ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

縦隔炎入院②:フォンタン循環で静脈経由ペースメーカー設置は可能か

長い間保留にしていた2度目の縦隔炎入院についてお話したい。

 入院は5月下旬から始まった。入院当初の計画から手術は最低3回を予定した。今回クリアしなければいけない課題は、①縦隔炎の感染部分を除去して徹底的に洗浄し、できるだけ菌の総量を減らすこと。②縦隔内にある人工物(ペースメーカーリードやゴアテックスシート)を除去すること。③ペースメーカー除去に先立って事前に代わりとなるペースメーカーを静脈経由で入れること。である。

 治療の経緯を時系列を追って話したい。まず最初にやることは③の事前に代わりとなるペースメーカーを静脈経由で入れることだ。心外導管型フォンタンの場合、本来は構造上静脈経由で心臓にリードを到達させることができない。だから、この時点ですでに入っているペースメーカーは心臓の外から心筋の表面にリードを設置するタイプで、リードは心臓の外の縦隔に収まっている。しかし、縦隔は菌に感染しており、さらにリードなどの人工物は菌の巣窟となってしまうため、縦隔炎を治療するにはリードを縦隔内に置いていてはいけないのだ。そこで、縦隔内にリードを置かず、本来はできない静脈経由のリード設置を試みることになった。

 このあたりは、心外導管型フォンタンの構造がわからないと、理解がかなり難しいかもしれない。だから、細かい点は無視して、ともかく今あるペースメーカーは全部取り、別の方法と場所から新たなペースメーカーを入れる必要があった。さらに細かい点を付け加えると、先に述べたように構造上静脈経由で心臓内にリードを到達できないため、新たにつけるリードは心臓の筋肉に最も近い位置にある肺動脈内の壁に設置されることになった。そのため、設置しても直接リードが心筋に届いていないため、当然ながらペースメーカーの電気刺激の伝わりが悪い。だから、かなりの高電圧をかけないと心臓に伝わらない上、携帯電話の電波が1になるかのように、度々刺激が途切れてしまうことが起こる。非常に不安定なのだ。

 静脈経由の代替ペースメーカーの設置手術は、入院後4日目に行われた。手術といってもカテーテルによる手技なので、開胸手術に比べれば圧倒的に侵襲度は低く、それでも全身麻酔下で6時間を要した。術後目が覚めると一般病棟の病室で、その夜は傷口からの出血防止のため脚や体をあまり動かせなかったが、翌朝には導尿カテーテル(おしっこの管)も取れ、立って歩いて朝から食事も取れるようになった。術後当日の夜は多少しんどかったが、これから受ける手術に比べればまだまだ全然序の口であった。

 

 長くなったので今回はここまで。もっと要約して書けばいいのだが、自分自身の記録のため、そして今後同じような手術を受ける方の参考のために、多少詳しくお話ししたい。次回はいよいよ開胸手術の話に入る。

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入院前に眺めた近所の海と空。この後、この楽園とは真逆の、死の香りが漂う戦場のような世界に突入することになった。

一つの物語が終わり、一つの物語を書く

前回の記事から、3ヶ月が過ぎた。その間何をしていたかと言うと、前回の記事の最後に書いたように縦隔炎が再燃したため、5月下旬から7月中まで2ヶ月弱入院していた。入院中や退院後は、記事を書く時間はたくさんあったが、精神的・肉体的ゆとりがなく書けずにいた。

 次に書く記事は、当然ながらその2ヶ月弱の入院の記録である。しかしそれは気楽に書けるような内容ではなく、それゆえにますます書くことが気が重かった。そして、もう一つ書けない理由があった。それは、8月末締め切りの本の原稿を仕上げなければならないことだった。

 入院中に書ければよかったのだが、今回の入院はあまりに過酷で正直とても余裕がなかった。だから入院中何度も原稿の執筆を断念して、断ろうかと思いもした。しかし一方で、それを断ってしまったら、自分の中の研究者としての希望を失ってしまいそうな気がした。そしてその希望を失ったら、病気を乗り越える気力や忍耐力も無くなってしまうかもしれない。だから、なんとしてもこの入院から生きて戻ってくるためにも、本の執筆は最後まで諦めないことにした。

