尻を乗せ、穴の中に排泄物を落としていく。この簡易便器で用を足すのはなかなか難しく、できない方も結構いるそうだ。おいらも慣れるまではだいぶ苦労した。その苦労話はさらに汚い話になるので、また機会があればいつかお話ししたい。
 ともかく形状こそバナナに似たものを、おいらは毎晩欲していたのだった。最初の頃は、毎回ナースコールで看護師さんを呼んで便器を持ってきてもらっていたが、そのうちベッド脇に常備しておいてもらい、自分で取って用が済んだら呼ぶようになった。真夜中に便を出すのは申し訳なくも感じたが、一方でとても心地よく満ち足りた気分にもなっていた。夜中の静寂の中で一人ベッドの上で寝ながら気張っていると、なんだか自分がウミガメになって産卵している感覚になり、生まれてくるバナナにさえ尊さを感じていた。
 またこの時のおいらは、消化管出血のため(地獄入院は元々その治療のための入院)、便が硬く血が混じり真っ黒な色をしてた。そのため毎回便の状態をチェックして消化管出血が続いているかどうかを確認していた。その確認作業もおいらには楽しみだった。一時期本当にひどい時はコールタールのように黒かったが、ちょうど真夜中に便が出ていた時期からちょっとずつ改善していった。昨日より少し黒さが薄まり茶色っぽくなっていくのが毎回嬉しかった。だから、便を終え看護師さんを呼んだ時には、とても幸せそうな顔つきになっていた。調子に乗った時は、一仕事終えた余韻をゆっくりと味わうため、お茶を一杯持ってきてもらうのもお願いしていた。でも看護師さんからしたら、40近いおっさんが真夜中に便をして呼びつけて幸せな顔をして余韻を楽しんでいたら、鹿野氏のボランティア以上に心の中で悪態をついたとしてもおかしくない。

「こんな夜更けにう◯こかよ。」

 こうしておいらは、多くの看護師さんのサポートを受けながら地獄入院から生還した。その入院生活では、たとえ真夜中でも遠慮なく生理的欲求を満たしながら、時に正直に自分の嬉しい感情を表した。そんなおいらの生き方も、鹿野氏のように人々を感動させたり勇気づけられるだろうか。

映えはつらいよ

今日は前回の記事の後日談をグルメ旅ブログ風にお伝えしたい。

 前回、数年間使っていなかったミニベロ自転車を蘇らせるため、”次天気の良い休日が来たら、南の島らしい海岸線沿いの道をサイクリングするつもりである。”と書いた。

 残念ながらこの3連休はずっと曇りか雨の日が続き、晴れた時がわずかな合間にしかなかった。しかし、おいらは待ちきれず連休最終日にミニベロを車に積んで海岸線に向かってみた。

 やってきたのは、おいらの住むところから車で約50分ほどのところにある海中道路。その海中道路は島と島を結ぶ道路で、橋ではなく浅瀬の干潟を埋め立てて建設された(一部船舶の行き来ができるよう橋になっている)。そのため道路が海面に近く、左右に道路と同じ視線の高さで海が広がって見えるため、島随一の絶景スポットにもなっている。道路の途中には駐車場が広々と整備されており、そこには海岸に沿って遊歩道もあり、海面をじっくりと眺めながら散歩したりサイクリングすることもできる。南の島に来て初めてこの場所を訪れたとき、あまりの美しさに一目惚れしてそれ以来綺麗な海が見たくなったらいつもこの場所に来ている。

 目的の場所に到着すると早速自転車を出して、折りたたみ式のため組み立てた。それを海岸沿いの遊歩道に置いてスマホで写真を撮ってみると、想像以上に良い。

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 曇りという天気を差し引いても、映えまくりと言っても言い過ぎじゃない。むしろ曇りであることで、ぽつんとたたずむ自転車の物悲しさのような雰囲気が引き立ち、より印象的な情景になった気がする。おいらは興奮して、たまにすれ違う歩行者も気にせずいろいろな角度から自転車を撮りまくった。

 ようやく満足して気持ちが落ち着いたところで、肝心のサイクリングである。おいらは自転車に跨いで撮影地点から100mほど離れた海中道路の途中にある道の駅に向かった。そこはお土産が売られていたりちょっとした飲食ができるようになっている。オイラのお目当ては新鮮なもずく酢のパック売りである。それを一つ買い、元の撮影地点の近くのベンチでランチにすることにした。

