ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

むしろ負はあった方がいい

今、地球上の生物多様性は急速に失われている。生物多様性は、空気や水を浄化したり、食料、衣服、薬など様々な資源を生み出したり、と人類や他の生物に大きな恩恵を与えていると言われる。生物多様性が減少すれば、こうした恩恵を受けられなくなり、さらに多くの生物が絶滅し、ますます生物多様性が失われるという悪循環がおこると予想される。だから、生物多様性は大切であり守っていかなくてはいけない、と今は当たり前のように言われるようになった。

 生物多様性は、生物学者の間では厳密な定義がなされており、広義には「生物上に見られるあらゆる変異」ということができるだろう。つまり、種の多様性はもちろんのこと、一つの種内でも個体ごとに持っている遺伝子が異なること(遺伝的多様性という)や、地域間でそこに生育する生物種の組み合わせが異なること(群集の多様性という)なども生物多様性に含まれる。これらを全てひっくるめた生物多様性の根源的要因はなにかというと、遺伝子の変異となるだろう。種の違いは、個体間で遺伝子の違いが積み重なっていった結果である。種の多様性があることで群集の多様性が生まれる。全ての生物多様性は遺伝子上に生じた変異が元になっていると、生物学的には考えられている。

 では、このブログでテーマとなっている障害は、人類という種の中で見られる生物多様性の一部であると見なせるのだろうか。障害の種類によっては遺伝的変異が関与していることもあるが、事故などで手足を失ったなどの障害は遺伝子が原因ではないことが明らかだし、おいらのもつ先天性心疾患も遺伝的変異が原因とは特定されていない。となれば、生物学上の定義からすると遺伝的変異に起因しない障害は、生物多様性の一部ではなく、あくまで生きているうちに生じてしまったエラーみたいなものなのだろうか。実際、医療技術のない人間以外の生物種では、障害を持った個体は生存に極めて不利になり、子孫を残す前に死に絶えてしまうことがほとんどであろう。つまり、その生物種の進化には何も寄与しない場合がほとんどである。

 おいら自身は、障害は生物多様性の一部だと考えている。しかし、障害を生物多様性の一部とみるのは、現実的にはかなり受け入れがたいだろう。障害は、それを持つ個体にとってもその周囲の個体や社会にとってもデメリットが大きく、冒頭で述べたような生物多様性のメリットを生み出すとはなかなか考えられないからだ。でも、本来生物多様性とはそうしたメリット、デメリットとは関係のない概念なはずである。あくまで生物多様性が大切だとする根拠や守る意義として、研究者などがメリットを強調しているだけである。むしろ、メリットやデメリットとは関係なく生物多様性はその存在自体に意義がある、と考えるのが理想的ではないだろうか。皮肉な例だが、生物多様性が大切だと声高々に主張する研究者ほど、生物多様性は大切でないという意見には耳を貸さない。こうした意見の違いもまた生物多様性の一部とは考えられないだろうか。

 障害に対する負のイメージは大きい。障害という言葉自体に負の意味があり、負のイメージを持っていない人はいないだろう。負はできるだけない方がいいというのが自然な感情であり、負の存在を受け入れることは容易ではない。真に障害に対する差別や偏見がなくなるためには、メリットデメリットやプラスやマイナスとは関係なく、その存在を受け入れることができる悟りのような境地に達しないといけないのかもしれない。その道のりはとてつもなく険しく感じられるが、負はない方がいいという前提を取り払うことができれば、その道のりは一歩前進するかもしれない。だから、むしろ負はあった方がいいのだ、みんなたくさん負を持とう。今日のおいらの負は、間違って他人の歯ブラシを使ってしまったことである。

ステロイドに蝕まれた末路

気が重い地獄入院の話を再開しよう。

これまでの流れを簡単におさらいすると、新年早々に貧血のためNC病院へ緊急入院。内視鏡検査のためSD病院へすぐに転院し、検査後消化管出血が原因と判明。一旦NC病院にもどるも再検査のため再びSD病院に転院。消化管出血がさらに悪化。吐き気腹痛に苦しみ、食事もまともにとれず絶食や激マズ栄養ドリンクばかりの寝たきり生活で、体力筋力が衰え、病状は悪くなる一方。死を覚悟する。怒りの懇願のすえNC病院に戻る。食事が再開し、甘酒ドリンク効果もありようやく回復の兆しがでてくる。

 ここまでで約2ヶ月が経過した。しかし、地獄はまだ終わらなかった。おいらを腰痛とその後に続く腰椎圧迫骨折が襲ったのである。もしこれらがなければ、地獄入院はもっと早くおわり地獄というほどまではならなかっただろう。腰痛と骨折により、おいらはほとんどベッド上から動くことができなくなり、ちょっとした寝返りですら痛みに苦しむこととなった。腰痛はすでにSD病院に入院中に軽く発症していた。しかしまだ軽い状態だったので、歩いたり座ったりもできた。痛みのレベルも低く最大を10とすると3か4だった。看護師さんからはよく、痛みレベルが最大を10とするとどのくらいですかと聞かれた。実はこれが意外と難しい。10をどこに設定するかによるからだ。10を死ぬレベルとするのか我慢できる最大とするのか。普段生物の研究で、定量化を厳密に定義することが習慣になっているのがこういうところで仇となる。おそらくはもっと大雑把でいいのだろう。