 退院してしばらくは体力的に厳しくて原稿を書けなかったが、8月に入り少しずつ書き進めることができるようになった。そして、ついに昨日、一通りの原稿が完成した。しかし、まだ見直しや引用文献のチェックなどの修正が全くできていない。読み返したらもう一度書き直さないといけない箇所はたくさんあるだろう。

 というわけで、もうしばらくこのブログの記事を書くゆとりがないのが現状である。2ヶ月弱の入院は、おいらの過去の入院経験の中でもかなり苦しいものであった。だから、次その記事が公開されたら覚悟して読んでほしい。痛みや苦しさが苦手な人には危険である。

一応次回の予告を兼ねて、Twitterに以前投稿した入院の記録をここにも貼り付けておく。乞うご期待。

 

 

 

再び目覚めた小さな怪物:縦隔炎入院①-抗生剤治療編

 前回の記事から、一ヶ月以上記事を書かずに過ぎてしまった。この間、4週間弱入院していた。今回の記事は、その4週間弱の入院について記録したい。記事が書けずにいたのは、入院中であったからともいえるが、実際入院中は書く時間がたっぷりあった。しかし正直、精神的にかなり落ち込んでしまい書けずにいた。今日の記事もそうした精神面にはなるべく踏み込まず、まず事実をできるだけ淡々と記そうと思う。

 入院のきっかけは、3月から始まった。胸の正中にある手術痕の最上部のあたり、ちょうど胸骨の一番上の部分が腫れて痛み出したのだ。実は、6年前のフォンタン転換手術の直後にも同じ症状が出たことがある。

 その時の様子がこちら

susukigrassland.hatenadiary.jp

 

 そうした経験上、おいらは過去と同じ縦隔炎だと真っ先に疑った。もし縦隔炎なら治療は相当難渋する上、状況によっては命に関わる危険がある。だから、おいらは急いで救急外来に駆けつけた。そして残念ながら、後々おいらの予想は的中することになる。

 しかし、最初に行った救急外来では、大したことがないとそのまま帰された。その後数日でさらに腫れが膨らんできたため、ますます不安になり再び救急外来に駆けつけた。今度は確かに怪しいと外科の先生が集まってきて、腫れた部分に穿刺して排膿することになった。穿刺する時は、局所麻酔も結構痛いし2回刺すのは嫌でしょう、という謎の理屈に屈してしまい、麻酔なしで刺した。18ゲージ(太さ1.25mm)の太めの針を胸元に刺したので、当然ながらめちゃくちゃ痛い。インディー・ジョーンズ魔宮の伝説という映画で、呪いの人形で背中にナイフを刺されて悶え苦しむジョーンズ博士になった気分だった。

 なんとか排膿を終えると、腫れと痛みが和らぎ、次の外来まで抗生剤を飲んで様子をみましょうという方針で帰された。穿刺で取った膿は培養試験に出され、後日セラチア菌という種類が検出された。その菌は、6年前の縦隔炎と同じ種類の菌だった。おそらく6年前からずっと静かに潜んでいて、何かをきっかけに目覚めたのだろう。1000年もの間、ペジテ市の地下深くで眠っていた巨神兵のようだ。抗生剤を飲みつづけて2週間、腫れは再発することがなく、無事治ったかに見えた。しかし、抗生剤を辞めてから10日ほど経った頃だろうか、再び痛み出したのだ。

 おいらはまたすぐに救急外来に駆けつけた。そして今度こそ入院が告げられたのだった。飲み薬では効き目が弱く、少なくても2週間点滴で抗生剤を入れ続けることになった。そしてさらに悪いことに、CT検査の画像所見から、炎症部は表面だけでなく胸骨周囲とさらに縦隔内のペースメーカーリード周囲にも見られたのだ。もし、それらの炎症が菌の感染によるものであれば、ことはかなり厄介である。最悪、開胸手術をして胸骨を開き、縦隔内のリードやその他の人工物を全て取り除かないといけない。

