ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

泣く勇気:心室細動入院後編

ICUに移ってから、当初の2日間の滞在という説明とは異なり3日目に突入していた。ICUでの生活は、気が狂いそうなほど口が乾き、鼠蹊部に刺さったシースのためにほとんど身動きが取れず、騒音と光で一睡もできない状況を耐え続けなければいけなかった。あまりに辛いため、担当の看護師に今日中に一般病棟に移れないものかと懇願した。しかし、医者の判断が遅れたためさらにもう1日滞在が延びることになりそうだった。

 おいらはICUのベッドの上で放心状態になりかけながら、天井を見つめこれまでの過程を思い返した。そして、いくつもの点に疑念がふつふつと沸き立ってきた。心室細動が起こることは事前の血液検査で十分予見できたのではないか。カテーテル検査中でも予兆となる心臓発作が起こっており、重篤な状況になる前に検査を止めるなどの判断ができたのではないか。右足鼠蹊部に無駄なシースを刺したことも事前にエコー検査していれば回避できたはずだ。そもそも心室細動が起こらなければ、鼠蹊部にシースを刺すことも、そしてICUに滞在する必要すらなかったのだ。それどころか、医者たちはそんなおいらの苦しみに全く意を介さず、さらに大掛かりな開胸手術の可能性をあれこれと議論し始めている。このままだらだらと不手際の多い治療を続けたまま開胸手術へと突入すれば、おいらはとてもじゃないが乗り越えることはできそうになかった。もう我慢の限界だった。おいらは怒りと絶望で涙を流し続けながら医者との闘いを決意した。

 担当の看護師さんがおいらの異変に気付いた。大丈夫ですかと声をかけられたが、おいらは答えられずただ頭を横に振るしかできなかった。深呼吸を繰り返してなんとか声を出せるようになると、「もういやだ。何もしなくていいのでICUから出たい。」と伝えた。その間も涙を流し続け、興奮と過呼吸で目の周りがしびれ始め、意識を失いそうになった。看護師は慌てて担当の医者たちに連絡を取ったが、誰一人繋がらなかった。医者に無視されているような気がして、おいらの怒りはますます増幅した。ようやく気持ちを落ち着かせて看護師さんにおいらの疑念を説明し、医者と話をさせてもらえるようにお願いした。

 その日の担当の看護師さんはものすごく親切な方だった。その看護師さんがいたからこそ、おいらは勇気を出して医者との闘いを決意できたように思う。この人だったらおいらの苦しみをわかってくれるだろう、決して無視したり流したりしないだろうと思えた。案の定、その看護師さんはなんとか一般病棟に戻れるように手配してくれて、おいらのそばを離れず励まし続けてくれた。その優しさに一度は止まりかけた涙が再び滲み出した。

 夕方一般病棟に戻った。4人部屋だったが、個別にカーテンで仕切られてプライバシーが確保されており、とても静かだった。助かったという深い安堵の気持ちからまた涙が溢れ頬を静かにつたった。しばらくして担当の医者がやってきて、面談が始まった。本来ならICUの看護師さんは一般病棟に移った段階で引き継がれるはずだが、おいらがお願いしたためその面談の場まで立ち会ってくれた。とても心強かった。面談は一般病棟の看護師さんも加わり、4名での面談となった。おいらはできるだけ感情的にならないよう、おいらの疑念について一つずつ丁寧に説明した。感情的になって論理性を失えば、医者はまともに聞いてくれないと思ったからだ。それに医者を攻撃することは目的ではなかった。おいらが何に疑念を持っているのか、そして今後どうして欲しいのかをわかって欲しかった。

 おいらは上記の疑念を伝えたのち、開胸手術などの今後の治療方針を検討せずできるだけ早く退院できることを最優先にして欲しいこと、担当医師を変えて欲しいことを願い出た。前者は受け入れられ、後者は病院や医師の都合もあり受け入れられなかった。そして最後に最も伝えたいことを話した。それは、おいらがその医者を自分の命を預けられるほど心から信頼できないことだった。今後、開胸手術のような命を賭けた闘いに挑むなら、なおさら信頼できる医師でなくてはならない。誰でもいいわけでは全くないのだ。たとえ病院の施設が整っていようとも、技術的には優れていようとも、おいら自身が信頼できなければ命を預けることはできない。それだけは譲れないことだった。

 おいらは当初医者が腹を立て、治療を放棄するのではないかと覚悟したが、医者も感情的にならずおいらの伝えたいことを理解してくれた。結果的に、この面談後はおいらと医者との心の距離が近づいたように感じる。医者からおいらが勇気を出して直接説明したことを感謝された。おいらもまた、面談後もおいらを避けたり嫌悪感を示したりせずに治療を続けてくれたことが嬉しかった。命を預けられるかは別として、その医者を信頼できるようになった。

 面談が終わり、気持ちが落ち着いた後、妻にことの顛末をメールで説明した。手術を拒否したり、医者を批判するなんて、呆れられるのではないかと不安だったが、妻は全面的に理解をしてくれた。そして、おいらが自分で決心したのなら、本当に信頼の置ける医者に手術をお願いしたらいいよと言ってくれた。その日最後の涙が溢れ出し、これまであった苦しみを洗い流してくれた。

 

  前編後編で終えるつもりだったが、心室細動に至った原因や心房細動が頻発した原因、そして今後の治療方針についての説明を書けなかったため、次回書き記しておこう。