 入院が始まって2ヶ月半が経った頃。ちょうど久しぶりの天国のような一時外泊の数日後のことだった。ちょっと床に物を置こうとしてかがんだときに、バキッと強く腰を痛めたのだった。このときの痛みレベルは6。その後は歩くことができず車いす生活になった。そしてさらにその10日後、ベッド上で座っていたら今までとは違う痛みがじわじわと襲ってきた。腰椎が直接痛みだし、すぐに横になったが痛みがどんどん強くなっていった。痛みレベルは8か9ほどに達した。呼吸するだけで痛かった。早速形成外科の先生が来てCT検査をした結果、腰椎圧迫骨折だった。骨折の原因はPLE治療のためのステロイド薬の長期服用による副作用である。あらかじめそうした副作用がでる可能性があることは説明されていたが、まさか本当になるとは思わなかった。圧迫骨折が判明した日、自宅にいる妻に報告すると絶望のあまり妻は泣いた。おいらは当事者なのになんだか他人事のような訳がわからない心境だった。ただ何となく落ちるところまで落ちてしまったのかなと漠然と思った。

 その日から起き上がることはもちろん、寝返りすらできないほどベッド上で動けなくなってしまった。さっそく、腰を固定するコルセットを注文した。コルセットはオーダーメイドで、体のサイズを測り一週間程度でできあがった。その間完全に寝たきりで、ほんのわずかにベッドを起こすだけが許された。食事も排泄も洗髪も体拭きも、何から何まで横になったままやった。

 NC病院にはリハビリ科があり、二度目に戻ってきてから筋力トレーニングのためリハビリを受けていた。その頃は歩くことができたので、トレーニングルームでストレッチしたり、階段上り下りをしたり、後方歩行をやったりした。またベッド上や病室でできるトレーニング方法を教えてもらい、それを日々実践した。トレーニングの療養士さんは、自らスパルタだといった。実際、かなり痛くてもびしびしと鍛えられた。日々のトレーニングを怠けるとすぐに見破られた。圧迫骨折がおきるとこうしたトレーニングはほとんどできなくなったが、スパルタ先生はさらにスパルタになった。コルセットが届くまでは絶対安静だったが、コルセットが来てからはリハビリが再開された。コルセットをつけていても、ベッドから起き上がるだけで強烈に痛かった。ベッドを最大限に起こしてそこから上半身を起き上がらせ座るのだが、まずベッドを起こす途中で痛みが走った。おそるおそるギリギリゲームのようにベッドを1cmずつ小刻みに起こし、痛みが走りそうになるとちょっと戻したりを行き来した。スパルタ先生は、コルセットをつけていればどんなに痛くても絶対圧迫骨折が酷くなることはないといって、ベッドから起き上がりそこから立ち上がる練習をさせた。あるときは、立ち上がる途中で凄まじい痛みが走り、なんとか座り直してひいーーーと悲鳴をあげ続けた。それでもスパルタ先生は、「ほら、痛みはおさまってきたでしょう。もし骨折が起きていれば痛みは強まるはずだから大丈夫」といって、もだえるおいらに喝を入れた。

 だがこのスパルタトレーニングがなければ、今もおいらは動けなかっただろう。後で聞くとおいらは一生寝たきりになる寸前だったそうだ。2度目の腰痛と圧迫骨折により、おいらの筋力は激減してしまっていた。手足はがりがりになり、腹水のためお腹だけがふくれ、飢餓に苦しむ人々のような姿だった。体がとんでもなく重く感じられ、腕で体を起こすことも、足だけで立つこともできなくなった。トレーニングは、退院するまで続いた。起き上がり、立ち上がり、歩行器を使っての歩行。退院するときはなんとか両手で杖を使えば歩行できるまでになった。しかし、まだ床や低い椅子に座ることやそこから立ち上がることはできず、家に帰ってもある程度高いベッドや椅子に座って立ち上がる生活が続いた。便座も低すぎるので、座高を高くするアタッチメントや手すりをつけた。テーブルなど何かにつかまりながら床に座れるようになったのが退院後2ヶ月が経過した頃。最近ようやく何もつかまらずに床に座ったり立ったりできるようになった。それまではずっと立つしかなく、床がすごく遠くに感じられた。座りたいのに座れない、触ることもできない。家は畳なので、畳の上に寝転ぶ妻や子供がうらやましかった。夏だったのでひんやりした畳の上をゴロゴロできたらなんて気持ちいいだろうと想像した。片思いの相手のように、床を遠くいとおしく恋いこがれた。