 しかし、開胸手術はおいらにとって大変難しく危険を伴う手術になる。おいらの縦隔周囲は、過去の手術で癒着がひどく、容易には開くことができない。さらに肝臓腎臓機能が低下しているため、開胸手術に耐えられるかという問題もある。その上、リードを除去した場合、その間ペースメーカーをどうするかも難しい問題である。今あるリードを除去した後、新しいリードをすぐに設置すると、まだ縦隔内は菌で汚染されているため、また同じようにリードに菌が感染し炎症を起こしてしまう可能性が高い。だから、理想的には一旦縦隔内にはリードが完全にない状態にして、菌がなくなるまできれいにしてから、後々新しいリードを入れたほうが良い。そのためには、別の感染していない場所に、一時的にペースメーカーを設置するしかない。

 そんなわけで、開胸手術はリスクが非常に大きいため、なんとか開胸せずに治療しようという方針になった。そこで、炎症が起こり腫れている部分を数cmほど切開して排膿し、さらにその近くにある胸骨を止めているワイヤーを抜去する簡易的な手術をやることになった。ワイヤーはリードと同じく人工物であるため、菌の温床になるからだ。手術後は、傷口を縫って閉じるのではなく、過去の縦隔炎と同じように陰圧閉鎖療法を一か月続けた。この治療方法は、傷口をフィルムで覆って陰圧をかけ膿を吸引し続けて、また吸引することで肉芽の形成を促進させる治療法である。

 フィルムは週に2回交換し、その度に傷内部を生理食塩水できれいに洗浄する。洗浄するときは、食塩水であるため滲みて痛むことはないが、ガーゼで拭くために最初の頃は触れるだけでものすごく痛かった。やがて肉が形成されてくると痛みも和らいでいった。治療が功したのか、おいらの傷口は手術後は膿が出なくなり、きれいな色の肉芽が形成され徐々に自然と小さくなっていった。そして、入院開始から4週間弱たった頃、無事退院することができた。当初は予期せぬ入院な上、開胸手術の可能性まで示唆され、絶望的な気持ちになり相当落ち込んでしまった。恥ずかしながら、ちょっと気を抜くと涙が溢れてくることも度々だった。

 退院前日に、今後の治療方針について詳しい説明を受けた。まず、抗生剤の服用を3ヶ月から半年続ける。さらに予防的に低量の服用を年単位で続けるそうだ。そして、最後にこう告げられた。もしそれでもまた炎症が再発した場合は、次こそ開胸手術をしてリードを除去する必要があると。こうしておいらは、将来の恐ろしいリスクを抱えながらなんとか退院した。

 そして、今また入院している。残念ながら、退院後わずか10日ほどで炎症が再発したのだった。医師の予告通り、今度の入院は開胸手術を予定している。でも最初の入院があったおかげでその覚悟ができた。きっとおいらが覚悟を決めるために必要な時間だったのだ。それに、わずかな期間だったが退院できたことで、家族とゆっくり過ごすことができた。それもまた、気持ちを整理するのに必要だった。やり残したことはない、というと死ぬみたいだが、実際次の開胸手術は、死を覚悟して挑むつもりである。

 次回は、開胸手術の前までに、これからの予定についてできれば書いておきたい。

エバーちゃん

 おいらの祖母が亡くなったのは、20年以上も前のことだ。おいらは、祖母が大好きだった。母方の祖母は、母が小さい時に亡くなっているから、ここでいう祖母とは父方の祖母のことである。

 おいらは、常に死を身近に感じながら生きているようなところがあるので、死に対してさほど恐怖はない。でもそれは、心のどこかで死んだらもしかしたらまた大好きな祖母に会えるかもしれない、という安心感からくるような気もするのだ。

 祖母とはおいらが小学校に上がる前までは、一緒に暮らしていた。小学校に上がる時、両親と姉とおいらが団地に住み、祖母が一人別の家に住むようになった。祖母の家は最寄り駅は同じだが、駅の反対側にあり、そうしょっちゅう行ける距離ではなくなった。だから、夏休みなどの休みの時に、おいらは一人で祖母の家に遊びに行って、何泊かお泊まりした。祖母に会えるのは、本当に嬉しかった。

