ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

エバーちゃん

 おいらの祖母が亡くなったのは、20年以上も前のことだ。おいらは、祖母が大好きだった。母方の祖母は、母が小さい時に亡くなっているから、ここでいう祖母とは父方の祖母のことである。

 おいらは、常に死を身近に感じながら生きているようなところがあるので、死に対してさほど恐怖はない。でもそれは、心のどこかで死んだらもしかしたらまた大好きな祖母に会えるかもしれない、という安心感からくるような気もするのだ。

 祖母とはおいらが小学校に上がる前までは、一緒に暮らしていた。小学校に上がる時、両親と姉とおいらが団地に住み、祖母が一人別の家に住むようになった。祖母の家は最寄り駅は同じだが、駅の反対側にあり、そうしょっちゅう行ける距離ではなくなった。だから、夏休みなどの休みの時に、おいらは一人で祖母の家に遊びに行って、何泊かお泊まりした。祖母に会えるのは、本当に嬉しかった。

 そのころの祖母は、和文タイプライターという大きな機械を家に置いて、仕事をしていた。子供だったから特に何も気にならなかったが、今思い出すととんでもない機械だった。何千字も並んだ文字盤から、一文字ずつ文字のタイプ(ハンコのような金属の型)を探し出し、ロールに巻いた紙にタイピングしていくのである。文字盤は文字の大きさやフォントによって違うため、専用の作業机の引き出しの中に、何枚もの文字盤が収納されていた。つまり、祖母の家には文字のタイプが何万個とあり、祖母はそれを全て覚えて、原稿に応じて使い分けていたのだった。

 おいらが泊まりに行った時も、祖母は仕事をしている時もあった。おそらく、締め切りが迫り立て込んでいたのだろう。それなのに、おいらが遊びに来ても全く嫌な顔せず、一緒に遊んでくれたり、お出かけしてくれたりしてくれた。たまに、おいらがタイプライターの文字を文字盤から取り出してしまったり、盤の別の位置に動かしてしまうこともあった。それでも、祖母はおいらを怒ったりしなかった。

 おいらが中学になる少し前、昭和が終わろうとする頃、両親が家を買い、再び祖母と一緒に暮らすことになった。と言っても玄関から全て別々の完全分離型の2世帯住宅だった。それでもおいらは、毎日祖母と会えるようになったことがすごく嬉しかった。実際、学校が終わるとほぼ毎日、祖母の部屋に行って、祖母と一緒に宿題をやったり、テレビを見たり、祖母が趣味でやっていた絵手紙を書いたりした。

 2世帯住宅になってからも、祖母はしばらくはタイプライターを使って仕事をしていた。でもある時からパソコンを使った仕事に変わり、パソコンの仕事も短期間でやらなくなっていた。そのため、使わなくなったパソコンで、おいらがゲームをしていた。

 2世帯住宅にすみ始めてまもなく、おいらの家庭は崩壊し始め、両親は離婚に向けて毎日争っていた。そのせいか、2世帯住宅の記憶は、意図的に消去したかのように、記憶が薄れてしまっている。だから、祖母や母や父や姉が、あの頃どんなふうに普段過ごしていたのか、ほとんど覚えていないのだ。ただ、時々家の雰囲気が悪くなってくると、夜に祖母の部屋に遊びに行って、祖母と一緒にテレビを見たりして暗い雰囲気から逃避していた。そして、おいらが大学に入る少し前だろうか。祖母は、おじさん(祖母にとっての長男)の家に引っ越していった。

 大学に入ってからは、おいらは一人暮らしを始めたため、祖母とも家族とも中々会わなくなった。祖母と最後に長い時間一緒に過ごしたのは、おじさんが企画してくれた阿蘇旅行だった。おじさんと祖母と、おいらと姉の4人だけの、ゆったりとした幸せな時間だった。

 おいらが大学院生のとき、祖母危篤の連絡があった。その晩は一睡もできず、祖母の棺に入れるための絵手紙を書いた。祖母は、風呂の湯船につかりながら、脳の血管が切れて眠るように亡くなったらしい。連絡が来た翌日、おじさんの家にいき、親戚一同で祖母にお別れをした。