 腰痛や圧迫骨折とは別に、もう一つおいらを苦しめることが起きた。昨年の手術痕が再び化膿したのだった。手術痕の化膿は、これまでに手術の後すぐそのご退院して一ヶ月後と2度すでに起きていた。今回が3度目だった。原因は細菌の感染だった。これもまた免疫機能を低下させるステロイドの副作用の一つである。PLEの治療にはステロイドは極めてよく効く。前回の記事で書いたように、おいらもこれまでに何度もステロイドで回復してきた。しかし、ステロイドは強い副作用のある大変危険な薬物である。だからできる限り量を減らし離脱を目指さなくてはいけない。ステロイドを3年以上長期服用をしたおいらの体は相当蝕まれていたのだろう。すぐにでも減らしたいが、急激な減量はかえって副作用が強く、PLEも悪化する。副作用を覚悟しつつ少しずつ減らしていくしかないのだ。一度手を付けたらやめられないステロイド。しかし、この禁断の毒薬に変わるPLEの治療法は今のところほぼない。

 手術痕化膿の治療は、化膿部の切開と膿みの吸引、抗生剤の長期服用からなる。しかしこれらの治療により、新たな痛みと腎機能の低下に苦しむことになった。ステロイドの代償はとてつもなく大きかった。その詳細はまた次の機会に話したい。今日のところはここまで。

 

PLE発症後の余命を予測する

蛋白漏出性胃腸症(PLE)は、フォンタン術後症候群の中でも特に予後不良とされる深刻な合併症である。その発生率はフォンタン術患者のうち4〜13%で低いものの、一度発症してしまうと治療に難渋し、根治はかなり難しい。死亡率も高く、当初は5年生存率50%程度と報告されていた(近年の研究では、もう少し高い生存率が報告されている)。これらPLEに関する初期の研究や近年の研究についての詳細はまた改めて解説していきたいが、日本語で解説されているものをすぐに読みたい方は、「大内秀雄. 2016. フォンタン術後患者のQOL向上をめざして:経時的な病態観察から学ぶ. 日本小児循環器学会誌 32: 141-153.」がネット上で入手できる。

 すでに何度も触れているように、おいらもPLEが発症したフォンタン術患者である。おいらのPLEがわかったのは、今から約3年8ヶ月ほど前。そこから、PLEや不整脈などのフォンタン術後症候群との闘病が始まった。PLEがわかったのは、血中アルブミン量が2g/dL台に下がっていたためだ。以後PLEの診断は、血液検査により3種類の血中タンパク質量を調べることで行っている。その3種とは、総タンパク量(TP)、アルブミン(Al)、免疫グロブリン(IgG)である。そして、治療は、ステロイドプレドニン)の投薬(飲み薬)、アルブミングロブリンの点滴補充、ハイゼントラ(免疫グロブリン)の定期的な自宅点滴で行ってきた。本日は、PLE闘病3年8ヶ月間の3種のタンパク量の変動と、ステロイドアルブミングロブリン点滴補充の量をずばんと公開してしまうのだ。個人情報もプライバシーもなんのそののお構いなし。生の血液検査結果を赤裸々に公開する、文字通り出血大サービスである。

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 ごちゃごちゃしてわかりにくいグラフになってしまったが、上の図がその全貌である。上のグラフが3種類のタンパク量の変化を表す。青が総タンパク(TP)、赤がアルブミン、緑が免疫グロブリンを表す。横軸がPLE闘病が始まった3年8ヶ月前からの経過日数で、現在までに約1300日が経過した。縦軸の左がTPとアルブミンの量、右が免疫グロブリンの量である。

 続いて下のグラフは、プレドニン(青線)、アルブミン補充量(赤点)、グロブリン補充量(緑点)を示す。定期的に自宅で点滴しているハイゼントラはこの図には示していない。上下両方のグラフにまたがってかかる灰色の線は、その期間に入院していたことを示す。一番下に入院の理由を簡単に書いた。図に示していないが、これ以外にも不整脈をとめるために電気ショックを受けた1泊2日の入院が何度かある。一番右側の消化管出血による入院が、これまで何度か書いてきた地獄入院である。

 グラフはわかりにくいので、丁寧に見て頂く必要はないが、このグラフからいくつかわかったことがある。

(1)800日目くらいまでは、アルブミンは4g/dL台、TPは6台を維持していたが、フォンタン再手術(TCPC conversion)の入院の前からアルブミンは4以上になることが難しくなった。しかし、地獄入院の後は再び回復し始めている。

(2)タンパク量が減少する(PLEが悪化する)と、プレドニンの量を増やす。最初は40mg/日くらいを飲み、それを徐々に減らしていく。しかし、10mg/日を切るとPLEが再発してしまう傾向がある。さらに、再発するまでの期間は徐々に短くなっている。最初のPLE発症から次の再発までは400日以上間があったが、その後は200日程度になってきている。