 そのころの祖母は、和文タイプライターという大きな機械を家に置いて、仕事をしていた。子供だったから特に何も気にならなかったが、今思い出すととんでもない機械だった。何千字も並んだ文字盤から、一文字ずつ文字のタイプ(ハンコのような金属の型)を探し出し、ロールに巻いた紙にタイピングしていくのである。文字盤は文字の大きさやフォントによって違うため、専用の作業机の引き出しの中に、何枚もの文字盤が収納されていた。つまり、祖母の家には文字のタイプが何万個とあり、祖母はそれを全て覚えて、原稿に応じて使い分けていたのだった。

 おいらが泊まりに行った時も、祖母は仕事をしている時もあった。おそらく、締め切りが迫り立て込んでいたのだろう。それなのに、おいらが遊びに来ても全く嫌な顔せず、一緒に遊んでくれたり、お出かけしてくれたりしてくれた。たまに、おいらがタイプライターの文字を文字盤から取り出してしまったり、盤の別の位置に動かしてしまうこともあった。それでも、祖母はおいらを怒ったりしなかった。

 おいらが中学になる少し前、昭和が終わろうとする頃、両親が家を買い、再び祖母と一緒に暮らすことになった。と言っても玄関から全て別々の完全分離型の2世帯住宅だった。それでもおいらは、毎日祖母と会えるようになったことがすごく嬉しかった。実際、学校が終わるとほぼ毎日、祖母の部屋に行って、祖母と一緒に宿題をやったり、テレビを見たり、祖母が趣味でやっていた絵手紙を書いたりした。

 2世帯住宅になってからも、祖母はしばらくはタイプライターを使って仕事をしていた。でもある時からパソコンを使った仕事に変わり、パソコンの仕事も短期間でやらなくなっていた。そのため、使わなくなったパソコンで、おいらがゲームをしていた。

 2世帯住宅にすみ始めてまもなく、おいらの家庭は崩壊し始め、両親は離婚に向けて毎日争っていた。そのせいか、2世帯住宅の記憶は、意図的に消去したかのように、記憶が薄れてしまっている。だから、祖母や母や父や姉が、あの頃どんなふうに普段過ごしていたのか、ほとんど覚えていないのだ。ただ、時々家の雰囲気が悪くなってくると、夜に祖母の部屋に遊びに行って、祖母と一緒にテレビを見たりして暗い雰囲気から逃避していた。そして、おいらが大学に入る少し前だろうか。祖母は、おじさん(祖母にとっての長男)の家に引っ越していった。

 大学に入ってからは、おいらは一人暮らしを始めたため、祖母とも家族とも中々会わなくなった。祖母と最後に長い時間一緒に過ごしたのは、おじさんが企画してくれた阿蘇旅行だった。おじさんと祖母と、おいらと姉の4人だけの、ゆったりとした幸せな時間だった。

 おいらが大学院生のとき、祖母危篤の連絡があった。その晩は一睡もできず、祖母の棺に入れるための絵手紙を書いた。祖母は、風呂の湯船につかりながら、脳の血管が切れて眠るように亡くなったらしい。連絡が来た翌日、おじさんの家にいき、親戚一同で祖母にお別れをした。

 祖母の死後、親から生前の祖母について話を聞き、晩年の祖母はとても寂しい思いをしていたことを知った。2世帯住宅の頃は、おいらの家族だけで外食や旅行に出かけたりすることもあり、祖母は出かけていることすら知らされずにいたこともあったらしい。おじさんの家に引っ越してからも、祖母一人で過ごす夜が多く、一人でコンビニ弁当を食べていたようだった。亡くなった晩も一人で家にいて、風呂に入っていた。

