ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

いつの時代にも必ずある幸せ

このブログもずいぶんと堅苦しい真面目な内容ばかりになってしまった。当初はもっとふざけた軽い内容を書いていくつもりだったが、病気のこととなるとどうもそううまく書けないらしい。そんなわけで、今日はふざけた内容を書きたいと思ったのだが、いざとなるなかなかアイデアが思いつかない。

 実は、学生のころ日誌代わりにふざけたブログを書いていたことがある。お手本にしようと、久しぶりにそのときの記事を見直し見たら、ふざけているを超えてひどい内容だった。たとえば、お酒と題したある日の記事は「お酒を飲んで気持ちよくなり楽しいですが、今日何をしてきたかあまり思い出せません。餃子を食べた気がします。まあ満足したということで、お酒に感謝。」とあった。他人からすれば全くどうでもいい内容であり、堕落した生活を表明しているだけである。さらには、その堕落した生活をどこか自慢しているような感があり、うっとおしい。

 このおふざけブログを書いていた頃は、これまで何度か書いているおいらの黄金時代だった。体調はとてもよくて健常者と変わらない生活ができた。好きなものを好きなだけ飲み食いし、夜更かしもし生活リズムも不規則だった。それでも体調を崩すことはほとんどなかった。今のおいらからすれば、とてもうらやましい生活に感じる。しかし、その恵まれた丈夫な体を当時は当たり前に感じ、いたわることをしなかった。それは今では二度と取り戻せない健康体だった。

 でも、今の方が不幸かというとそうは感じていない。というか、幸せという意味では今も昔も変わらないと思っている。健康体のときには健康体の幸せがあり、今の体にはそれにあった幸せがある。幸せを感じる種類や対象が変わったのである。ほんとかな。強がっているだけじゃないの。そう自問しても、過去に戻りたいという気もない。

 確かに昔はなんでもできた。生物学者としていつか第一線で活躍するんだと、華やかな未来も夢見ていた。でも心の奥底では実はそうした華やかな未来は訪れないこと、自分には限界があることを薄々感じていた。その恐怖を忘れるために、ふざけた怠惰な生活をし、若者らしく息巻いていたのかもしれない。そして、今自分には厳しい限界があることをはっきり自覚した。第一線どころか生物学者としての人生も断たれようとしていた。体も無理が利かず、いつ再び入院し、次は本当に生きて退院できない可能性が高いことも感じている。子供が成人になるまで生きられない可能性も極めて大きい。ある意味で諦めの境地に達したような気持ちになった。でもそのおかげで、若者のときに日々感じていた恐怖がなくなって楽になった。日々の些細なことに幸せを見いだすようになった。たとえば、今日も紅茶を飲み至福の一時を楽しんだ。

 この先どんな人生がくるのかはわからない。奇跡的に回復しまた黄金時代になれるようになるかもしれないし、覚悟した通り徐々に弱っていくかもしれない。でもそれぞれにはそれぞれの楽しみがあり幸せがあるのだ。そう思うとどんな人生になろうともう怖くない。

 何のオチもないつまらない内容になってしまったな。でも、昔の自分風に言えば「ブログを書いて気持ちよくなり楽しいですが、何を書いたかあまり思い出せません。まあ満足したということで、ブログに感謝。」