ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

増え続ける喪失感

年々心臓が弱り体力が落ちていくとともに、使われなくなってしまったものがいくつもある。それらは家の片隅にあちこちに置かれており、一日の生活の中で何度も視界に入ってくる。普段はそれでも特に気にならないが、ふとしたときにそれがよく使われていた頃を思い出すことがある。そのたびに体力だけでなく自分が頑張ってやっていたこともいつの間にか失ってしまったことに気づかされて、その喪失感から深く悲しい気分に沈んでしまう。このままでは、年々家の中に増え続ける喪失感トラップによって悲しみの底なし沼で溺れそうだ。

 なんとかこの状況を脱出したいと思い、昨年アブレーションを受け体調が安定したことをきっかけに、使われなくなった物たちにもう一度向き合うことを決意した。まず最初に手をつけたのが、学生時代恋人のように愛した楽器のウッドベースだった。このブログで何度か書いたかもしれないが、おいらは学生の頃ジャズサークルに入りベースを弾いていた。一時期は研究や授業もそっちのけで毎日部室に通うほど音楽にのめり込み、楽器を練習したり仲間と演奏するだけでなく恋愛もしたりと、おいらにとってベースは青春の象徴であった。妻ともそのサークルで知り合い、結婚してからもずっと音楽を続けようと約束し合った。

 しかしその約束は守れず、いつしか楽器を触らなくなってしまっていた。そのことが常に心の奥で気になっており、楽器が視界に入るたびに妻と音楽とそして自分自身に対して後ろめたい気持ちになった。6年前最も心臓の調子が悪かったときには、もういっそ踏ん切りをつけて楽器を処分しようかとも思った。でもそれをしたら結婚生活も終わるような気がしてどうしても処分できなかった。その後フォンタン再手術を受けたり、消化管出血と腰椎骨折で長期入院したり、心筋梗塞で緊急入院したりと、何度も命に関わる厳しい状況が過ぎていったが、その間も楽器を触ることも処分することもなく、ただ家の片隅に置き続けていた。その存在は、おいらに人生をもう一度輝かせろと訴えかけるプレッシャーでもあったが、一方でそれを処分したら真に生きる意味を見失ってしまいそうで怖かった。

 昨年7月にアブレーションを受けた後、なんだかふっと気持ちが楽になり、素直に楽器にもう一度触れたくなった。だから、退院してすぐからほぼ毎日楽器を練習し始めた。学生の頃のように毎日何時間も練習はできないが、10分程度でも楽器に触れているととても心地よい気分になれた。そして前回も書いたように、昨年10月から月に一回ライブハウスで演奏できるようになった。オイラの自己満足に過ぎないが、楽器も音を出せて喜んでいるように感じた。年末には10年以上も張ったままでヘタってしまった弦も張り替えた。楽器は、生き返るように張りのある大きな音を出した。

 次は、数年前買ったミニベロの自転車と向き合いたい。今は玄関の一角でタイヤの空気は抜け全体にホコリが被って置かれたままになっている。この自転車は、南の島に引っ越してすぐ通勤と体力作りを兼ねて買ったものだった。新しい街でオシャレな街乗り自転車に乗ってスマートに通勤する日常は、おいらのこれまでの人生には一度もなかった健康的な生活でありとてもまぶしかった。結局そのまぶしい生活も長続きしなかった。今日、自転車のタイヤに空気を入れていつでも使える準備を整えた。次天気の良い休日が来たら、南の島らしい海岸線沿いの道をサイクリングするつもりである。そしてペダルを力強く漕ぎ出して、もう一度人生を前に進ませるのだ。

 というのは建前で、本音は最近人生初のスマホを持ったので、それで海を背景におしゃれな自転車の映えまくり写真を撮りたいというゲスな願望を満たしたいだけである。