ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

ICUは命のゆりかご

約一月ぶりになるが、再手術の話を再開しよう。前回までに2度の手術を終え、ICUで目が覚めてから3日目になったところまでお話しした。そして3日目。いよいよICUが出られることになりそうだった。ほとんどの医療ドラマでは、ICUの生活が描かれることはないが、患者にとってそこはある意味最もドラマチックな展開が起こるのである。

子供の頃の手術もそうだったが、手術後のICUにいる時が最も辛い。痛くて苦しいだけでなく、窓がないので時間の感覚もなく、身体中に点滴やコード類が絡み付いていて身動きが取れず、四六時中医療機器の電子音がなりっぱなしでうるさく、喉も乾き、食事も取れず、ベッドの上に横たわったままただひたすらじっと耐えるしかないのだ。かといってテレビを見たり本を読んだりする余裕はないので、ものすごく時間が経つのが遅い。実際は3日間だったが、何週間もいたような気がしてしまう。

 しかし、3日目はやることが詰まっていてどんどん時間が過ぎていった。まず、朝9時ごろ家族が面会に来た時に、やっと水分を70ccほどまとめて取ることが許された。家族に買ってきてもらったスポーツ飲料を口に含むと、冷たくて甘くて、美味しいというよりも、火傷を水で冷やしているかのように、体の苦しみが和らいだ。

 その後、いくつかの点滴を抜き、導尿管を抜き、腹に5本刺さっていたドレーンのうちの一本を抜いた。どれも抜くときは痛かったり気持ち悪かったりしたが、一つ取れるごとに、身軽になるのがなんとも心地よかった。子供の頃の手術ではドレーンを入れている期間が長かったため癒着してしまい、それを抜くときはバリバリと肉が剥がれて激痛だった。でも今回はするっと抜けて拍子抜けするほどだった。

 導尿管を抜くと、ベッド上に横になったまま自力で尿と便を出すよう言われたが、そんなことはおいらにとっては余裕だった。排泄を済ますと、看護師さんがお尻の下に吸水性のシートを敷いて、股間の周りをお湯をかけて洗ってくれた。また、桶にお湯をためて足湯もしてくれた。これらもまたとんでもなく気持ちが良かった。無意識に気持ちいい気持ちいいと呻いていたと思う。看護師さんは若い女性の方で、客観的に見れば快楽に酔いしれているおいらの姿は変態そのものだったが、その時のおいらは便をしようが股間を洗われようが全く恥ずかしく思わなかった。羞恥心なんて余裕のある人間が感じるもので、苦しみの極限にある人間には全くわかないものなのである。その後、一般病棟に戻った後もたくさんの女性看護師さんに体を洗われたりしたが、全然恥ずかしくなかった。

 そして、一通り身軽になって体を綺麗にした後、ICUから出るための条件として、ベッドから起き上がり、自立して体重計に乗る試練をクリアしなくてはいけなかった。起き上がるのはとても一人ではできないので、理学療法士の方や看護師さんが数名サポートについて体を支えてもらった。電動ベッドを起き上がらせて上半身を起こすと、頭の血が落ちて強烈な立ちくらみ状態になり世界がぐるぐると回っていた。首の力が全くなくなってしまったようで、頭がとんでもなく重く感じて持ち上がらず、こうべを垂れたままになっていた。しかし、そこからさらにベッドサイドから立ち上がって体重計に乗らないといけないのだ。絶望的に不可能なノルマに感じたが、ICUから抜け出すためにありったけの力を振り絞りなんとか立つことができた。おいらは勝ったのだ。もうこの入院の辛い部分は8割ぐらい終わった。あとは一般病棟に戻って少しずつ回復すればいいだけだ。やりきったおいらの顔は、真っ赤になって力みながらも少し笑みを浮かべていただろう。足がガクガク震えながら立つ姿は初めて立ち上がって嬉しそうな赤ん坊のようだった。その場にいた看護師さんや医者からも、「すごいすごい!立てたよ立てたよ!」と拍手と歓声が沸いた。

