ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

心臓が教えてくれる

前回自分なりの経験に基づく教訓を紹介したので、今回ももう一つそんな教訓についてお話ししたい。

 自分に迫る危機や困難がどのくらい深刻なのかはなかなかわからない。それは頭で思っているよりも実際はもっと深刻だったりそうでもなかったりする。しかし、おいらの心臓は、身に迫る危機を頭以上に正確に感じ取ることができるのだ。

 例えば、仕事などでいろいろな締切に追われることがある。いくつもの締切ごとを抱えていると気持ちは焦ってくる。そういう場合、まず冷静になってどういうスケジュールで仕事を片付けていくか計画を立てる。計画の見通しができさえすれば、あとは焦らずに計画通り仕事を勧めていけばよい。もう締め切りなんて怖くない。余裕だなんて思ったりする。ところが、たいていスケジュール通りには進まない。頭で、スケジュールに余裕があると思うと、新たに別の予定を入れてしまったり、違うことを始めてしまったり、先延ばしにしてしまう。あるいは体調を崩したり、急な用事が入ったりしてしまうことある。そして気づけば、締切ギリギリになって全然終わっていないという事態に陥る。結局頭で考えた計画やゆとりなどほとんど信用できないのである。頭では、締切が迫っていることをそれほど深刻に捉えていなくても、実際はかなり危機的なことになっていることがしばしばあるのである。

 しかし、こういうときおいらの心臓は、極めて敏感に危機を感じ取ってくれる。頭ではまだ間に合うかななんておもっている時でも、なぜか心臓はドキドキと動悸がして焦り始める。事態が深刻になればなるほど、心臓は不整脈でもなったかのごとくバクバクと脈打つのだ。それは、締切がまだ一週間とかもっと先にあって全然間に合いそうなときでも、心臓が危機と感じればドキドキし始める。こうしておいらは、事の重大さ、深刻さに気づくことができ、何度も心臓に救われたことがある。なぜ心臓が正確に危機を感じ取ることができるのか理由はわからないが、おいらの心臓は健常な人よりずっと余裕がなく普段から全力に近いパワーで動いている。だから、ちょっとでも無理をしないといけないという状況になると、どの器官よりもいち早く焦り始めるのかもしれない。

 締切だけでなく、瞬間的に差し迫る危機にも心臓は強く反応する。たとえば、危ないものが自分の方向へ急に飛んできたり落ちてきたりしたとき、心臓はズキッーーと締め付けられる。転びそうになったり、高いところから落ちそうになったりしたときもそうだ。それから、怖そうな人と目を合わせてしまったり、ふと重大な過ちを犯していることに気づいたり、忘れ物をしたことに気づいたりしたときも、心臓はくうーーと締め付けられる。まあ、これらはおいらだけでなく多くの人がそうかもしれないが。

 今おいらは2つ締切ごとを抱えている。どちらもまだ一週間以上先で、2つなんてたいしたことはないのだが、どちらもそれなりに時間のかかる仕事だ。ほかにも締切はないものの、研究の論文を書いたりとなるべく早く進めないといけないことがある。幸いにもおいらの心臓はまだドキドキしていない。とりあえず、まだゆとりはありそうだ。とはいえ、余裕こいてこんなふうにブログ書いたりして現実逃避していると、心臓が焦り始めるだろう。今のおいらの心臓は以前よりさらにゆとりがない。心臓が焦り負担が大きくなれば、それを引き金に一気に体調がくずれ、最悪また入院ということも大いにあり得るのだ。だから、心臓がドキドキし始める前に、仕事を片付けたいと思う。心臓よ、これからもおいらに危機を教えておくれ。 

我慢し続けると人生が終わる

地獄旅行を再開しよう。

 おいらには、自分のこれまでの経験に基づいた教訓がいくつかあり、それらの教訓はとても信頼している。そんな教訓の一つに、「どんなつらいこと痛いことも、我慢し続ければ終わる」というものがある。

 例えば、心臓病患者が受けるカテーテル検査。足の付け根や腕にある太い血管からカテーテルの管を挿入して心臓まで到達し、心臓内部の血圧などを測る検査だ。ある程度の年齢になれば、たいてい局部麻酔で検査をおこなう。おいらは、13歳のとき受けたカテーテル検査がとても痛くてトラウマになっていた。しかし、ここ数年ですでに5回ほどカテーテル検査を受けることになった。どれもとても嫌なものだったが、じっと我慢していれば必ず2時間ほどで終わった。また、数を重ねるごとにトラウマが解消され、大分恐怖心がなくなってきた。