 祖母は、おいらにまさに無償の愛で接してくれた。おいらが何をやっても起こらず、おいらを常に心配してくれて、おいらといつも遊んでくれた。おいらが入院した時も、何度も付き添いで病院に泊まってくれた。でもおいらは祖母に甘えるばかりで、祖母を気遣ったり心配してこなかった。晩年の祖母の寂しさを全く気づいてあげられなかった。小さい時も、祖母の仕事の苦労をまるで理解せず、自分勝手にお泊まりに行ったり、和文タイプライターにいたずらしたり、と邪魔してばかりだった。

 でも、もし死後祖母と再び出会えたとしても、おいらは祖母に謝りたいわけではない。むしろ、やっぱりまた遊びたい。祖母の前では、いつも嬉しくて幸せな気持ちでいたいのだ。そして、多分面と向かっては言えないだろうけど、おいらが子供の頃全く寂しい思いをせずにいられたのは、祖母ことエバーちゃんがいてくれたおかげだと伝えたい。

読まれる学術書の書き方

昨年末行ったシンポジウムの講演の話を本にまとめるために、原稿を書いている。締め切りは8月末でまだしばらく先ではある。しかし、早くも書き終わるか不安で、常にそのことが頭の片隅にこびりついてしまっている。平日は仕事と家事で疲れてしまうため、書ける時間は休日のみ。でも、その休日も体を休めたかったり、体調が悪かったり、あるいは買い物に出かけたりして、なかなか書くことに向き合えなかった。そうこうしているうちに1月、2月、3月が過ぎ、いよいよ不安と焦りが膨らみすぎて抱えきれなくなってきた。このままでは、不整脈も再発しかねない勢いなので、ようやく先週から少しずつ書き始めたところだった。

 本は、専門的な研究の内容が書かれた学術書の扱いになる。しかし、渡された原稿の執筆要項には、「読まれる学術良書をつくりましょう」と大きく銘打たれ、ともかくわかりやすく読みやすく親しみやすい内容を心がけて欲しいとのことだった。言い換えれば、専門用語が羅列された超難解で硬い文章は、絶対にやめろということだった。「絶対にやめろ」はおいらが勝手に強調した表現であり、実際はもっとオブラートに包んで研究者のご機嫌を損なわないように説明してあった。だから、おそらくほとんどの研究者は、結局超専門的な学術文章を書いてくるだろう。実際、この学術書のシリーズの過去の本は、おいらが読んでも難解な専門的内容が少なくない。

 その点おいらは、圧倒的に有利である(自分で言うな)。おいらは人と話したり、文章を書くときは、常にわかりやすさを極めて重視してきた。このブログも、わかりやすい文章を書く訓練のために始めたところがある。ブログを書き始めて約4年。分かりやすさを追求した修行の成果が、ようやく今発揮されるのだ。

 それから、おいらの研究者として致命的欠点が、今回ばかりは有利に働くかもしれない。それはおいらは、そもそも超専門的な文章を書けないことである。超専門的文章を書くためには、当然ながら超専門的な知識が必要である。おいらには、語れるほどの超専門的知識がないのだ。だから自分の持っている浅い知識、幼稚な文章表現を頼りに、原稿を書かなくてはいけない。だからと言ってわかりやすい文章が書けることにはならないが、少なくても難解な専門用語を羅列することは避けられそうだ。

 研究者が超専門的な文章を書く理由として、読者に誤解を与えないように正確に表現したいからということを、よく聞く。専門用語には、厳密な定義があり、その定義を理解している人物同士であれば、誤解なく意味が伝わる。専門用語のもう一つの利点として、議論が効率的に速く進むことが挙げられる。専門用語を使わずに説明しようとすると、相当文字数が多く必要になってくるからだ。正確さと効率は、研究内容を深く議論しようとする上では、不可欠ともいえる。議論の内容がより専門的であるほど、正確性と効率が求められる。そうした場面では、言葉の意味を間違えたり誤解することは最小限にする必要があり、また次々と浮かび上がる新しい発想や課題についてテンポよく議論していくためである。

 しかし、今おいらが書こうとしている学術書は、最先端の超専門的な研究を議論する場ではない。むしろすでに終わった過去の研究、ある程度解明が進んだ研究の成果について、研究者ではない人々に向けて伝える場である。だから、正確性や効率よりも、わかりやすさや親しみやすさが求められているのである。にもかかわらず、結局超専門的な学術文章を書いてしまうのはなぜだろうか。