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 今日のランチは、途中で調達した月桃の葉で包まれたチマキと餅(南の島の言葉でムーチーと呼ぶ)、それに先程のもずく酢である。

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 チマキは島の特産品である田芋(里芋みたいな食感)が入っていてもっちりとして少し甘みがある。月桃の葉は独特な強い香りがし、あえて言うなら古いお寺の線香のような匂いに近いかもしれない。でもそれがまたとても良い香りで、チマキやムーチーにとても合うのである。ムーチーはヨモギ(島ではフーチバーという)が練り込んであり中に粒餡が入っていて、とてもやわらかいけど粘り気が強く食べ応えがある。どちらも添加物一切なしで食材と基本的調味料だけで作られた優しい味だ。そしてもずく酢は、この時期は旬ではなくおそらく冷凍ものにもかかわらず、シャキシャキとしてとても歯触りがよい。どれも何度も食べているのに感動的に美味しく、我ながら完璧なお出かけプランに大満足な1日となった。

 

 とここまでが、表向き映え映えなグルメ旅ブログであるが、その裏の実態は全く違っていた。実際は、曇りで風が強く小雨も混じっていたためものすごく寒く、手はかじかみ、鼻水は出て、トイレも近くなり、全く風景や自転車を楽しむどころではなかった。それに寒くて手に力が入らないため、自転車の組み立てや片付けに手こずり、挟んだり足にぶつけたりと痛い思いもした。そして自転車を漕いだ時は、2、3こぎですぐに腿の筋肉が痛くなり、筋肉が衰えている現実を思い知らされた。ランチをする時も、写真を撮ったり寒さで震えたり風でゴミが飛ばされないようにしたりと、ゆっくり味わっていられるゆとりはなかった。結局一番満足した瞬間は、全ての片付けを終え車の中でポットに入れてきた温かいお茶をすすっている時であった。

 きっと巷に溢れる映え写真も、実際は今回のおいらと同じようにいうほど”いいね”なことではなく、裏では辛い思いや痛い思いをしながら無理やり映え写真を撮っているに違いない。と帰りの車で僻みながら、映え写真など自分に不釣り合いなことはもうしないと心に誓った。

増え続ける喪失感

年々心臓が弱り体力が落ちていくとともに、使われなくなってしまったものがいくつもある。それらは家の片隅にあちこちに置かれており、一日の生活の中で何度も視界に入ってくる。普段はそれでも特に気にならないが、ふとしたときにそれがよく使われていた頃を思い出すことがある。そのたびに体力だけでなく自分が頑張ってやっていたこともいつの間にか失ってしまったことに気づかされて、その喪失感から深く悲しい気分に沈んでしまう。このままでは、年々家の中に増え続ける喪失感トラップによって悲しみの底なし沼で溺れそうだ。

 なんとかこの状況を脱出したいと思い、昨年アブレーションを受け体調が安定したことをきっかけに、使われなくなった物たちにもう一度向き合うことを決意した。まず最初に手をつけたのが、学生時代恋人のように愛した楽器のウッドベースだった。このブログで何度か書いたかもしれないが、おいらは学生の頃ジャズサークルに入りベースを弾いていた。一時期は研究や授業もそっちのけで毎日部室に通うほど音楽にのめり込み、楽器を練習したり仲間と演奏するだけでなく恋愛もしたりと、おいらにとってベースは青春の象徴であった。妻ともそのサークルで知り合い、結婚してからもずっと音楽を続けようと約束し合った。

 しかしその約束は守れず、いつしか楽器を触らなくなってしまっていた。そのことが常に心の奥で気になっており、楽器が視界に入るたびに妻と音楽とそして自分自身に対して後ろめたい気持ちになった。6年前最も心臓の調子が悪かったときには、もういっそ踏ん切りをつけて楽器を処分しようかとも思った。でもそれをしたら結婚生活も終わるような気がしてどうしても処分できなかった。その後フォンタン再手術を受けたり、消化管出血と腰椎骨折で長期入院したり、心筋梗塞で緊急入院したりと、何度も命に関わる厳しい状況が過ぎていったが、その間も楽器を触ることも処分することもなく、ただ家の片隅に置き続けていた。その存在は、おいらに人生をもう一度輝かせろと訴えかけるプレッシャーでもあったが、一方でそれを処分したら真に生きる意味を見失ってしまいそうで怖かった。