 もっとたいしたことないこと、たとえば足を擦りむいた傷とか、頭痛、腹痛、吐き気、風邪など、体が苦しいことも我慢して時が経てばいずれ回復する。体的なことだけではない。終わりの見えないような膨大な仕事も我慢してやり続ければいつか終わる。誰かに怒られたり、喧嘩したりしても、我慢していればいずれ仲直りして気分が晴れる。人生に絶望を感じた失恋であろうと、そのうち気持ちが開き直れる。そういう経験を積み、つらいときにはじたばたせず我慢して耐えるのが一番だと感じていた。

 しかし、地獄入院はその教訓の信用が揺らいだのだった。入院して以来、体調はますます悪くなっていった。それに対する治療も、対処療法の行き当たりばったりに感じてならなかった。貧血の度合いが進めば輸血をし、血中蛋白が減ればアルブミンなどの補充。それを繰り返した。便の色はますます黒く赤くなり、胃腸も痛み吐き気が続いた。そのため、食事は、おもゆ、具無しスープ、ジュースなど汁状のものだけにかわり、その後栄養が足りないということで激マズの栄養補助ドリンクになった。病院で出される栄養補助ドリンクは、基本的に非常にまずい。おいらが飲んだのは、はじめペプチーノ、次にエンシュアHだった。胃腸に重い病気を抱え普通の食事がとれない人は、こうした栄養補助ドリンクを長期に飲んだりする。が、多くの人がそのまずさを訴えており、中には数年にわたって飲み続けている壮絶な苦しみをブログに綴っている方もいる。おいらは、たかだか数週間だったが、それでも耐えられないまずさだった。医者にそのまずさを訴えても、頑張って飲みましょうとだけいわれ相手にされなかった。

 ほかには、胃腸の粘膜を保護する飲み薬としてアルロイドGという薬を飲まされた。これは一回20mlほどを水無しで飲む薬で、緑色をして少し青リンゴのようなメロンソーダのような甘い香りがするが、ただの液体ではなくのもすごくドロドロしているのである。飲み込もうにも全然ノドの奥に流れていかない。飲むとき、ぬーーーーっと音でもするかのようにねばりつく。生命の危機を感じるほど不味い。あまりの不味さに、目から涙が吹き出すほどであった。おいらは、たった一回でノックアウトされ、もう飲まないとかたくなに拒絶した。激マズ栄養ドリンクももうやめてくれと拒絶し、それならばと胃瘻か鼻から管を通して栄養剤を流し込む案まで浮上した。

 しんどくてほとんど一日寝たきりで、ろくな食事もとらなかったため、日に日においらはやせ細っていった。血管は糸のように細くなり、連日の採血検査ではうまく血がとれず2度3度と刺すことがほとんどだった。うまく血管に刺さらないため、刺した後針を中でぐりぐりと動かして血管を探り、それがまた痛かった。その度に内出血して、両腕は無数の内出血痕で覆われた。比較的痛みの少ない腕の血管はほぼ全滅したため、手の甲や足の甲でも注射した。点滴のルートも2、3日でダメになり、何度も刺し直した。そのときも採血同様2度3度刺されたり、ぐりぐりされた。苦しい体調の中、激マズのドリンクを飲まされ、針で何度も刺され、まるで拷問であった。

 医師の対応にも次第に不信感が募っていった。その頃入院していたSD病院の主治医の先生は、滅多に診察に来なかった。来るのは、担当医の若い先生と中堅くらいの先生だった。若い先生は誠実な方だったが、自分の判断で治療を変更することは難しいらしく、上司の指示に従って治療にあたっていたため、おいらの訴えはあまり聞き入れられなかった。中堅の先生は、一見穏やかで優しい口調であったが、いつも頑張りましょうねというだけで、治療の方針などの説明を求めても、ろくに説明してくれなかった。どうせ説明しても素人にはわからないという見下しの態度をひしひしと感じた。おいらを見る目にも、もはや手を尽くしたかのような諦めのような哀れみのような雰囲気を感じさせた。

