ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

3%で変わる生き方

フォンタン再手術後から、おいらのサチュレーションの値が少し下がっているのがずっと気になっていた。手術前は96%ほどだったが、手術後は93%ほどしかいかなかった。先日、今診てもらっている医者にそのことを聞いたところ、ようやくそのメカニズムがわかった。

 その原因とは、心臓を流れた血液が本来右心房に流れるところを、手術で左心房に流すように変更したためだった。冠動脈を通って心筋に行き渡った血液は、酸素が消費されて静脈血になる。その血は冠静脈を通り、本来は右心房に戻ってくる。右心房には全身からの静脈も流れ込んでくるので、それと一緒に肺に送られて再び酸素が与えられ、動脈に生まれ変わる。しかし、フォンタン循環の人は、静脈の流れが極めて遅いため、右心房にたくさんの血が流れ込むと鬱血してしまう危険がある。うっ血は静脈の血圧を高め、心臓に負担になる上、PLEなどのさらなる合併症の原因になる。だから、冠静脈はこれ以上右心房には流さず、左心房に戻すように変えるのだそうだ。

 左心房には肺から酸素が与えられた新鮮な動脈が大量に流れてくる。そこに、心臓からの静脈が混ざるのである。そうなれば当然、動脈内の酸素濃度(サチュレーション)が下がる。心臓からの静脈なんて全身に送られる動脈に比べれば、大した量じゃないように思うが、おいらの場合は3%も酸素濃度を下げる程の影響がある。簡単に言えば、血中酸素の約3%が心臓で使われている訳である。でも一日中動き続けていることを思うと、たった3%しか使っていないなんて、むしろとても省エネにも思える。

 医者の話では、一般的にはこうした手術により、5%くらい落ちることが多いそうだ。おいらの心臓は随分と省エネなコストパフォーマンスの良い心臓のようだ。しかし、そんなシャント手術をされているなんて今まで全然知らなかった。手術前の説明もなかったし、フォンタン関連の文献やネットの記述を読んでも、書いてあるのを見たことがなかった。でもいざ調べてみるとわずかではあるが書いてあるサイトがあった。

 そのシャント術が、2年前のフォンタン再手術の際に行われたのかどうかはまだわからない。ともあれ、3%下がったことで、ちょっとしたことで息苦しくなりやすくなった気はする。階段や坂は少し登ればすぐゼイゼイするし、寝ていて急に起き上がるだけでもドキドキしてしまう。だから、手術前より活発に動くことはできなくなった。おいらは、筋力が衰えたせいだと思っていたが、わずかなサチュレーションの低下がじわじわと効いている可能性はある。でもこのシャントによって、心臓自体は日々の負担が減ったのだ。激しい動きには耐えられなくなったけど、日常をより楽に過ごせるようになった。無理はできない。でも普段は割と元気に生きられる。これがフォンタン患者のあるべき姿なのだろう。でも、普段元気そうだから無理もできる、と人から思われてしまったり、本人も勘違いするのもフォンタン患者なのである。

水と緑の豊かな病室

すっかり間が空いてしまったが、また2年前の再手術の時の話に戻ろう。前回までのおさらいをすると、手術を終え、やっと一般病棟に戻ってきたところだった。

 一般病棟はともかく明るい。眩しいほどに陽の光が差し込んでくる。窓を開けると生暖かい風があたり、外気の匂いがした。都会の病院と違って、山に囲まれた絶景の見える地域にある病院だったため、山や森や水田からくる清々しい緑の匂いだった。それは本当に心地よい香りだ。おいらは植物を研究しているから、普段から植物に触れ匂いを嗅いできてはいたが、しばらく消毒と薬品の匂いで満たされた空間にいると、久しぶりの緑の香りは格別なものだった。

 そんな快適な一般病棟の生活はすぐに奪われた。病棟に戻って3日ほど経った晩、急に息苦しくなったのだ。最初は気のせいかと思ったが、かなりしんどい。医者がエコーで調べると、どうやら肺の下に水が溜まっているようだった。緊急でICUにうつされ、その日の深夜に水を抜いてドレーンを挿入する処置をすることになった。局所麻酔をして、太い注射針を肋骨のすき間に刺して、中の水を引っ張ると、それは水というより血だった。真っ赤な液体が200cc以上は取れた。液体は出続けている様子だったため、ドレーンを留置して吸引しつづけた。幸い、その翌日には一般病棟に戻ることができた。