(3)3種類のタンパク質量は、同調して変動している。また、時期により大きく変動しているが、3年8ヶ月という長い期間で見ると、どれも減少傾向にある(上のグラフの点線で示したのがそれぞれの回帰直線)。

 

こうした3つの特徴をみても、PLEは一度発症してしまうと治療に難渋し、根治は難しいということがよくわかる。厳しく見れば、プレドニンの効きも弱くなり年々悪くなっていると言えるかもしれない。では、このままPLEが進行すると、おいらの寿命はどのくらいなのだろうか。そこで、3種類のタンパク質量から得られた回帰直線を用いて、おいらの寿命を予測してみた。

 予測にあたって次の仮定を置いた。まず最も厳しい条件で仮定した場合は、回帰直線がTPを5を下回る、アルブミンが3を下回る、免疫グロブリンが500を下回る条件とした。実際にはこのくらいの値では、まだ死んでしまうことはないと思うが、回帰直線がこれらの値を下回るような状態になると、体のむくみもひどくなり日常生活を送るにはかなりしんどい状態になるだろう。その状態が続けば不整脈が再発したり、腎臓や肝臓が機能不全を起こしたりして、急に容態が悪化する可能性もある。そこで、これを最低余命として、これらの条件に達するまでの残り日数を回帰直線から逆算すると、最短であと約2ヶ月、最長で約73ヶ月、平均すると31ヶ月(約2年半)となる。5年生存率50%といわれていることからすると、PLEが発症してから3年8ヶ月で残り2年半が最低余命というのはあながちあり得なくもない予測になる。

 いやいや、いくらなんでもそんな厳しくないでしょう。ということで次はもう少し緩い条件を検討してみた。それは、回帰直線がTPを4を下回る、アルブミンが2を下回る、免疫グロブリンが400を下回る条件である。これを最長余命と仮定した。現実にはこれより低い値であっても頑張って闘病を続けている方もたくさんおられるので、まだこの条件になったからといってすぐ死んでしまう訳ではないが、ここまで低い値になってしまうと、ほぼ入院をし続けないといけなくなるだろう。おいらがPLE治療のため入院したときも、一時的にこのくらいの値に下がってしまったときである。この最長余命条件で残りの日数を計算すると、最短で43ヶ月、最長で119ヶ月、平均83ヶ月となった。おいらは、子供の頃から50歳くらいの寿命だろうと覚悟してきた。今40歳なので、最長119ヶ月(約10年)は、ちょうどそれに一致する。やはり、子供の頃からの覚悟は、妥当なのかもしれない。

 この予測はあくまでおいらの適当な予測なので、何の根拠もない。幸いにも、地獄入院の後は奇跡的な回復が続いており、もしこの回復が今後も継続していけば予測の寿命はもっと改善されていくだろう。予測はあくまで一つの目安として、少し覚悟しつつ、でもそれにとらわれすぎず、今の健康を維持していきたい。

スモールフレンドリージャイアント

子供の頃、よく見る夢があった。真夜中の街を巨人が徘徊する夢である。巨人の姿は見えず、どすんどすんと足音だけが聞こえ、おいらは家で寝ながら足音が近づいてくるのをじっと聞いていた。不思議と怖さはなかった。むしろ、巨人は散歩でもして楽しんでいるように聞こえ、安心感を感じていた。その足音を聞いていると、おいらはより深く心地よい眠りに落ちていくことができた。

 巨人の足音の正体は、おいらの心臓の音だった。体をある特定の角度にして寝ていると、心臓の拍動音が布団や枕を伝わって直接耳に響くのだった。それが夢の中では、巨人の足音になり、人々が寝静まった真夜中の街を歩いている気がしていたのだ。だから、巨人の足音が力強く安定しているほど、おいらの心臓はしっかり動いていることを示しているのである。足音に安心感を感じるのはそのためであろう。

 残念ながら、今はもう巨人の夢を見ることがなくなった。不整脈により、足音は不規則になり、むしろ苦しくなってしまった。あるときは素早い頻拍であったり、まるでつまづいたかのように脈が飛んだりしている。それでも、今もたまに安心感を得たくて、寝ているとき耳に響く角度を探して音を聞いたりしている。たとえ不整脈であっても、おいらの内なる小さな巨人が立てる足音は、とてもけなげであり、おいらを励ましてくれる音なのだ。