 そんな状況の中、追い討ちをかけるように、おいらを腰痛が襲った。あるとき床に落ちた物を拾おうとして、グギッと腰に強い痛みが走ったのだ。すでにほとんど寝たきりの状態だったが、これでさらにベッド上から動かなくなった。もうこのまま寝たきりでここで死んでいくんだろうと思い始めた。その方が、苦しみから解放されて楽だとも思ったが、これまでの人生を思い起こすと悔しくて仕方なくなってきた。なんでここで死ななきゃと行けないんだろう。全力で支えてくれた家族の労力や思いはどうなるのか。まだ探求したことはたくさんあるのに、道半ばで研究人生が終わってしまうではないか。それから、昨年フォンタン再手術を受けたとき、NC病院の医師や看護師さんは私の命を全力で助けてくれようとしてくれた。40近い年齢でPLEを発症している中でのフォンタン再手術は大変リスクが高い。にもかかわらず、心臓外科の先生は手術を引き受けてくれた。そうした努力がこんな簡単にあっさりと無駄になってしまう。それらを思うと死んでも死にきれず、悔しさとともに強烈な怒りが込み上げてきたのだった。

 これまで心の頼りにしてきたおいらの教訓に従っていてはだめなのだ。ただじっと我慢して耐えているだけでは、死んでしまう。だとしたら教訓をやぶり最後にもう一踏ん張りじたばたして、医者に怒りのたけをぶつけようと決意したのだった。後で冷静になってみると、おいらはそのときかなり凶暴で暴力的な態度だったろう。事前に怒りの質問状を渡し主治医との面談にのぞんだ。

 面談の日は、妻と母、それにおいらが信頼する看護師さん、若い担当医が同席した。面談が始まる前からおいらはすでに震えていた。面談の間、妻が横に寄り添いおいらの背中を優しくさすってくれた。主治医が登場した。ちょうど運悪くおいらはベット上で尿瓶でおしっこをしている最中だったが、主治医はそのことに気づかずおいらの横に座って早速面談を始めようとした。おいらは、その無神経さにますます怒りを募らせてしまったが、とりあえずは主治医の説明を一通り聞くことから面談は始まった。

 おいらの病態、これまでの治療について説明を受け、過去の事例について報告した論文も紹介された。PLEがさらに進んだ腸管出血の事例を報告した2006年のアメリカの論文である。病態も治療方針もおいらがすでに理解している範囲だった。論文は知らなかったが、これだけ時間かかってたった1つの論文しかみつからないのか、とさらに疑念を深めた。NC病院の医師との情報共有も十分できていなかった。とてもおいらの病気に真剣に向き合っているとは感じられない。こっちは命かかっているんだ、死ぬ覚悟なんだと悔しくて仕方なかった。今度はおいらが、事前に渡した質問状の内容を改めて口頭で説明した。全身が震え、言葉は途切れながらゆっくりとしか話せなかった。小さな声で単語一つ一つを息を吐くように出した。こんなところで死にたくない。悔しい。と、感じるままの感情も伝えた。さすがに医師はうなだれてしまい、しばらく沈黙が続いた後、NC病院に戻りましょうという結論になった。やっと地獄病院から脱出できることになったのだ。

 その日から、ステロイド剤のプレドニンも増量された。それまでなぜ少ない量でとどめていたのかはっきり理由を覚えていないが、プレドニンが15から40mgに増えると体調は一気に楽になった。胃腸の痛みと吐き気はずっとおさまり、だるさしんどさも減った。プレドニンは副腎皮質ステロイドともよばれ、副腎皮質ホルモンとして働く。このホルモンが不足すると、精神的に落ち込んだりうつになったりと、ようはやる気がなくなってくる。プレドニンが増量されたことで、おいらは精神的にも一気に前向きになった。これまでのネガティブな思考、医師への怒りが何だったのだと自分でも疑問に思うほどだった。だから、主治医の先生への怒りは、半ばうつの感情の八つ当たりだったろう。冷静になれば、もっと落ち着いた面談をすべきだったと思う。申し訳なかったと反省している。

 SD病院に転院してから約3週間。ようやく古巣のNC病院に帰還することができた。本当に生き返る思いだった。転院の際の移動は、Dr.カーに乗り、若い担当医の先生が付き添った。この先生は、自分が先天性心疾患の知識がまだ十分になく、よっぽどおいらの方が自分の病態をよく理解していることを認め、自分の知識不足や十分に治療を行えなかったことを謝ってくれた。かえって申し訳なくも感じたが、うれしかった。いい先生だなと思えた。車の中でいろいろなことを話しながら穏やかに時間は過ぎ、NC病院に無事戻ったのだった。