 おいらが個人的に感じているのは、わかりやすい文章を書くことが恥だという、研究者の間での暗黙の文化があるような気がしている。わかりやすい文章を書くことは、まさにおいらのように専門知識が足りなくて簡単なことしか書けないからだ。そんな恥ずかしさを感じてしまうのかもしれない。あるいは、より専門的で難解な内容を書くことで、自分はその専門に深く精通しているのだ、というアピールになるのかもしれない。こうして超専門的文章は知的でレベルが高い表現となり、反対にわかりやすい文章が幼稚で恥ずべき表現だとみなされるようになる。これはおいらの非常にうがった見方かもしれない。でも、今まで目にしてきた研究者の書いた文章には、どうにもそういう香りがしてしまうものが少なくないのである。そして、おいら自身の文章もどこかそうした匂いがしていそうで不安なのだ。

 だから、今回書こうとしている学術書は、専門的文章から香る研究者文化に対するおいらの挑戦である。もしかすると、おいらの原稿はあまりに幼稚な内容だ判断され、大幅に書き直しを要求されるか、酷ければ掲載不可になってしまうかもしれない。それでもいい。今オイラが表現できる最大級の分かりやすさを文章に込めようと目論んでいる。

東京都心で体験した震災:後編

前編のおさらい。東京駅で地震にあったおいらは、その後隣の駅にいた妻と子供と無事合流し、10kmほど離れた実家を目指して歩き始めたのだった。

 震災が起きた頃のおいらは、今のように心臓の調子が悪くなっておらず、人生の中で一番体力がある時だった。おかげで10kmの道のりもそれほどつらかった記憶がない。当時4歳の息子は、かなり辛かったはずだが、ほぼ全て自分の足で歩いてくれた。しかもその時息子は長靴を履いていたので、歩いているうちに足の皮が剥けてしまった。そんな大変な思いをしたのに、息子は歩いている時の記憶がないらしい。地震が起きた瞬間だけは覚えているそうだ。

 道中は、ものすごくたくさんの人々がおいらたちと同じく東京郊外に向かって歩いていた。車道はどこも車が大渋滞していた。道沿いに面したコンビニは人が溢れかえり、食品や飲料水はほとんど売り切れていた。ホテルも全て満室、自転車屋の自転車は飛ぶように売れていた。破損した建物などはそれほど多くなく、たまにガラスが割れていたり、看板が落ちていたりするのを見かけた。はっきりとは覚えていないが、信号も消えていたような記憶がある。

 途中道沿いにあった小さな中華店で食事をした。営業しているのかわからない薄暗い店内で、他に誰もお客はいなかったが、中に入るとテレビを見ていた中国人か台湾人の店員さんが案内してくれた。何を食べたかは忘れてしまったが、すごく美味しかった思い出がある。時刻は夜7時か8時ごろで、その店のテレビを見て、この地震の深刻さを改めて認識したのだった。

 11時ごろ実家に着いた。途中、荒川を渡る長い橋の上では、風が強くとても寒く、歩いた道中で一番鮮明な情景として記憶に残っている。実家では新幹線が動き出すまでの数日間を過ごした。その間、テレビで津波原発のニュースを見て、もう今までと同じ生活は送れないだろうと感じていた。その予感は、震災とは全く関係のない自分自身の体の変化によって、数年後に実現する。

 

 前編後編と2回に分けて長く書いてしまったが、震災直後のおいらの体験は、家族と一緒に10kmの道を歩いたというだけの些細な話である。人に聞いてもらったり、記録として残すほどの内容ではないかもしれない。一方で、病気や科学的知見とも共通するが、こうした些細な記録の積み重ねが、極めて大きな現象の全貌を理解する上で役立つことがある。

