ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

死までの近さ

志村けんコロナウイルス肺炎による急死によって、死が他人事ではなく急激に身近に感じた人も多いだろう。自分のよく知っている人、好きな人、身近な人が亡くなってしまうということが現実に起きたのだ。もしかすると、もっと身近な人あるいは自分自身にも、そのリスクがあるかもしれない。そんな不安と悲しみが混ざりあって、人それぞれ様々な感情が沸き起こっている。ある人は深い哀しみに落ち、ある人は怒りに転化し、またある人は故人に感謝し、そしてある人は大切な人を守りぬく決意を新たにする。感情は違えど、どれも他人を想うという気持ちは同じである。それだけ、彼は人々に愛され、また彼自身も人を想う人だったのだなと感じ、不謹慎かもしれないが感謝のような嬉しさのような、そして憧れの感情が出てしまった。これからも人々の心の中でおふざけをして笑わせてくれることを願っている。

 ところで、死が他人事でなく身近に感じるという気持ちは、先天性心疾患患者とその家族にとっては、今回始まったことではなく、常に頭の片隅に漂っている。手術をしたり容態が悪くなれば、片隅どころか頭全体を埋め尽くし、溢れ出さんばかりになりもする。おいらはこの感覚を、長年の経験と修行から、より具体的な数値によって客観的に感じられるようになった。例えば、もし死と生の間を0から10で表すとすれば、普段いるところは3、将来的な回復や改善が見込まれるときは4や5になる。しかし一方で、体調がじわじわ悪化しているときは2に足を踏み入れている。先日心室細動が起こったときは、1を切っているように感じられた。だから、思わず「死ぬの、死ぬの」と叫びながら看護師さんに尋ねてしまった。

 おそらく、若く健康な人であれば、8か9、すごい人なら10のフロアにいると感じているだろう。おいらは8から10のフロアに立ったことがないので、そこがどんな世界なのかは想像もつかないが、その世界にいる人にとっては死すなわち0はあまりにも遠い。だから死を身近に感じることは極めて難しくて当然なのだ。そこはおどろおどろしい闇の世界であり、無が支配しているのか、それとも恐ろしい鬼たちがのさばっているのかはわからないが、恐怖と絶望の世界に見える。

 おいらも0の世界がどんな所かはもちろんわからない。でも、なぜか恐怖と絶望の世界には思えないのだ。うまく表現ができないが、おいらという生き方が終わったんだなと思える世界に感じる。そこには、後悔や無念や良いや悪いといった人生の評価や感想はなく、終わりというたった一回の出来事をじっくりと味わう世界。ある意味で命の究極の答えがわかる世界なのではないだろうかとも思える。だから、楽しみとは言わないが、命あるものの宿命としていつでも受け入れる覚悟はできたつもりである。

 最後にもう一つ不謹慎なことを述べて、志村けんへのお別れの言葉にしたい。おいらも先天性心疾患とともに40年以上生きてきて、最後はあっさりコロナで死んだら冗談じゃないと思いもする。え、そこ?ちょっちょっと勘弁してよ。今までの苦労はなんだったの。ダメダメもう一回やり直し。と言いたくなる。でも、おいらの人生は、先の予想がつかない究極の場面の連続だった。だから、コロナという全く予想もしていなかった死に方もその連続線上にあるかもしれないのだ(*1)。志村けんの死は、人生は予定調和でなく、だからこそ面白いのだと教えてくれるものであった。おいらも心臓が原因で死ぬなんて予定調和である必要もないのだ。あー、でもドリフの笑いは結構予定調和だけどなぜか面白いなあ。

 

*1 予想がつかない連続線上とは、ランダムウォークという確率論をイメージしたものである。ランダムウォークの動きの中では、どんなに中心付近をうろうろ歩いていても、あるとき突然に0に落ちてしまう事が起こりうる。