 一般病棟に戻ると、豊かな緑の香りを楽しんでいれば済むわけではなかった。毎日立ったり歩いたり車椅子に乗るリハビリが続いた。食事は、相変わらずつわりの時のように匂いが気持ち悪くて、あまり食べられなかった。それでもちょっとずつ体が動くようになり、5本あったドレーンも全て取れ、体は回復してきている気がした。しかし、実際はおいらの手術創の中で、小さな見えない敵が大暴れしていたのだった。ある日車椅子に乗ってトイレにいき用を足そうとした時、手術創から膿がドボドボと溢れてきたのだ。手術創から細菌に感染し、内部が化膿しているようだった。血液の培養試験をすると陽性で、血液内にも細菌がいるようだった。早速、抗生物質の点滴投与が始まった。

 おいらの手術創の近くには人工物がたくさんある。開胸した時に切り開いた胸骨を縛り付けておく針金、癒着を防ぐために心臓と胸骨の間に敷いたゴアテックスのシート、そしてフォンタン再手術の要の人工血管。もしこうした人工物に細菌が感染すると、大変危険な状態になる。抗生物質は血液が通う生きた組織には届くが、人工物は血管が通っていないため、抗生物質が届かないのだ。そのため、細菌は人工物を住処にして、どんどん増殖してしまう。最悪の場合、開胸手術をして全ての人工物を交換しなくてはいけなくなる。だから人工物への感染を絶対に避けなければならなかった。そのため、抗生物質を連日大量に点滴し、化膿した傷口は切開して化膿部分を切り取る処置を何度も受けた。ついには、胸骨を止めている針金も一つならとっても大丈夫だろうということで、引き抜いたりもした。切開をする処置は、局所麻酔をするもののめちゃ痛かった。針金を抜くときは体が持ち上がりそうになるほどの力でずりずりと抜かれた。抗生物質の大量投与により腎臓肝臓がやられ、γGTPが1000を超え、利尿薬のラシックスを一日に3、4回注射されたが、おしっこが全然出なくなってしまった。

 日に日に体調が悪化していくので心がくじけそうになった。そんなおいらの様子に気づいた担当医の先生が、ある晩声をかけてくれた。「心配しなくていいですよ。我々が絶対に治します。〇〇さん(おいら)は、頑張らなくていいんです。ゆっくり休んでください。」そんな優しく心強い言葉をかけられると、おいらの目はビチョビチョに濡れていった。体の中からも傷口からも目からも、液が溢れ出る毎日だった。

チキンレース

 おいらの体には致死性の病気がいくつも潜んでいる。まず本家の心臓は、不整脈などによる急性心不全で突然死する可能性がある。そうでなくても心機能が年々低下し心不全になるのは避けられない。それから先日切除した大腸ポリープは異常な数と増殖速度だったので、今後再発し続けいつかがん化する不安もある。肝臓は、C型肝炎とフォンタン術の合併症により肝硬変になっており、やがて肝がんになる可能性が高い。蛋白漏出性胃腸症は、すでに何度も紹介したように死亡率の高い症状である。また、ワーファリンを飲んでいるものの人工血管を入れているので血栓のリスクもある。それらが脳や心臓の血管につまれば、脳梗塞心筋梗塞になりうる。

 菌やウイルスが病原の感染症は、その毒性が低下する方向に進化する傾向がある。あまりに毒性が強く宿主(感染される側)の致死率が高いと、次の宿主に感染する前に宿主が死んでしまい、病原体が増殖できないからだ。病原体にとっては宿主を生かしたままの方が都合が良い。極めて致死率の高い感染症は、一気に蔓延しても宿主集団が全滅して途絶えてしまう場合がある。だから、病原菌の中に毒性の低い変異体が現れるとその変異体が広がっていく(ただし人間とネズミなど複数の種を宿主にする場合は話が複雑になる)。