 祖母の死後、親から生前の祖母について話を聞き、晩年の祖母はとても寂しい思いをしていたことを知った。2世帯住宅の頃は、おいらの家族だけで外食や旅行に出かけたりすることもあり、祖母は出かけていることすら知らされずにいたこともあったらしい。おじさんの家に引っ越してからも、祖母一人で過ごす夜が多く、一人でコンビニ弁当を食べていたようだった。亡くなった晩も一人で家にいて、風呂に入っていた。

 祖母は、おいらにまさに無償の愛で接してくれた。おいらが何をやっても起こらず、おいらを常に心配してくれて、おいらといつも遊んでくれた。おいらが入院した時も、何度も付き添いで病院に泊まってくれた。でもおいらは祖母に甘えるばかりで、祖母を気遣ったり心配してこなかった。晩年の祖母の寂しさを全く気づいてあげられなかった。小さい時も、祖母の仕事の苦労をまるで理解せず、自分勝手にお泊まりに行ったり、和文タイプライターにいたずらしたり、と邪魔してばかりだった。

 でも、もし死後祖母と再び出会えたとしても、おいらは祖母に謝りたいわけではない。むしろ、やっぱりまた遊びたい。祖母の前では、いつも嬉しくて幸せな気持ちでいたいのだ。そして、多分面と向かっては言えないだろうけど、おいらが子供の頃全く寂しい思いをせずにいられたのは、祖母ことエバーちゃんがいてくれたおかげだと伝えたい。

読まれる学術書の書き方

昨年末行ったシンポジウムの講演の話を本にまとめるために、原稿を書いている。締め切りは8月末でまだしばらく先ではある。しかし、早くも書き終わるか不安で、常にそのことが頭の片隅にこびりついてしまっている。平日は仕事と家事で疲れてしまうため、書ける時間は休日のみ。でも、その休日も体を休めたかったり、体調が悪かったり、あるいは買い物に出かけたりして、なかなか書くことに向き合えなかった。そうこうしているうちに1月、2月、3月が過ぎ、いよいよ不安と焦りが膨らみすぎて抱えきれなくなってきた。このままでは、不整脈も再発しかねない勢いなので、ようやく先週から少しずつ書き始めたところだった。

 本は、専門的な研究の内容が書かれた学術書の扱いになる。しかし、渡された原稿の執筆要項には、「読まれる学術良書をつくりましょう」と大きく銘打たれ、ともかくわかりやすく読みやすく親しみやすい内容を心がけて欲しいとのことだった。言い換えれば、専門用語が羅列された超難解で硬い文章は、絶対にやめろということだった。「絶対にやめろ」はおいらが勝手に強調した表現であり、実際はもっとオブラートに包んで研究者のご機嫌を損なわないように説明してあった。だから、おそらくほとんどの研究者は、結局超専門的な学術文章を書いてくるだろう。実際、この学術書のシリーズの過去の本は、おいらが読んでも難解な専門的内容が少なくない。

 その点おいらは、圧倒的に有利である(自分で言うな)。おいらは人と話したり、文章を書くときは、常にわかりやすさを極めて重視してきた。このブログも、わかりやすい文章を書く訓練のために始めたところがある。ブログを書き始めて約4年。分かりやすさを追求した修行の成果が、ようやく今発揮されるのだ。

 それから、おいらの研究者として致命的欠点が、今回ばかりは有利に働くかもしれない。それはおいらは、そもそも超専門的な文章を書けないことである。超専門的文章を書くためには、当然ながら超専門的な知識が必要である。おいらには、語れるほどの超専門的知識がないのだ。だから自分の持っている浅い知識、幼稚な文章表現を頼りに、原稿を書かなくてはいけない。だからと言ってわかりやすい文章が書けることにはならないが、少なくても難解な専門用語を羅列することは避けられそうだ。