スーパー患者

世間では、神の手と呼ばれる圧倒的な医療技術を持ち、不可能と思われる手術を次々と成功させていく医者を、スーパードクターと呼んで崇拝している。スーパードクターの元には、世界中から難病を患った多くの患者がすがる思いで訪ねてくる。それだけに手術が成功し絶望的だった病気が治ると、奇跡を起こした医者としてますます神格化されていく。そんなスーパードクターは、病院側にとっても大きな魅力がある。スーパードクターがいる病院はそれだけでブランド価値が跳ね上がるので、本当かどうかはわからないが、病院間でスーパードクターの争奪戦にすら発展しかねないのだ。

 スーパードクターがいるのなら、その裏面の存在となるスーパー患者がいてもいいだろう。スーパー患者は、神の体と呼ばれる圧倒的な治癒力と忍耐力を持ち、治療不可能と思われた危機的状態から何度も生還し回復する。どんなに辛い治療や検査も耐えに耐え、並の人間なら諦めてしまう状況下でも最後まで生にしがみつく。医師に言われた決まり事を厳格に守る。薬は欠かさず飲み、どんなに食欲がなかろうとどんなにまずい病院食だろうと、残さずきっちりと食べる。体力が落ちないよう自主的にリハビリに励み、治療効果が最大限に発揮されるよう、医者や看護師に全面的に協力する。そんなスーパー患者は、病院側にとっても大きな魅力があるだろう。スーパー患者を治療した病院は、極めて難しい症例を治した実績により評判が跳ね上がるので、本当かどうかはわからないが、病院間でスーパー患者の争奪戦にすら発展しかねないのだ。

 

(ミュージックスタート♪)  

 そんなスーパー患者を知ってるか?  

  えーと  

 誰か忘れてねえか 

  えーと

 大事なやつを忘れてねえか

  だれかなあ

 このおいらがそうなのよ

  えー

 このおいらこそ 立志伝中のスーパー患者

  そんなバカな

 フン このおいらは 子供の頃から苦労した

  へえー

 ちょっとのことで息切れし 度々病院出かけたぜ

 細くて見えない血管に 何度も注射を刺されたぜ

 チックチックと刺されたぜ

  子供なのにかわいそう

 なに、かわいそう?フン

 痛みを承知で検査受け 苦しみ承知で手術行く

 この度胸あってこそ スーパー患者になれたんだ

  頑張ったね

 フン 人に頭を撫でられて

 なぐさめられても病気は勝てねえ

 そうだ えー みんなそうじゃねえか

 痛みを承知で検査受け 苦しみ承知で手術行く

 この度胸あってこそ スーパー患者になれたんだ

 このおいら様は 立志伝中のスーパー患者

 

  *原曲:『立志伝中の人物』,ひょっこりひょうたん島

 

ファルコンに乗りたい

虚無感に満ちた長い3連休がようやく終わろうとしている。最初にお断りしておくと、以下に書くことは、おいらのしょうもない嘆きや愚痴であり、気持ちの整理ができないまま連休が終わろうとしているため、自分自身の記録のために書いておくことにしたものである。とても、人様に読んでいただくようなものではないのだが、おいらも煩悩に満ちた人間。誰かにわかってもらいたいという甘えがあるのだ。

 虚無感に満たされたきっかけは、息子との関係にある。連休中おいらは、ずっと息子の行動にイライラしてしまっていた。おいらの住む南の島では先週から一斉休校が解除され、今時の男子中学生には珍しく学校が大好きな息子は、嬉々として登校していった。一斉休校中毎日一人で留守番する息子は、おいらも胸が苦しくなるほど寂しそうにしていた。それだけに、ようやく学校が始まり生き生きと学校に通う息子の姿は、中学生男子であることを差し引いても、愛おしく可愛らしく輝いて見えた。

