ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

植物に隠された数の世界

前回の記事から大分日が経ってしまった。時間があくほど、腰が重くなり新しい記事を書く気力が失われていく。だから、とりあえず内容なんて気にせず何でもいいから書くことが継続の秘訣である。

これまで心臓病の話ばかりだったので、今回はもう一つの主題である生物学について話たい。

おいらが研究対象とする主な生物は、植物である。植物は、人間のように動くことができない。これが植物の最も面白い特徴だとおいらは思っている。実際には、植物性プランクトンのように泳いだりできるものもあり、動くかどうかで植物かどうかを区別することはできない。光合成でエネルギーを得られる独立栄養生物というのが、生物学的には正確な植物の定義であろう(ただし、寄生植物のように光合成をしない例外もいる)。

とはいえ、動かないという特徴は植物を知る上でとても重要な点であり、面白い特徴なのである。それは動かないことが植物の生き方にとって大きな制約となるとともに、植物固有の性質を生み出す進化の原動力にもなっているからだ。しかし、動かないがゆえ、世の中の大半の人は植物に興味を抱かない。興味を抱いても、きれいな花ばかりで、葉や茎、根っこなんてみようとも思わない。地味な花しかつけないイネ科の植物なんて全く相手にされない。人によっては、生き物として感じられず緑色の背景としか認識していない場合もある。たしかに、鳥やほ乳類や昆虫など動いている生物の方が断然興奮するし、反射的にそれを目で追ってしまうと思う。おいらも大学で生物学科を専攻していたにもかかわらず、そんな一人だった。

学部3年のときに受講した野外実習が、おいらの植物観をひっくり返した。実習を受ける前の生物学の授業は、小学生時代からずっと暗記科目だった。生き物の名前や組織、器官の用語を覚えまくるのが生物の授業だった。正直とてもつまらなかった。一番好きなのは数学だった。話はそれるけど、数学は多くの人がもっと嫌いな科目にあげるが、おいらはそれが寂しい。今数独とか携帯のパズルゲームが流行っているけど、数学はそうしたパズルゲームと対して変わらないと思う。それでは、なぜおいらが数学を専攻せず生物学を専攻したかというと、それはまたいつかお話ししたい。

学部3年のときに受けた実習は、植物と動物の生態を野外で観察したり測定したりする泊まり込みの実習だった。そのときは、まだ動物の方に興味があり植物の実習にはあまり気持ちが乗らなかった。その野外実習での植物の内容は、湿原に生える植物の分布と森林調査の基本となる毎木調査であった。

湿原植物の実習では、湿原内に敷かれたも木道に沿ってある植物種がいるかいないかをみていくもので、1学生1植物を担当し全部合わせると十数種になった。最終的に各自が取ったデータを全員分合わせて、統計的な解析をすると、どの種とどの種が一緒にいる傾向があるか、それとも別々にいるのか、ランダムなのかの関係が数値的に示すことができた。毎木調査では各木の位置や大きさ(幹の太さ)を測定して、森林を横から見た断面図や下から見上げた林冠投影図を描いたりした。また、木の大きさのデータを使って統計解析すると、優占度順位曲線という不思議な数学的パターンを示すことができた。

これらの統計解析とそこから浮かび上がる数学的パターンは、数学好きのおいらにとって衝撃的であった。たまらなく興奮した。生物学と数学が合体した瞬間だった。生物の背後にこんな不思議な数学的法則が隠されていたのか、それも植物という全く無秩序に生きていそうなものに。やばい、面白すぎる。実習を終え、自宅に帰ってからも、もらったデータでさらに独自に解析を進めた。たとえば、優占度順位曲線とは、それぞれの樹種ごとに大きさを合計し、合計値が大きい順に並べていくグラフである。縦軸には合計値を、横軸は左から順に順位1番の種から並べる。するとすると縦軸の合計値と横軸の順位にきれいな直線関係が浮かび上がるのだ(厳密には縦軸を対数にする必要がある)。こうした直線関係があるということが意味するのは、順位2番目の種は1番目の種の合計の50%、3番目は2番目の50%というふうに、ある一定の割合で合計値が減っているということである。不思議すぎる。別に、2番目の種が1番目の50%で、3番目は2番目の40%であっても良さそうだ。ここには、生物特有の生物学的法則が隠されているに違いない。この直線関係は、元村の等比級数則とよばれ、1935年に元村勲によって発見された。

しかし、疑り深いおいらはこれが本当に生物特有の法則なのか疑問に感じたのだ。単に数学的に必然的にできてしまう関係なのではないのか。そこで、生物ではない別のデータを使って同じようにグラフを描いてみた。おいらは、世界の国の面積を大きい順に並べてみた。すると、やっぱり同じような直線関係が見いだせたのだった。おいらは、元村の等比級数則は生物に固有な法則ではないと得意げに結論づけ、実習レポートを提出した。湿原植物のデータ解析も同様に狂ったように解析を進めてレポートにその結果を報告した。ここまでしつこく解析した学生は他にいなかったらしく、べた褒めの評価を頂き、ますますおいらは興奮し有頂天になった。生物学面白いー!植物面白いー!

その後、4年生になり迷うことなく植物生態学の研究室に所属し、幸運にも今に至るまで植物生態学の研究を続けられることになった。あの実習がなかったら、まず植物の世界に行かなかっただろう。生物の世界を数値的に表すことができる、数学的に分析することができる、それはおいらにとって革命的な出来事だった。これまでの人生の中で頭が真っ白になる経験が何度かあったが、これはその一つである。真っ白体験は、自分の世界観を覆し、無限の広がりを持った全く新しい世界を感じるきっかけとなる。自分の無知や視野のせまさに気づくとともに、人はこうして一歩進むのだろうと感じるのであった。

後日談であるが、元村の等比級数則が数学的に必然的に生じてしまう法則なのどうかはその後も気になっていた。やがて数学者となった後輩がいたので、彼に相談して解析してもらったりもしたが、未だその結論は出ていない。