 ともかく立てたのでICUから出ることは決定し、昼食が出ることになった。メニューはおかゆと何品かのおかずとスイカだった。食事も飲み物と同じくらい楽しみにしていたものだったが、いざ食べ始めると匂いが気持ち悪くてほとんど食べることができなかった。妊婦さんがつわりでご飯の湯気が気持ち悪く感じることがあるが、おいらも全く同じくおかゆの湯気が特に気持ち悪かった。

 食事を終えると間も無く一般病棟へ移ることになった。日の光に照らされた一般病棟の病室はとても眩しかった。窓を開ければ、6月の生暖かい風が当たり、生き物たちが放つ自然の香りがした。ICUでは生きている実感がなかったが、やっと自分が生きていると感じることができたのだった。ICUでの体験は、胎児から生まれて成長する過程を追体験しているようだ。日光の当たらない空間は子宮の中のようであり、栄養や薬が送られたり排出する管やドレーンはへその緒で、生まれ出る時(ICUを出るとき)それらは引き抜かれる。体を起こすのも立ち上がるのも食事するのも、どれも初めての体験のように不慣れに感じてしまう。生まれ出た世界(ICUの外)はなんともまばゆい。ICUで人は一度赤ん坊に戻るのだ。だから、羞恥心がなくなって人前で裸になって排泄しても平気なのだ。

旅は入院の始まり

子供の頃、手術入院の前にはご褒美として特別な旅行に連れて行ってもらえた。ある時はディズニーランドへある時はグアム旅行だった。入院前で気持ちは落ち込んでいたが、その時ばかりは入院のことを忘れ、無我夢中で楽しんだ。そのためそれらの旅行はとても楽しい思い出として今でもよく覚えている。そんなわけで、おいらにとって旅行と入院はセットに起こることだった。よく、良いことの後には悪いことが起こると言われたりするが、まさにそんな感じである。

 先日の九州旅行は無事行くことができた。台風は運よくそれて、LCCの飛行機も順調に飛んだ。宿は予想以上に素晴らしく、温泉や料理を満喫した。旅先の景色は、雄大な山々や草原が美しかった。人も少なくとても静かで開放的な空間だった。とても良い思い出になった。しかし、これまでの経験通りなら、次に来るのは入院である。実際、次の検診でCT検査が予定されており、9月ごろには大腸ポリープの切除手術を受ける予定にある。CT検査の結果次第では、さらなる入院の可能性がある。楽しい旅行を味わってしまった以上、もう避けられないだろう。

 人の人生の最後は死である。一般的には死は悪いことと捉えられている。確かに、幸せに楽しく過ごしていた時に、突然死が訪れればそれは大変辛いことだ。しかし、病気などで痛くて苦しみ続けていた人にとっては、死は苦しみから解放される良いことに感じるかもしれない。手塚治虫ブラックジャックという作品では、治療手段がなく苦しみ続ける患者を安楽死させるドクターキリコという医者が登場する。ドクターキリコは、主人公ブラックジャックのライバルとして作品に深みを与える役割でもあるが、単純な悪役として描かなかったことからも、手塚治虫自身キリコの考え方を完全に否定できない葛藤があったのかもしれない。おいらも、地獄入院の時には死を望んでいた。

 おいらの死が、どのように訪れるのかはまだわからない。楽しく過ごしている時の突然死なのか、入院して苦しみ続けたのちの死なのか。どちらにしても、それが遠い未来ではないことは確かであろう。それまでに良いこと悪いことをたくさん味わっておこう。

安物買いの命失い

来週、九州へ旅行に行く予定を立てている。南の島に移り住んで以来、初めて島の外に出る旅になる。飛行機は、しばらく前に障害者との間でトラブルがあったLCCを使う予定である。正直、LCCは狭かったり、ターミナルも遠かったりと疲れが大きいので、できれば避けたいのだが、他の航空会社は倍以上の値段でとても手が出なかった。  