 ところが、3連休に入った途端に息子は怠惰な生活を送り始めた。彼の仕事である皿洗いなどの家事をいつまでたってもやらず、夜は遅くまでスマホをしたりテレビを見たりして夜更かしし、当然朝は起きられず、朝起きたらまたすぐスマホやテレビに向かった。おいらが天気もいいし出かけようかと提案しても気乗りをしない返事をして重い腰をあげることはなく、結局毎日何時間も友達とゲーム三昧だった。そのゲームも今は友達の家に行ってみんなでワイワイやるのではなく、それぞれが自宅でネットに繋げ、ゲームの世界の中で出会うようだった。息子の1日の大半は、スマホ、テレビ、ゲームに注がれ、今彼の目の前にある現実の世界からどんどん心が離れていくように見えた。あなたの目の前にはおいらがいるよ。美味しいご飯もあるよ。外は暖かく春の陽気に包まれているよ。友達も実物がちゃんといるよ。それらのどれも彼の心には届かなかった。つい先日生き生きとした姿を見せた息子がもうどこにも見当たらず、虚構の世界に迷い込んでしまっていた。

 それならば、おいらが叱ってゲームやスマホやテレビを辞めさせればよいのだろう。もちろんそうするときもあるが、それはそれでおいら自身が辛くなってくるのだった。それに、ただ強制的にゲームなどを制限したところで、息子を現実に引き戻せなそうに思えた。息子にとってはゲームの中の世界の方が刺激的で面白い現実なのかもしれないのだ。息子を引き戻すには、ゲームの世界より面白い現実を見せるしかない。でもそれはおいらが見せることではなく、息子自身で見つけることのようにも思える。今おいらができることは、現実の世界で淡々と確実に生きている姿を見せることだろう。

 そういうおいらも、虚構の世界にずるずると引きずり込まれつつあった。2月から、心臓くんがつぶやくという怪しい設定でツイッターを始めてみた。ブログ記事で書くには短すぎる心臓エピソードを軽くつぶやくという目的と、同じ病気を持つ人々の言葉を聞きたい、あわよくば交流したいという思いがあった。しかしいざ始めると、ツイッターに自分自身が縛られていることに気づき始めた。本当は何も言いたいことがないのに、無理につぶやいている気がする。他の人のツイートがつい気になってしまい、何度も見たり考えたりしまう。それは「同じ病気を持つ人々の言葉を聞きたい」という目的には適っているが、一方で自分自身をどこか見失っている気がするのだ。そしてまた、交流したいという目的もほとんど叶えられていなかった。フォロワー、いいね、リツイートといった悪魔の数字に翻弄され、むしろ自分の孤独感がより明確に強調されていくように思えた(*1)。

 息子の目にも映らず、広大なネットの世界の中でもほとんど誰にも気づかれない。虚構の世界に迷い込んだのはおいらなのだ。おいら自身が希望や目的や自分の居場所を見失っていたのだ。連休の最後は現実の世界に戻ろうと、ハイゼントラを打ちながら小一時間息子と話をした。生きるための点滴と生きるための会話。どちらも明日へとつながるささやかな希望だ。生きる希望を感じた時、現実は蘇った。

 

*1 twitterを否定しているわけでなく、おいら自身がうまく使えていないだけなので、twitterを利用し楽しんでいる方はどうか気を悪くしないでほしい。

クリームシチューの進化学

我が家では、中1の息子の定番料理となったクリームシチュー。前回作ってから約2ヶ月が経ち、再び作ってもらった。息子のクリームシチューが登場するのは、大体おいらの疲れが溜まっていて寒い日である。この数日もその条件に当てはまり、南の島にしては最高気温が20度を切って肌寒く、おいらは寒さと疲れであまり体が動かなくなっていた。作るときは、カレー同様に土鍋いっぱいに作り、作った当日と翌日の晩御飯まで持つようにする。おかげでおいらは、丸二日間はゆっくり体を休ませることができる。我が家にとってクリームシチューは、息子の定番料理というだけでなく、親に休息を与えるご褒美のような食べ物なのだ。

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 ところで、従来のクリームシチューのイメージは、冬の寒い日に家族揃って食べ、体も心もほっこりと温まる代表的な家庭料理である。あまりに家庭料理のイメージが強すぎるのか、外食で食べることはほとんどない。実際には、日持ちしない、作りたてが美味しい、煮込みすぎると色合いが悪くなる、といった外食には向かない技術的な要因もあるようだ。では家でならそれなりに食べるかというと、やはり上記のイメージが強すぎるのか、よほどクリームシチュー好きな人でなければ、一人暮らしの人が作って食べたり、暑い夏の日に作ることはまれそうだ。おいらも一人暮らしをしていた時は、カレーは度々作ったが、シチューを作った記憶がない。