 これで、地獄入院の一つの山場は終わりである。しかし、この後まだ大小いくつかの峠が待ち構えていたのだった。この続きはまた今度。

かわいそうな感情

地獄入院の話はまだまだ続くので、ちょっと箸休めとして別の話題を書くことにする。

 先日、NHKのバリバラという番組で、障害者を感動の対象にすることをテーマにしていて、これは同時刻の裏でやっていた日テレの24時間テレビの批判として、かなり評判だったようだ。障害者が障害にめげず頑張る姿をテレビ的に作る出すことで、視聴者が感動して勇気づけられるというメディアのあり方は、障害者にとって差別的だということである。感動の対象になる障害者は、結局健常者にとってかわいそうな存在であり下の人間であるとみられてしまうのである。

 実際は、障害者だからといって日々そんなに頑張っていないし、おいらのブログでも書いているように愚痴は言うし弱音ははくしワガママも言う。障害にめげずにけなげに生きるどころか、思いっきりめげたりもするし、けなげに生きようという意識もない。それをテレビが演出して感動話に仕立てることは、ある種の虚構でありやらせである。こうして、感動の対象物としてさらけ出されることを「感動ポルノ」と呼ぶそうだが、それは確かに不快である。

 NHKと日テレどちらのメディアのあり方が良いかは、ここでは触れない。ただ、最近の24時間テレビは、正月番組みたいに単なるどんちゃん騒ぎのお祭り番組で何にも中身がないので、まったくみない。おいらがここで触れてみたいのは、障害者はかわいそうな存在かということである。おいらの結論から先にいうと、かわいそうな存在と思われても仕方がないと思っている。むしろ、人間なら生理的に本能的にかわいそうと思ってしまうのではないだろうかという気がする。

 障害にかかわらず、苦しい思いをしている人を見れば、ほぼ誰しも悲しくもなりかわいそうと思うのではないだろうか。入院していて、他の患者さんが苦しそうにしていればこちらもつらくなるしかわいそうと思ってしまう。特に患者が小さな子供だと、なおさらである。自分の子供が風邪などで熱にうなされていればかわいそうに思う。人間だけでなく、動物や時には物にさえかわいそうという感情がわくこともある。たとえば、タコのメスが卵を守り続けて最後はボロボロになって死ぬ姿などかわいそうと感じてしまう。車を廃車にするとき、愛着があるだけにかわいそうと思ってしまう。そうしたかわいそうという感情は、必ずしも相手を下にみているというふうにはならない。何でも食べられる人が好き嫌いの多い人を見て、人生損しているなかわいそうと思ったり、美的センスがなくていつも着ている服がダサい人を見て、かっこわるいなかわいそうと思うのは、多少見下しがあるかもしれない。そんな訳で、かわいそうという感情にも見下しの感情があったりなかったりいろいろなのだ。障害者をみてかわいそうと思う感情も同じく、見下しが含まれるときもあればないときもある。だから、一括りでかわいそう=見下しとは言い切れない。

 かわいそうという感情と同様に、変な物見慣れないものを見たいという欲求も自然なことだと思う。街で障害者に出会えば、たいていの人はなるべくじろじろ見ないように心がけるだろう。でも実際は見たいはずだ。子供はお構いなしにじろじろ見る。おいらも意識していなかったが、かなりじろじろ見ているようだ。障害者にかかわらず、レストランで大きな音を立てて皿を落としたりしたときとかもかなり見てしまう。変な服装やちょっと怖そうな人もみてしまう。そして、おいら自身杖をついて歩くようになって以来、見られる対象になった。

 でも、おいら個人はじろじろ見られても特に気にしない。むしろ、意図的に見ないようにしている人のほうが気になってしまう。おいらが思うに、見慣れない物はよくみて見慣れた物にすればいいのだ。ある程度みれば、見飽きるだろう。障害者など社会的なマイノリティーの人をよく見て、自分にとって見慣れた身近な存在となればいいと思う。

 ところで、昔の24時間テレビも確かそうだったと思うが、以前は障害だけが対象でなく、世界の超貧困地域の子供たちを取材したり、社会的弱者の現実をかなり真面目に取材していた。24時間テレビだけでなく、同様なドキュメンタリー番組が他の民放でもそれなりに流れていた。おいらは、フジテレビの類似のドキュメンタリー番組を見たときがかなり衝撃的なものとして記憶に残っている。フィリピンの超貧困地帯に暮らす人々を取材した内容だったが、見終わった後とても重い気持ちになった。感動なんて感情はなく、かわいそうも通り超して、ずしりと暗い気持ちになったのである。見たことを後悔するくらいであった。本当は、障害者や貧困者など社会的弱者の現実をしれば、そうした重い気持ちになるのであろう。とても感動などしていられないのである。視聴率はとれないだろうがお祭り騒ぎはやめて、そうした現実を伝える番組内容になればいいのではないかと、おいらは思う。