 先日のトラブル事件では、改めて障害者差別の問題が浮き彫りになった。特に世間の意見で多かったのが、LCCは障害者を支援するサービスを含めてコストカットしているのだからその支援を求めるのが筋違いだ、という意見であった。しかし、障害者を支援することは、他のサービスと同列に捉えてはいけないように思う。飲み物を提供するのとは、わけが違うのだ。例えば、飲み物を提供しないといった不便さは、障害者か健常者に関係なく同等にかかってくる。しかし、階段を使うことは、健常者にはあまり不便に感じないが、一部の障害者には絶望的に不便になる。それは、障害者だけが不利益を被る差別的なものである。もし、こうした世間の意見が正当なものと認められてしまうと、別にLCCではなくても、町にあるレストランなどでもコスト削減を大義名分にして、いくらでも障害者を断れてしまうだろう。障害者への配慮をコストと考えること自体が差別的なのである。  

 そんな文句を垂れながらも、結局おいらはLCCに乗ろうとしている。でも、旅を元気に楽しむには本当は値段がかかっても、より快適な他の航空会社を利用したほうがいいと思う。LCCを使って旅行に行くのは、健康な人でもかなり疲れることだろう。そんな無謀な旅を計画してしまったためなのか、おいらたちに旅へ行くなと言わんばかりに、巨大な台風が忍び寄ってきている。もし運よく台風が外れて、旅行に行けたとしても、機内で具合が悪くなってせっかくの旅が台無しになる違いない。最悪不整脈が発生して、急性心不全でお陀仏なんて事もあるかもしれないな。

一番効く薬

おいらは、毎月1、2回検診で仕事を休んでいる。一般的な企業では病欠という休暇の制度がない。病気で休む時は、有給休暇を消化するか、減給覚悟で欠勤扱いになるしかない。そして今の職も、会社に雇用されているので、やはり病欠休暇というものがなかった。しかしそれ以前は、大学に雇用されており、大学では病欠休暇がたんまりあった。多少大学によって差があるかもしれないが、国立大学の場合は、有給休暇とは別に、年間90日間まで病欠休暇を取得できるのだ。この間減給されることなく、給料が支給される。とんでもなく、手厚い制度である。でも、そのおかげでおいらは昨年度まで、数々の入院や検診を減給されることなく行くことができた。本当にありがたい制度だった。

 今は、もうその恩恵を受けることはできない。そのため、検診で休むときは有給を使ったりもするが、有給休暇の日数も年10日しかなく、正直足りない。そのため、すでに何日か、欠勤扱いで行っている。それに、週5勤務が数週間続くとかなり疲れが溜まってくるので、できれば時々休みたい。しかし、それも欠勤になってしまうので、仮に休んでも気持ち的に休んだ気になれない。

 そうこうしているうちに、おいらの体調は入院の瀬戸際まで落ちてきてしまった。あともう少し低タンパクや貧血の程度が進めば、入院である。これは危険だということで、今月から鉄剤の飲み始め、ハイゼントラの回数を増やし、てこ入れを図った。おかげで、先日の検査では貧血は少し良くなったが、血中タンパク質は相変わらず低いままだ。そして、先日の検査では、腹部エコー検査も受けた。その結果は残念ながら思わしくなかった。従来通りではあるが、腹水があり肝硬変に進行している状態だった。その状態は非代償性肝硬変と呼ばれるもので、肝臓の機能を十分果たせなくなった状態だそうだ。そうなってしまうと、もうC型肝炎の治療を受けることもできない。そして、さらに追い撃ちをかけ、エコー検査の際、腫瘍と疑われる影が肝臓内に発見されたのだった。次回その診断のため、造影CTを受けることになった。

 おいらの血中タンパク質が上がらないのは、蛋白漏出性胃腸症によるものだとずっと思っていたが、肝機能の低下も大きく関係しているだろう。今の肝臓では十分にアルブミンを合成できないのだ。そのため、少しでも肝臓の負担を楽にするため、リーバクトというアミノ酸サプリメントのような薬も再開することになった。この薬は以前は飲んでいたのだが、去年の秋頃状態が良くなったため飲まなくなった。粉薬で一日3回で量も多くまずい。

