ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

デリケートな多様性

今日書く話は、触れないでおくのが無難な非常にデリケートな話題である。そう、おいらの住んでいる南の島で、今週末、米軍基地建設の是非を問う住民投票が実施される。この島に長年根づく非常に重いテーマであり、おいらだけでなくおいらの周囲の人も皆ナーバスになっている。島の外に住む方には意外かもしれないが、島の人々の考えは必ずしも一枚岩ではない。皆、すごく悩んでいる。悩んでいるというよりも、困っているという方が正しいかもしれない。

 曖昧な表現が続いてしまって申し訳ない。せめて、少しでもスッキリしていただけるよう、おいら自身の考えをなるべく明確にお伝えしたい。おいらは、多様性をこよなく大事にしたいと思っている。だから、基地建設で生物多様性が失われることはやはり反対である。でもおいらが大切に思うのは、生物多様性だけではない。生き方の多様性、文化の多様性、主義・思想の多様性といった人間社会の多様性も大事に思う。そう思うようになったのは、生物多様性を研究していることも大きいが、やはり自分が障害を持っていることも少なからず関係する。おいらは、障害を持つ生き方は、多様な人間の生き方の一つであると考えている。そして、願わくはその生き方を社会に認めてほしい気持ちがある。しかし、そんなのは理想であり、障害を持つことはネガティブに思われるのが現実かもしれない。障害を持つ生き方は、確かに辛く苦しく痛いことの連続である。でもその分わずかな喜びでもひと際大きく感じることができる。苦しいからといって、不幸なわけではない。

 今回の投票は反対、賛成、どちらでもないの3択があり、もちろんどれを投票しても良い。しかし、実際は一つに投票することが暗黙の了解という雰囲気が漂ってしまっている。島の人々が困っているのはその点である。だからこの投票によって、思想の多様性がないがしろにされることが正直悲しい。生物多様性に関して言えば、多様性は創造するのには長い年月が必要だが、壊れて失うのはいとも簡単である。きっと人間社会における多様性も同じであろう。

 自分の考えと異なる投票結果が出ようと、それは自分が社会から否定されたことにはならない。単に多数派ではなかったというだけだ。逆に多数派の意見と同じだったとしても、自分が正しいと保証されたわけではない。多数派であろうと少数派であろうと気にせず、ある意味気楽に堂々と人々が投票できたらいいなと思う。

 人々の重苦しい気分を天が察したのか、このところどんよりした天気が続いている。時には、泣きはらしたかのように、土砂降りの雨が通り過ぎていった。そんなことには一切お構いなく、イソヒヨドリは今日も美しい鳴き声を奏で自らの生き方を謳歌していた。