 生物は、あまりに限定された環境に適応した性質を進化させると、その性質が仇となってその生物種の絶滅リスクを高めてしまう場合がある。例えば、ある特定の食べ物しか食べない種は、その食べ物がなくなると絶滅しかねない。反対に色々な種類の食べ物を食べている種は、食べ物の一つがなくなっても他を食べれば良いので絶滅しにくい(*1)。家族団欒のイメージがどっぷりと染み込んだクリームシチューもまた、その限定されたイメージゆえに現在絶滅の危機に瀕している可能性がある。

 現代社会を悩ます深刻な気候変動のように、家庭環境もこの数十年で大きく変動した。現在の家庭は、核家族化が進み、両親は共働きで、兄弟姉妹も少なく、磯野家のように家族が揃って食卓を囲む機会は激減している。そのような家庭では、片親が子供と食事をするか、家族全員がバラバラの時間に食事をとることすら珍しくないであろう。そうした食環境の中で、家族団欒のスペシャリストとして適応したクリームシチューに、もはや出番はない。クリームシチューは、日本の食卓からひっそりと失われていく運命が迫っているのだ。

 だが、全国1000万人のクリームシチュー好きの皆さん。安心してほしい。おいらと息子はクリームシチューに新しい活路を見出したのだ。そう、最初に書いたように子供の定番料理にすることだ。それにより、クリームシチューは家族団欒のイメージから脱却し、親の休息という現代社会で最も求められている状況に適応できるのだ。子供が作るなら、あえてクリームシチューでなくても、似たようなカレーでもいいんじゃないかと思った方もいるだろう。だがカレーはクリームシチューには絶対に勝てない。カレーは国民食としてあまりに日本社会に浸透した結果、調理法やルーの味、見た目、風味などが多種多様に分化した。もはや子供でも作れる気軽な料理ではなくなったのだ。それに対し、クリームシチューは材料もルーも調理法もほとんど変化がない。玉ねぎを飴色になるまで炒めたり、肉の種類を変えたり、辛さを変えたり、スパイスを加えたりといった手間や工夫も必要ない。簡単に大量に作れて、そしてたまに食べるとすごく美味しい。この絶妙なバランスが、子供の料理として完璧にフィットするのである(*2)。

 仕事を終えて家に疲れて帰ってきたとき、中学生の息子がクリームシチューを作って待っていてくれた時の幸福感は、筆舌に尽くしがたい。クリームシチューは、疲弊する現代の日本社会において、束の間だがかけがえのない安らぎを与えてくれる料理として進化する可能性を秘めているのだ。

 

*1 実際には餌資源が特殊化している種は、他の種が利用できないような餌資源(毒のあるものなど)を利用している場合が多く、その場合他種との餌をめぐる競争が起こらないので、非常に有利にもなる。

*2 さらに言えば、クリームシチューは外食で食べないため、プロがつくる味と比較することがなく、多少下手に作ったとしても、美味しく感じられるのだ。

多様性という試練

人類は、これまで生物が生み出す多様性に散々悩まされてきた。あえて強引に言ってしまうならば、人類史上に起きた様々な問題は、いずれも多様性が発端になっていると言えなくもない。例えば、おいら達が抱えている先天性心疾患という病気。もし、全ての人間が皆正常な心臓を持って生まれてきていたならば、人類は先天性心疾患に悩むことはなかった。でも現実はそうではなく、およそ1%の割合で先天性心疾患を持つ子供が生まれ続けている。そして、先天性心疾患にも多種多様な種類があり、それゆえに心疾患の治療を複雑かつ難しくしている。

 最近はだいぶ認知されてきたLGBTも性の嗜好に関わる多様性の一つである。もし、全ての男性が女性を好み、全ての女性が男性を好んだなら、LGBTという言葉すら生まれず、そこから生じる様々な差別や偏見などの問題は生じなかったであろう。しかし、それも現実はそうならなかった。そもそも性別自体が生物が生み出した多様性の一つであり、性別によってもやはり差別等の問題が生じている。

