ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

疲れない生き方は、むしろ疲れる。

先天性心疾患の性質上、おいらは物心つく前から無意識のうちに、なるべく疲れないように人付き合いを避けて生きてきたようなところがある。幼い頃は、大勢の友達とわあわあ騒いで遊ぶより、一人か二人の友達とひっそりと遊ぶ方が好きだった。たまに加減を忘れて友達とはしゃいで遊んでしまうと、後で必ず凄まじい息苦しさと頭痛で、ぐったりと倒れ込んでしまうのだった。

 子供の頃のそうした経験から、成人してからも友人との無理な付き合いを避けるようになっていった。心臓の調子が最も良かった20代の黄金期ですら、友人と徹夜して話し込んだり、家に誰かを泊めることはなるべく避けてきた。夜一人でゆっくり休めないと次の日だいたい頭が痛くなって体調を崩すのだった。

 そんなわけで、人付き合いが年々億劫になり、大学を卒業してからは友人関係がばったりと切れていった。年賀状のやりとりですら疲れるようになり、自分から送る人もいなくなった。でもそれは、疲れない生き方を実践する上でやむを得ないことでもあり、実際とても楽だった。他人のペースに合わせて行動するのは、おいらにはかなり疲れることなのだ。このブログで本名を明かさず、匿名にしているのもそうした理由もある。名前を明かせば誰かから連絡がくる可能性があり、それはおいらにとってとても疲れることなのだ。

 だからおいらの人付き合いは、今は職場以外ではほぼ家族だけしかいない。その家族も最近はそれぞれやりたいことを別々にやるようになり、家族揃ってお出かけしたり何かすることはほとんどなくなった。おいらは一人趣味もなく会う人もおらず、休日はずっと家にこもっていることが多くなった。せいぜい、近所のスーパーなどに一人で買い出しに出かけたり、ショッピングモールをぶらぶらする程度しかしない。そんな話を人にすると、なんて贅沢な時間なのだと羨ましがられる。多くの人は休日であっても、子供の行事や、ママ友や親戚やご近所との付き合い、親の介護などともかく忙しいようである。おいらにはそうした人付き合いが何一つない。それは肉体的には疲れないし気疲れしなくて済むが、休日の終わりには必ず凄まじい虚しさと心の痛みで、ぐったりしてしまうのだった。

 疲れない生き方を目指し、人付き合いを極端に避けた結果、おいらの今の生き方は虚しさで疲弊しきっている。昨晩は、水に溺れたかのように息苦しくて夜中に目が覚めた。しばらく座って深呼吸したら少し楽になったものの、いつかそのまま死ぬのではなないかと不安になった。では、真に疲れない生き方とはどうすればいいのだろうか。心臓が穏やかになっていく人付き合いがあればいい。でもそんなものはこの世にはないのだ。人付き合いをすれば必ず時にぶつかり、すれ違い、一方的になり、重くなる。決して自分の都合のいい関係だけを保てる訳ではない。それはただの自分勝手であり自己中でしかない。だから、真に疲れない生き方を実現するためには、疲れることを避けてはいけないのかもしれない。