 震災の体験を書いたもう一つの理由は、おいらの個人的戒めの気持ちがある。あの年の4月においらは国が支給する競争的研究資金に採択され、研究費を獲得したのだった。おいらの研究テーマは、震災とはもちろん関係のない生物学の基礎研究である。社会的緊急性や必要性を考えれば、そうした実用性のない研究に税金を配分するより、震災復興に予算を当てたほうが良いのは明らかだ。そういう意味では、おいらの獲得した研究費には、決して無駄にしてはいけない重い責務がある。

 その研究費を使って、おいらは自分の研究人生の中で、最も大規模な野外実証実験を行った。その成果は従来の矛盾する2つの科学的理論を統一して説明するもので、学術論文として発表すれば大きなインパクトを生む可能性があった。しかし、大変悔やまれることに、未だその実験結果を論文として発表できていない。その分野の研究も進み、すでに時期を逸してしまった面もある。震災から2年後、心臓の調子が悪化し闘病生活が始まった。しかし病気を論文が発表できなかった理由にはしてはいけない。病気のせいではないと自分を戒め、そして鼓舞するためにも、その論文を完成させることが、おいらがやり遂げたい最後の仕事である。

都心で見た震災:前編

まもなく東日本大震災から10年になる。テレビでも連日特集番組が放送されており、もうすでに多くの人々によって語り尽くされた体験談ではあるが、おいらもあの日の体験を記しておきたい。

 おいらは2011年3月11日のあの時間、東京駅にいた。北海道で開かれた学会から帰る途中で、飛行機で羽田に着き、電車を乗り継いで東京駅の新幹線改札口に着いたところだった。改札口で、東京都内で別行動をしていた妻と子供と合流し、一緒に新幹線に乗って帰る予定となっていた。

 地震は、改札口で妻と子を待っている時に発生した。その揺れは過去に経験した地震とはまるで違っていた。大型フェリーに乗って大波に揺られているような重たい揺れだった。建物全体が傾いたのではないかと思えるほどで、天井は液体のようにグニャグニャとたわみ、その場にいたほとんどの人がしゃがみ込み壁や柱にもたれかかった。

 しばらくして揺れが収まると、さほど混乱はおきず人々は元の行動を再開し始めた。お土産やお弁当を買っている人もいた。おいらはガラケーを使っていたため、携帯でネット検索したことはこれまでほとんどなかったが、この時ばかりは情報収集のためネットに接続してみた。巨大な地震が起き、東北の海岸全域に10m以上の津波警報が出されていた。ただ事ではないことを感じ、ともかく妻と連絡を取ろうとしたが、すぐ電話もメールも不通になった。

 妻と子が今どこにいるかすらもわからず、どうやって連絡を取れば良いかしばらく悩んでいたと思う。しかし、滅多に使わなかったネット検索をしたことが功を奏した。ウェブ画面上の一番上に「災害伝言板」というアイコンが見えたのだ。アイコンを押し、指示に従って電話番号を入力すると、なんと妻がメッセージを書き込んでくれていた。妻と子は無事で、東京の隣の神田駅にいるとのことだった。おいらは、「そっちに迎えに行く」と伝言板に書き込んで神田を目指し歩いた。

 東京駅から神田までは1kmほどと近く、すぐに着いた印象がある。しかし神田駅は人々で溢れており、この中から妻と子を探すのは至難だった。人々は電車の運行状況を確認するため、構内で叫び続ける駅員のアナウンスを聞いたり、詰め寄ったりしていた。おいらは、今日はもう電車は動かないだろうと予想し、ともかく妻と子を見つけ安全なところに避難することを目指した。

 妻と子とどうやって出会えたかは正直思い出せない。ただ、あまり探し回ることなく、比較的簡単に出会えた記憶がある。会えて一安心すると、幸いおいらの実家がここから10kmほどにあったため、歩いて向かうことにした。当時まだ4歳だった息子を連れて、そんなに長い距離が歩けるかはわからなかったが、ともかく今は実家に向かうしか手段がないのだ。地震発生から合流して実家に向かい始めるまでの流れは、奇跡的なほどスムーズだったように思える。とはいえ、地震発生から2時間以上経過した。

 一話でまとめるつもりだったが、なるべく正確に書き記していくと長くなってしまった。続きはまた近日書き記したい。