 テコ入れで色々薬が増えてきたが、おいらにとって本当に必要な薬は休みである。有給休暇日数を増やしてくれるか、病欠休暇を認めてくれるのが理想である。だがそんなことは認められるはずはなく、結果さらに薬が増えやがて入院し、膨大な医療費がかかるのだろう。それは有給という薬で、おいらに支払われる金額よりはるかに多くなるかもしれない。だったら安上がりの有給薬を処方してくれた方が、おいらにとっても社会全体に取っても負担が少ないはずだ。もちろんそんな屁理屈は厳しい大人社会で通用するわけがないので、おいらは毎日山盛りの薬を飲み続けることになるのだろう。もう、いっそ一日10万円分くらいの薬をガバガバ飲んでやる。

渋滞が渋滞を引き起こす

おいらの住む南の島では、至る所で渋滞が発生している。その原因は、車の台数が多すぎるためだそうだ。県民一人にほぼ一台の割合で持っているらしい。さらに、暑い気候のため、ちょっと出かけるにも車を利用するのが習慣になっているせいもある。渋滞を避けようと、脇道や迂回路に逸れて行こうとする車も多く、住宅街の狭い道路でさえ、車の往来が絶えない。そのため、閑静な住宅街はほとんどなく、騒音・排ガス・安全性が悪化し、人々の生活環境の質は著しく下がっている。

 これと同じような状態が、おいらなどのフォンタン術後PLE発症患者の体内に起こっているようだ。PLEの発症原因は、いまだ明らかでないが、最も有力視されているのは、中心静脈圧CVPが高いことだ。中心動脈圧とは心臓に近い上下大静脈内の圧力を指し、正常値は4~8mmHgという範囲である。フォンタン術後患者は、この圧が高くなりやすく12以上になったりする。この静脈圧が高いと、いわば血液の流れが滞っていて、渋滞している状態になっている。そうなると、末端の毛細血管に血が溜まってうっ血してしまう。特に消化管や肝臓腎臓など毛細血管の多いところでうっ血しやすく、うっ血した臓器が機能低下したり、炎症を起こして出血したり、微細な穴が空いて蛋白が漏れたりするのだ。

 この説明は、以前から医学文献を読んだり、主治医から説明を受けたりして、聞いていた。しかし、おいらの場合、PLE発症後に受けたカテーテル検査では、CVPが8mmHgほどで決して高くはなかった。むしろフォンタン術後患者としてはかなり低い方だと言える値だった。実際、文献でもCVPが低い場合でもPLEが発症している症例が度々報告されており、CVPは本当に関係しているのか疑問があった。

 しかし、最近発表された論文(大内. 2017.フォンタン術後患者と蛋白漏出性胃腸症. Pediatric ardiology and Cardiac Surgey 33: 211-214.)を読むと、これまでの疑問がだいぶ払拭された気がしたのだ。この論文によれば、普段は低CVPであっても、不整脈など容易に高CVPを引き起こす要因を持っていれば、PLEが起こりうるというのである。おいらはまさにこの状態だった。PLEが初めて診断された頃、おいらは不整脈に毎日苦しんでいた。そしてその後も、不整脈が頻発するとPLEが再発していたように思う。

 上記の論文で端的に表現されているように、PLE発症は死亡率が高いと同時に、QOL(Quality of Life)が極端に低下する病態である。おいらの体も、不整脈が起きるたびに、血液が渋滞し、あちこちの毛細血管がうっ血して、PLEを起こし、QOLが低下していたのだった。今住んでいる南の島でも、車を運転するたびに渋滞に巻き込まれて、ストレスが蓄積する。しかしストレスがたまれば、それが原因でまた不整脈が起こりかねない。そしたら今度は、おいらの体の中で渋滞が発生してしまうだろう。そんな悪循環を断ち切るには、渋滞を解消させるしかない。そんなわけで、最近自転車通勤するようにしたのだが、悪循環(vicius cycle)をサイクリングで止めようだなんて、洒落にもならんな。

永遠に続く砂漠

また、再手術の話を再開しよう。

 2度目の手術を終え、目がさめると朝だった。もちろん朝だとわかるのは後々のことで、実際はICUでは窓もなく時間の感覚もない。しかし、時間の感覚がないことは実は患者にとってかなりストレスになる。後日記録を見ると、午前中に人工呼吸器をつけたまま目が覚めて、家族と面会し、文字板などを使って少し会話をした後、また少し眠りにつき、午後に人工呼吸器を外して、再び家族と面会した。外すときは、少し痛苦しかったが、想像するほどきつくはなかった。人工呼吸器を外せば声が出るようになるかと思ったが、枯れた声しか出なかった。時間感覚がなかったから、人工呼吸器を外したのは次の日かとしばらく思っていた。

