ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

VAC to the future

少し古い話だが5年前のTCPCフォンタン転換手術の時について、再び思い出話をしたい。 これまでに術前から一般病棟までの過程は以下の記事でお話しした。 

入院前:避けられない手術

入院後手術まで:人工心肺、結構心配

手術の状況:血の海を渡ると地獄

手術直後:ひとりじゃない

術後ICU永遠に続く砂漠

一般病棟帰還: ICUは命のゆりかご

一般病棟での生活:水と緑の豊かな病室

 

 こう整理すると、もうすでに語り尽くしたような感じもするが、今回は術後しばらくして起こった縦隔炎の話である。この話はすでに「水と緑の豊かな病室」の記事の中である程度書いているのだが、その詳細について記録のために記しておきたい。

 縦隔とは肺・大動脈・胸骨等の間にある空間を指し、その空間に炎症が起こったものを縦隔炎と呼ぶ。心臓・大血管手術後に1%ほどの割合で生じる重篤感染症とされる。もし細菌が縦隔周囲にある人工血管などの人工物に付着すると、抗生剤が効かずそこを苗床にして感染症が悪化してしまう。最悪再手術をして人工物を全取り換えしなくてはいけなくなる。

 タイトルにあるVAC (Vacuum Assisted Closure療法システム)とは、陰圧閉鎖療法のためにKCI社が開発した装置の名前であり、おいらは縦隔炎治療のために通算3ヶ月ほどお世話になった。それで陰圧閉鎖療法とは何かと言うと、肉がむき出しになる程のズタズタな創傷を受けた場合に、その治癒を促進させる治療法である。あまりにひどい創傷は、自己の治癒力だけでは完治が極めて困難である。そのまま放置していれば創部から新たな感染症にかかるリスクも高いため、なんとか治癒を促進させようとこの治療法が編み出された。原理は比較的単純で、創部を保護材とフィルムで密閉しひたすら吸引することで、肉芽の成長を促進させるというものだ。つまり、傷の部分を吸って吸って吸い続けるというわけである。

 おいらがこの装置を使うことになったきっかけは突然訪れた。TCPCフォンタン転換手術10日ほど経った時だった。すでに数日前にICUから一般病棟に戻り、介助して貰えば車椅子でトイレまで行けるまでになっていた。おいらは大きい方の用を足そうと力んでいると、胸の手術痕のところからヌルヌルと黄色い液体が垂れてきたのだ。一瞬こんなところからおしっこでも出たのかと馬鹿げたことが頭によぎったが、すぐ冷静になって手術痕を見てみると、傷に貼り付けたフィルムの内側にたっぷり液体が溜まっていた。液体は止まる様子がなく収まりきれなくなった分が隙間からあふれ出ていた。

 検査の結果、手術痕から感染症が起こり縦隔炎になっていることが判明した。CRPが9以上に跳ね上がり、血液培養検査により血中内に細菌の存在が確認されたため、すぐに抗生剤点滴治療が始まった。さらに創部を切開し、VACを用いて膿を吸引し続けることになった。

 VACをやるには心臓外科医や循環器内科医だけでは専門外であったため、整形外科の医師が呼ばれた。おいらは彼らに囲まれながら処置室に運ばれ、創部に局部麻酔を打たれ、メスで切開された。膿は手術痕に沿って2箇所から滲み出ており、それぞれ切開された。切開は胸骨がむき出しになる程深くなった。膿んだ肉はすでに神経が通っておらずあまり痛みを感じなかったが、逆に正常な肉は切るときに鋭い痛みが襲った。そしてVACが装着された。VACは初期の携帯電話のほど大きさで、持ち運びができるよう専用のショルダーバッグがついていた。整形外科の医師が、傷口の形に合わせ、スポンジ状の黒い保護材を切り取り、傷の上に被せていった。その上から密閉されるようにフィルムを貼り付けた。フィルムの中心部分にはチューブが繋がっており、中の空気が吸いだせるようになっている。チューブをVACに繋げ電源を入れスイッチを押すと、フィルム内の空気が一気に吸い込まれ、胸がきゅうっと痛くなった。

 VACのフィルムと保護材は3日に一度新しいものと交換した。その度に創部を消毒し、創部の穴深くにピンセットを差し込んでほじくられた。何度か切開を追加し、最終的には切開部分が10cm以上になった。一番きつかったのは胸骨を縛るワイヤーの一本を引き抜いたことだ。切開処置は、毎回処置室という名の拷問部屋に連れていかれてされる。おいらはおぞましい拷問の間、看護師さんの目を凝視して助けを乞うた。別の看護師さんはおいらの手を握ってくれて、おいらも恐怖に打ち勝とうと強く握り返した。もう相手が誰であろうとともかくすがりたかった。そのくせ、処置が終わり自分の病室に戻った時は、ダースベイダーの拷問から戻ってきたハンソロになったつもりで、「耐え抜いたぜ」と家族の前では余裕をかました。

 最終的には、電源が必要ないバネ式の小型な装置に交換され、退院後もひと月ほどつけ続けた(*1)。最初の頃は膿が1日に200〜300mlほど吸い出され続けたが、徐々に膿が出なくなり、傷も小さく閉じていき、人工物への感染の恐れもなくなった。おいらの未来はVACによって切り開かれたのだった。

 

*1 この時は入院時と退院後の2ヶ月で終わったが、その半年後再び縦隔炎を起こし、また一ヶ月ほどつけることになった。