 同じようなことが遺伝性の病気でも当てはまる。子供の間に死んでしまうような致死率の高い遺伝病は、その遺伝子を次世代に繋げることができず、淘汰されていく。そのため遺伝病には繁殖期を過ぎた頃に発病するものもある。あるいは発病しても繁殖期まで生存できる程度の病気だったりする。ただし、致死性の遺伝病が全くないわけではない。むしろその多くは、劣性遺伝で潜んでいる。劣性遺伝の場合は、その遺伝病を発症する対立遺伝子が2つ揃わないと(これを遺伝学用語でホモ接合と呼ぶ)、発現しない。2つの対立遺伝子のうちどちらかが遺伝病を発症しない正常タイプだと(これをヘテロ接合と呼ぶ)そちらの方が優勢になって、病気が発現しないのだ。当然ながら、2つの対立遺伝子がどちらも正常タイプの場合も発症しない(これもホモ接合)。全く同じ致死性の遺伝子を持っている人はそう多くはないので、それらの人がカップルになって子供を作ることはなかなかない。仮に子供を作っても、それぞれの親から致死性遺伝子を引き継ぐ必要があり、それは4分の1の確率でしか起こらない。だから、致死遺伝子がホモ接合することは滅多になく、人の集団の中で密かに遺伝していくのである。

 おいらの病気は、C型肝炎を除いては、どれも病原体による感染症でもなく、遺伝病でもない。だから上記のような理屈は当てはまらないのだが、もしそれぞれの病気に意思があるとすれば、彼らはおいらをギリギリまで痛めつけこそすれ、殺すまではできないはずだ。殺せば病気自身も死んでしまうからである。では、誰が死のリセットボタンを押すのだろうか。

 それぞれの病気の死亡リスクはわからない。おいら個人としては最後は心臓を原因にしたくない気持ちもあるが、心不全が一番穏やかな死を迎えられそうな気がする。ガンなどはその前の苦しみや痛みが大きいだろう。やっぱり、心臓病を持って生きた人生なのだから、最後も心臓が原因で死ぬのがおいららしい人生かもしれない。心臓君には重い責任を追わせてしまうが、死のリセットボタンは君が押してくれ。おいらは君なら許せるし本望だよ。

古傷

数々の手術、検査を繰り返してきたおいらの体には、たくさんの傷跡が残っている。一番大きいのは、胸にある開胸手術の手術痕で、胸の真ん中と右脇にT字のような配置でそれぞれ20cmほどのものがある。真ん中の傷は過去に3回開けており、3歳、12歳、39歳の時に開胸した。そのため、傷痕は場所によって大きく広がってケロイド化しており、さらに39歳の手術の際には、後日手術痕が化膿したために追加で切開し、喉元から鎖骨に沿ったあたりまで傷口が開いた。右わき腹にある手術痕は、8歳の時のものでブラックジャックの傷痕のように糸の痕も残っている。子供の頃の手術は糸で傷を縫い合わせていたので、抜糸が必要で、また傷もガーゼを当てていただけなので毎日消毒が必要だった。それらがものすごく痛かった。でも大人の時の手術では、傷の上に透明なフィルムを貼っていて糸の後もなく、消毒の必要もないので、その点楽だった。

 この他に溝落ちのあたりや肋骨の下あたりにドレーンの跡が合計10個近くある。左の腹にはペースメーカーを入れた傷痕が5cmほどあり、足の付け根の鼠蹊部には、カテーテルや人工心肺装置を入れた時の傷痕が無数にある。首筋にも臨時のペースメーカーを入れた跡がある。また腕には採血検査や点滴の注射でできた内出血の青あざが常に大きく広がっている。こうした傷痕は他の人から見れば、怖かったり痛々しかったり、かわいそうに見えたりするだろう。しかし、おいらにとっては歴戦をくぐり抜けた証であり、勲章なのだ。母も、他人がビビるだろうが黄門様の印籠のように見せればいいのだと言っていた。

 これらの傷痕に比べると特に小さくて目立たない傷が足首にある。5mmほどの切り傷で、今ではしわに紛れてはっきりしなくなってしまった。母に聞くと、この傷は3歳の手術の時に太い血管に点滴を入れるために切開した傷痕なのだそうだ。そう聞くと、3歳の時のおいらも頑張っていたなと思う。だから、小さいけれどこの傷がおいらには一番の勲章なのである。

