ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

ひとりじゃない

目覚めると、視界ははっきりしなかった。見える物は全てがぼやけ、光のスジが何本も見えた。徐々に感覚が戻ってくるにつれ自分の置かれた状況がわかってきた。口には呼吸器が入り、しゃべることもできない。ベッドの上に寝ているのはわかるが、全身ほとんど感覚はない。ピコピコと心電図の音や呼吸器の轟音がうるさくなり続けている。あとでわかったことだが、光のスジは天井についている蛍光灯の明かりがぼやけてスジのように見えたのだった。

 ふと、誰かがベッドサイドにきて、おいらの手を握り声をかけてきた。何人かいるようだ。だがそれが誰なのかははっきりしない。親なのか妻なのか、それとも医師か看護師なのか。あとでいわれたが、そのときのおいらは大分間違って認識していたらしい。ともかく親族の誰かが声をかけてくれたのだろうと思い、何か話そうとした。しかし、呼吸器が邪魔で声が出ない。そこで、ノートに文字を書こうとしたが、自分で書いている字が見えず、ぐちゃぐちゃになってしまった。そこで、文字盤を用意してもらい、指指しで一文字ずつ伝えることにした。だがそれも自分の指が見えずにどこをさしているかわからない。なかなか伝わらずおいらはといらついた。

 その後どのくらい時間が経ったのだろうか。数時間かあるいは一日か、やっと呼吸器が外された。呼吸器をはずすときは、のどの奥まで挿入された固いパイプを外すため、かなりきつかった。外した後ものどが痛み、口も自由に動かなかった。声を出そうとすると、宇宙人のようなかすれた声が出るだけだった。

 これは二年前の2015年6月に、フォンタン再手術を受けた直後の目覚めたときの状態である。今となってはかなり記憶が薄れてしまった。手術直後といっても手術後数日は麻酔で寝ていたので、実際は2日くらい後のことである。記憶が薄れたとはいえ、やはりそのときの状態はあまりに苦しかった。手術前から大手術になり術後もかなりつらい思いをすることを覚悟していたが、現実は想像を絶するものだった。痛みと苦しみが暴風雨のように全身を襲ってきた。絶望的なこの状況から逃げ出したかったが、どうすることもできずともかくひたすら我慢して時が過ぎるのを待つしかなかった。時間が経てば少しずつでもきっと楽になる、そう希望を持ち耐えに耐えた。少しでも気を緩め気持ちが負ければ、途端に気が狂ってしまいそうだった。一息一息全身で呼吸し、呼吸に全神経を集中させた。

 このときのおいらは、死に限りなく近かった。無数の点滴やドレーンにつながれ、鼻には酸素吸入器がついて、ものすごい勢いで酸素を送っていた。まるでドライヤーを当てられているようだ。常にバイタルをモニターされ、24時間態勢で看護師や医師が監視していた。そんな状況の中、もしわずかでもこうした生命維持が止められたら、おいらは一瞬で死ぬだろうと強く感じたのだった。自力で命を維持する力は全くなかった。おいらの肉体はもはや生命体ではなく感じられた。実験で細胞だけが生きている臓器のようなものだった。そこから、生物として自力で命を維持するまでに回復するのは絶望的に遠く感じられた。でもそういうときこそ耐えるしかなかった。おいらにできるのはただ我慢して耐えること。耐えるといっても歯を食いしばって我慢するのではなく、苦しみや痛みに逆らわず今の状況に身を委ねじっとしていることだった。気持ちが折れずにそれを続けていればいつか回復する。そう信じた。そう信じられたのは、医師や看護師や家族が全力でおいらの命を救おうとしてくれていることがひしひしと伝わってきたからだ。もはや職務や責任を超え、心から助けたいという思いが伝わった。赤の他人のおいらを、なぜそこまで命を守ろうとするのか不思議なくらいだった。

 こうしておいらは救われた。我慢のかいがあり、希望通り少しずつ回復していった。その後の回復期も我慢の連続だった。水分制限でからからに口が渇いた。手術の傷口の消毒やドレーンを抜いたりなどは激痛だった。後に傷口が化膿し、切開したりなど新たな痛みが襲った。筋力が失われ歩行練習などのリハビリが続いた。でも、毎日少しずつ回復していく実感があった。

 フォンタン手術を始め先天性心疾患の開胸手術は、ほとんどの場合子供の頃に行われる。最近はフォンタン手術も3歳くらいまででやってしまうそうだ。おいらの最初のフォンタン手術は13歳のときだった。子供の方が術後の回復が早く、体の負担も少ないからだ。また、苦痛のコントロールもしっかりやるので、手術もそれほどしんどくない。実際おいらも、ファミコンをもらって入院最高と思うほど、お気楽だった。しかし、大人になるとそうはいかなくなる。おいらのフォンタン再手術も相当手こずったらしい。まず、子供の頃の手術の影響で心膜と骨の癒着がひどく、それを剥がすだけで5時間以上かかった。結局全体で22時間の手術となり、さらにその手術で出血が止まらなくなり、出血を止めるため2日後に再び5時間の手術を受けた。冒頭の目覚めは、その二つの手術を終えた後の話である。

 おいらのように旧式のフォンタン手術を受け、現在成人になっている人は何らかの合併症がでるとフォンタン再手術を受ける可能性が高い。おいらは比較的高齢での再手術だったため、なおさら苦労したのかもしれないが、だれであれ大人になってからの再手術はかなりの苦痛をともなうだろう。それは子供の頃とは比べ物にならない苦しみである。もしこれから再手術を受けようとしている人がこの文を読んだら、憂鬱になるかもしれない。でも、楽だったとか気休めのことはいえない。相当の覚悟が必要だと思う。

 こんな苦しみは本来受ける必要はないし、受けなくていいものだ。でもおいらはこの手術によって、それだけの価値のあるものを得たように思う。普通の生活の中では到底得ることのできないものだ。おいらは、この手術の前と後ですべてが変わったように感じる。身体も精神も考え方も行動もすべてが変わった。中にはいい意味でない変化もある。例えば筋力の衰えや腎肝機能の低下などは、未だに引きずっている。体が動かなくなり日常生活は格段に不便になった。一方で、不整脈がなくなったり、蛋白が安定したりなど改善した点も多い。

 想像を絶する苦しみを味わい、日常が不便になった分、些細なことに喜びや幸せを感じるようになった。手術後初めて口にした水分には、これまでの人生の中で最大と思えるほどの快感を感じた。わずか数十CCだったが、全身に染み渡るようだった。管が一つとれ、苦しみが少し減るたびに感動した。だが特に繊細になったのは、人の優しさだった。家族や医師や看護師さんに少し優しくされるだけで、涙があふれた。その涙には、感謝の気持ちと助けてという気持ちと、生きている実感を得た感動の気持ちなどいろいろ含まれていた。それがちょっとしたことであふれてしまうのだった。以前のおいらは、他人の優しさや感情に半ば無関心だった。どんなに親切にされても、感謝の意を示さず、当然のように振る舞っていたと思う。今もまだそういう面があるかもしれないが、それでも手術後に少しでも人の親切に気づくことができたことがよかった。それはこれからのおいらの人生を明るく照らす光のスジにちがいない。

 これから再手術を受ける方には、手術は地獄のように苦しいが頑張って欲しいと心から願う。きっとあなたの周囲には、全力で命を救おうとしてくれる人々がついていてくれるはずだ。決して一人ではない。