 研究者が超専門的な文章を書く理由として、読者に誤解を与えないように正確に表現したいからということを、よく聞く。専門用語には、厳密な定義があり、その定義を理解している人物同士であれば、誤解なく意味が伝わる。専門用語のもう一つの利点として、議論が効率的に速く進むことが挙げられる。専門用語を使わずに説明しようとすると、相当文字数が多く必要になってくるからだ。正確さと効率は、研究内容を深く議論しようとする上では、不可欠ともいえる。議論の内容がより専門的であるほど、正確性と効率が求められる。そうした場面では、言葉の意味を間違えたり誤解することは最小限にする必要があり、また次々と浮かび上がる新しい発想や課題についてテンポよく議論していくためである。

 しかし、今おいらが書こうとしている学術書は、最先端の超専門的な研究を議論する場ではない。むしろすでに終わった過去の研究、ある程度解明が進んだ研究の成果について、研究者ではない人々に向けて伝える場である。だから、正確性や効率よりも、わかりやすさや親しみやすさが求められているのである。にもかかわらず、結局超専門的な学術文章を書いてしまうのはなぜだろうか。

 おいらが個人的に感じているのは、わかりやすい文章を書くことが恥だという、研究者の間での暗黙の文化があるような気がしている。わかりやすい文章を書くことは、まさにおいらのように専門知識が足りなくて簡単なことしか書けないからだ。そんな恥ずかしさを感じてしまうのかもしれない。あるいは、より専門的で難解な内容を書くことで、自分はその専門に深く精通しているのだ、というアピールになるのかもしれない。こうして超専門的文章は知的でレベルが高い表現となり、反対にわかりやすい文章が幼稚で恥ずべき表現だとみなされるようになる。これはおいらの非常にうがった見方かもしれない。でも、今まで目にしてきた研究者の書いた文章には、どうにもそういう香りがしてしまうものが少なくないのである。そして、おいら自身の文章もどこかそうした匂いがしていそうで不安なのだ。

 だから、今回書こうとしている学術書は、専門的文章から香る研究者文化に対するおいらの挑戦である。もしかすると、おいらの原稿はあまりに幼稚な内容だ判断され、大幅に書き直しを要求されるか、酷ければ掲載不可になってしまうかもしれない。それでもいい。今オイラが表現できる最大級の分かりやすさを文章に込めようと目論んでいる。

東京都心で体験した震災:後編

前編のおさらい。東京駅で地震にあったおいらは、その後隣の駅にいた妻と子供と無事合流し、10kmほど離れた実家を目指して歩き始めたのだった。

 震災が起きた頃のおいらは、今のように心臓の調子が悪くなっておらず、人生の中で一番体力がある時だった。おかげで10kmの道のりもそれほどつらかった記憶がない。当時4歳の息子は、かなり辛かったはずだが、ほぼ全て自分の足で歩いてくれた。しかもその時息子は長靴を履いていたので、歩いているうちに足の皮が剥けてしまった。そんな大変な思いをしたのに、息子は歩いている時の記憶がないらしい。地震が起きた瞬間だけは覚えているそうだ。

 道中は、ものすごくたくさんの人々がおいらたちと同じく東京郊外に向かって歩いていた。車道はどこも車が大渋滞していた。道沿いに面したコンビニは人が溢れかえり、食品や飲料水はほとんど売り切れていた。ホテルも全て満室、自転車屋の自転車は飛ぶように売れていた。破損した建物などはそれほど多くなく、たまにガラスが割れていたり、看板が落ちていたりするのを見かけた。はっきりとは覚えていないが、信号も消えていたような記憶がある。

 途中道沿いにあった小さな中華店で食事をした。営業しているのかわからない薄暗い店内で、他に誰もお客はいなかったが、中に入るとテレビを見ていた中国人か台湾人の店員さんが案内してくれた。何を食べたかは忘れてしまったが、すごく美味しかった思い出がある。時刻は夜7時か8時ごろで、その店のテレビを見て、この地震の深刻さを改めて認識したのだった。