落ちるものは怖い。

先日入院していたある晩、激しい雨雲が流れてきた。スコールのような豪雨とともに、何度となく雷が落ちた。時には病院からすごい近くで落ちて、空気が裂ける音がした。病院全体もビリビリと震えた。おいらのベッドはちょうど窓際だったので、怖いもの見たさで雷を鑑賞していた。

 そんな時、病室の外にあるベランダの手すりに、一羽のヒヨドリがとまった。普段見かけるように、キョロキョロと首を動かしながら、しばらくそこにとどまっていた。その間何度も雷が落ちたが、ヒヨドリは全く動ずることなく、落ち着いていた。おいらは稲妻が光るたびに体をビクッとさせて反射的に耳に手を当てる始末だった。やがてヒヨドリは雷とは全く関係のない何かに興味を持ったのか、下の方へと飛んで行った。

 なぜ人は雷にこんなに怖がり、鳥は動じないのだろうか。これはなかなか生物学的に面白いテーマである。野生の鳥にとっては雷は日常的であり、慣れているのだろうか。特に彼らは上空で間近に感じる時すらあるだろうから、地上や建物の中にいる時なんて安全この上ないのかもしれない。人間は建物を作り、自然とは切り離された空間で生活するようになった。荒々しい自然の一面である雷は、人間にとって制御できない力であり、恐怖を感じるのかもしれない。

 人間の建物の中でも、病院は究極的に自然と隔離された空間と言えるかもしれない。一年中一定に保たれた温度湿度。消毒と薬品の匂いが充満し、生き物の匂いがない。それは自然界でありえない空間である。しかし人間は、鈍感なのか適応力が高いのか、そうした空間で何日も時には何ヶ月も生活できる。しかもわずか数日いるだけですっかり慣れてしまい、むしろそれが自然にすら感じてしまう。が、そうした鈍感さが仇となり、自らの身に起きている変化に気付かなくなってしまう。おいら自身がこれまで経験したように、長く入院していると体を動かさないために筋力や体力がどんどん落ちていくのだ。それは雷のように激しく光って落ちるものではないが、確実にすごい勢いで落ちていくものである。おいらは雷にビビっている暇があったら、自分の身に起きている激しい変化に恐怖を抱くべきだった。ヒヨドリはそんなおいらにももちろん動ずることなく、夜の雨の中を悠々と飛んでいった。

ムーベンで無理便

今日は汚いシモの話をしよう。お嫌いな方は読まないことをお勧めする。

 昨年の地獄入院から15ヶ月。ついに再び入院することになってしまった。そのためしばらく記事を更新できなかったが、入院中に書きためたので、この後もあまり日を置かず続けて載せていきたい。  

 今回の入院は地獄入院の続きでもあり後始末でもある。昨年の地獄入院の際に、おいらの大腸に9つのポリープが見つかった。本来なら見つかった時点ですぐにとっても良かったのだが、その時のおいらは消化管出血を起こしていて極度の貧血状態にあり、これ以上の出血を伴う処置は危険だった。そのため、出血が落ち着いてからということになり、結局その後色々あって伸ばし伸ばしになってしまった。そして、現在。出血も収まり体調も比較的安定していることから、ポリープ切除術をしても大丈夫だろうということになった。

 ポリープの切除は内視鏡を使っての比較的簡単なものである。麻酔は使わず、鎮静剤で寝ている間に小一時間で終わってしまうものだ。健康な人なら2、3日の入院ですむ。おいらの場合は、ワーファリンの効き目をなくすため、施術3日前からの入院となった。内視鏡検査をしたことがある人はご存知の通り、検査前には腸内を洗浄するために大量の下剤を飲む。おいらはこれがとても苦手だった。前回の入院で内視鏡検査を受けた時もあまりに気持ち悪くて途中で吐いてしまい、悲惨な思いをした。だから今回もそれをやることになると思うと、入院前から憂鬱で仕方がなかった。