 人工呼吸器を外した後は、鼻に酸素を勢いよく送るホースをつけていた。よくテレビドラマなどで見る細い透明のチューブではなく、太さ2cmくらいはありそうな蛇腹のホースで、ドライヤーを当てられているように思い切り空気が送られてくるものだ。空気は鼻が乾かないように加湿してあり、長く使っているとホースの中にその水分が溜まっていくほどだった。この日は顔がパンパンにむくんでいて、まぶたが開かないほどだった。顔色は真っ黄色だったらしく、まるで膨張した水死体のようなグロい様相だったらしい。

 鼻にはホース以外に胃に直接薬や栄養分を送る管が入っていた。なぜかその管が、口の奥の方でねじれてしまい、途中からすごく痛くなってきたので、一度新しいものに入れ替えた。人工呼吸器を外した後は喉が痛かったし、口の中がベトベトになっていたので、水を飲みたかった。しかし一日に口にできる水分はせいぜい2, 30ccしかなく、その貴重な水分も顆粒状の薬を飲むのに全て使ってしまった。口の中が張り付くほどカラカラになり、口の渇きで狂いそうだった。以後ずっと続く水分制限の経験が、ある種トラウマのように今でも引きずっている。

 ようやく夜になった。夜は夜でとても長かった。しかし夜勤の看護師さんはとても気が利いていて、おいらの苦しみを少しでも和らげようとお世話をしてくれた。特に嬉しかったのが口の渇きの辛さをわかってくれて、歯磨きしてくれたり、キンキンに冷やした氷水を用意してくれて、うがいをさせてくれたことだ。口の中がさっぱりしてこの上なく気持ちが良かった。

 しかし、次の日の夜勤の看護師さんは真逆のように気が利かなかった。看護師さんを呼ぶポケベルのボタンを何度押しても来ず、後で聞くと呼び出しのポケベルの電源が切れていたそうだ。もし緊急だったら死んでいるかもしれない事態である。前日のように冷たい水をお願いしても、氷がないと言って相手にしてくれず、さらに鼻のホースに水が溜まったのでとってほしいとお願いしたら、ホースを下手にいじくって溜まった水が鼻に逆流し、めちゃ痛くなったりした。

 こうしてなんとかICUで二日間が過ぎた。この間、ずっと時間感覚がなかったので、たった二日間だけとはとても思えなかった。一日のうちに寝たり起きたりが何度もあったせいもあり、もう何日すぎたかわからなくなっていた。そして、3日目。その日の日勤の看護婦さんは、その日のスケジュールをわかりやすく説明してくれたがとてもありがたかった。朝何時に薬を飲み、何時に採血をし、などを説明してくれて、1日の流れをつかむことができた。ようやく時間感覚がついたのだ。どんなことであれ、一日の見通しが立つと、実に気持ちが落ち着くものである。今何時かわからず、これから何をするのかもわからないと、時間が永遠に感じられた。このままこの苦しみがずっと続き、無限に耐え続けなければならないような気がしてくるのだ。実際には、ICUではもっと痛くて苦しいことがたくさんあったはずなのに、今思い出しても水と時間が一番辛い記憶として残っている。

 子供の頃の手術では、ICUは一週間あるいはそれ以上滞在していた。だから、今回も長く続くだろうと思っていた。ところが、看護師さんが説明してくれた予定を聞くと、なんとその日の午後に一般病棟に戻れるかもしれないと提案された。そしてそのためには、いくつかクリアしなくてはいけない条件があった。一つは、ベッド上での排便、排尿ができるか、もう一つは起き上がれて立てるか、もう一つはご飯を食べられるか、だった。これらのことができないと、まだ体の回復が十分でなく、もう数日様子を見る必要があるかもしれなかった。正直、その時はまだ自力で寝返りもできず、足一本、腕一本も上がらないほどだった。胸にはドレーンが5本刺さり、両手や首に点滴ルートが何本も刺さり、胸の手術痕もちょっと咳するだけで超痛かった。だが、おいらは死ぬ気でクリアしてやるつもりだった。一般病棟に戻れば、この戦いは勝ちだ。そう確信していた。

