ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

チキンレース

 おいらの体には致死性の病気がいくつも潜んでいる。まず本家の心臓は、不整脈などによる急性心不全で突然死する可能性がある。そうでなくても心機能が年々低下し心不全になるのは避けられない。それから先日切除した大腸ポリープは異常な数と増殖速度だったので、今後再発し続けいつかがん化する不安もある。肝臓は、C型肝炎とフォンタン術の合併症により肝硬変になっており、やがて肝がんになる可能性が高い。蛋白漏出性胃腸症は、すでに何度も紹介したように死亡率の高い症状である。また、ワーファリンを飲んでいるものの人工血管を入れているので血栓のリスクもある。それらが脳や心臓の血管につまれば、脳梗塞心筋梗塞になりうる。

 菌やウイルスが病原の感染症は、その毒性が低下する方向に進化する傾向がある。あまりに毒性が強く宿主(感染される側)の致死率が高いと、次の宿主に感染する前に宿主が死んでしまい、病原体が増殖できないからだ。病原体にとっては宿主を生かしたままの方が都合が良い。極めて致死率の高い感染症は、一気に蔓延しても宿主集団が全滅して途絶えてしまう場合がある。だから、病原菌の中に毒性の低い変異体が現れるとその変異体が広がっていく(ただし人間とネズミなど複数の種を宿主にする場合は話が複雑になる)。

 同じようなことが遺伝性の病気でも当てはまる。子供の間に死んでしまうような致死率の高い遺伝病は、その遺伝子を次世代に繋げることができず、淘汰されていく。そのため遺伝病には繁殖期を過ぎた頃に発病するものもある。あるいは発病しても繁殖期まで生存できる程度の病気だったりする。ただし、致死性の遺伝病が全くないわけではない。むしろその多くは、劣性遺伝で潜んでいる。劣性遺伝の場合は、その遺伝病を発症する対立遺伝子が2つ揃わないと(これを遺伝学用語でホモ接合と呼ぶ)、発現しない。2つの対立遺伝子のうちどちらかが遺伝病を発症しない正常タイプだと(これをヘテロ接合と呼ぶ)そちらの方が優勢になって、病気が発現しないのだ。当然ながら、2つの対立遺伝子がどちらも正常タイプの場合も発症しない(これもホモ接合)。全く同じ致死性の遺伝子を持っている人はそう多くはないので、それらの人がカップルになって子供を作ることはなかなかない。仮に子供を作っても、それぞれの親から致死性遺伝子を引き継ぐ必要があり、それは4分の1の確率でしか起こらない。だから、致死遺伝子がホモ接合することは滅多になく、人の集団の中で密かに遺伝していくのである。

 おいらの病気は、C型肝炎を除いては、どれも病原体による感染症でもなく、遺伝病でもない。だから上記のような理屈は当てはまらないのだが、もしそれぞれの病気に意思があるとすれば、彼らはおいらをギリギリまで痛めつけこそすれ、殺すまではできないはずだ。殺せば病気自身も死んでしまうからである。では、誰が死のリセットボタンを押すのだろうか。

 それぞれの病気の死亡リスクはわからない。おいら個人としては最後は心臓を原因にしたくない気持ちもあるが、心不全が一番穏やかな死を迎えられそうな気がする。ガンなどはその前の苦しみや痛みが大きいだろう。やっぱり、心臓病を持って生きた人生なのだから、最後も心臓が原因で死ぬのがおいららしい人生かもしれない。心臓君には重い責任を追わせてしまうが、死のリセットボタンは君が押してくれ。おいらは君なら許せるし本望だよ。