 下剤は朝から飲む。ゆっくりと数時間かけて2L飲まなくてはいけない。ある程度飲むと下痢が始まってくる。今回はムーベンという下剤だった。前回はモビプレップという下剤で味がまずかった。酸っぱいようなしょっぱいような、唾液のような味だった。ムーベンはその点味はほとんどなかった。最初飲んだ時はこれならいける、と安心した。さらに飲みやすいよう氷を入れて冷やし、隠し味にレモン風味の炭酸水を少し混ぜた。これで風味も良くなった。しかしそんなおいらの抵抗をムーベンは屁ともおもわずはねつけて、おいらを痛めつけ始めた。2杯目を飲むときにはすでに吐き気をもようおしてきたのだ。4杯目を飲んだ時にはついに限界に達し、前回同様吐いてしまった。そのあとは、地獄だった。もし本当に地獄があるとすれば、そこにはムーベン地獄もあるだろう。死にたくても死ねずに苦しみながらムーベンを飲み続ける地獄。想像するだけで気が狂いそうになった。

 吐き気だけでなく、頭痛、悪寒、めまいも襲ってきた。ムーベンの説明書にはそれらの症状が出たら飲むのを中止するよう書いてあったが、医師や看護師に訴えてもゆっくりでいいから飲むように言われた。身の置き場のない気持ち悪さで、どうしたらいいかわからなかった。横になっても起きても何をしても気持ち悪かった。辛いよ。苦しいよ。心の中で泣き叫んでいた。吐き気どめの注射を2度打ってもらったが、改善しなかった。しかし、つわりや抗がん剤治療はこれと似た状態が数ヶ月続くのだから、たった1日で終わる下剤飲みなど全然楽な方である。おいらは実に苦しみに弱いのだ。

 最後は一気に流し込むなどして10杯ほど飲んだ。しかし全部飲むには12杯飲まなくてはいけず、便もまだ少し残渣物が残っていた。そのためその日の検査時間までに間に合わず、検査は翌日に持ち越された。夕方には比較的飲みやすい別の種類の下剤を飲んだ。そして、次の日は午前中に胃カメラ検査があり、その時に内視鏡から追加で下剤を注入してもらった。これでおいらがもう直接飲む必要がなく、なんとか便も透明な水溶物になった。

 午後に大腸検査が始まると、予想と違って眠るほど鎮静剤は効かなかった。そのため、施術中おいらはモニターで興味深くその様子を観察していた。お尻から内視鏡を入れられるのは痛みはほとんどなく、たまに曲がったところを通る時に腸が突っ張ると痛む程度だった。ポリープをとる作業も痛みもなかった。しかし、いつまでたっても施術は終わらなかった。ポリープが次々と見つかったのだ。結局20個のポリープを取り、5時間近くかかった。医者もこんなに多い人は初めてだと言っていた。去年の検査から一年半ほどで倍以上に増殖していた。一体おいらの体に何が起きたのだろうか。怪しい雲行きではあるが、細胞診断の結果幸い悪性ではなかった。

 ともかくなんとか切除術を終えたが、術後すぐに高熱と強烈な悪寒に襲われ、感染症が疑われた。すぐに細菌の培養試験が出されて、予防的に抗生剤の点滴投与が6時間ごとに行われた。術後も下痢のようなゴロゴロした感じが続き、お腹全体が痛かった。20箇所も切除して、5時間も腸内を引っ掻き回したのだから当然だろう。妻と子供が温めるといいよと、湯たんぽを持ってきてくれた。ここ数年、入院を繰り返して筋力が劣ったためかなり寒がりになってしまい重宝していたが、南の島に移住してからは温暖な気候のおかげで、利用する機会がなかった。湯たんぽには息子の手縫いの袋がついている。縫い目は荒く均等ではないが、ほどけることなく使えている。お湯を張った湯たんぽをその袋に入れ、お腹に当てていると、まだ幼さの残る息子の手が添えられているようで、ふっと気持ちが安堵し、ようやく安らかな眠りにつくことができた。

破壊生物学者

南の島に住んでいるのだから、一度は熱帯魚が群れる海の中をシュノーケリングをしてのぞいてみたいものだ。先日、ついにその願いが叶った。干潮時にできたサンゴ礁内の浅いタイドプールでシュノーケリングをしたのだ。そこはとても浅く、ほとんどのところは足が付くほどだった。逆に足のつかないところは、おいらは怖くてとても行けなかった。ライフジャケットとシュノーケルをつけているので、じっと大人しくしていれば自然と体が浮いてまず溺れることはないのだが、焦ってしまう。だから、その日も足のつく浅瀬で、たまに少し浮いたりしながらシュノーケリングをした。