 11時ごろ実家に着いた。途中、荒川を渡る長い橋の上では、風が強くとても寒く、歩いた道中で一番鮮明な情景として記憶に残っている。実家では新幹線が動き出すまでの数日間を過ごした。その間、テレビで津波原発のニュースを見て、もう今までと同じ生活は送れないだろうと感じていた。その予感は、震災とは全く関係のない自分自身の体の変化によって、数年後に実現する。

 

 前編後編と2回に分けて長く書いてしまったが、震災直後のおいらの体験は、家族と一緒に10kmの道を歩いたというだけの些細な話である。人に聞いてもらったり、記録として残すほどの内容ではないかもしれない。一方で、病気や科学的知見とも共通するが、こうした些細な記録の積み重ねが、極めて大きな現象の全貌を理解する上で役立つことがある。

 震災の体験を書いたもう一つの理由は、おいらの個人的戒めの気持ちがある。あの年の4月においらは国が支給する競争的研究資金に採択され、研究費を獲得したのだった。おいらの研究テーマは、震災とはもちろん関係のない生物学の基礎研究である。社会的緊急性や必要性を考えれば、そうした実用性のない研究に税金を配分するより、震災復興に予算を当てたほうが良いのは明らかだ。そういう意味では、おいらの獲得した研究費には、決して無駄にしてはいけない重い責務がある。

 その研究費を使って、おいらは自分の研究人生の中で、最も大規模な野外実証実験を行った。その成果は従来の矛盾する2つの科学的理論を統一して説明するもので、学術論文として発表すれば大きなインパクトを生む可能性があった。しかし、大変悔やまれることに、未だその実験結果を論文として発表できていない。その分野の研究も進み、すでに時期を逸してしまった面もある。震災から2年後、心臓の調子が悪化し闘病生活が始まった。しかし病気を論文が発表できなかった理由にはしてはいけない。病気のせいではないと自分を戒め、そして鼓舞するためにも、その論文を完成させることが、おいらがやり遂げたい最後の仕事である。

都心で見た震災:前編

まもなく東日本大震災から10年になる。テレビでも連日特集番組が放送されており、もうすでに多くの人々によって語り尽くされた体験談ではあるが、おいらもあの日の体験を記しておきたい。

 おいらは2011年3月11日のあの時間、東京駅にいた。北海道で開かれた学会から帰る途中で、飛行機で羽田に着き、電車を乗り継いで東京駅の新幹線改札口に着いたところだった。改札口で、東京都内で別行動をしていた妻と子供と合流し、一緒に新幹線に乗って帰る予定となっていた。

 地震は、改札口で妻と子を待っている時に発生した。その揺れは過去に経験した地震とはまるで違っていた。大型フェリーに乗って大波に揺られているような重たい揺れだった。建物全体が傾いたのではないかと思えるほどで、天井は液体のようにグニャグニャとたわみ、その場にいたほとんどの人がしゃがみ込み壁や柱にもたれかかった。

 しばらくして揺れが収まると、さほど混乱はおきず人々は元の行動を再開し始めた。お土産やお弁当を買っている人もいた。おいらはガラケーを使っていたため、携帯でネット検索したことはこれまでほとんどなかったが、この時ばかりは情報収集のためネットに接続してみた。巨大な地震が起き、東北の海岸全域に10m以上の津波警報が出されていた。ただ事ではないことを感じ、ともかく妻と連絡を取ろうとしたが、すぐ電話もメールも不通になった。

 妻と子が今どこにいるかすらもわからず、どうやって連絡を取れば良いかしばらく悩んでいたと思う。しかし、滅多に使わなかったネット検索をしたことが功を奏した。ウェブ画面上の一番上に「災害伝言板」というアイコンが見えたのだ。アイコンを押し、指示に従って電話番号を入力すると、なんと妻がメッセージを書き込んでくれていた。妻と子は無事で、東京の隣の神田駅にいるとのことだった。おいらは、「そっちに迎えに行く」と伝言板に書き込んで神田を目指し歩いた。