 昨年7月にアブレーションを受けた後、なんだかふっと気持ちが楽になり、素直に楽器にもう一度触れたくなった。だから、退院してすぐからほぼ毎日楽器を練習し始めた。学生の頃のように毎日何時間も練習はできないが、10分程度でも楽器に触れているととても心地よい気分になれた。そして前回も書いたように、昨年10月から月に一回ライブハウスで演奏できるようになった。オイラの自己満足に過ぎないが、楽器も音を出せて喜んでいるように感じた。年末には10年以上も張ったままでヘタってしまった弦も張り替えた。楽器は、生き返るように張りのある大きな音を出した。

 次は、数年前買ったミニベロの自転車と向き合いたい。今は玄関の一角でタイヤの空気は抜け全体にホコリが被って置かれたままになっている。この自転車は、南の島に引っ越してすぐ通勤と体力作りを兼ねて買ったものだった。新しい街でオシャレな街乗り自転車に乗ってスマートに通勤する日常は、おいらのこれまでの人生には一度もなかった健康的な生活でありとてもまぶしかった。結局そのまぶしい生活も長続きしなかった。今日、自転車のタイヤに空気を入れていつでも使える準備を整えた。次天気の良い休日が来たら、南の島らしい海岸線沿いの道をサイクリングするつもりである。そしてペダルを力強く漕ぎ出して、もう一度人生を前に進ませるのだ。

 というのは建前で、本音は最近人生初のスマホを持ったので、それで海を背景におしゃれな自転車の映えまくり写真を撮りたいというゲスな願望を満たしたいだけである。

体と心のフェノロジー

 まだ年も明けていないというのに、連日の寒さに堪えて春が待ち遠しい。春の訪れは日照が長くなったり気温が暖かくなることでも感じられるが、それだけではたまたま暖かい日である可能性もあり十分確信できない。真に春が来たと思えるのは、植物たちが新たな葉を展開したり花を咲かせたりする姿を見たときである。
 植物は発芽、開葉、開花、結実、紅葉、落葉といった活動を、毎年間違うことなく季節の変化に合わせて行うことができる。そんなことごく当たり前に思えるかもしれないが、実際には多数の遺伝子によって厳密に調節された極めて複雑なメカニズムの上に成り立っており、それは植物が長い年月をかけて獲得した進化の賜物である。だから、植物は我々人間がなんとなく雰囲気で春を感じるよりもはるかに正確に春を感知できるのだ。こうした生物の季節に合わせた活動周期を、専門用語でフェノロジー(生物季節)と呼ぶ。今回は、生物のフェノロジーに例えて、今年一年のおいらの体と心のフェノロジーをまとめておこう。

 

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 上の図が、おいらの様々な部位の症状と精神状態の変化を表したものである。まず、おいらが最も注意しなければならない心臓は、1月当初(実際には前年の年末)から不整脈が頻発し極めて不調だった。何度電気ショックを受けてもすぐに不整脈が再発してしまい、心臓が弱り、寒気、だるさ、むくみ、無気力感が襲った。精神的にも弱気になり絶望的な気分に落ちていった。そして最終的には入院中のカテーテル検査で心室細動を起こして死ぬような経験をした。
 その後3月4月はやや安定していたが、5月ごろから再び状態が悪くなり不整脈が度々再発し、何度か入院した。これはペースメーカーの機能不全が主な原因だった。このころも徐々に心臓が衰えていく不安とストレスのためか、精神的に深く落ち込んでしまっていた。そんな身体的にも精神的にも弱っていくおいらの様子に危機感を持ったのだろうか、主治医の先生が急遽7月末にアブレーション入院のスケジュールを組んでくれて、ようやく不整脈が収まり心臓が安定した。
 アブレーション手術後は心臓が安定しただけでなく、精神的にも穏やかになりいろいろなことに前向きに取り組めるようになった。この頃から長年放棄していた楽器の練習を再開し、その練習が実り、10月から月に一回ジャズライブハウスで演奏できるようになった。また、体調が良く気候も涼しくなってきたこともあり、10月には山登りに2回行った。山は標高200mほどの小さな山でそれでも全部登り切ることはできなかったが、登山ができるだけでもとても嬉しくて心地よかった。この頃、PM周囲の腹の痛みや脚の膝や股関節に痛みが出たが、これらは活発に動いたことの副産物であろう。12月初めには学会講演も行うことができた。おいらにとっては久しぶりの学会発表というだけでなく、消えかかっていた研究者のともし火が再び輝いた瞬間だった。
 植物のフェノロジーは季節変化に合わせて厳密に制御された活動周期であるが、おいらの体と心のフェノロジーは季節や環境の変化に合わせることができずに不規則に生じた活動である。きっと来年も不規則なフェノロジーに振り回されて、苦しんだり悲しんだり喜んだりするのだろう。まあ、来年も退屈な一年にならないことは間違いなさそうだ。