 性や病気に関わることだけではない。人種、文化、性格、体型、知能など人間にみられるあらゆる多様性には、何らかの問題が発生している。むしろ、多様性のない特徴はなく、多様性があるがゆえにその差を巡って人々が争っている。どうして、全ての人が均一に同じにならないのだろうか。そこには生物に課せられた宿命がある。

 生物は、生物進化の過程で多様性が増大する方向に突き進んできた。生命史上、生物種の大量絶滅によって一時的に多様性が減少することは度々あったものの、絶滅の後にはリバウンドするかのように、爆発的に生物の多様化が進んだ。なぜ生物の多様性は増大するのかは、生物学者にとって永遠の謎と言える深いテーマであるが、生物が地球上で生き残るために多様性が不可欠であることは疑う余地はないだろう。今人類を悩ませている新型コロナウイルスのような病原体に対しても、多様性がなければ克服できない。病原体は、宿主の個体を時に死に至らしめるが、やがて宿主の種の中から病原体抵抗性の遺伝子を持った個体が生まれてくる。もしそうした変異個体が現れなければ、宿主の種は絶滅するリスクがある(*1)。

 生物が生き残る上で多様性が必要不可欠であるならば、なぜ人類はその多様性に時に振り回され、争うのだろうか。本当は、人類に見られるあらゆる多様性も、人類が生き残る上で不可欠なものなのかもしれないのだ。先天性心疾患もその一つなのだろうか。誤解のないように言うならば、先天性心疾患は、人類を含む哺乳類が極めて機能性の高い2心房2心室性の心臓を獲得したがゆえの宿命だったのではないだろうか(*2)。もし複雑な構造の心臓を持たなければ、魚や爬虫類と同様にはるかに死亡率が高く、生きられる環境が限られ、そして絶滅するリスクも高かったはずだ。大量の血液を必要とする脳を発達することもできず、結果科学も医学も生まれなかった。

 とはいえ、先天性心疾患を肯定的に捉えることは極めて難しい。実際それが原因で亡くなられる人も多く、おいら自身散々苦しんで辛い経験をしてきた。でも多様性の負の面だけを見ていては、人類が抱える問題や悩みはなくならない。多様性には正と負の両面があり、正の面をどう生かすかが人類に課せられた試練なのだと思う。だからおいらは先天性心疾患を習熟したフォンタンマスターを目指すのだ。

 

*1 現実には、病気抵抗性を持つ個体が誕生するのを待っているわけではなく、すでにその種の中に膨大な遺伝的多様性が蓄積されており、その中に抵抗性を持つ個体が存在している。あるいは、免疫細胞自体が多様な抗原に対抗できるような性質を持っている。

 新型コロナウイルスに対しては、治療薬やワクチン開発(ウイルスタンパクをコードするDNA配列を作成し、その配列からウイルス抗原を大量に生産する)の研究が現在進められている。

*2 2心房2心室性の心臓でなぜ先天性心疾患が生じるのかはわからないが、構造が複雑になる程、発生過程での異常が起こりやすい可能性がある。またこの説明では、先天性心疾患は心臓の複雑化に伴う副産物でできた多様性であり、生物が地球上で生き残るために不可欠な多様性には当てはまらなくなる。実際そうなのかもしれないが、おいらは、全ての多様性には意義があるという前提に立って先天性心疾患を理解したいのだ。

大規模データの分析でわかった現代の成人先天性心疾患患者の生存の見通しと死因

前回の記事では、先天性心疾患患者へのウイルス感染症の脅威についてはわからないと述べた。しかし、わからないと言ってそのまま調べずにいるのは、3流研究者とはいえ研究者の名が廃るので、この連休を使って文献を調べてみることにした。今日はその成果を紹介したいと言いたいところだが、残念ながらおいらの力不足により、人様にお話できるほど整理することができなかった。ざっとわかったのは、SARSなどの従来のコロナウイルスや、RSウイルス(乳幼児が罹りやすい呼吸器感染症を引き起こすウイルス)、インフルエンザウイルス、アデノウイルス(風邪症状を起こす一般的ウイルス)、など呼吸器疾患を起こす感染症はいずれも、心臓疾患を持つ人ほど重症化しやすく、致死率も高くなるということだ。しかし、おいらが特に知りたかったことである「心疾患の病態によって重症化の度合いや致死率がどう変わるか」について記載している文献は見つからなかった。

