ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

風前の研究者

おいらは、研究者業界の中ではもはや忘れ去られた存在である。ここ数年、学会発表も論文発表もろくにしておらず、他の研究者と共同研究したり交流することもほぼなくなった。一応大学の研究室で研究員として働いているが、おいらの仕事は研究室マネージメントであり、研究に直接関わったり表舞台に出ることはない。科学の歴史に残るような偉大な研究成果や膨大な研究業績があるわけでもなく、それどころかいっときでも脚光を浴びるような研究をしていたわけでもなかった。あの人は今、と思い出されることすらなく、このまま誰の記憶にも残らず研究の世界から消えていっても不思議ではない存在になりつつあった。

 しかし、そんなおいらの元にとんでもなく光栄な話が来たのである。学会シンポジウムの講演者として招待されたのだ。しかも、そのシンポジウムの講演者はただ学会で発表するだけでなく、後日発表内容を文章にして、それが本として出版されるというのだ*1。風前のともし火だったおいらが、大勢の聴衆の前で研究成果を発表し、さらにその成果が書物として販売される。本当にありがたくこれ以上になく光栄で心の底から嬉しかったが、時が経ち冷静になるにつれ、あまりに身に余る大役で恐ろしくなってきてしまった。

 何かの間違いじゃないのか。本当においらでいいのかい。招待してくれた方はおいらをどう見ているかわからないけど、おいらは研究の前線から遥か後方に下がった負傷兵や退役兵みたいなもんだよ。実際おいらができる話は、もう10年近く前にやっていた古い研究の思い出話だけだ。そのシンポジウムの参加者は第一線で活躍する研究者やこれから研究者を目指す学生たちばかりで、最新の研究成果を貪欲に求める飢えた狼たちなのだ。おいらの話は、あまりに古くて誰も見向きもしない腐った肉片になるに違いない。しかも、そのシンポジウムは12月にあるというのに、まだ発表の準備は50%ほどしかできていない。このままでは、おいらはそのシンポジウムの場を前例が無いほど白けさせ、おいらの研究者としてのともし火は完全に吹き消されるだろう。まともな神経の持ち主なら、焦りと不安と恐怖と重圧で気を失いそうな事態である。

 だが、読者の皆さん安心してほしい。おいらはこれまで数多くの生命の危機をくぐり抜けてきた。おいらにとって、命に関わることでなければ大抵の危機はそよ風みたいなものである。そよ風ではおいらのともし火は決して消えないのだ。そして何よりおいらは、生と死の両端を人一倍行き来した経験から、他の研究者にはないおいら独自の生命観を見出した。だから古いか新しいかは問題ではない。おいらは自信を持ってその生命観を語れば良いのだ。

 それでその独自の生命観とはどんなものなのか、実際おいらがどんなテーマを話す予定なのか。今回はそれをいち早くこのブログで書くつもりだったのだが、前置きが長すぎて残念ながら時間切れ。それはまた次回のお楽しみとさせていただきたい*2。

 

*1  その本は、各講演者がそれぞれ一章分を書きそれを寄せ集めて一冊の本になるので、おいら一人で一冊の本を書くわけではない。

*2  ひぃぃ、読者の怒りの嵐が吹き荒れてきた。このままではシンポジウムの前にともし火が消えてしまいそう。