ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

むしろ負はあった方がいい

今、地球上の生物多様性は急速に失われている。生物多様性は、空気や水を浄化したり、食料、衣服、薬など様々な資源を生み出したり、と人類や他の生物に大きな恩恵を与えていると言われる。生物多様性が減少すれば、こうした恩恵を受けられなくなり、さらに多くの生物が絶滅し、ますます生物多様性が失われるという悪循環がおこると予想される。だから、生物多様性は大切であり守っていかなくてはいけない、と今は当たり前のように言われるようになった。

 生物多様性は、生物学者の間では厳密な定義がなされており、広義には「生物上に見られるあらゆる変異」ということができるだろう。つまり、種の多様性はもちろんのこと、一つの種内でも個体ごとに持っている遺伝子が異なること(遺伝的多様性という)や、地域間でそこに生育する生物種の組み合わせが異なること(群集の多様性という)なども生物多様性に含まれる。これらを全てひっくるめた生物多様性の根源的要因はなにかというと、遺伝子の変異となるだろう。種の違いは、個体間で遺伝子の違いが積み重なっていった結果である。種の多様性があることで群集の多様性が生まれる。全ての生物多様性は遺伝子上に生じた変異が元になっていると、生物学的には考えられている。

 では、このブログでテーマとなっている障害は、人類という種の中で見られる生物多様性の一部であると見なせるのだろうか。障害の種類によっては遺伝的変異が関与していることもあるが、事故などで手足を失ったなどの障害は遺伝子が原因ではないことが明らかだし、おいらのもつ先天性心疾患も遺伝的変異が原因とは特定されていない。となれば、生物学上の定義からすると遺伝的変異に起因しない障害は、生物多様性の一部ではなく、あくまで生きているうちに生じてしまったエラーみたいなものなのだろうか。実際、医療技術のない人間以外の生物種では、障害を持った個体は生存に極めて不利になり、子孫を残す前に死に絶えてしまうことがほとんどであろう。つまり、その生物種の進化には何も寄与しない場合がほとんどである。

 おいら自身は、障害は生物多様性の一部だと考えている。しかし、障害を生物多様性の一部とみるのは、現実的にはかなり受け入れがたいだろう。障害は、それを持つ個体にとってもその周囲の個体や社会にとってもデメリットが大きく、冒頭で述べたような生物多様性のメリットを生み出すとはなかなか考えられないからだ。でも、本来生物多様性とはそうしたメリット、デメリットとは関係のない概念なはずである。あくまで生物多様性が大切だとする根拠や守る意義として、研究者などがメリットを強調しているだけである。むしろ、メリットやデメリットとは関係なく生物多様性はその存在自体に意義がある、と考えるのが理想的ではないだろうか。皮肉な例だが、生物多様性が大切だと声高々に主張する研究者ほど、生物多様性は大切でないという意見には耳を貸さない。こうした意見の違いもまた生物多様性の一部とは考えられないだろうか。

 障害に対する負のイメージは大きい。障害という言葉自体に負の意味があり、負のイメージを持っていない人はいないだろう。負はできるだけない方がいいというのが自然な感情であり、負の存在を受け入れることは容易ではない。真に障害に対する差別や偏見がなくなるためには、メリットデメリットやプラスやマイナスとは関係なく、その存在を受け入れることができる悟りのような境地に達しないといけないのかもしれない。その道のりはとてつもなく険しく感じられるが、負はない方がいいという前提を取り払うことができれば、その道のりは一歩前進するかもしれない。だから、むしろ負はあった方がいいのだ、みんなたくさん負を持とう。今日のおいらの負は、間違って他人の歯ブラシを使ってしまったことである。