奇跡を起こした飲む点滴

地獄入院が始まってから一ヶ月半が経過した。おいらは、SD病院からなかば逃亡するようにNC病院に戻ることができた。NC病院に移ると入院生活は劇的に快適になった。まず、決定的に変わったのが食事である。SD病院での激マズ栄養ドリンクがなくなり、汁のみメニューからミキサー食に変わったのだ。ミキサー食とは、本来の料理を水気を足してミキサーしたものである。だから結局汁メニューではあるのだが、もとは固形のものだったので、これはごはんだ、これは焼き魚だな、こっちは煮物か、とそれぞれの味を楽しむことができた。ジュース、汁だけスープなどとは全く違った。ときには、コロッケのようなものをミキサーしたものもでたが、ソースの味がしてなかなかおいしかった。栄養ドリンク(レナウェルA)や栄養補強スープ(メディミル)がでたりしたが、SD病院ででたような激マズではなくなった。

 PLEや貧血の治療もSD病院から引き続いた。アルブミン免疫グロブリンの点滴補充、輸血をやりすぎと思うくらい連日入れまくった。輸血は1単位(約280ml)を6時間ほどかけて一日2つ入れたりした。また、SD病院では中断していたハイゼントラも再開した。ハイゼントラは、免疫グロブリンを週一回皮下に点滴するものである。在宅でも行うことができ、おいらは一年ほど前のTCPCフォンタン転換手術の入院以来、ハイゼントラを在宅で継続していた。これはなかなか効果があり、手術のあとはしばらく蛋白が下がることなく安定することができた。しかし、ハイゼントラは珍しい薬のようで、SD病院では入手困難だったのか、中断してしまっていた。

 こうして、安定した治療と食事がなされるようになったものの、血便、貧血、低蛋白はいぜんとして続いたままであった。足の浮腫もひどく、着圧ソックスをはき、足をしぼる医療用マッサージ機を就寝時につけていたりした。そうすると朝には浮腫は引くものの、起き上がって足を下にするとまたすぐにむくんだ。また、血行が悪く、起きて座っていたりすると、膝より下が気持ち悪く紫色に変色し、しびれて筋肉痛のように重くだるくなった。一向に改善しない病状に、再び絶望感が込み上げてきたのだった。

 そんな状態で入院が二ヶ月を超えた頃、一時外泊の許可を頂くことができた。久しぶりに過ごす我が家は天国のようだった。暖かく柔らかい布団。ミキサーではない形のある食事。かむ必要がないほど柔らかく煮たカブや豆腐であったが優しい自然の味で、体に染みた。病院で出される栄養ドリンクやスープは添加物がてんこもりで、毎日飲んでいるとやがて口の中や舌がヒリヒリしてきた。舌の表面には舌苔のような白いものがこびりつき、舌の先端は白いブツブツができ、味覚がおかしくなった。そんななかで、添加物のない野菜本来の自然な味は本当においしかった。もう一度家に帰りたい。再び気力が湧いてきた一時外泊となった。

 そして、この外泊と前後して自主的に飲み始めたのが甘酒である。元々甘酒はあまり好きではなく、妻と姉に勧められ渋々飲んでみることにした。甘酒というと冬場の寒い時期に、温めてそのまま飲むイメージがある。妻が作ってくれたのは、果物(イチゴやブルーベリーなど)、牛乳と一緒にミキサーした甘酒スムージーだった。これが激ウマだったのだ。一時外泊のときの食事と同じく、自然で優しい甘さの味わいだった。

 甘酒は、ただおいしいだけでなく、奇跡を起こしたのだった。甘酒を飲み始めてから、胃腸の調子がとたんに良くなったのだ。便の色が、それまではコールタールや岩のりのような真っ黒だったものが、日に日に茶色に変わっていった。それに伴ってヘモグロビン値がほとんど下がらなくなった。明らかに、腸管内の出血がおさまってきたようなのだ。血中タンパクも安定し始め、アルブミンなどの点滴補充が必要でなくなった。甘酒はまさに飲む点滴であった。

 なぜ甘酒が効いたのかははっきりとわからない。おそらくは、今注目されている腸内フローラの改善にあるのだろう。甘酒には酒粕を元にしたものと、米麹を原料にしたものがあり、おいらが飲んでいたのは米麹のものである。米麹のものはアルコール分が一切なく、子供でも飲める。米のデンプンが麹カビによって糖に分解されたものなので、純粋に糖分の固まりの飲み物なのである。またビタミンや必須アミノ酸もたくさん含まれているらしい。こうした栄養分が腸内の善玉菌の栄養となり、善玉菌が増殖するのだ。また、甘酒に含まれる乳酸菌が腸内で直接善玉菌として働いてくれる可能性もあるだろう。ともかく、甘酒によって腸内フローラが健全な状態に戻ったようなのである。

