ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

消滅の恐怖

20年近く前に読んだプリーモ・レーヴィの『アウシュヴィッツは終わらない―あるイタリア人生存者の考察』という本が、あまりに衝撃的で今でも記憶に残っている。著者は、本のタイトルの通り第二次世界大戦時のアウシュビッツ強制収容所を生き延び、その体験を事細かく正確に描写した。収容所内での残虐な行為も恐ろしかったが、人間性が徹底的に破壊されていくプロセスが何より恐ろしかった。特に印象深く今でも心に刺さっていることは、「人間にとって最も恐ろしいことは、自分自身のすべての存在・痕跡・記録を抹消されることである」というような言葉だった。すなわち、自分が死ぬだけでなく、自分のことを記憶しているすべての家族・友人・知人、自分が生きていた証、歴史、自分のすべての所有物を一切痕跡なく消されるということである。つまり、それはこの地球上の歴史の中で、自分が存在したことを証明できるものが一切なくなることなのだ。

 現代社会において、そこまで一人の人間を抹消することは極めて難しい。まず、子孫を残すという面においても、包括適応度という生物学理論にあるように、何らかの経路で自分の遺伝子が残る可能性が極めて高い。例えば、自分自身が子供を残さなくても、兄弟や従兄弟あるいはもっと遠い親戚が子孫を残していれば、ある程度自分と同じ遺伝子が受け継がれていくことになる。それに記憶や痕跡は、学校の友人や職場や近所の知人など様々な人々が自分の存在を認識しているであろう。あらゆる人間から隔絶した生き方をすることは、極めて困難である。

 とはいえ、レーヴィが言う自分の存在全てが消滅する恐怖は、現代を生きる人々にも少なからずあるような気がしてしまう。SNSを通じて自分の行動や体験を熱心に発信して他人と共有しようとしたり、友人や家族と毎日メールしたりするのは、消滅の恐怖から逃れようとする気持ちの表れかもしれない。あるいは、恋人や友人や家族がいないことに過剰なほど絶望的な気持ちになるのも恐怖を感じているのかもしれない。人間以外の生物にも、そうした孤独や消滅の恐怖を感じるものがいるのかはわからないが、人間ほどその恐怖に敏感な生物はいないであろう。

 先日凄まじい殺人事件が起き、未だ社会の動揺が収まらない。一切の同情の余地がない犯人に対し、少しでも擁護するような意見を言えば強い批判を受けるので慎重な言葉選びが必要であるが、この犯人も消滅の恐怖に怯えていたのかもしれないと思いもした。その反動で、自分の存在が記憶に残る究極の手段として無差別殺人を使ったとすれば、あまりにも虚しい。

 正直に言うと、おいら自身も、自分がちっぽけな存在で誰からも必要とされず自分の存在は無意味ではないか、と絶望的な気分になる時がときどきある。おいらには家族がいて働く場所もあるのに、なんて甘ったれなやつだと思われるだろう。おいらが絶望を感じたときは、心臓の音に耳を傾ける。弱々しく雑音も混ざったその音には、これまでおいらが関わった人々の想いがつまっており、おいらの人々への想いもこもっている。心臓は決して甘ったれることなく、自分の存在を証明し続けてくれている。