 そんな中、感染症とはあまり関係がないが、成人先天性心疾患患者の余命と死因を極めて詳細に分析した大変興味深い文献が見つかった。本来の感染症の代わりにはならないが、今日はその論文を紹介したい。

 

Diller GP. et al. (2015) Survival prospects and circumstances of death in contemporary adult congenital heart disease patients under follow-up at a Large tertiary centre. Circulation 132: 2118–2125. *1  

背景:先天性心疾患患者の平均余命は過去数十年で劇的に改善され、実際現在では患者の90%以上が成人まで生存できるようになった。しかしながら、そうした医学的進歩にも関わらず、病状が悪化し長期生存率が低下する傾向がある。本研究では、ロンドンのロイヤルブロンプトン病院において診察されていた全成人先天性心疾患患者のデータを用いて、患者の生存率と死因を明らかにした。

方法と結果:1991年から2013年の間に、当施設でフォローアップ中の6969人の成人先天性心疾患患者(29.9±15.4歳)を対象にした。患者は病態によってグループ分けした。生存率はイギリスの一般的人口の生存率と比較した。追跡期間は約9.1年(中央値)で、その間に524人の患者が死亡した。主要な死因は、慢性心不全(42%)、肺炎(10%)、心臓突然死(7%)、癌(6%)、および出血(5%)で、周術期死亡率は比較的低かった。単純心疾患患者は、一般人口と同様の死亡率を示したが、アイゼンメンジャー症候群、複雑心疾患、フォンタン循環患者の長期生存率ははるかに低かった。患者の年齢が上がると心臓が原因の死亡は減少したが、癌や肺炎などの心臓以外の原因で死亡する患者の割合は増加した。

結論:成人先天性心疾患患者は、年齢が上がるにつれ一般人口と比較して死亡率が増加する傾向があることが示された。

 

 上記の要約では全体の傾向しか書いていないが、実際の論文中では個別の病態(心房中隔欠損、動脈管開存症心室中隔欠損、マルファン症候群、弁膜症、大動脈縮窄、エブスタイン、ファロー四徴症、大動脈転位、右心室体循環、アイゼンメンジャー、フォンタン、等)と各死亡要因での死亡率の関係が詳細に示されていた。例えば、フォンタン患者(180名)の場合、心不全(52%)、突然心臓死(13%)、がん(3%)、周術期死亡(19%)、出血死(3%)、敗血症/感染(3%)、肝不全(3%)となっている。一方で、肺炎、脳障害、大動脈解離・剥離、心筋梗塞による死亡は見られなかった。これらの非心臓性死因は、比較的高齢で発症するものであり、逆に言えばフォンタン患者は高齢になる前に心臓が原因で死亡していることを表していた。

 さらに興味深いのが、各病態での実年齢が健常者の何歳に該当するかを予測した結果である。これは正確に言うと、ある年齢の心疾患患者の死亡率と同等の死亡率を示す健常者の年齢を表したものであった。例えばフォンタン患者の20歳、30歳、40歳、50歳、60歳の死亡率はそれぞれ、健常者の64歳、68歳、75歳、82歳、91歳の死亡率と同等であるということであった。つまり現在43歳であるおいらは、健常者で言えば77歳くらいになるのである。

 おいらは以前から50歳の寿命だと予想していたが、この研究結果によればそれは82歳と同等であり、日本人男性の平均寿命81歳とほぼ一致する。だから50歳はおいら的には十分天命を全うした年齢なのだ。なんて満足していてはいけない。この研究に従えば、もしおいらが80歳以上生きることができれば、現在の男性世界最高齢112歳を凌駕することになるのだ。よっしゃー、いっちょやったるか。と言ってる間に、コロナでころっと死んでしまったらごめんなさい。