 東京駅から神田までは1kmほどと近く、すぐに着いた印象がある。しかし神田駅は人々で溢れており、この中から妻と子を探すのは至難だった。人々は電車の運行状況を確認するため、構内で叫び続ける駅員のアナウンスを聞いたり、詰め寄ったりしていた。おいらは、今日はもう電車は動かないだろうと予想し、ともかく妻と子を見つけ安全なところに避難することを目指した。

 妻と子とどうやって出会えたかは正直思い出せない。ただ、あまり探し回ることなく、比較的簡単に出会えた記憶がある。会えて一安心すると、幸いおいらの実家がここから10kmほどにあったため、歩いて向かうことにした。当時まだ4歳だった息子を連れて、そんなに長い距離が歩けるかはわからなかったが、ともかく今は実家に向かうしか手段がないのだ。地震発生から合流して実家に向かい始めるまでの流れは、奇跡的なほどスムーズだったように思える。とはいえ、地震発生から2時間以上経過した。

 一話でまとめるつもりだったが、なるべく正確に書き記していくと長くなってしまった。続きはまた近日書き記したい。

COVID-19と先天性心疾患:9人の子供の症例

今回は久しぶりに論文紹介をしたい。しかし、以下に紹介する論文は先天性心疾患の子供を持つ親御さんにとっては、不安が増すだけであまり知りたくない情報かもしれない。でもおいら個人の考えとして、たとえネガティブな情報であっても、それを知ることによって将来起こりうるリスクを未然に防げる可能性が高まると信じている。だからおいら自身は、自分の病気や将来についてなるべく具体的に詳しく教えてもらうよう常々主治医に尋ねている。とはいえ、知りたくないという意思も大切であり、以下の論文の解説を読むことは特にお勧めはしない。

 

Haji Esmaeil Memar, E., Pourakbari, B., Gorgi, M. et al. COVID-19 and congenital heart disease: a case series of nine children. World Journal of Pediatrics 17, 71–78 (2021).

 

背景: 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、現在ワクチンなどの効率的な治療法がない世界的流行中の感染症である。基礎疾患を持つ患者はより重篤な疾患および高い死亡率になりやすい。しかし、先天性心疾患(CHD)の小児におけるCOVID-19の症例についてはデータが限られている。この研究は、COVID-19を発症したCHDを持つ9人の子供の症例を報告する。

方法: 2020年3月と4月に新型コロナに感染してイランの子供医療センターに入院した先天性疾患の子供9名について調査した。生存した患者と死亡した患者の間で、臨床徴候と症状、CHDの種類、投与された薬を比較した。

結果: 9人の患者のうち2人が亡くなった。死亡した患者は、重度の先天性疾患(大動脈弁狭窄症と左心低形成症候群)、動脈血ガスの悪化、重度の臨床症状(呼吸困難、胸痛、頻呼吸、咳、嘔吐、筋肉痛)、部分トロンボプラスチン時間(PTT)とC反応性タンパク質(CRP)が高く、より多くの投薬が必要であった。

結論: 小児におけるCOVID-19の治療のガイドラインを決定するために、CHDの小児により大きな注意を払う必要がある。ただし症例は9例のみと少ないため、さらなる研究が必要である。

 

おいらの感想と解説

9名中2名が亡くなられたのは極めて死亡率が高い状況であり、コロナの恐ろしさを改めて感じた。とはいえ論文の結論で述べているように、症例数がまだ非常に少なく、この研究を一般論化してはいけない。また、この研究が行われたのは2020年の3,4月で、まだコロナについてほとんど何もわかっていない状況の中であった。現在はワクチンも完成し、より適切な治療法も確立しているだろう。だから現実はこの論文の報告ほど、死亡率は高くないと想像する。

 この研究で最も重要な情報と感じたのは、亡くなった患者に共通した呼吸困難、胸痛、頻呼吸という症状である。このことは、そうした重い呼吸症状がでた場合には特に注意が必要であることを意味する。さらに、コロナだけでなくインフルエンザやその他のウイルス性呼吸器疾患に対しても、共通して当てはめることができるだろう。もっと飛躍して言えば、何かの感染症にかかっているかわからなくても、もし重い呼吸症状が出た場合は迷わず病院に行ったほうがいいということだ。これは先天性心疾患の患者が病院に行くべきかどうかの判断基準として、有効ではないかと思うのである。