 戦争ドキュメンタリー番組も最近は減り、さらに悲惨な死体映像も滅多に流さなくなった。おいらが子供の頃は、結構放送されていて、トラウマになるほど怖かった。だから、おいらは戦争は理屈で反対という以前に、とんでもなく恐ろしい存在として生理的に拒絶してしまうのである。障害も戦争も現実を知ることは、時にとてもつらく怖く重いが、それを伝えることが今のメディアには欠けているように思う。

底なし地獄

NC病院からSD病院へ二度目の転院をした。年初めにNC病院に入院してから4週間が経とうとしていた。病状はますます悪くなり、便の色は真っ黒のまま、さらには赤く血の色に変わってきた。相当量の出血が起きているようである。転院してまもなく、3度目の内視鏡検査を受けた。今度は、口からの腸管上半分とお尻からの大腸を含む腸管下半分を二日にわたって徹底的に調べた。すでに腹痛と吐き気で数日絶食状態であったため、まずい下剤は500mlほどで済んだ。しかし、内視鏡検査の途中、血圧が下がり検査は中止され、後日再び受けることになった。その間食事はお粥食がでた。お粥は初めはおもゆから段階的に固くなっていった。米に関してはそうした配慮がなされていたが、なぜかおかずはごく普通だった。そして、中止になってから4日後再び内視鏡検査を受けた。今度は食事が再開されていたため、下剤を1L飲んだ。ただ、日誌にはそう記録してあるが、このころの記憶があまりない。ただお腹の痛み、気持ち悪さ、吐き気が毎日記録されていた。
 内視鏡検査の結果、今回も目立った出血部位を見つけることはできなかった。どうやら腸管表面広域にわたってじわじわと出血しているようであった。出血部位がピンポイントの場合、その部位を焼くなどして出血を止める治療が行える。しかし、おいらの出血は腸管表面のいたるところからであったため、そうした治療が行えず、投薬と輸血によって徐々に治るのを待つしかなかった。血中蛋白が下がればアルブミングロブリンの補充を行い、ヘモグロビンが下がれば輸血するという対処療法で、症状の改善を待つばかりの日々が続いた。しかし、症状は悪くなるばかりだった。夜も眠れず、夜中の病棟を徘徊した。すがるような思いでナースステーションの前のソファーでうなだれて座っていると、看護師さんがきてくれたがどうすることもできず、結局自分のベッドに戻って朝が来るのをじっと待つしかなかった。
 日中、太陽の日がさし人々が活発に動いているときは、少し気持ちにも活気がでてくる。食事をしたり、テレビを見たり、売店に行ったり、家族が見舞いにきてくれたりと、それなりに時間をつぶすことができる。しかし夜は、暗闇の中で横になることしかやることがなく、時間がとてつもなく長く感じられた。一時間ぐらい経ったかと思って時計をみると数分しか経っていなかったりして、永遠に夜が続くように思えた。横になると息苦しく、そのまま闇の奥深くに落ちていくような恐怖を感じた。精神的にも肉体的にも限界だった。でも、おいらは痛みや苦しみに人一倍弱い。だから、本当は対したことないのに単に気持ちが負けているだけだと思ってがまんした。いや本当は、我慢できず家族や看護師さんに連日弱音を吐いていた。そんなとき、入院している患者さんから、「大丈夫か。すごいつらそうだぞ」と声をかけられた。その言葉で、他人からみても悪そうなんだとわかり、虚勢を張っていた気持ちがすっととれ、力が抜けてそのまま床に座り込んでしまった。ようやく、看護師さんもおいらの限界を察知し、緊急で個室へ移され重看護体制になった。だが、個室に移ってからが究極の地獄の幕開けであった。このまま、この個室で死ぬであろうと本気で覚悟し始めた。死んで楽になりたいという気持ちはますます強まったが、妻や子を思いやり残した研究を思うと、最後にもう一踏ん張りすべく、おいらは医師に戦いを挑むことを決意したのだった。

