ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

青い夢

二ヶ月前、地獄を味わった穴場ビーチに再び赴いた。一年中暖かい南の島とはいえ、9月に入ると秋の気配が少しずつ増していっていた。空の色は、まばゆい白から澄んだ青に変わり、雲は高く分厚くそびえ立つ入道雲から薄く柔らかい形に変わっていた。日差しは強かったが風は涼しく、じっとしてても汗ばむほどの気候ではなかった。だから、おそらく今回が今年の海納めとなると予感した。そしてまた、これがおいらにとってこの島で泳ぐ最後の海になるのだろうかと、感傷的な気分に浸りながら車を走らせた。

 この半月ほど、おいらは新しい職に応募するかずっと悩んでいた。その職は、おいらの専門分野にドンピシャとはまった大学研究職だった。近年そんなぴったりとはまる職が募集されることは、極めて珍しかった。だから公募が出された時は、これしかない、絶対応募しようと思ったのだが、後で詳しい事情を知る方から話を聞くと、実はすでに内々に採用予定者が決まっている公募らしかった。いわゆる出来レースというやつである。それを聞いたあとは、すっかり意気消沈してしまい、一度は応募を諦めかけた。しかしどうにも心がもやもやと晴れなかった。たとえどんなに可能性が低くても、応募しなかったら可能性はゼロだ。それにこれを諦めたら、おいらの研究職になる夢自体も諦めたことになるような気がした。

 応募を悩む理由は出来レースだけではなかった。採用後、着任までの時期が短いのも大きなネックとなった(そのことが出来レースではないかと疑うきっかけでもあった)。引越しの準備や今の業務の引き継ぎや病院の手続きなどの諸々の準備を、その短期間に終わらせるのは、とてもじゃないができそうになかった。それに、もし急に辞めるとなったら職場の方々に対し心苦しかった。今の職場は、おいらの病気のこともすごく気を使ってくれて、今まで経験したことがないほど、なぜだかおいらのことを頼りにしてくれていた。職場の方々の信頼と優しさを決して裏切りたくはなかった。それに、おいらが夢と思って追い求めた研究職も実際は厳しく、体力的にも精神的にも続けられないかもしれない不安もあった。現実的に考えれば、今の職にとどまるのが最も安全で快適なのは間違いなかった。

 結論が得られないまま、穴場ビーチに着いた。この日は大潮の干潮で浜は干上がり、風が強く波が立ち水が濁っており、泳げそうなところが少なかった。一方幸運なことにおいらの体調はとても穏やかだった。不整脈はここしばらく起きておらず、水分コントロールも順調でむくみも無く、関節や膝の痛みもだいぶ治まっていた。そのため前回のようにシュノーケリングをしても苦しくはならなかったが、濁った水の中は何も見えなかった。おいらは澄んだ水の中を群れをなして泳ぐ魚を見たかった。海の中に広がる感動的な夢の世界。その世界は、おいらが長年願った研究職の夢を具現化したものに思えた。

 かなり沖に海の色が青に変わり急激に深くなっているところが見えた。おそらくサンゴ礁のリーフエッジであろう。あそこまで行けば夢を見れるはずだと思い、おいらは恐る恐るエッジに近づいていった。幸い干潮のため、エッジの2,3m手前まで言っても水深は1mほどしかなかった。あと数歩でエッジに到達するというところで、おいらは急に怖くなってきた。陸にいる時はあんなに美しく見えた青い海が、いざ近づくとおいらを死へと引きづり込む入口のように思えてきた。実際もし淵まで行ったら、急激に潮の流れが変わっていて、沖へ流されてしまう危険もあるかもしれないのだ。危険な誘惑から、おいらを引き戻してくれたのは息子だった。ふと振り返ると、遠くから心配そうにおいらを見つめている息子の顔が見えた。そうだ、おいらにはかけがいのない家族がいる。愚かな夢を追って死を早めてはいけないのだ。そう思うと、自然と息子の方に向かって進んでいった。

 帰りの車の中で、息子にふと島での生活について問いかけてみた。息子は島の生活がとても気に入っており、ずっと暮らしていきたいようだった。それを聞いてようやく決心がついた。おいらたちはこの島で生きていくのだ。少なくても今は去る時ではない。おいらが職場での役割を終え、息子もまた新しい世界を夢見たとき、自然と羽ばたいていけるだろう。その時は、勇気を出して息子とともに青い海の中を覗きに行くのだ。