PS. 今年は新型コロナで世界中の人々が苦しんだが、おいらはコロナで救われた面もあった。上のフェノロジー図を見ると、コロナの第一波と第二波が起きた頃、おいらの心と体は比較的安定しているのがわかる。これは、この頃自粛生活と在宅勤務になり、日々の体の負担がかなり軽減されたことが大きい。平日も休日も疲れたらすぐに横になって休むことができ、とても楽に過ごすことができた。正直サボりすぎたかもしれないが、結果として自分にちょうど良い活動周期を知る良い機会になった。

寒気の正体

ここ最近、変な寒気が続いている。ブルブルと震えるわけではないが一日中ゾワゾワと体の内部から寒気がくる感じがある。風邪の引き始めのようなゾクゾクした寒気にも近い。だが実際寒いのかというと、必ずしもそうでない時もあり、手足はむしろ暑かったり、厚い布団をかぶっていると汗だくになったりもする。その反対に、厚着したり布団にくるまったりしていると、ますます寒気が強まる気がすることもある。もう暑いのか寒いのか混乱してしまうのだ。

 おいらは、お風呂で熱めのお湯に浸かった時にも似たような寒気を感じることがある。お湯に浸かっているため熱いはずなのに、なぜか体の芯の方から体表面に向かってじわーっと寒気の感覚が伝わってくるのだ。だが、それを周囲の人々に話しても誰もお風呂でそんな感覚にならないらしく共感されない。さらに、この異様な寒気についてネットで調べても、似た症状を説明した文章は見つからなかった。だからいまだに原因がわからず不安になっている。

 この寒気が出始めたのは実はここ最近のことではない。以前のブログ記事ですでに書いていたが、7月のアブレーション入院の少し前から寒気が度々出ていた。しかし、その頃は一日中じわっと続くというより、突発的に非常に強い寒気に襲われていた。夏なので家ではエアコンをつけているというのに、おいらはベランダの窓を開けて暑い外気温に当たり、さらに羽毛布団にくるまって震えていた。そしてしばらくして温まってくると今度は汗だくになった。アブレーション後数日は特に酷かった。電気毛布を最強にしてつけて被ってもまだ寒く感じた。その後、これらの寒気の原因は甲状腺機能低下症によるものだろうと診断され、薬を飲み始めてから落ち着いてきた。

 しかし、11月末くらいから上記の異様な寒気がまた襲ってきたのである。もちろん気温が下がってきたことも十分影響している。とはいえ、おいらが住むのは南の島。本日の気温も最低20.0℃、最高21.5℃ととても寒いと言えるような温度ではない。最近は夜間だけでなく日中も寒すぎてまともに仕事ができなくなってきた。だから、そんなおいらを見かねて職場ではおいら用にオイルヒーターとホットマットを買ってくれた。おかげで職場の寒さはだいぶ緩和されたものの、それでもまだ寒くて熱い飲み物をついたくさん飲んでしまい、結果トイレに行く頻度が増え、せっかく温まった体がトイレに行く廊下で冷えてしまう悪循環に陥っている。

 いったいこの異様な寒気の原因は何なのだろうか。そして、どうしたらこの寒さから逃れられるのか。暖房器具や布団や服や熱い飲み物で温めてもだめ。むしろ実際は物理的には寒くないのに寒さを感じてしまっていることすらある。となると真の原因は精神的なものだろうか。あっ!もしかして、これがいわゆる人肌恋しいというやつか。でもそうだとしたら、ますますどうしたら逃れられるのかな。

正解のない生き方

前回のブログで、学会のシンポジウムで講演することになったと書いた。今日はその講演内容を講演前に一足先に公開してしまおう。というわけで今回の話は、心臓や病気のこととは関係のないゴリゴリの生物学の話である。