人生最悪の地獄入院

今年は新年早々から入院した。その入院は過去最悪の地獄のような入院だった。三途の川やえんま大王をみたりはしなかったものの、いっときはこのまま病院で死ぬんだろうと思った。また、苦しさのあまり死んで楽になりたいとも思った。かなり大げさかもしれないが、今こうして家で元気に過ごしていることが奇跡に思える。おいらは、痛みや苦しみ、ストレスに弱く、すぐへこんでしまう。だから、他人からみればたいした苦ではない話だろうが、記憶が新しいうちに記録しておこう。
 前年末から体の調子は悪くなっていた。体が重くてだるく疲れやすく、足がむくんで口が渇き、気力がでなかった。精神的に落ち込んでいるためだと思っていたが、見かねた妻が病院への受診を勧め、かかりつけのNC病院に行った。血液検査の結果、ヘモグロビン値が10以下に低下し、貧血状態になっていた。また、血中蛋白のアルブミンや総蛋白も下がっていた。その日のうちに緊急入院となり、早速輸血と蛋白補充の点滴をした。このときは、医師もおいらも数日の輸血等で退院できるだろうと踏んでいた。だが、その後様々な症状が連鎖的に発生し4ヶ月半にわたる戦いとなったのだ。
 貧血の原因は消化管から出血していると予想され、内視鏡検査を受けることになった。NC病院では内視鏡の機器がそろっていないため、連携しているSD病院に翌日転院し検査を受けることになった。転院その日にまず胃の内視鏡検査を受けた。幸運にも内視鏡検査のときは、眠らせてくれるため検査は非常に楽に受けられた。しかし、その日の検査では胃にまだ内容物が残っていたことと、出血部位が腸のもっと奥の方である可能性があったため、翌日改めて内視鏡検査を受けることになった。
 今度は内容物を全部きれいに出すために、検査日早朝から下剤2Lを飲むことになった。下剤2Lを飲むのは大腸検査では一般的である。常に水分がぶ飲み願望のあるおいらは、このときはラッキーとすら思った。が、飲み始めてその楽しみは瞬殺された。下剤の味は、少ししょっぱくにがく酸っぱいような感じである。色は少し白く濁っていた。人によってはポカリスエットに似ていると言う人もいるが、おいらからすればひどい表現だがつばを大量に飲んでいるような気分だった。飲めば飲むほどにまずくなっていった。おいらは氷を入れてカキンカキンに冷やして飲んだり、途中でお茶や水で口直ししたりしたが、どんどん吐き気が込み上げ耐えられなくなってきた。おいらと同じように、吐き気をもよおす人もいるが、それほどまずく感じずに飲める人もいるらしい。超人である。下剤を飲んでいる途中から、下痢が始まり何度もトイレに通った。便の色はまるで岩のりやコールタールのような真っ黒になって、何度出しても黒さが変わらなかった。黒いのは便に血が混ざっている証拠である。入院前の便の色ははっきり覚えていないものの、そんな黒ではなかった。結局1.5Lほど下剤を飲んだところで、限界に達したおいらはマーライオンのように口から下剤を噴射した。これ以上下剤を飲めなそうだったため、浣腸を2回してできるかぎり腸内をさらに洗浄し、なんとか検査を受けられることになった。
 検査の結果、ドボドボと出血しているような部位はなかったものの、ところどころ消化管表面に血管が浮き出ていて、そこからじわじわと出血しているようだった。後にわかることだが、腸管からの出血は、蛋白漏出性胃腸症のさらに進んだ状態であった。世界的にも報告例がまだ少なく、2006年にアメリカのグループが3名の患者の事例を報告している。また、日本国内では岡山大学で事例があったらしい。岡山大学の事例では、蛋白漏出性胃腸症の末期状態にあると診断された。
 先日も書いたが、おいらは3年半前から蛋白漏出性胃腸症(PLE)を発症し、ステロイド投与と蛋白点滴補充の治療を継続している。3年半の間に何度かPLEの改善と再発を繰り返した。再発するたびに、入院してステロイドを増量し、蛋白補充の点滴を受けた。ステロイドの長期服用は、糖尿病、白内障骨粗鬆症、ムーンフェイス、多毛、脱毛、などさまざまな副作用がでるため、減量していく必要がある。しかし、ステロイドは一気に減量することができないため、始め40mg/日の量を飲み始めたとしたら一年くらいの期間で徐々に減量して離脱を目指す。が、おいらの場合はある程度減量するとまたPLEが再発してしまうのであった。その度に、40mgに増量、徐々に減量を繰り返した。再発までの期間も徐々に狭まっていった。はじめは一年くらい再発せず、ステロイドも3mgまで減量できた。しかしその後は、半年、4ヶ月と短い期間で再発し、ステロイドは10mgを切ると再発するようになった。そしてついに、PLEの末期状態とされる消化管出血にいたるのだった。
 2度の内視鏡検査を終え、一旦NC病院に戻り様子を見ることになった。しかし、検査後からみぞおちの辺りがムカムカとして痛くなり、吐き気が続いた。症状は日に日に悪くなり、胃腸薬を点滴で投入したり、止血剤や鉄剤をのんだり、食事をおかゆなど優しいものにしたりなどしたが、改善しなかった。寒気がし、だるくしんどく息苦しかった。いっそ死んで楽になりたいとさえ思うようになった。アルブミンヘモグロビンの値は下がり続け、連日点滴で補充したり輸血したりした。便の色は相変わらず真っ黒だった。そのため、再びSD病院に転院し更なる内視鏡検査を受けることになった。この時点ですでに体調はボロボロであったが、転院後雪崩のようにさらに体調は崩れ落ちていき、地獄が幕を開けた。

