ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

奇跡の終焉

おいらは、13歳のときフォンタン手術を受けた。フォンタン後の体の変化は劇的だった。顔や爪や唇の色は、紫色から血色の良いピンク色にかわり、ばち指はなくなり湾曲した爪はまっすぐに延びはじめた。走ることができ階段も息切れすることなく登れるようになった。20代頃にはさらに調子がよくなり、夜更かしも飲酒も難なくできた。満員電車に乗ったり、長時間あるいたり、外国へ一人旅に行ったり、タバコの煙が充満するサークルの部屋にこもっても、体調を崩すことなどほとんどなかった。ごはんも好きなものを無制限にたらふく食べることができた。乱れた学生生活のときには、レトルトカレーや納豆などで、ご飯2合を飲むようにかき込んだりもしていた。フォンタン前とフォンタン後では世界は違っていた。

フォンタン手術の核心は、1心室しか使えない複雑奇形の心臓に対し、動脈血と静脈血をわけ、肺循環と体循環を確立することにある。正常な2心房2心室型の心臓では、上半身と下半身から戻ってきた静脈血(酸素を使い果たし、二酸化炭素を蓄えた色の濃い血液)は大静脈をとおり、右心房へ送られる。血液は、右心房から右心室に流れ、右心室がポンプの力で肺動脈を経由して肺へ勢い良く血を送る。肺では、血液中の赤血球に酸素を吸着させ、酸素のついた赤血球は鮮やかな赤色に変色し、血は動脈血となる。動脈血は肺静脈を通り左心房へ送られ、左心房から左心室へと流れていく。左心室は心臓の中で最も力強く脈打つことができる部屋で、その強力なポンプによって大動脈に血を濁流のごとく送り込む。こうして血液は足の指先まで隅々と行き渡り、体中の細胞にたっぷりと酸素を供給することができる。フォンタン手術は、複雑奇形の心臓に対しても、こうした正常な循環系に近い循環を実現する。

その方法は、1つある心室を体循環に特化させることである。その心室が解剖学的に右心室であっても左心室であっても、全身に動脈血を送る役割をさせるのである。そして、右心房に集まってきた静脈血は、心室に送られることなく肺へと直行させるのだ。つまり、右心房の上部を肺動脈につなげ、右心房から心室への流れは完全に遮断してしまう。これにより、血液の流れは、大静脈ー右心房ー肺動脈ー肺ー肺静脈ー左心房ー心室(右か左使える方)ー大動脈ー全身となる。これがフォンタン医師が最初に開発した、心房・肺動脈連結法(Atriopulmonary connection)、通称 APC fontanと呼ばれる方法である。

フォンタン手術は、その後幾度かの改良が加えられた。右心房を経由するルートは、心臓にたくさんメスを入れなくてはならず、心臓の負担が大きい。だから、この手法に耐えられる条件は厳しく、全ての患者が受けることができなかった。そこで、大静脈・肺動脈連結法(Total cavopulmonary connection)、TCPC fontanとよばれる方法が開発された。TCPCフォンタンは、人工血管を使って大静脈と肺動脈をつなげる方法である。その方法はさらに2種類あり、人工血管を右心房内に通す側方トンネル法と、心臓の外でつなげる心外導管法がある。心外導管法は、心臓にメスを入れることが少なくより簡単に手術を行うことができ、適用できる患者は大幅に増えた。また、術後の追跡調査により、短期・長期的にも予後が良いことがわかってきた。現在では、ほぼ全ての患者が心外導管型フォンタン手術を受けている。

最初のフォンタン手術(APCフォンタン)が、心房を経由させたのは人工血管がまだ十分に開発されていなかったためもあるかもしれないが、心房の拍動をポンプ機能として働かせようとしていた狙いもあった。しかし、後の研究で心房の拍動は弱すぎてポンプとして機能しないことが明らかになった。ならばなおさら、人工血管で直接肺動脈につなげることが効率が良い。心房を経由させると、血液の流れはS字を描いたルートを通らなくてはならず、流れによどみができてしまう。このことは、後々重大な問題を招くことになった。

心外導管型フォンタンでは、右心房は使われないか、左心房との壁のなくして構造上右左心房で一つの心房となる。心室もひとつなので、1心房1心室型の心臓となるのだ。心臓は、生命進化とともに複雑化していった。2心房2心室型の心臓を持つのは、我々ほ乳類と鳥類である。静脈と動脈はわけられ、動脈から豊富な酸素が供給されることにより体温は常に高く一定に保つことが可能になった。その結果、これまでにない運動能力を獲得し、陸上や空中を何千キロも移動でき、極寒の地から熱帯まで地球上の様々な環境に生息域を拡大させた。は虫類と両生類は、2心房1心室型の心臓を持ち静脈と動脈は混ざってしまう。体温を維持することができず、寒い環境では活動量が落ちていく。魚類は1心房1心室型心臓で、昆虫や甲殻類などの節足動物にいたっては、心臓の部屋に当たるようなものすらなく血管が脈を打つ。いずれも静脈と動脈は混ざる。心外導管型フォンタンの心臓は、構造上だけみれば魚類と同じ1心房1心室型である。しかし、すでにお分かりのように魚類とは決定的に異なる点は、静脈と動脈が混ざらないことだ。1心房1心室でありながら、静脈と動脈が混ざらない心臓。それは長い生命進化史の中でも、誕生しなかった。人類は、進化によってもなし得なかった奇跡を手に入れたのである。

しかし、奇跡は終焉を迎えた。フォンタン手術は長期的にはさまざまな合併症を生み出すことになった。不整脈、蛋白漏出性胃腸症、腎臓肝臓障害、浮腫、血栓。これまでに、医学的に多様な原因が示唆されている。ただ、生物学者の端くれのおいらは、生命進化の歴史も無視できないと感じている。心臓は、独立に進化を歩んだのではなく、他の臓器や体と密接にリンクして進化してきたことだろう。1心房1心室の心臓には、それに見合う体の構造が備わった。我々ほ乳類も、2心房2心室の心臓に対応した体が備わってきたことだろう。人類は生命史上生じ得なかった心臓を手にしたが、それは我々の体に必ずしも合うものでなかったのかもしれない。免疫系が細菌や他者の臓器を拒絶するかように、我々の体もまた未知の心臓を受け入れることができなかった。そして、他の器官が望むような血行動態を維持できなくなり、多くの臓器はうっ血し機能低下を招くことになった。

少しドラマチックに書きすぎた面はあるものの、フォンタンはプラス、マイナスどちらの面も、患者に劇的なインパクトを与えたのである。今、おいらはその両面を経験している。今後おいらの体がどう変化しているかは、おいら自身もおそらく医者も予測できないだろう。それは不安でもあり、どこか好奇心をそそられる。

フォンタンの負の面は、また後日お話ししたい。今日のところはここまで。