 おいらは今から15年ほど前、鹿と大仏で有名な奈良公園で植物の研究をしていた。奈良公園で植物の研究なんて全くイメージのつかない人もいるかもしれない。しかし、奈良公園は実は日本国内の中でもシカが最も高い密度で生息している極めてユニークな地域であり、それゆえに植物が鹿からの採食を逃れるため巧みな防御戦略を進化させているのだ。だから植物の進化を研究する場所として、これ以上にないほどもってこいの地域なのである。おいらは、その奈良公園を舞台にした研究で、植物が”小さくなる”という防御戦略を進化させていたことと、小さくなったがゆえに待ち受けていた悲劇的運命を明らかにした。

 

小さくなる(矮小化する)植物

 最初に述べたように奈良公園では著しくシカ密度が高いために、植物は何らかの防御戦略を備えていなければ、すぐにシカに食べられてしまい公園内で生存し続けることは極めて難しい。よく知られている防御戦略は、体の中に毒を持つ(化学的防御という)方法や、葉や茎に沢山のトゲを生やす方法(物理的防御)がある。その他、植物の体の一部にアリを住まわせてアリに守ってもらう生物的防御というものもある。ところがおいらが奈良公園を散策してみると、これらのどの防御戦略も持っていなそうな植物がたくさん生育していたのだ。実際それらの植物を引きちぎってシカに与えてみると、特に嫌がるでもなくシカくんやシカさんやシカちゃんは食べた。

 その中の一つにイヌタデという植物がいた。イヌタデは、田んぼの畦道などにごく普通に生育する特に珍しくもない植物である。おいらはイヌタデを以前から知っていたので、奈良公園に生育するイヌタデの個体を見た瞬間、今まで知っている形態とはあまりにかけ離れていて目を疑うほどだった。最初は同じ種とは思えなかったが、植物に詳しい別の研究者とも確認しどうやら奈良公園独自の形態なのではないかと考えた。そしてその後詳しく研究した結果、奈良公園に生育するイヌタデの個体は、他地域個体と比べ葉長や茎長が40〜50%も縮小した矮小形態を示していることがわかった。さらに、種から発芽させて育てた個体も矮小形態を示した。つまり、矮小形態は遺伝する特徴なのであった。また、矮小形態の個体と他の地域から取ってきた通常の形態(矮小化していない形態)の個体を奈良公園に移植して何日か観察すると、通常形態の個体はすぐに食べられてしまったが、矮小形態はなかなか食べられずに生き残っていた。矮小形態は被食を回避する上で確実に有効な戦略なのである。

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矮小化したイヌタデに待ち受けた悲劇的運命

 少し話が変わるが、トゲをたくさん生やして防御している植物には、シカが近寄ることすらない。触れただけで痛いからだ。この状況は、トゲ植物が想定しない副効果を生むことになった。実は、トゲ植物自身のみならず周囲にいる(防御手段を持っていない)他の植物もシカから守ったのだ。こうした効果を間接的防御作用と呼び、これはこれで面白い研究テーマとして注目されている。

 もちろんおいらもそんな面白い研究テーマをほっておくはずがない。そこで、奈良公園で生育していたトゲを持つイラクサという植物が間接的な防御作用を示すか、つまり他の植物も守っているかを調べてみた。ちなみに、他の人の研究で奈良公園イラクサは、トゲ防御をさらに強力に進化させており、他の地域と比べて50倍以上もトゲの数が多いのだそうだ。だから奈良公園で迂闊にイラクサを触ったりすれば地獄を見ることになる。おいらは調査中にお尻や腕や顔など何度も触れてしまいベソをかきながら調査していた。

 そうして、散々痛い思いをして入念に調査を行い、イラクサもトゲを強力に進化させたのだから、さぞ劇的な間接防御作用が証明できるだろうと期待した。ところが様々な手法で調査データを分析してみても、イラクサイヌタデに対し間接防御作用をほとんど示さなかったのだ。それは、皮肉にもイヌタデが鹿から身を守るためにい進化させた矮小化が原因であった。本来植物同士は、光や土の中の栄養や水を巡って争う敵の関係にある。当然、トゲ植物とその他の植物の間でも競争が起きているわけだが、防御作用はそれを上回る利点がある。しかし、イヌタデは矮小化したことで、イラクサからの恩恵を享受できなくなってしまったのだ。つまり、イラクサから防御作用よりも競争作用の方を強く受ける羽目になったのである。このことはおいらが行った野外移植実験で確かめることができた。おいらは、他の地域から通常形態(矮小化していない形態)のイヌタデ個体を持ってきて、トゲ植物のイラクサのすぐ隣に植えてみた。すると、通常形態の個体はイラクサの隣で鹿に食べられることなく無事生き残った。ところが、矮小化している形態(奈良公園に生育している個体)を同じようにイラクサの隣に植えてみると、枯れてしまったり成長が悪かったのだ。こうして、イヌタデは矮小形態になったがゆえに、かつては保護してくれていただろうトゲ植物イラクサが恐ろしい競争相手に変貌してしまったのだった。

