ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

負を感じる感覚

今日は少し短めの話をしよう。

 おいらは、楽しく明るく幸せな日常を望んでいる一方で、どこかその反対の悲しく暗く辛い状況を求めてしまう気持ちが心の奥底にある。全てが順調で何の不安も不満もなく、周囲の人々と皆仲良く、トラブルも抱えてなく、もちろん体調も良く、将来も希望に満ちている。なんていう出来すぎた状況になったら、それはそれでどこか怖いというか物足りなさを感じてしまうのだ。まあそういう気持ちは、おいらだけでなく実は多くの人にあるのかもしれない。

 実際には、全てが順調な状況になったことがない。これからもそんなことは起こらず、おいらには無縁である。だからこそ、それは夢のようなものとして純粋に憧れてもいいはずだ。でも幸せに満ちた生活よりも、どこかに寂しさや悲しさ、あるいは辛い状況がスパイスのように入っている方が落ち着くのである。

 少し具体的な話をすると、おいらが成人になって再び心臓病の治療を受け始めたのは、今から7年前の2013年2月だった。その頃のおいらは、不整脈が毎日出て日常生活にも支障が出るほど心臓が悪化していた。さすがにもうほっとけない状況と感じてようやく重い腰を上げて、当時住んでいた県内で唯一先天性心疾患の治療を積極的に行っているNC病院に診察を受けに行った。そして、医師から「来るのが遅すぎた」と言われるほど深刻な状況を告げられたのだった。

 それからの闘病生活は、体調的にも精神的にも辛いことばかりだった。当時の日誌を読み直すと、日々深刻な状況が書かれていて、今でも辛い気持ちになってしまう。だからもう二度とあの頃の状況には戻りたくない。あの頃に比べると、今は全てが順調で何の不安も不満もなく、周囲の方みんなと仲良く、トラブルも抱えてなく、体調も良く、将来も希望に満ちている(将来はちょっと不安)、という出来すぎた状況と言えるかもしれない。

 でも、時々あの頃がとても懐かしくどこか恋しく感じてしまうのである。先日も、外来の診察に行っている時、ふと思い出してじわーっと涙が滲みそうになった。あの頃は、外来診察一つでも不安でソワソワしていた。でも今はすっかりなれてしまって、近所のスーパーに買い物に行くくらいのノリで来てしまっている。よく言えば精神が強くなったということなのだろうが、見方を変えると寂しさや辛さや不安といった負の感情に鈍くなったのかもしれない。

 なんだかそれは大切な感覚を一つ失った気がして物足りないのだ。悲しく暗く辛い状況があるということは、負を感じる感覚がちゃんと働いている証拠である。おいらは、例え幸せに満ち溢れなくても、その感覚が機能し続けて欲しいと思っている。