ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

マイペースな愛情

この時期にこんなのんきな話をしても99%の人が興味を引かないだろう。だからこそ、時代に流されないマイペースな話をしてみたいのだ。そう、おいらのもう一人の心の師匠で、ある意味マイペースを貫いた人物チャーリー・ヘイデンの話である。

 ヘイデンってどなた?と思った方も多いだろう。この時点でこの記事を読もうとしてくれる方の約半数は興味を失ったかもしれない。先日お話ししたおいらの一人目の心の師匠チャーリー・チャップリンに比べると、ヘイデンはるかに知名度は低い。チャーリー・ヘイデンとは、今はなきジャズベーシストの巨匠である。ジャズかあ。しかもベースなんて全然知らないよ、とさらに残った人の半分が脱落しただろう。

 今までこのブログではあまり書かなかったけれど、おいらは学生時代ジャズサークルに入りベースを弾いていた。そのころ、チャーリー・ヘイデンはおいらの一番の憧れの存在であり、ヘイデンのような演奏をしたくて彼のベースをひたすらコピーしていた。なんだ、同じ楽器を弾く憧れのミュージシャンだから師匠なのか。ごく普通のことじゃないかと、さらにここで半分くらいの人が興味を失ったに違いない。

 まあそう見捨てないでほしい。ではヘイデンのどこが素晴らしいのか。もちろん音楽的に素晴らしいことは言うまでもない。深いコクのある重い低音。アンプなどで極力増幅しない生音に近い木の響き。巨人が歩くようなもったりとしたビート感。早弾きや高音域の演奏といった超絶技巧を全くせず、リズムも時に無視し、スカスカに間の空いた演奏スタイル。それは、ちょっと聴いた限りではとても上手には聴こえず、すぐ真似ができそうに思ってしまう。しかし、なぜか全く真似できない。そんなわけで、過去から現代に至るまで、ヘイデンはどの時代の流行にも属さず、誰にも真似できない唯一無二の音を奏で続けたベーシストなのである。

 はい、わかりました。個性的なミュージシャンなんですね。それならおいらのようにコアなファンがいてもなんの珍しくもない話でしょう。とさらに半分の人が離脱したはずだ。しかし、ここからがおいらが師と崇める最大の理由である。チャーリー・ヘイデンの音は底なしに温かく優しい。聴いている人を包み込んでくれる。心が寂しい時に聴けば慰めてくれ、疲れた時ならゆりかごに揺られているように心地よい気持ちになる。たとえ今どんな辛い状況にあったとしても、生きててよかったなと思わせてくれる。そして何より、他人への攻撃的な気持ち、怒り、恨み、憎しみが薄れていくのだ。

 そうした気持ちになれるのは、彼の演奏がまさにそうだからである。ジャズの世界では少なからず共演者と競い合う演奏をしたりする。ジャズのジャムセッションで即興演奏を繰り広げることを、競演と表現したりもする。自分の演奏技術、アドリブ演奏を共演者や聴衆に誇示するのだ。しかし、チャーリー・ヘイデンの演奏にはそうした競争心が全く感じないのである。それどころか、他の人がどんな演奏をしようが、全くお構い無し。常に自分のペースと自分のスタイルの演奏を黙々と引き続けるのだ。多分世界が終わろうとする瞬間になっても、彼は自分の演奏スタイルを変えないだろう。

 なんだ、自己中な演奏家かあ、と幻滅した人もいるかもしれない。これで残りの半分の人もいなくなったかな。でも違うよ。チャーリー・ヘイデンは決して自己中じゃない。本当は他人と演奏できる幸せに深く浸っているのではないかとおいらは感じる。言い換えれば共演者への愛情を強く感じる演奏なのである。マイペースに聞こえる演奏は、相手に心を許し、自分のありのままの姿を相手にさらけ出している証なのだ。そうしたヘイデンの気持ちが共演者にも伝わるのか、どの共演者も普段の緊張に満ちたジャズ演奏では決して見せないとてもリラックスした演奏をしている。学生の頃のおいらは、素直に相手に愛情を示すなんて恥ずかしくできなかった。あなたのことが好きです。とても大切に思ってます。そんなことは言葉でも演奏でもとても表現できなかった。だから、ヘイデンの音を真似できなかったのだ。

 今のおいらならできるだろうか。いや、できない。それは恥ずかしさも少しあるが、自分自身の方が他人の愛情を欲してしまっているためだ。うわ、愛に飢えたキモいおっさんじゃないか。これでさらに残りの読者のほとんども興味を失っただろう。ほら、読者が半分の半分の半分の半分の半分に減り、最後に残ったわずかな人も失い、結局99%の人が興味をなくす話だったでしょう。ごめんなさい。チャーリー。あなたの良さをうまくお伝えできなくて。

 でも、最後まで残ってくれた1%の方のために、チャーリー・ヘイデンのとっておきアルバムを何枚か紹介して終わりにしよう。

 

ミズーリの空高く』チャーリーヘイデン&パッとメセニー

しみる。ともかくしみる曲の連続。これを聴いて一日中泣いた友達がいた。

 

ノクターンゴンサロ・ルバルカバチャーリー・ヘイデン

じとっとした気だるい暑い夏の夜にぴったりの作品。一晩中ゆっくりと酒を嗜みたくなるよ。

 

『Jasmime』キース・ジャレットチャーリー・ヘイデン

ヘイデン晩年の作品。長い長い音楽家の人生をキースとチャーリーがしみじみと語り合っているような演奏。楽しいことも辛いことも全部いい思い出。

 

『Long Ago And Far Away』チャーリー・ヘイデンブラッド・メルドー

同じくヘイデン最晩年の作品。ブラッドメルドーのとげとげしさ冷たさが一切取り除かれた、ゆったりとたゆたう演奏。特に3曲目のワルツは、まるでコロナの混沌が終息し世界中に平和が戻った後、あの時代を懐かしむような気分にさせてくれる。