ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

崩壊後の時代

平成元年、おいらは最初のフォンタン手術を受けた。術後は、動脈と静脈が綺麗に分けられ、酸素をたっぷり含んだ動脈血が全身にくまなく行き渡るようになった。溢れるほどの酸素に、体は最初戸惑いを隠せず拒絶的反応すら見せた。だがやがて、その豊富な酸素を後ろ盾に細胞が活気付き、これまでは抑えていた機能を発揮するようになった。時には走り山を登り、灼熱の炎天下を何時間も耐え、重たい荷物を担いで都心の人混みの中を何キロも歩くことさえできた。臓器たちも疲れを知らず働いた。消化管はどんな食べ物を好きなだけ食べても見事に分解し、利尿剤など飲まなくとも腎臓は尿を効率的に排出し、肝臓はアルコールだろうがなんだろうが解毒した。脳は冴え渡り、難解な方程式をスラスラと解き、集中すると食事も忘れ一日中研究に没頭することも稀ではなかった。おいらにとって平成は、革命的な循環器系を得て生き方が一変した時代だった。

 それから四半世紀が過ぎ平成が晩年に近づく頃、おいらの循環器系は崩壊した。不整脈が発生し、全身に血液を思うように送り出せなくなった。一度潤沢な酸素を経験した体は不満が収まらず、臓器は機能不全を起こすようになった。特に腎臓肝臓消化管といった血液を大量に消費する器官は深刻な血液不足に陥り、フォンタン術後症候群と呼ばれる一連の合併症を発症した。フォンタン手術によって、全身の細胞に酸素を充分に供給できるようになったことは、まさに画期的であり革命的である。しかしそのシステムは完璧ではなく、崩壊するリスクを含んでいた。そして一度崩壊すると、そのシステムにどっぷり依存した体は耐えられず、酸素が少なかった前時代よりも体調が不安定になってしまった。

 これはおいら個人の体験に過ぎないが、平成をよりグローバルな視点で見ても似たような傾向が見て取れる。平成はIT革命の時代であり、それにより世界中の人々の生き方が一変した。それ以前は、本や新聞や直接体験したことなど、限られた範囲からしか情報を得ることができなかった。インターネットによって、誰でも簡単にあらゆる情報を得ることができるようになった。溢れる情報に人々は戸惑いつつも、今では生活の多くをネットに依存し何をするにもネットから情報を引き出すようになった。より美味しいもの、より面白く刺激的な体験を検索し、実際体験できるようになった。

 ネットシステムも、おいらの循環器系のように崩壊する時がくるのかはわからない。ネットには心臓のような中枢器官がない。しかしもしネット社会の崩壊が訪れたとしても、おいらのちっぽけな体験から言えることは、それでも生きていける希望があるということだ。もっと言えば、崩壊後の世界も生き方が変わるだけで、そこには別の幸せや楽しみがあるのだ。今は人並みに動くことができなくなり、好きに飲食をできなくなったが、毎日飲む一杯の紅茶にも幸せを感じられるようになった。明日からの新年号時代でおいらは最期を迎えるだろう。最期の瞬間も幸せを感じられる時代であってほしい。