ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

強がる心、弱い心臓

先日、数年ぶりに旧友から連絡が届いた。おいらが黄金期だった時の友人だ。おいらが今南の島で住んでいることを伝えると、旅行がてら行ってみようかと話してきた。が、おいらは、おいらに会ってもつまらないから来なくていいと言ってしまった。本当は会いたい気持ちもあった。しかし一方で、今のおいらの姿を見られるのがいやでもあった。旧友は黄金期の元気な時のおいらの姿しか知らない。もちろん病気のことは話してはあるが、実際会えば変わり果てた姿に少なからず驚くだろう。腰や背中が曲がり、手足は痩せ細り、むくんで丸くなった顔。階段や坂は、一歩一歩やっとの思いで登り、ちょっとしたことで息切れして疲れてしまう。会えば、いやでも哀れみや同情の気持ちが湧いてしまうことであろう。

 旧友を悲しませるのは嫌だし、同情されたくもなかった。対等な関係でいたかった。そうなるなら、嫌われたり呆れられても良いから、強がって突っぱねた方がよいと思った。それに、会えばどうしても病気のことを色々話してしまうだろう。それが、ここ数年のおいらの最大の出来事であり、人生の大部分を占めるからだ。最近はどんな調子か、何をやってるか、どんな出来事があったのか、などの近況報告をしようとすれば、全て病気につながっていく。今や病気はおいらそのものなのだ。それを聞いた人はどんな気持ちになるだろうか。おいらが笑い話として話せば、その場は笑ってくれるかもしれないが、あとで切ない気持ちになるだろう。

 でも本当は、先天性心疾患というものをより多くの人に伝えたい気持ちがある。それは先天性心疾患は病気であると同時に、その人の個性でもあることを証明したいからだ。先天性心疾患を持って生まれることで、その人の運命は健常者とは違う道に方向づけられる。入院や手術など普通なら滅多に経験しないことを数多く経験し、その経験がその人の個性を形作るのだ。おいらから先天性心疾患がなくなれば、それはもう完全に別の人間である。先天性心疾患はおいらにとっての土俵である。その土俵の上で、どう生きるかが、おいらの勝負なのである。

 個性と思うなら、堂々と自信を持って旧友に会えばいいはずだ。旧友なら、哀れむことなく個性として理解してくれるかもしれない。だけど、自分が最も得意な土俵の上で旧友と組んでもなんだか負けそうな気がして、怖気づいてしまったのだった。じゃあ、負けないってなんなんだ。それはおそらく、真に悲観的にならずに先天性心疾患を伝えられることである。