 このことを主治医の先生に話すと、とても理解をしてくれて、病院の食事として出せないか検討してくれるほどだった。実際は、甘酒はそれなりに高価なのと、衛生管理が難しいという理由から食事としての提供は実現しなかったものの、積極的な摂取を推奨してくれたのだった。目に見える劇的な効果と、主治医のお墨付きをいただいたことで、おいらはますます積極的に甘酒を飲むようになった。毎日、3時のおやつの時間帯になると、甘酒と野菜や果物ジュース、あるいは飲むヨーグルトを混ぜて飲んだ。NC病院には、各ベッドに有料の冷蔵庫がなく、冷蔵保存しておきたいものは、ナースステーションにある冷蔵庫で預かってもらう。おいらは、3時頃になると看護師さんをコールして、預かってもらっている甘酒とジュースを持ってきてもらうのだ。おいらが毎日おいしそうに飲むので、看護師さんの間でもちょっとしたブームになり、同じように甘酒スムージーを作って飲む方もでてきた。おいらは、甘酒は米麹のものがいいですよ、混ぜるならこのジュースがおいしいですよとか、得意げになって看護師さんたちに教えていった。甘酒は退院した今もまだ毎日飲んでいる。さすがに少し飽きてきたものの、最近は温めたミルクやココアと一緒に飲んだりしている。紅茶やコーヒー、ほうじ茶なんかとも意外と合う。

 まだ、おいらだけの体験談なので、甘酒の効果のほどは眉唾物かもしれない。でも、添加物だらけの栄養ドリンクよりははるかにましだと思う。甘酒を飲み始めて、今では食事もかなり自由にとれるようになった。多少脂っこいものも大丈夫である。PLEで苦しんでいる方は、ぜひ甘酒を試してみてはいかがだろうか。病院も栄養ドリンクや点滴や薬に頼るのではなく、甘酒のような自然の食べ物で病気を治療するような改革を進めてほしい。その方が、患者にとって体に優しく、おいしく、そしてストレスがない治療になるだろう。病気にとって食事はときに薬以上に治療効果を左右するものである。食事をなめてはいけないのだ。

 地獄入院の食事事情はまた後日お話ししたい。これもまた地獄となり、栄養士さんと壮絶なせめぎ合いをすることになったのだった。

フォンタン術後の消化管出血と蛋白漏出性胃腸症

地獄入院の話を再開しよう。
 地獄入院は、貧血がきっかけで始まった。後々わかってきたことは、消化管内からの出血で貧血が起こり、出血は蛋白漏出性胃腸症の延長線上に生じたものだった。以前にも書いたようにそのような症例は極めて少ないが、ほぼ唯一ではないかと思われる報告論文が一つある。SD病院で、主治医の先生との怒り面談の際に、教えてもらった論文である。今回はこの論文について解説したい。ほとんど参考にする人はいないかもしれないが、おいらのように地獄入院を味あわないためにも、フォンタン術後PLEを発症している方の予備知識となれば幸いである。

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Himeshkumar Vyas, David J. Driscoll, Frank Cetta, Conor G. Loftus, Heidi M. Connolly (2006) Gastrointestinal bleeding and protein-losing enteropathy after the fontan operation, The American Journal of Cardiology, Volume 98: 666-667.
「フォンタン術後の消化管出血と蛋白漏出性胃腸症」

要旨:フォンタン術後に蛋白漏出性胃腸症(PLE)を発症した患者において、消化管出血をおこした症例はこれまで報告がなかった。我々は、そのような症状に見舞われた3名の患者について報告する。この出血は、PLEをきっかけとして起こり、視覚的に確認できた。そして、貧血を招き輸血を必要とした。侵襲的な検査では、消化管内の感染は見受けられなかった。したがって、この原因不明の消化管出血は、おそらくPLEの延長上に生じたものであると考えられる。