 海の中は、予想以上に魚があふれていた。サンゴの岩場があるところは必ず魚が群れをなしていた。顔や手を近づけても怖がる様子もなく、中には指をつついてきたりして、とても可愛らしかった。ルリスズメダイやミスジリュウキュウスズメダイなどの小魚だけでなく、30cm近くもあるような大きな魚も泳いでいた。見事なチョウチョウウオもいた。水族館で見る光景と同じ世界が広がっていた。おいらは夢中になって泳ぎ、どんどんリーフの奥へと進んで行った。途中で深いところがあれば、うまく迂回してサンゴの間をぬって浅い砂地を歩いて行った。奥へ進むほど海水の透明度はまし、さらに美しい魚たちの姿をくっきりと見ることができた。大興奮だった。

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 しかし、危機は迫っていた。その頃には潮が満ち始めていた。気がつくと海面上にあった岩場も全部水没していた。そのため、浅いルートがどの辺りかわからなくなってしまったのだ。とりあえず、岸に向かって少しずつ進んでいくことにしたが、ちょっと進むと2m以上の深さがありそうな場所に囲まれてしまった。水中メガネから覗く海の中は、途端に恐ろしい世界に変わった。実際の深さは2mもなかったかもしれないが、3m以上もありそうに感じた。

 幸いおいらは一人ではなく、妻と子供が一緒だった。二人は泳げたので先に先導してもらい、足のつく場所を探してもらった。もう足のつくところはサンゴの上しか残っていなかった。仕方なく、サンゴの岩を飛び石がわりに渡っていくことにした。丸い平らな塊のサンゴは、硬くてちょうど良い台になった。しかし、枝状のサンゴは踏むとボロボロと崩れてしまった。サンゴは魚や他の生き物の住処になっている。おいらが踏みつけたことで、その住処はズタズタに破壊されていた。魚も黙っていなかった。さっきまであんなに可愛らしく戯れていたのに、おいらがサンゴの上に乗ると怒って猛烈に噛み付いてきたのだった。オジロスズメダイという10cm程度の黒い魚だったが、その攻撃は容赦がなかった。おいらはごめんよごめんよと呻きながら、次のサンゴへと必死に泳いで行った。

 そうして5箇所ほどサンゴの岩場を渡ったところで、ようやく砂底が足のつく深さになり、無事岸に上がることができた。もしもうちょっと帰る判断が遅かったら、サンゴの上ですら足がつかなくなり、おいらは溺れていたかもしれない。あとになって振り返るとかなり危ない状況だった。

 実はおいら、こうした危機は2度目である。1回目は今から10年以上も前のことだが、そのときはもっとひどく実際に溺れてしまった。大量に海水を飲みながらもなんとか岸に泳ぎ着き、そのあと緊急入院した。そのときの話はまたいつかしたいと思う。ともかくその時の経験から、シュノーケリングするときは特に慎重にしていたつもりだった。確実に足のつく深さしか行かないようにしていた。しかし、バカなおいらは潮が満ちる速度を甘く見てしまい、再び危機に陥った。

 おいらの身勝手でバカな振る舞いによって、サンゴが破壊され多くの生き物の住処が失われた。おいらだけでなく、毎日のように人々がシュノーケリングしていれば、サンゴは次々と破壊されていくだろう。おそらく、あのリーフもあと数年すれば完全に破壊し尽くされて、美しい魚たちの姿は見れなくなってしまうかもしれない。おいらはこれでも生物多様性を研究している研究者である。こんなおいらが、生物多様性の大切さや保全を訴えても、何の説得力もない。生物学者だからといって、誰しも生物を大切にするとは限らないが、中にはおいらのように(おいらだけかもしれないが)無神経に生物を破壊してしまう研究者もいるのだ。人並み以上に生物に興味がある分、時には自然の奥深く入って破壊してしまい、余計タチが悪いかもしれない。