水に左右される

最近は、2、3週に一度外来の診察を受けている。診察を受けにいくと、必ず血液検査をする。今気にしなければならない項目は、まず血中蛋白量を測る、総蛋白(TP),アルブミン免疫グロブリン(IgG)である。フォンタン手術の合併症に蛋白漏出性胃腸症(PLE)というのがあるが、おいらは3年ほど前からこれが発症し、血中の蛋白が腸に漏れている。腸に漏れでて血中蛋白濃度が下がると血液の浸透圧が下がり、細胞に水分が移動してむくんでくる。その他だるくなったり、消化が悪くなったり、浮腫は多種の臓器におよぶと多臓器不全に陥る。体内の水分が多いため心臓の負担も大きくなる。いくつかの医学論文によれば、フォンタン手術後にPLEを発症すると、5年生存率が50%だそうだ。フォンタン手術合併症の中でも最も深刻なものの一つである。おいらは、PLEの改善のためプレドニンというステロイド服用やアルブミングロブリンの点滴補充などの治療を続けている。

 血液検査の項目に話を戻すと、次に腎臓機能を測るクレアチニン尿素窒素、尿酸がある。入院して蓄尿検査を受けたときにはクレアチニン・クレアランス(24hCCR)も調べる。おいらは、抗生剤や利尿剤などの長期多量投与により腎臓機能がかなり低下してしまった。24hCCRの値は30を下回り、これは高度腎臓障害のレベルにある。

 そして、肝臓機能を測るGOT, GPT, γ-GTP, CHEも注視している。おいらは子供の頃の輸血により、C型肝炎に感染してしまい、現在は肝繊維化が進んでいる。γ-GTPの基準値は50以下だが、おいらは100を下回ることがほぼない。ひどいときには1000越えした。その他の項目も異常値を示している場合がほとんどだが、肝臓は沈黙の臓器と言われるだけあり、いまのところ特に自覚症状はない。それから、今年の初めから貧血のため長期入院する指標となったヘモグロビン値、心不全の程度をあらわすBNPがある。

 血液検査の度に、これらの項目の変化に一喜一憂をしていたわけだが、最近ようやくこれらの値の多くが体内水分に大きく左右されることがわかってきた。蛋白やヘモグロビンは水分をたくさんしぼって浮腫がなくなると、血中濃度があがる。しかし、しぼりすぎると腎臓に負担になるらしく腎臓系の値が軒並み悪くなる。また、水分をしぼると心臓に負担が軽減するためかBNPが改善される。肝臓系の値は、はっきりとした水分との関係はみられない。つまり、肝臓系を除いては水分バランスに大きく影響されるようなのだ。

 でも、まだ適度な水分バランスがうまくつかめずにいる。サムスカを飲んでいるせいもあり、今は水分制限もなく喉が渇いたらこまめに水分を取るように医師から指示されている。ただ、長年の水分制限のトラウマのためか水分への渇望が強く、喉が渇いたらと言われたら24時間常に渇いている気分がある。お茶でも水でもジュースでもなんでもいいから、浴びるようにごくごく飲みたいのである。こまめにチビチビ飲むなんて全く満たされない。でも現実にできるのは、せいぜい良くて200mlを一度に飲むくらいである。だから家にいるときは、一日に何度もうがいして口の中を潤している。しかし、うがいをすると、ものの数分で余計に口が渇いてくるときもある。そんなわけで、街に出れば常に水分を無意識に探していて、自動販売機、飲料水売り場、果物、レストランのドリンクメニューを目で追ってしまう。

 先月の水抜き入院の後からは、クリームパン足はすっかり消えてなくなり、体重は減り、腹囲は減ったものの、まだ腹水はかなりある。これ以上利尿剤でしぼっても腹水はでてこなそうだ。腹筋を鍛えるしかないだろう。口渇感をなくし、蛋白、腎臓、ヘモグロビン等の値がよい水分バランスを見つけたい。今日もまた、口の中をべたべたネバネバと自分でも気持ち悪くなりながら、このことに思いをめぐらせている。

