ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

生きる姿

先月の台風15号に続いて、再び巨大台風が関東圏に向かっている。特に甚大な被害が出て、今なおその傷が癒えていない千葉県は極めて危険な状況にあり、胸騒ぎがしてしまう。どうか何事もなく無事過ぎてほしい。せめておいらの方に向かってくれないかな。まったく無責任で、島に住む人にはあまりに失礼な願いだけど、そう願わずにはいられない恩が千葉にはある。

 子供の頃、東京の下町で育ったおいらにとって、隣の千葉県もまた思い出深いところだった。父親が千葉を大好きなこともあり、よく遊びに連れて行ってくれた。朝早くから釣りに行き、木更津沖の防波堤に渡し船に乗って渡り、クロダイなどの大物を狙ったりしていた。時にはさらに遠征し、館山の美しい砂浜で30cmクラスの巨大シロギスを釣ったりもした。また春先には、春探しと称して野山に行き、草木の芽生えや虫たちを探して遊んだ。夏には、真夜中に佐倉方面に車を飛ばし、街灯に集まったカブトムシ採りをした。水田の水路でドジョウやザリガニを捕まえて、家の水槽で飼ったりもした。多くの生物に触れ、生命の面白さに子供ながらに感動していた。

 一方でそうした体験は、生命の厳しさ残酷さを目の当たりにする機会にもなった。時に、捕まえたり飼育していた虫や魚たちが簡単に死んだ。生きているときには輝きを放っていた生命が、死んでしまうと色も褪せ、硬くなったあとボロボロに崩れ、無機質な物体になってしまう。同じ物質でできているはずなのに、生きている時と死んだ時では全く別の物体に見える。とても不思議に感じ、生命とはなんなのかという疑問が心の奥底に深く刻まれた。おいらが生物学の研究者を志したのは、そうした千葉での体験が根源にあるのは間違いなかった。

 そしてまた、生命の死を見たことで、生きることに無限大な執着を示す様を目の当たりにした。全ての生物は最期まで生きることを諦めなかった。どんなに絶望的な状況でも生きようと必死にもがいた。釣った魚は口が破け内臓が飛び出ようが、釣られまいと暴れ続けた。釣りの餌のゴカイも、身体が半分にちぎられても噛みついて抵抗した。野で捕まえたバッタは口から黄色い液を吐きながら足をばたつかせ、芋虫はのたうち回り、植物でさえ鋭い葉でおいらの手を切りつけてきた。生への貪欲な姿は、決して恥じることでもみっともないことでもない。生物として生まれた以上、本質的な姿なのだ。そうした生物たちの姿は、おいらの生きる支えとなった。どんなに重い病気を持っていようが、諦めずに生きればいいのだと思えるようになった。

 おいらにとって千葉は、生物の美しさ、残酷さ、貪欲さといった多様な側面を学ぶことができた最初の舞台なのである。差し迫る台風の脅威には何にも役立たないけれど、千葉で芽生えた生物への好奇心は、ずっと絶やさず大切に育んでいきたい。何より台風に遭遇する方々の命がご無事であることを、心よりお祈りします。