ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

父の休日

世間では今日は父の日で、家でご馳走を食べたり、家族からプレゼントや感謝の言葉をもらったり、といったお父さん方もいたかもしれない。しかし、おいらには全く無縁のごく普通の休日だった。父の日を意識したわけではないが、朝息子に今日はどこか出かけようかと誘ったが、いつも通りあっさり断られた。中学2年の息子にとって、休日に親と出かけるなんてダサくて面倒くさいだけなのだ。じゃあ、妻と二人で出かけるかというと、ここ数年二人で出かけたことなどなく、今更出かけたところで困惑するだけだ。それに妻の方も、おいらと二人で出かけるなんて息子以上に嫌だろう。そんなわけで、息子が断った時点でおいら一人の休日が確定した。

 とりあえず、ようやく再開した近所の図書館に行くことにした。面白そうな本を探したり、論文書きを進めたかったからだ。でもその前に腹ごしらえしようと、まずは近所のショッピングモールに出かけた。コロナ自粛明けで普段以上に混んでいる。マスクをしようと持ってきた新品マスクを装着すると、1分と経たず紐が外れて使い物にならなくなった。でも、そんなこともあろうかともう一つ別の種類のマスクも用意しておいた。ところが、もう一つの方はサイズが合わず、無理やり耳に引っ掛けると、片方の耳が潰れそうになる程引っ張られた。さらに隙間がないから10分とたたずめちゃめちゃ息苦しくなり、結局マスクをつけるのは早々に諦めた。

 ショッピングモールの中は、いたるところに父の日を宣伝するポスターが貼られていた。父の日にプレゼントを、とか父の日に感謝の気持ちをといった文字がどこを見ても視界に入った。まあおいらには関係ないことだ、と特に悲しみも寂しさもわかず、むしろお祭りムードに楽しんですらいた。思えば、若い時も、クリスマスやらバレンタインデーやらもそんな感じだった。恋人と過ごすロマンチックな夜などおいらには無縁な話だった。

 モールでは食料を調達する前に、無印に行き夏場の喉を潤すための水出しルイボスティーを買った。マスカットのフレーバーがついた超女子力高いやつだ。用意周到なおいらは、家を出るときにステンレスボトルに氷と水を入れておき、水出しティーを買うとすぐにボトルの中に入れた。しばらく買いもしないのに眼鏡屋でメガネを何個か試着したりブランドの服を触ったりして、やはり女子力高めのウインドーショッピングを楽しんでいるうちに、ちょうどいい具合にボトル内が攪拌され、短時間で味が出ていた。カラカラに乾いた喉を氷でキンキンに冷やされた水が潤し、甘いマスカットの香りが鼻を抜けると、ぱあっと世界がマスカットの薄い黄緑色に輝いて見えた。

 さあ、次はお楽しみの食料調達だ。レストランとかで食べようかとも思ったが、まだ時間が早くスーパーの惣菜コーナーで何か買うことにした。父の日ということもあって、いつも以上に豪華な惣菜が並んでいる。どれも美味しそうでなかなか選べずにいたが、ようやくその中でひときわそそられる一品が見つかった。デカ盛りのカツ丼である。思えば、6年前に蛋白漏出性胃腸症を発症して以来、胃腸に負担のかかる脂肪分の多い豚カツやカツ丼は全く食べていなかった。カツ丼弁当を手に持つと、ずしりと重い。こんなの食べたら間違いなく蛋白漏出性胃腸症が悪化するだろう。うーでもたべたい。いやだめだ。どうしよう、どうしようと惣菜コーナーで立ち尽くしていると、悪魔の誘惑が聞こえてきた。

「今日は父の日だよ。特別な日じゃないか。どうせ誰もプレゼントくれないんだろう。だったら自分で自分にご褒美あげちゃおうぜ。」

 おいらが、そうだよね、久しぶりにいいよね。特別だよね。とあと一歩で誘惑に負けそうになったとき、急に嫌な悪寒がした。スーパーの強烈な冷房と、キンキンに冷やされたマスカットルイボスティーを飲んだために、おいらの体は外と内からガンガンに冷やされていたのだ。一旦そうなると寒気で気持ちが悪くなり、カツ丼どころか何も食べれなそうな気分になってきた。結局カツ丼は諦め、もう少しボリューム控えめの天津飯弁当を買った。その後、ぶるぶる震えながらサウナ状態のように蒸し暑い車の中で、天津飯弁当を食べると、ようやく悪寒が収まった。

 だいぶ長くなってしまったのでここからは短く話そう。腹が収まり図書館に行くと、また冷房で寒気が出てきてしまった。早々に図書館を出て隣の自習室に行くとここは温度がちょうどいい。しかも、ソーシャルディスタンス確保のために一人の机スペースがとても広く、フリーWiFiも飛んでいてすごく快適な空間だった。おかげで予想以上に論文書きがはかどった。

 気分が良くなったので、帰りにコンビニでアイスでも買っちゃおうよ、とまた悪魔の誘惑に誘われたが、午前中の寒気を思い出してそこは留まった。代わりに、以前から気になっていたステンレスボトルの内側についた茶渋を取るため、酸素系漂白剤をドラッグストアで買って帰った。早速家でボトルを漂白剤につけてしばらく置くと、新品のように綺麗になり、世界がステンレスの銀色に輝いて見えた。その後、洗濯物をたたみ夕飯の準備をしていると、ようやく家に家族が揃い皆で夕食を食べた。今日の夕飯はひき肉400gを使った肉たっぷりミートソースにした。昼間のカツ丼を控えたのがすっ飛ぶくらい脂ギトギトだった。

 くだらない話でだいぶ長くなってしまったが、このおいらの休日を孤独で寒くて好きなものも食べられずマスクも壊れる虚しい一日と見るか、黄緑色や銀色に輝きやりたいことに集中でき女子力アップの素敵な一日と見るかは、あなたの自由である。