 

*1 本論文は以下のリンク先に無料で公開されている。 https://www.ahajournals.org/doi/full/10.1161/CIRCULATIONAHA.115.017202

先天性心疾患者にとって新型ウイルスはどれほど脅威なのか

随分と大げさなタイトルだが、結論から言うとわからないというのが今回の話である。現在、世界中で拡散している新型コロナウイルス。ニュースなどで報じられている話では、基礎疾患がある人、心不全がある人などは感染した場合重症化するリスクが高く、特に注意が必要だそうだ。おいらは、言うまでもなくまさにハイリスク人物であり、周りの人もおいらが感染しないかととても心配してくださる。しかし、当の本人は過去の経験から、感染症に対してあまり恐怖を感じず楽観視してしまっていた。

 未だ理由がわからない謎の一つに、おいらはこれまであまり感染症にかかってこなかった(注1)。家族や職場の人が風邪を引いたりインフルエンザに罹ったりしても、なぜか感染することがなかった。基礎疾患がある上、ステロイド剤を飲んでいて免疫力も低下しているので、真っ先に感染してもおかしくないはずだ。昨年極めて久しぶりにインフルエンザにかかった。しかしそれも楽観視して油断し、先に発症していた息子と丸一日同じ部屋で過ごし、同じ布団で寝たりして超濃厚接触したためであった。幸い軽症で済み、熱もさほど上がらず1日で回復した。それもまた不思議だった。それ以前にインフルエンザにかかったことは記憶のある限りなかった。きっと、大病を患う人は神様が小病にかからないようにしているのだとか、バカは風邪引かないというようにおいらがバカだからだ、などと非科学的な理由を考えたりして、それ以上理由を追求することはしなかった。そんな経験から、コロナウイルスに対しても無根拠に楽観視していた。

 そんなとき、職場の同僚から発熱と咳の症状が出たため休むという連絡が入った。いつもなら、お大事にしてくださいと返事をして終わるところだが、「新型ウイルスの可能性もゼロではないと思いますので、もし可能でしたら医療機関に受診して検査してみてください。」と書いて返信メールを送っていた。送ってから、実はすごく不安になっている自分に気づくとともに、なんだか失礼なことを言ってしまったのではないかという後悔の念が沸き立ってきた。まだ、発症して1日程度であり、新型ウイルスかどうかは全くわからない段階で、自分の身の安全だけを考えて同僚を疑っていることに罪悪感を感じた。それに現時点で安易に医療機関を受診すれば、返って混乱の元になるだけかもしれないのだ。

 本当にすべきなのは、根拠なく楽観視することでも、過剰に反応して不安を募らせることでもなく、冷静に客観的に現状を把握することなのだ。科学者であれば、客観性と論理性を最も尊ぶべきなのに、おいらのコロナウイルスへの反応は恥ずべき態度であった。現時点においてコロナウイルスに関するデータは十分蓄積しておらず、リスクを正確に評価することは多くの研究者にとって難しいことであろう。だから、研究者の中でも楽観論から悲観論まで両極の意見が出ている状況である。おいらの少ない知識と思考力で考えられることは、今コロナウイルスのリスクを一般論化することは無意味であるということだ。この新型ウイルスが脅威になるかどうかは、その人の健康状態や置かれた環境、地域、生活習慣、食生活、行動範囲などによって全く異なる。その上で、おいらの場合はたとえ現実の感染リスクが極めて小さいとしても、もし感染した場合の重症化や致死のリスクは非常に高いため、同僚には申し訳ないが過剰な反応もせざるを得ないと思いもする。

 あまりまとまりのない文章になってしまったが、おいら自身の気持ちは整理できた。明日から楽観視をなどせず、もっとしっかりとした防護策を立てることにしよう。

 

注1:感染症にかかってこなかったというのは本当は正しくない。おいらは、フォンタン転換術後に手術創から菌が感染して縦隔炎を起こし、その治療に一年近く要したことがある。