本文:3名の患者は、4歳, 12歳, 40歳。それぞれの心疾患はUnbalanced atrioventricular canal(心室中隔欠損?)、両房室弁左室挿入(左室型の単心室症)、三尖弁閉鎖症(左室型の単心室症)。4歳、12歳の患者は心外導管フォンタン、40歳の患者はAPCフォンタンを受けた。ヘモグロビン値は前二名が10g/dl台、3人目が8台。3名ともPLEを発症し、慢性的血便でそれにより貧血を引き起こしていた。患者3は、投薬治療により改善し、PLEと出血がおさまり輸血も一年以上していない。患者1は、投薬治療だけで一時的に回復した。しかし、房室弁修復術後、ふたたびPLEと出血が再発し心臓移植を受けた。移植後はPLEと出血がおさまった。患者2は薬物治療では効果がなく、最終的にフォンタン接続を取り除いた。術後紆余曲折があったものの、今は回復に向かっている。下痢は止まり、貧血はおさまり、腹水も改善したものの、アルブミン値は依然低いままである。
 フォンタン術後の患者で、PLEと消化管出血を示した症例は今まで報告されていない。たとえば、114名のPLE患者について調べた国際的な多機関による研究でも、出血は見られていない。
 出血の原因として、PLEの原因ともなる静脈圧の上昇が、毛細血管からの粘膜の出血を引き起こした可能性が1つ考えられる。しかし、上記の国際研究でも静脈圧が高いPLE患者はおり、今回の3名が特別高い訳でもなかった。さらに、フォンタン接続の閉塞や肺動脈狭窄といった症状も見られていない。静脈圧上昇を原因と考えるのには無理がある。
 感染やそれによる炎症も原因に考えられるが、出血とPLEが両方でる患者がこれほどまれなのは筋が合わない。血液凝固障害の原因も考えられなくもないが、通常凝固障害は出血よりも血栓症になるのが特徴的である。3名は正常な凝固指数を示していた。内視鏡や血管造影では検出できないような顕微鏡レベルの出血が起きているのかもしれない。原因は複合的であるが、この謎の消化管出血はきわめてまれなもののPLEの延長線上と見られる。
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 結論としては、極めて稀な症例であり、原因不明なようだ。その後も類似の報告例がでてこないので、相当稀なことなのだろう。幸か不幸かおいらはその稀な症状がでてしまった。おいら自身原因となるような思い当たるものはなかった。ただ、入院する半月ほど前くらいから、胃腸がもたれ、だるくて気力がでなかった記憶がある。便は下痢でもなく、色が黒くなるような血便でもなかった。とはいえ入院する前は年末年始のころだったので、暴飲暴食とまではいかないまでも、無茶な食事をして胃腸に負担をかけていたかもしれない。また、先天性心疾患の患者にとって冬の寒さは厳しく、血行動態を悪くしてしまう。今までも冬に体調を崩すことが多かった。さらに、PLEを治療するためのステロイド剤もかなり減ってきた頃だった。そうしたことが重なって、胃腸や他の内臓器官に十分血液を送ることができず、消化管がうっ血してふたたび炎症をおこし、PLEと出血を発症させたかもしれない。ただ、出血の方は、入院後に急激に悪くなったので、入院によるストレスと食事と度重なる内視鏡検査などが悪化させたのではないかと思う。入院当初は、医師の方も一週間ほどの入院と見込んでいたので、かなり想定外の悪化だったのだろう。
 稀なケースではあるが、稀だけに治療に難渋し、地獄を味わう羽目になった。似たような症状がでてきた方がおられたら、どうか早め早めの対応をお勧めしたい。

医者が望む理想の患者

今日は山田倫太郎くんの「患者が望む理想の医者:8か条」について、おいらなりのひねくれ解釈をしてみよう。彼は、先天性の複雑心奇形を持ち、たびたび手術を受けながら今も闘病を続ける中学生である。山田くんと8か条については、日テレの24時間テレビで紹介され、本も出版されているので、ご存知の方も多いだろう。これをいうとおいらのことがいろいろばれてしまうが、実はおいらは彼と同じ病院にかかっていて、時々外来で見かけることがある。といっても、特に話しかけたりすることはなく、面識はない。

 彼の8か条は、先天性心疾患の患者に限らず、全ての患者に当てはまることだろう。とくに、彼やおいらのように、度重なる長期入院を経験しているものにとっては、切実にまさにその通りと思うものばかりの8か条である。彼の8か条は、患者視点で患者から医者に向けて述べている。そこで、おいらはこれを逆に解釈してみることにした。つまり、医者視点で医者から患者に向けての8か条に解釈し直してみたのだ。それでは早速、そのひねくれ解釈を説明したい。

 

第1条:医者というのは、患者さんの病気だけを見ていれば良いというものではない。

 

これを逆に解釈すると、「患者というのは、医者に病気だけを診てもらえばいいというものではない。」ということになろうか。病気は複合的な要因で生じるものである。だから、病気そのものからくる痛みや苦しみだけを伝えていても、病気は治るものではない。食事、日常生活、精神状態、家族や知人との人間関係など時には赤裸々に話す必要もある。いくら薬や治療で痛みを抑えても、ろくな食生活をしていてはすぐに再発してしまう。どのような食事をすべきかなどよく相談する必要がある。まずい病院食がいやで隠れてカップ麺などを食べている患者も多い。それを正直に話すのは後ろめたいならば、むしろ遠慮なく食事をおいしくしてもらうよう求めるのだ。長引く治療や入院で、精神が不安になったりストレスを感じていれば、それも遠慮なく伝えるべきである。医者の判断材料を、検査結果の数値だけにしていてはだめだということだ。数値には表れない、体や心の状態も伝えることが大切である。

 

第2条;患者さんは、誰もが、自分の受ける治療や検査等に、不安を抱えている。

 

これを逆にすると、「医者は、誰もが、自分が行う治療や検査等に、不安を抱えている(完全な自信はない)。」ドクターXのように、完璧な自信を持つ医者などまずいないのだ。とくに、先天性心疾患のような難病の場合には、治療方針が確立していなかったり、先行事例がなかったりして、どのような治療が最適か答えがない場合も多い。当然、治療も手探りになる。だからときには、効果がなかったり悪化しさえする。恐ろしいようだが、そのことは肝に銘じておいた方がいい。