障害者はお荷物か

また日があく。書こうと思うことはいろいろあるけど、一話完結のように話をうまくまとめようとするから、重荷になってしまう。

 今日は、あまり触れたくない先月の障害者連続殺人事件について。ほとんどの障害者がこの事件に少なからず、影響を受けただろう。おいらも、こんな犯人の言うことなんて気にしないと思いながら、やはりいろいろ考えてしまった。

 障害者は社会や家族のお荷物か。これはどうしても気になってしまうことの一つである。たまに、自分の社会での存在意義というものを考えてしまう。そういうときは、体調がすぐれず、気が落ち込んでいるときが多い。気が落ち込んでいるから余計に、悪い方向に思いをめぐらす。自分は社会で何も役立ってないな、むしろ迷惑な存在だな、家族にも負担ばかりかけてるなあと。

 では、実際おいらがどのくらい社会の負担になっているかを紹介しよう。まず、医療費がすごくかかっている。昨年受けたフォンタン再手術で保険適用前医療費が700万を超えた。おいらは、子供の頃にも同レベルの心臓手術を3回受けているので、それぞれ700万とすると、手術だけで2800万円かかった。さらに、カテーテル検査やカテーテルアブレーション術なども総数10回以上受けている。それぞれ100万以上かかる。その他にも、ここ数年は蛋白漏出性胃腸症などの治療で何度も入院している。これらも入院ごとに数十万から百万近くはかかっているだろう。そして現在、毎日1万円以上の薬を飲んだりしている。以前はもっと高い薬を飲んでいたときもあった。これら全部を合わせると、おいらがこれまでにかかった医療費は、5000万以上一億円くらいはかかっているかもしれない。自己負担で払った部分もあるが、ここ数年はいろいろな免除や医療費支給の手続きをした結果、現在自己負担で払う医療費はほぼゼロになった。さらに、今年から障害基礎年金を受給できることとなり、まだ40才にして年金を納める側から支給される側になった。これらの医療費、年金は全て税金でまかなっている。おいらが働いておさめた税金もあるが、それよりはるかに大きい額だ。とんでもない金食い虫である。

 障害とは関係ないが、おいらは国立大学に勤めて研究しているので、研究費や給料も税金が元になっている。おいらの研究は、それに見合う研究なのだろうか。社会に役立つようなことなのだろうか。すくなくても、基礎生物学をやっている以上、すぐに役立つことはまずない。自然科学は人類の探究心を満たすため、人類が自然をより深く理解するために必要だと考えてはいる。芸術やスポーツと似たようなところがある。どちらも何か具体的に役立つという訳ではないが、人類の美の探求、人体の極限への探究心を満たすためでもある。このような探究心がなくなったり、満たされなくなれば、人類は生きる喜び、活力の一部を失うだろう。しかし今の経済難の社会では、こうした欲求は道楽であり必要なしと見なされてしまいがちである。とくに、一般には伝わりにくい自然科学研究は、年々肩身が狭くなっている。

 アカの他人からみれば、大金食い虫のおいらは、明らかにお荷物であろう。でも、おいらはとても幸運で幸せな身であった。おいらには妻と子がいる。妻と子はおいらのことを全くお荷物だとは思っていないことがひしひしと伝わってくる。以前、おいらが負担になってないかと聞いたこともあったが、そんなことかってに決めるんじゃない、と妻に怒られた。例の殺人事件では、障害者が死んだことは家族にとって本音ではほっとしている面もあるのではないかといった意見も聞かれた。実際そうであっても、仕方ないとおいらは思ってもいる。でもだからといって障害者は卑屈になる必要はないのだ。かりに、社会や家族の負担になっていたとしても、お荷物ではなく存在意義を見いだすことはできるはずだ。妻は言ってくれた。おいらは、生きていることに意義があると。そんなうれしい言葉はない。入院中など本当に体調が悪く苦しくて痛くて耐えらなそうなとき、何度ももう死んで楽になりないと思った。でも、妻の言ってくれた言葉がかすかな光となり、生きる意欲を奮い立たせてきた。おいらだけではない。だれしも生きていることに存在意義があるのだ。

 生物学的に考えると、障害者は多様性を育む重要な要素である。人類の文化や社会の多様性を広げ、生命進化の原動力にすらなる。この点はいずれまた詳しく書きたい。

今日のところはここまで。