狭まる美味

新型コロナに感染すると、味覚障害や嗅覚障害が生じて味や匂いが分からなくなる場合があると言われる。幸いおいらは、これまでの人生で味や匂いがわからなくなるような症状は経験した記憶がないが、味や匂いの感じ方(好き嫌い)が体調によって変わった経験をここ数年何度もしている。

 大体そうした味覚・嗅覚の変化が起こるときは、数日間だけの短期間変わるのではなく1ヶ月以上続くことが多い。過去数年で最初に変化が訪れたのは、6年前フォンタン再手術を受けた後だった。手術後の食事は、甘い果物や飲み物以外はなぜだかどれも匂いがきつくて気持ち悪く感じたのだ。

その時の様子はこちら:ICUは命のゆりかご

 術後の味覚異常は、メカニズムはわからないが血液の循環系が大きく変わったことなどの体全体の劇的な変化と関係したのかもしれない。その後、体力が回復するとともに徐々に改善していった。しかし、その手術入院から退院後、おそらく抗生物質の長期服用と極度の口の渇きの影響で、舌や歯茎に白い汚れのようなものができる口腔カンジダ症のような症状に悩まされた。このときは、ともかく口の中がさっぱりするものが欲しくて、レモン味のする炭酸水やレモン汁を入れた水(最近だとデトックスウォーターといわれるオシャレなカフェで出てきそうな水)ばかり飲んでいた。またこの頃からフルーツの香りのするフレーバーティーにハマり、ほぼ毎日飲むようになった。

その時の様子はこちら:至福のひととき

 このレモン水やフレーバーティーの嗜好期間は長く、口腔カンジダ症が治り口の渇きが気にならなくなってからも続いていた。レモンから離脱したのは3年ほど前だった。まずレモン味炭酸水は、香料の香りが何故だかウソ臭く感じられるようになり、あまり美味しくなくなってきた。それで本物のレモン汁を炭酸水に入れて飲んだりもしたが、それだと流石に苦味が強くて、レモン味炭酸水はその後飲まなくなった。レモン汁を入れた水はもうしばらく続いたが、夏場ステンレスボトルに冷たい水を入れて枕元に置いておき、夜中に飲むようになってからはただの水を飲むようになった。これは、スレンレスボトルに酸性のレモン汁を入れてはいけないという消極的理由がきっかけだったが、しばらくただの水を飲んでいると、なんだ水が一番美味しいじゃないかと気づいたのだった。

その時の様子はこちら:最強アイテム

 そして昨年の春頃から、香料の香りに対する嫌悪感がますますひどくなり、一時期あんなに愛飲していたフレーバーティーが飲めなくなった。なんだかとても人工的な感じがして、プラスチックが溶けた臭いのような気持ち悪さを感じた。少し話がそれるが今までで一番気持ち悪かった匂いの記憶は、子供の頃住んでいた家の近くにあった小さなゴム加工作業所からの匂いで、その作業所の前を通るといつも頭痛がするほど強烈なゴムの溶ける匂いがした。香料の香りからもその時の記憶と共通する鼻のさらに奥の脳の中で感じる嫌な匂いがしたのだった。昨年の春頃は、不整脈が頻発しペースメーカーが機能不全になり心不全になり強烈な悪寒に悩まされ精神的にも落ち込んでいた時であり、そうした身体的、精神的不調が関係していたのだろう。

その時の様子はこちら:頑張ることの断捨離

 昨年7月に不整脈のアブレーション治療を受けてからは、体調と精神が上向きになり、それに伴って香料の香りに対する嫌悪感も薄れていった。とはいえ現在も香料入り飲料はあまり飲まない。その延長で、香料の入った飴やガム、歯磨き粉も苦手になってきた。だから今はなるべく泡立たず味のしない歯磨き粉を使っている。石鹸や洗剤もきつい時があり、体を洗う石鹸は無香料にしている。そして今年に入ってからは、化学調味料が入った食べ物が美味しく感じられなくなってきた。正確には、美味しいとは感じるが、食べた後ずっと口の中に残る味が嫌なのだ。それが決定的になったのは、一月ほど前にスパイスカレーを初めて作ってあまりの美味しさと爽やかさに衝撃を受けてからである。スパイスカレーの話はまた今度したい。

