ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

不整脈との共存

先日心房粗動が再発し、電気ショックで止めた。7月末にアブレーションを受けてからわずか2ヶ月半での不整脈再発であった。今のところアブレーションで焼ききれていなかった所から発生したのか、あるいは全く新しい部位から発生したのかはわからないが、何れにしても儚い安息の期間だった。これまでにアブレーションを5回受けているが、いずれもしばらくすると再発していた。ひどい時には数日後には再発した時もあった。一度再発した以上、今後もちょくちょく不整脈が出てくるだろう。そして最終的には毎週、毎日のように発生するようになっていくのだ。不整脈は何度潰しても叩いてもしぶとく復活してくる魔物である。そこまでしぶとく復活するのには、彼ら(不整脈)なりの目的があるのか、電気刺激で心筋を拍動させるという生物学的構造を持った以上避けられない理由があるのだろう。

 不整脈の根絶がほぼ不可能である以上、不整脈と共存していくことがある意味おいらの宿命である。不整脈がなるべく起きないよう抗不整脈薬で予防しつつ、普段の生活の中で心臓に過度に負担をかける行動は控え、心臓様をなだめながら騙し騙し生活していくのだ。そしていざ不整脈が起きた時は、躊躇なくなるべく早く病院に駆け込み電気ショックで止める。それは、不整脈が起きないかと常に緊張を強いられる宿命でもあり、そこに重荷を感じ過ぎてしまえば、その荷をふと下ろしたい願望が出てくる。しかし、荷を降ろす時=おいらの死である。

 このブログではこれまでに何度か、おいらの寿命は50歳であろうと書いてきた。今からあと5年半である。今回不整脈の宿命を改めて実感し、5年半は短いどころかまだ5年半もあるのかとしみじみ感じるようになった。一般的には40代の人には残り5年半の寿命は短すぎるだろう。しかし、車や家電で置き換えて考えてみたら良い。例えば、5年前に新車で買ったあなたの車は、現在走行距離は10万キロを超え、あちこちにガタが出始め、走るとどこからか変な音がして、車検を出せばその度に修理箇所が出て高くつく。燃費もだいぶ悪くなり、ボディや内装にも傷や汚れも目立つようになったが、でもまあまだ走れないことは全然ない。そのような車をあと5年半乗ると思った時、短いと思うよりまだ5年半も乗るのかと思いもしないだろうか。同じように、乾燥機能がうまく働かなくなってきた洗濯機、野菜室の冷えが悪い冷蔵庫、など使えなくはないが、いつまで騙し騙し使っていくのか迷うような家電をあと5年以上使うのは長く感じないだろうか。

 ここまで読んでいただいた方は皆声を揃えて言うであろう。車や家電と人間の体は比較するものではない。全く別物だ。もちろんその通りである。車や家電は買い換えることができるが、人間の体はそれ一つしかない。どんなに古くなろうと傷がつこうと機能が落ちようと、その1つを最後まで使いきるしかないのだ。だから5年半は決して長くはない。騙し騙しでも維持できるのならもっともっと長く生きた方がいい。もちろんそうなのだが、一方で、おいらの価値観では長さと同じくらい質が重要に感じてもいる。ただ長く生きてもやりたいこともできず我慢し続け不整脈に怯える生活では辛いだけだ。

 不整脈を抑えることを最優先にして、ほとんどどこにも出かけず食事も限られたものを食べ、仕事も辞め、1日の大半を家の中で安静にして過ごしていれば、いっそ長生きできるかもしれない。いつか不整脈が本当にひどくなって来た時は、そうした生活もやむを得ないだろう。でも今はやりたい放題ではなくても、食べたいものを食べたいし、出かけたいし、仕事も続けたいし、新しいことにも挑戦したいのだ。その願望と不整脈の宿命の折り合いがつく時間が5年半なのである。それはおいらの現状を考えると、非常に現実的な予測であり、決して短すぎることはないと思っている。