ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

東京都心で体験した震災:後編

前編のおさらい。東京駅で地震にあったおいらは、その後隣の駅にいた妻と子供と無事合流し、10kmほど離れた実家を目指して歩き始めたのだった。

 震災が起きた頃のおいらは、今のように心臓の調子が悪くなっておらず、人生の中で一番体力がある時だった。おかげで10kmの道のりもそれほどつらかった記憶がない。当時4歳の息子は、かなり辛かったはずだが、ほぼ全て自分の足で歩いてくれた。しかもその時息子は長靴を履いていたので、歩いているうちに足の皮が剥けてしまった。そんな大変な思いをしたのに、息子は歩いている時の記憶がないらしい。地震が起きた瞬間だけは覚えているそうだ。

 道中は、ものすごくたくさんの人々がおいらたちと同じく東京郊外に向かって歩いていた。車道はどこも車が大渋滞していた。道沿いに面したコンビニは人が溢れかえり、食品や飲料水はほとんど売り切れていた。ホテルも全て満室、自転車屋の自転車は飛ぶように売れていた。破損した建物などはそれほど多くなく、たまにガラスが割れていたり、看板が落ちていたりするのを見かけた。はっきりとは覚えていないが、信号も消えていたような記憶がある。

 途中道沿いにあった小さな中華店で食事をした。営業しているのかわからない薄暗い店内で、他に誰もお客はいなかったが、中に入るとテレビを見ていた中国人か台湾人の店員さんが案内してくれた。何を食べたかは忘れてしまったが、すごく美味しかった思い出がある。時刻は夜7時か8時ごろで、その店のテレビを見て、この地震の深刻さを改めて認識したのだった。

 11時ごろ実家に着いた。途中、荒川を渡る長い橋の上では、風が強くとても寒く、歩いた道中で一番鮮明な情景として記憶に残っている。実家では新幹線が動き出すまでの数日間を過ごした。その間、テレビで津波原発のニュースを見て、もう今までと同じ生活は送れないだろうと感じていた。その予感は、震災とは全く関係のない自分自身の体の変化によって、数年後に実現する。

 

 前編後編と2回に分けて長く書いてしまったが、震災直後のおいらの体験は、家族と一緒に10kmの道を歩いたというだけの些細な話である。人に聞いてもらったり、記録として残すほどの内容ではないかもしれない。一方で、病気や科学的知見とも共通するが、こうした些細な記録の積み重ねが、極めて大きな現象の全貌を理解する上で役立つことがある。

 震災の体験を書いたもう一つの理由は、おいらの個人的戒めの気持ちがある。あの年の4月においらは国が支給する競争的研究資金に採択され、研究費を獲得したのだった。おいらの研究テーマは、震災とはもちろん関係のない生物学の基礎研究である。社会的緊急性や必要性を考えれば、そうした実用性のない研究に税金を配分するより、震災復興に予算を当てたほうが良いのは明らかだ。そういう意味では、おいらの獲得した研究費には、決して無駄にしてはいけない重い責務がある。

 その研究費を使って、おいらは自分の研究人生の中で、最も大規模な野外実証実験を行った。その成果は従来の矛盾する2つの科学的理論を統一して説明するもので、学術論文として発表すれば大きなインパクトを生む可能性があった。しかし、大変悔やまれることに、未だその実験結果を論文として発表できていない。その分野の研究も進み、すでに時期を逸してしまった面もある。震災から2年後、心臓の調子が悪化し闘病生活が始まった。しかし病気を論文が発表できなかった理由にはしてはいけない。病気のせいではないと自分を戒め、そして鼓舞するためにも、その論文を完成させることが、おいらがやり遂げたい最後の仕事である。