 今のおいらは、傍目から見ると自然やエコを意識したターバン族*1のように見えるかもしれない。でも本来は、ファストフードやスナック菓子を食べたりもする。化学調味料や香料や人工甘味料を健康面を意識して避けているわけではない。ただ、なぜか美味しく感じられず避けてしまうのだ。それはとても良いことなのかもしれないが、一方で自分が食べられる食べ物がどんどん狭まっていくことに生きにくさも感じている。外に出かけてもなかなか食べたいと思うものが見つからないのだ。以前までは普通に美味しそうに見えた食べ物が、最近はあまり魅力的に見えないのである。それはある意味、食事制限みたいな辛さがある。おいらにとって、食べられるものが減ることは死に近づくことに感じるのだ。

 

*1 頭に布を巻いてナチュラルな格好をした天然素材にこだわった人々をおいらが勝手にターバン族と呼んでいる。おいらの姉もその一人。おいら自身は、ほぼ全てユ◯クロ、無◯、G◯Pの服装である。

負を感じる感覚

今日は少し短めの話をしよう。

 おいらは、楽しく明るく幸せな日常を望んでいる一方で、どこかその反対の悲しく暗く辛い状況を求めてしまう気持ちが心の奥底にある。全てが順調で何の不安も不満もなく、周囲の人々と皆仲良く、トラブルも抱えてなく、もちろん体調も良く、将来も希望に満ちている。なんていう出来すぎた状況になったら、それはそれでどこか怖いというか物足りなさを感じてしまうのだ。まあそういう気持ちは、おいらだけでなく実は多くの人にあるのかもしれない。

 実際には、全てが順調な状況になったことがない。これからもそんなことは起こらず、おいらには無縁である。だからこそ、それは夢のようなものとして純粋に憧れてもいいはずだ。でも幸せに満ちた生活よりも、どこかに寂しさや悲しさ、あるいは辛い状況がスパイスのように入っている方が落ち着くのである。

 少し具体的な話をすると、おいらが成人になって再び心臓病の治療を受け始めたのは、今から7年前の2013年2月だった。その頃のおいらは、不整脈が毎日出て日常生活にも支障が出るほど心臓が悪化していた。さすがにもうほっとけない状況と感じてようやく重い腰を上げて、当時住んでいた県内で唯一先天性心疾患の治療を積極的に行っているNC病院に診察を受けに行った。そして、医師から「来るのが遅すぎた」と言われるほど深刻な状況を告げられたのだった。

 それからの闘病生活は、体調的にも精神的にも辛いことばかりだった。当時の日誌を読み直すと、日々深刻な状況が書かれていて、今でも辛い気持ちになってしまう。だからもう二度とあの頃の状況には戻りたくない。あの頃に比べると、今は全てが順調で何の不安も不満もなく、周囲の方みんなと仲良く、トラブルも抱えてなく、体調も良く、将来も希望に満ちている(将来はちょっと不安)、という出来すぎた状況と言えるかもしれない。

 でも、時々あの頃がとても懐かしくどこか恋しく感じてしまうのである。先日も、外来の診察に行っている時、ふと思い出してじわーっと涙が滲みそうになった。あの頃は、外来診察一つでも不安でソワソワしていた。でも今はすっかりなれてしまって、近所のスーパーに買い物に行くくらいのノリで来てしまっている。よく言えば精神が強くなったということなのだろうが、見方を変えると寂しさや辛さや不安といった負の感情に鈍くなったのかもしれない。

 なんだかそれは大切な感覚を一つ失った気がして物足りないのだ。悲しく暗く辛い状況があるということは、負を感じる感覚がちゃんと働いている証拠である。おいらは、例え幸せに満ち溢れなくても、その感覚が機能し続けて欲しいと思っている。