天国から生き返る果実

しばらく、暗い話が続いてしまったので、今日は大好きな果物の話をしよう。おいらの住んでいる南の島では、今パッションフルーツが旬である。スーパーなどで一つ100円くらいで売られている。中を開くと、黄色い果汁とカエルの卵を思わせる黒い種子がたくさん入っている。一般的な食べ方は、果汁と種子をスプーンなどですくってそのまま食べる。しかし、その食べ方だと見た目もグロいし、種子も舌触りが悪く、正直あまり美味しいとは思えなかった。そのため、最初に食べた時は二度はないなと思ったのだが、最高に美味しい味わい方を発見し、今ではほぼ毎日食べている。

 その食し方とは、甘酒スムージーに混ぜる方法だ。昨年の地獄入院以来、甘酒は毎朝欠かさず飲んでいることはすでに何度かお話しした。いつもは、冷やした甘酒を、野菜ミックスジュースで割って飲んでいた。それだけでも、野菜ジュースがマイルドな味わいになり十分美味しい。そこにパッションフルーツの汁を加えるのだ。その際、ザルや茶漉しを使って、汁だけをこしとり、種子は取り除く。そうするとパッションフルーツ一個から取れる果汁はせいぜい20ccくらいにしかならない。それで100円だから随分と高く感じてしまうが、実際は十分すぎるほど価値があった。とった果汁を小さじ1、2杯ほど野菜甘酒ミックスに入れると、まるで別世界の風味と味わいになったのだ。一口味わうだけで、甘い香りとほのかな酸味がパッと広がり、世界が明るく輝くのだ。ちょうど少女漫画の乙女がときめいた時、画面いっぱいに花びらが散らばったような感じだ。なんだか気持ちまでルンルンになってしまう。

 もう一つ美味しい飲み方は、甘酒と牛乳、レモン汁、そしてパッション果汁数滴を混ぜたものである。レモン汁を加えることで、牛乳が分離してヨーグルト状になるだけでなく、酸味でより爽やかさが増す。それにパッションの甘い香りが加わることで、牛乳や甘酒の匂いがなくなり、マンゴーラッシーのような味わいになる。そこらのインドカレー屋で出るラッシーよりはるかに美味しい。個人的には今まで飲んだラッシーの中で最高である。

 正直、パッションフルーツのうまさは衝撃的だった。子供の頃から、果物が大好きで特に桃、梨、ブドウ、リンゴが好きだった。南の島に来る前に住んでいた地域は、そうしたフルーツの一大産地で、旬になると浴びるほど食べまくった。まさに桃源郷だった。パッションフルーツの味わいは、それに勝るとも劣らない美味しさだったのだ。むしろ予想を裏切る、想像を超える美味しさ、そしてハズレがないという点である意味優っているかもしれない。桃や梨などは時々甘くなかったり、味がボケているなどハズレがあるが、パッションは常に安定した味わいを出してくれるのだった。桃源郷を超え、天国のような無限の幸せをもたらした。

 でも、桃、梨、ぶどう、りんご、パッションフルーツなどよりも本当に最高の幸せを感じさせてくれた果物は、スイカである。2年前のフォンタン再手術の後、最初に出た食事に出てきたのがスイカだったのだ。ご飯やおかずなどはほとんど食べることができなかったが、スイカだけは赤い部分がなくなるまで削って食べた。その水々しさは、直接水を飲むよりも、喉を潤した。感動のあまり、涙が出てしまった。手術の後、数日間ほとんど水分を口にできない極限状態だったため、特別美味しく感じただけのことかもしれない。例えそうだとしても、それは二度と味わうことができない至極の美味しさだったのだ。手術から生き返ったことを実感する幸せの一瞬だった。

 先日、スイカで生き返ったその日からちょうど2年目だった。常に安定した天国のような味のパッションフルーツと、一度しか味わえない生き返る味のスイカ、その両方を食べ、至福の1日となった。