ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

クリームシチューの進化学

我が家では、中1の息子の定番料理となったクリームシチュー。前回作ってから約2ヶ月が経ち、再び作ってもらった。息子のクリームシチューが登場するのは、大体おいらの疲れが溜まっていて寒い日である。この数日もその条件に当てはまり、南の島にしては最高気温が20度を切って肌寒く、おいらは寒さと疲れであまり体が動かなくなっていた。作るときは、カレー同様に土鍋いっぱいに作り、作った当日と翌日の晩御飯まで持つようにする。おかげでおいらは、丸二日間はゆっくり体を休ませることができる。我が家にとってクリームシチューは、息子の定番料理というだけでなく、親に休息を与えるご褒美のような食べ物なのだ。

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 ところで、従来のクリームシチューのイメージは、冬の寒い日に家族揃って食べ、体も心もほっこりと温まる代表的な家庭料理である。あまりに家庭料理のイメージが強すぎるのか、外食で食べることはほとんどない。実際には、日持ちしない、作りたてが美味しい、煮込みすぎると色合いが悪くなる、といった外食には向かない技術的な要因もあるようだ。では家でならそれなりに食べるかというと、やはり上記のイメージが強すぎるのか、よほどクリームシチュー好きな人でなければ、一人暮らしの人が作って食べたり、暑い夏の日に作ることはまれそうだ。おいらも一人暮らしをしていた時は、カレーは度々作ったが、シチューを作った記憶がない。

 生物は、あまりに限定された環境に適応した性質を進化させると、その性質が仇となってその生物種の絶滅リスクを高めてしまう場合がある。例えば、ある特定の食べ物しか食べない種は、その食べ物がなくなると絶滅しかねない。反対に色々な種類の食べ物を食べている種は、食べ物の一つがなくなっても他を食べれば良いので絶滅しにくい(*1)。家族団欒のイメージがどっぷりと染み込んだクリームシチューもまた、その限定されたイメージゆえに現在絶滅の危機に瀕している可能性がある。

 現代社会を悩ます深刻な気候変動のように、家庭環境もこの数十年で大きく変動した。現在の家庭は、核家族化が進み、両親は共働きで、兄弟姉妹も少なく、磯野家のように家族が揃って食卓を囲む機会は激減している。そのような家庭では、片親が子供と食事をするか、家族全員がバラバラの時間に食事をとることすら珍しくないであろう。そうした食環境の中で、家族団欒のスペシャリストとして適応したクリームシチューに、もはや出番はない。クリームシチューは、日本の食卓からひっそりと失われていく運命が迫っているのだ。

 だが、全国1000万人のクリームシチュー好きの皆さん。安心してほしい。おいらと息子はクリームシチューに新しい活路を見出したのだ。そう、最初に書いたように子供の定番料理にすることだ。それにより、クリームシチューは家族団欒のイメージから脱却し、親の休息という現代社会で最も求められている状況に適応できるのだ。子供が作るなら、あえてクリームシチューでなくても、似たようなカレーでもいいんじゃないかと思った方もいるだろう。だがカレーはクリームシチューには絶対に勝てない。カレーは国民食としてあまりに日本社会に浸透した結果、調理法やルーの味、見た目、風味などが多種多様に分化した。もはや子供でも作れる気軽な料理ではなくなったのだ。それに対し、クリームシチューは材料もルーも調理法もほとんど変化がない。玉ねぎを飴色になるまで炒めたり、肉の種類を変えたり、辛さを変えたり、スパイスを加えたりといった手間や工夫も必要ない。簡単に大量に作れて、そしてたまに食べるとすごく美味しい。この絶妙なバランスが、子供の料理として完璧にフィットするのである(*2)。

 仕事を終えて家に疲れて帰ってきたとき、中学生の息子がクリームシチューを作って待っていてくれた時の幸福感は、筆舌に尽くしがたい。クリームシチューは、疲弊する現代の日本社会において、束の間だがかけがえのない安らぎを与えてくれる料理として進化する可能性を秘めているのだ。

 

*1 実際には餌資源が特殊化している種は、他の種が利用できないような餌資源(毒のあるものなど)を利用している場合が多く、その場合他種との餌をめぐる競争が起こらないので、非常に有利にもなる。

*2 さらに言えば、クリームシチューは外食で食べないため、プロがつくる味と比較することがなく、多少下手に作ったとしても、美味しく感じられるのだ。