 この話を聞いて、じゃあイヌタデはどうすればよかったのか。小さくならなければよかったのか、と思う方もいるかもしれない。しかし生物の生存戦略には最適な正解がない、というのが実際のところであり、この話のメッセージでもある。環境や状況が変われば、今まで最適だった戦略が不都合になるかもしれないのである。イヌタデにとって、鹿のたくさんいる奈良公園という環境では、小さくなることは生き残る上で正解である。しかし、奈良公園の中でも隣にイラクサがいるという特別な状況では、小さくなることが不利に働いてしまうのである。全ての環境や状況に最適な戦略はない。これが生物の非常に面白い宿命なのだ。

風前の研究者

おいらは、研究者業界の中ではもはや忘れ去られた存在である。ここ数年、学会発表も論文発表もろくにしておらず、他の研究者と共同研究したり交流することもほぼなくなった。一応大学の研究室で研究員として働いているが、おいらの仕事は研究室マネージメントであり、研究に直接関わったり表舞台に出ることはない。科学の歴史に残るような偉大な研究成果や膨大な研究業績があるわけでもなく、それどころかいっときでも脚光を浴びるような研究をしていたわけでもなかった。あの人は今、と思い出されることすらなく、このまま誰の記憶にも残らず研究の世界から消えていっても不思議ではない存在になりつつあった。

 しかし、そんなおいらの元にとんでもなく光栄な話が来たのである。学会シンポジウムの講演者として招待されたのだ。しかも、そのシンポジウムの講演者はただ学会で発表するだけでなく、後日発表内容を文章にして、それが本として出版されるというのだ*1。風前のともし火だったおいらが、大勢の聴衆の前で研究成果を発表し、さらにその成果が書物として販売される。本当にありがたくこれ以上になく光栄で心の底から嬉しかったが、時が経ち冷静になるにつれ、あまりに身に余る大役で恐ろしくなってきてしまった。

 何かの間違いじゃないのか。本当においらでいいのかい。招待してくれた方はおいらをどう見ているかわからないけど、おいらは研究の前線から遥か後方に下がった負傷兵や退役兵みたいなもんだよ。実際おいらができる話は、もう10年近く前にやっていた古い研究の思い出話だけだ。そのシンポジウムの参加者は第一線で活躍する研究者やこれから研究者を目指す学生たちばかりで、最新の研究成果を貪欲に求める飢えた狼たちなのだ。おいらの話は、あまりに古くて誰も見向きもしない腐った肉片になるに違いない。しかも、そのシンポジウムは12月にあるというのに、まだ発表の準備は50%ほどしかできていない。このままでは、おいらはそのシンポジウムの場を前例が無いほど白けさせ、おいらの研究者としてのともし火は完全に吹き消されるだろう。まともな神経の持ち主なら、焦りと不安と恐怖と重圧で気を失いそうな事態である。

 だが、読者の皆さん安心してほしい。おいらはこれまで数多くの生命の危機をくぐり抜けてきた。おいらにとって、命に関わることでなければ大抵の危機はそよ風みたいなものである。そよ風ではおいらのともし火は決して消えないのだ。そして何よりおいらは、生と死の両端を人一倍行き来した経験から、他の研究者にはないおいら独自の生命観を見出した。だから古いか新しいかは問題ではない。おいらは自信を持ってその生命観を語れば良いのだ。

 それでその独自の生命観とはどんなものなのか、実際おいらがどんなテーマを話す予定なのか。今回はそれをいち早くこのブログで書くつもりだったのだが、前置きが長すぎて残念ながら時間切れ。それはまた次回のお楽しみとさせていただきたい*2。

 

*1  その本は、各講演者がそれぞれ一章分を書きそれを寄せ集めて一冊の本になるので、おいら一人で一冊の本を書くわけではない。

*2  ひぃぃ、読者の怒りの嵐が吹き荒れてきた。このままではシンポジウムの前にともし火が消えてしまいそう。