 

第3条:患者さんは、いつ苦しみ出すか分からない。

 

医者も、いつ苦しみ出すかわからない。これは医者も病気になるという意味ではなく、医者も治療が定まらず悩むことがあるという意味だ。患者に自信のない顔を見せる医者は頼りがいがなく不安だが、もし患者側にゆとりがあれば、そういうときは相談し合ってお互いに納得いく治療方針を探っていくしかない。患者とよく話すことで、医者の方も楽になることもあるだろう。

 

第4条:入院している患者さんにも自分の生活がある。

 

医者にも、自分の生活がある。これは文字通りで、医者も家族がいて休日がある。今日は休みで病院にいないからとせめてはいけない。それから、患者が入院中も自分の生活を維持したいのであれば、それも正直に相談したらいい。たとえば、夜中の検温は睡眠の妨げになるからやめてほしいとか、指につけるサチュレーションモニターはうっとおしいとか。意外と聞いてくれるものである。

 

第5条:入院している患者さんにとって、ベットは我が家のようなものだ。

 

だから、医者や看護師はカーテンのしまった患者のベットを訪ねるときは、それなりに気を使っているはずである。他人の家に入るもののようだからだ。時には着替え中などで、都合が悪い場合もある。そのときは出直す訳だが、すぐにまた押し掛けては迷惑と思われるだろうし、どのくらい時間が経ったら出直していいか悩みどころである。そうしているうちにも、別の患者の診察などがあり、いつの間にか数時間経過していることもある。そんなことはおかまいなく、おいらのようなモンスター患者は、なかなか訪ねてきてくれないとイラついてしまう。やはりこういうときも、看護師さんなどを通して、また来てもらえるか伝えたら良い。

 

第6条:患者や、患者の家族は、手術や検査の結果を心待ちにしている。

 

だから、結果がでたらすぐに持ってきてくれるのが望ましいが、現実的にはなかなかそうならない。血液検査の結果が翌日になっても持ってきてくれないことも多々ある。おいらはその度にイライラしてしまうが、医者も人間で忘れることがあると思ってしつこく結果を要求していくしかない。医者が結果を持ってきやすくする一つの方法として、持ってきてくれるたときはオーバーなほどうれしさを表現するのはいいかもしれない。人にプレゼントをあげたとき、すごく喜んでもらえたらまたあげたくなる。料理を作って、とてもおいしそうに食べてくれたら、今度はもっとおいしいものを作ってあげたくなる。逆に、そういうリアクションがないと、やりがいがなくなる。検査結果も、いい結果であれ悪い結果であれ、持ってきてくれた喜びを伝えられるとよい。

 

第7条:患者さんとの関係は、治療が終わればおしまいという訳ではない。

 

医者との関係も、治療が終わればおしまいという訳ではない。たいていの患者は、病気が治れば医者や病院と疎遠になる。しかし、先天性心疾患のような難病は、治療は永遠につづく。だから、手術などで一時劇的に回復して、病気が治ったように感じても、その後の定期検診などを怠ってはいけない。おいらは、それを怠り、子供の頃の最後の手術から二十数年診察を受けずにいたため、その後手遅れなほど合併症が進んでしまった苦い教訓がある。

 

第8条:医者はどんな状況でも諦めてはならない。

 

患者もどんな状況でも諦めてはならない。おいらは、地獄入院のときなどでとてもつらいとき、もう死にたいと思ったりしていたので、こんなこといえる立場じゃないが、やはり諦めたら病気は一気に進行する。患者側も治療に向けて、日々努力を惜しまないことだ。とはいえ、苦行のようにつらい治療やまずい食事などを我慢して続けていては、精神が持たずそれはそれで病気に悪い影響がある。自分にとってもなるべく苦しまず、継続できる範囲で努力するのが良いと思う。そしてどうやっても治療がうまくいかず、もう手を尽くしたと覚悟したときは、残された時間をどう生きるか考えたらいい。それは、生きることを諦めたことにはならない。

 おいらは、幸運にも地獄入院後は治療が効をそうして、今は順調に回復している。しかし、いつかまた下降に転じるだろう。そのときはもう回復できないかもしれないと覚悟している。自分の寿命が人ほど長くはないことも覚悟した。でも、息子が成人するまでは生きたい。それまでの時間をどう生きるか、日々考えている。

 おいらのひねくれ解釈をまとめると、医者と患者はよき同士であるべきだということだ。病気の治療は、両者の信頼と協力関係によって成り立ち、どちらか一方だけが頑張ったり、闘うものではない。治療のことは医者に任せたでは、実は医者も困ってしまうのである。多少うっとうしく感じられようとも、患者も積極的に治療方針に口を出していくくらいがいい。そのことを実感したエピソードはまたいつかお話ししたい。